PHASE- 25 遷移の予兆


小町達と別れて、数分の後。
無縁塚から離れた再思の道の上空を、魔理沙達と並空しながら“デスティニー”は翼を広げて飛翔していた。
その腕の下には、傷ついたモビルスーツが収まっている。
ヤキン・ドゥーエ戦役を終結に導いた英雄の剣である、“フリーダム”は何の因果か再びシンの前にその姿を晒し、あの無機質な空間で静止していた。
―――こんな事があるなんて。
“デスティニー”のコクピットで彼は悩む。
シンはこの事実をまだ素直に飲み込む事は出来なかった。
確かに今までの体験からこの幻想郷ではありとあらゆる超常が発生する事は良く分かっていた彼自身はつもりだ。だがその対象の枠が、自分達の世界も範囲内に入るとは予想外だった。
いや、改めて認識すれば案外妙な出来事では無いのかもしれない。
そもそも自分がこの異世界に迷い込んだこと事態が、ありえないことなのだ。
『この世界に来た以上、今までの常識は通用しませんよ?』
早苗と空を飛んだ際に耳に入った言葉が脳裏に浮かぶ。
自分のケースと照らし合わせれば、予想するには難くない事だ。
―――なら、他にもモビルスーツが?もしかしたら俺以外にも……
その予想はすぐさま脳内で自己完結する。
原因は前に博麗神社で聞いた霊夢の言葉だ。
『そんなケース聞いた事も無いわよ』
霊夢の言葉から察するに自分がこの幻想郷に来るまでモビルスーツが、ましてやコズミック・イラからの住人が迷い込んだ事は無いらしい。
シンは意図せず操縦桿を強く握った。
その掌には汗がにじむ。
―――俺がこの世界に来たことと関係するんだったら。
―――もしかしたら、俺の存在自体が幻想郷の異変なのかもしれない。
この一連の事は、偶然にしては都合が良過ぎる。
脳裏に浮かんだその考えは、頭の中に漂う疑問の解決を緩慢にさせた。
「……」
「シン?」
名前を呼ばれて、シンは隣から覗き込んでくる早苗の方へ向いた。
彼女の唐突な問いの動機が、自分の思わず漏れた溜息が原因だと気付くには少々の間が必要だった。
「あ、ああ。何?」
晴れない悩みを振り払い、明るげな調子を作って早苗に問う。
「さっきから黙って何かを考えていたらしいので……心配になっちゃったんです」
柔らかい口調で早苗は言う、繊細なものに触れるかのように。
「あっ、いや……」
「もしかして、“フリーダム”や自分の事で悩んでいたのですか?」
的中していた。
思わず早苗に対して、読心術を持っているんじゃないかと内心疑ってしまう。
「適当に言ってみただけですよ。シン、なんか暗めのお顔をされていましたから」
「バレてたか……」
察されるほどに自分は神妙な面持ちだったのだろう。
包み隠さず、シンは彼女に吐露した。
「俺が“ここ”に来たのと、フリーダムが流れ着いた事がもしかしたら関係あるかなって思ってたんだ」
「やっぱり……でも、いいんじゃないですか?」
「えっ?」
早苗は安堵した様子で、真っ直ぐにシンの顔を覗き込みながら言う。
「違う世界にいた私とシンが、こうして近くにいるんです」
早苗のいた世界と、シンの世界―――コズミック・イラは接点の欠片も無い。
互いに異世界の住人が、更に幻想郷という名の異世界で出会う事が、本来ならあり得ない事なのではないだろうか?
だから、彼女はシンに告げた。
「世界は、奇跡は、案外簡単なものなのです」
「…どういう意味だよ?」
彼女の言葉の意味が理解できなかった。
柔和な笑顔で、彼女は囁く。
「突然こんな妙な事を口走ってしまう自分も変なのですが……奇跡は身近にあるもので、無いもの。自分達がこうして生きているのも、私達の出会いも、本当ならあり得ない事な筈です」
彼女の言葉は一見、現実味の無い絵空事のようだ。
だが、それを語る声。自身のある凛とした響きが妙な納得感を生みだす。
「あの機体も…シンの道に必要だから……この世界に来たのかもしれませんよ?」
「“フリーダム”が…?」
宿敵の機体が、自らの道を照らす。
戦時の自分なら、聞いた途端に彼女の言葉を信じずにむしろ嘲笑していた事だろう。今だって、にわかに信じる事が出来ない。
でも、彼女の言葉通りなら。
自らの進む道―――元の世界に帰る道を“フリーダム”が握っているかもしれない。
「さ、帰りましょう?帰りが遅くなって、また貴方がにとりさんに怒られる様子は見ていられませんからね」
「…ああ」
短く返事をして、再びシンは前へ向き直した。頭の中を燻ぶる疑問を追いやり、操縦桿を握る事だけに集中する。
無縁塚から離れていくほど灰色の空に彩りが戻り、徐々に青みを増してゆく。
推進剤の尾を引いて “デスティニー”は、幻想郷の空を駆けた。

機体を巡らせてシンは魔理沙達と共に、にとりの作業場へ近づく。
“デスティニー”の傷ついたマニピュレーターの先には、鉄灰色の“フリーダム”が力無くぶら下がっている。
魔理沙達が率先して降りた後で、運んでいる機体を慎重に降ろす。
スラスターの残響が止むと同時に、“デスティニー”はゆっくりと河原に着陸した。
「ふぅ…」
一息ついて、シンはハッチを解放してラダーで地面へ降りる。
その後に早苗も続いた。
「こうして二つの巨神を見ていると…かなり壮観だね……」
霖之助が“フリーダム”と“デスティニー”を眺めて呟く。
「ええ、本当に」
“フリーダム”とは大戦時に何度も対峙した、怨敵の間柄だ。
こうして同じ場所に佇んでいるだけでもシンにとっては信じられない光景だった。
―――今頃、キラさんやアスランはどうしているんだろう。
自分がいないコズミック・イラを想起してシンは顔をしかめる。
世界を平和に変える為に軍に入り、“力”を得たというのに自分がその場に居合わせない事実が堪らなく、悔しい。
「こうして二体のガンダムがあるのは…奇跡みたいですね」
背後にいた早苗が言う。
「奇跡?」
「ええ。存在するはずの無いガンダムに、シンのガンダムがこうして同じ世界にあるのですから」
確かに、いまある現実は本来あり得ない事だ。
“フリーダム”はシンが葬り、消し去った筈のモビルスーツなのだから。
「なんだよ、運命の出会い~とでも言いたいのか?早苗」
「そう形容しても面白いかもしれませんね、魔理沙さん」
魔理沙が肩をすくめて言い放つ。
『運命』
その言葉はシンにとっては特別な意味合いを含む。家族を無くして天涯孤独となった自分が軍人として歩んできた人生も、運命だというのだろうか。
―――こうして、異世界に身を置いている事さえも。
「おーい、お前ら!」
「シ~ン!」
聞こえて来た少女達の声に、一同が作業場へと視線を送る。
「にとりさんに小傘さん!それに…」
にとりと小傘はこちらに向かって手を振りながら駆けてくる。その表情は快活に笑みを浮かべていた。
「神奈子様!諏訪子様!?どうしてこちらにおられるのですか?」
その背後には、守矢神社で見た二柱の姿。八坂神奈子と洩矢諏訪子もいた。
「つーかまえたっ!」
「うわぁ!?」
小傘は全速力で近づいてシンに跳び付く。
「会いたかったぁ!さ、驚いたでしょ?」
「むちゃくちゃ痛いんだけど…」
地面が河原なので跳び付かれた際に石が服越しに刺さる。
幸い小傘はシンの上に圧し掛かる体勢だったので、怪我は無いようだった。
「なんだ?このお騒がせな奴は?」
「あー、そういうのは人目につかない所でやって欲しいね。あまり節操無しに人前でされても反応に困るから」
「なんと、うちの早苗以外にも好かれてるのか!?隅に置けない男だね、シンは」
「悠長に言ってる場合かな?神奈子~」
「って、何言ってるんだよ!?誤解しないで下さい!みんな!」
霖之助と魔理沙に加え、神奈子や諏訪子までもが意地悪にからかう。
それに対してシンは冷や汗を流しながら必死に弁解した。
「小傘さん!不意打ちなんて酷いです!早くシンから離れて下さい!」
「やぁ~!シンの心は私が一人占めするんだから!」
「おう!やれやれ、早苗!」
早苗が顔を真っ赤にして引き離そうとするが、小傘は倒れたシンに抱きついたまま離れようとしない。
それを他の大勢は苦笑しながら傍から見ていた。
「お前ら、何やってんだ……」
その様子に呆れながら、にとりは肩をすくめて眺めていた。
「何はともかく、よく帰ってきたな。早苗、シン」
「ありがとうございます、神奈子様」
小傘を離した後に、シンは改めて神奈子達へ向き直す。
「ええ。それにしても……どうしてこちらに神奈子さんと諏訪子さんが?」
守矢の二柱が何故ここにいるのか。シンはその疑問を払拭する為に神奈子へ問う。
「以前、シンに機械人形を見せてもらっただろう?名前は確か、“デスティニーガンダム”だったね」
「……早苗が言うにはそうですけど」
守矢神社での一件を思い出す。
先日立ち寄った際に早苗の頼みから、シンは“デスティニー”の運動性能を披露した事がある。
「まさか、それで何か用があるのですか?」
「いや、私達は前々から独自に巨大アドバルーン“非想天則”の製造に取り組んでいてね。その事は前に話しただろう?」
先の神奈子の言葉を思い出す。
“非想天則”の外見を決める際彼女が、“デスティニー”の姿に影響されたという所まではシンも知っていた。
「アドバルーンと言っても“非想天則”は巨大な建築物だ。私達だけでは製造する事は難しい」
「だから、私達と河童の皆でお互いに技術を提供しながら作る事にしてるんだよ。今日はその関係で態々こっちまで足を運んだってワケ」
神奈子の説明に諏訪子が付け加える。
「そこの河城にとりにも色々と世話になっていてね。彼女の技術にはこちらもかなり助かっている」
“非想天則”を作る為には多数の協力者が必要となる。
神奈子達は河童の高度な技術に目を付けて、自らも核エネルギー等の技術を提供することで協力を仰いでいるという事だ。
「私達も、色々なものを作る為には様々な知識や技術が必要だからな。新しい技術を河童同士で多く知っておかないと、お前の“デスティニー”だって修理できないんだぞ。私が修理出来たのは河童の皆の技術があってのことだし」
河童の技術は、シンの世界の尺度で測ると異常ともとれるレベルの高さだ。
様々な知識を瞬く間に吸収する河童が新たな技術を得ることで、幻想郷の技術振興に一役買っているという事だ。
「それで、シン。この機体は何なんだ?」
神奈子の説明の後に、にとりがシンに問う。
その疑問の矛先は当然、彼らが持ち込んだ“フリーダム”だ。
「俺の世界にあったモビルスーツだ」
「早苗、これはシンのガンダムと同じ種類の機械なのかい?」
「はい、神奈子様。この“フリーダムガンダム”は恐らくシンの“デスティニーガンダム”と同じ類の機体と思います」
話題の対象が変わると、“フリーダム”の傍に立っていた霖之助がこちらへ近づいて会話に加わる。
「無縁塚の河岸にこの機体はあったんだ。ここまで持ってくるだけでも色々苦労したよ」
「君は確か道具屋の店主か。何故君がこの機械人形の事を?」
神奈子は霖之助に顔を向けて問う。
「私は個人的に無縁仏の弔いをしていまして。久しぶりに足を向けてみるとこの巨神が無縁仏の上に流れ着いていたので、その撤去を彼らにお願いしたのです」
「成程。無縁塚と言う事は外界からの漂着物。シンがこの世界に来たのなら全くあり得ない話では無い……ということか」
神奈子は霖之助の説明を聞いて顔をしかめる。
もとよりシンも“フリーダム”の存在を不審に思ってこの作業場まで運搬したのだ。
自分の世界に帰る為の手掛かりを探す為に。
「ん?この機体……」
会話から離れて、損傷した“フリーダム”の周りを食い入る様に見ていたにとりが一言呟く。
「これ、もしかしたら…!」
「…?どうしたんだよ、にとり」
シンはにとりが“フリーダム”のコクピットハッチに登っている事に気付き、即座に駆け寄る。
近づくと、彼女はハッチの簡易パネルに指を巡らせていた。
「どうしたのですか?シン、にとりさん!」
早苗も“フリーダム”の傍に近づき、二人に呼びかける。
「これ、直せるよ」
「え?」
シンはにとりの囁きに一瞬耳を疑う。
「シン、この機体……!核動力は停止しているけどあらかたの部分は直せるみたい。シンの“デスティニー”より造りは簡素だし、修理できるよ」
瞳を輝かせながら、にとりが振り向いて告げる。
表情もどこか明るそうだ。
「そうなのか?」
「うん。燃料の火着けは“デスティニー”を使うとして…シンがシステムを、河童のみんなで装甲と駆動系を直せばいけるよ!」
にとりの言葉には自信が表れていた。
元より、シンが撃墜した時より幾分かは応急修理が施されているらしく、ビームライフルも防盾も備わっているのだ。一度“デスティニー”を修復した彼女からすれば、“デスティニー”より旧式の“フリーダム”を修理する事ぐらい造作も無いのだろう。
「シンの“デスティニー”も修理しなきゃならないし、早速だけどハンガーの中に運ぼうよ」
「あ、ああ」
にとりは機体から跳び下りて、ハンガーへ駆ける。
「直せるのか…コイツが。“フリーダム”が」
シンはフリーダムの傷ついた装甲に触れて静かに呟く。
宿敵の機体を修復することに、僅かな戸惑いが彼の中で生まれる。
―――キラさんの機体がこの世界にある事も驚きだけど、まさか直す事になるなんて。
今までにも何度もフラッシュバックした光景が浮かぶ。
エンジェルダウン作戦で“インパルス”を駆り、憤怒と共に死の天使を長刀で貫いた、あの時の記憶。
「どうかしたのですか、シン?」
近づいて来た早苗に呼びかけられて、シンはようやく我に返る。
気付くと早苗はすぐ隣にいた。
「ああ、ゴメン。なんでもないよ」
口元を緩ませて無理に笑顔を作る。
早苗の問いに応じた後で、シンもハッチから離れた。
過去の事を考えていたって仕方がない。今はこの世界で帰る術を探すしかないのだから。
シンは胸の内でそう思いながら、にとりの後を見送る。
「それじゃ、私達は帰るか。霖之助の頼みは終わったし、私も早く直してもらいたいものがあるんだ」
「そうだね、この巨神の扱いまではどうこう言うつもりは無いし、僕達はそろそろおいとまさせてもらうよ」
魔理沙と霖之助がその場に残った彼らに言う。
「シンには色々と世話になったしね。これならまた大きい物が流れ着いた時には頼らせてもらうよ」
「いえ、そんな大したことはしていませんから…こちらこそありがとうございました」
柔和な表情でシンは霖之助に応じる。
「良ければシンも僕の店に寄るといい。色々と物はあるが上手く扱えないものが大半でね…外来人のシンならば、なにか使える物が見つかるかもしれないからね」
「ま、霖之助が興味を示したものは訳のわからないものばかりだからな」
鼻を鳴らして魔理沙が霖之助を小突く。
「霖之助さんと魔理沙さんって、仲がいいんですね」
シンの傍にいた早苗その様子を見てが微笑んだ。
彼女の言葉通り、確かに仲が悪そうには思えないのだが。
「誤解をするな。私とコイツはそういう仲じゃない」
「僕の相手をつとめるには、この娘はまだまだ子供だね」
そろって首を横に振り、霖之助と魔理沙は早苗の言葉を否定した。
“フリーダム”と“デスティニー”の修理に着手して数日後。
シンはにとりと小傘と共に、早苗の呼び出しで河原の上流へと足を運んでいた。
理由は他でもない。神奈子と諏訪子が言う、“非想天則”が遂に完成にまでこぎ着けたという知らせが入ってきたのだ。
「面白そうなものがありそうだから私も来たけど…作業場から結構遠いじゃない…」
「君は飛んでるんだから、まだいいだろ。俺なんか歩くしかないんだから」
小傘の呟きの後にシンが不平をもらす。
機体はどちらも修理を終えておらず、シンは徒歩で岩場を登っていくしかない。
にとりと小傘は当然の様に地面から足を離して、彼に合わせて近くを飛んでいた。
能力の有無とは言え、一番の疲労を受ける立場としては何処か納得がいかない思いを抱くのは当然としか言いようがなかった。
「そういやにとり、なんで早苗達はこっちに“非想天則”なんか造ってるんだ?」
「河原には河童達が集まるからな。上流には沢山私の同業者がいるし、山の上に造るよりよっぽど効率がいいんだろうね」
「あんな高い所から降ろすのは大変だろうしね~」
神奈子達の言う“非想天則”は単なる技術の看板に過ぎない。それを人眼の付く所に移動させようというのだから当然、移動が容易な場所で制作するのは当然と言える。
しかし、にとりの作業場より上流に河童が集まるさらに大きな作業場があるとは想いもしなかった。にとりと同じ技術師が多数いるのなら、その様な場所があってもおかしいことではない。
シンが自身の想像の範囲が小さい事に悩んでいると、にとりはハッと何かに気付いた様子でシンの方に向いた。
「お前の機体の修理は他の河童に頼んでおいたけど…思ったより“デスティニー”の損傷が深刻だ。暫くは使わせないからな」
「俺の機体はそんなに酷いのか?」
「お前だって元の世界に帰りたいだろ?これ以上無茶な事して、機体をダメにする訳にもいかないだろう」
確かに“デスティニー”はダメージを抱えている。特に聖輦船の時に受けたマニピュレーター周りの損傷は酷く下手に武装を使う事もままならなかった。
「そのかわり、私がちゃんと直してやるから……シンはもう機体でバカな事をするなよ」
「にとり…」
彼の方へ向けるにとりの双眸の奥には、憂いが宿っていた。
元の世界に帰るためとはいえ、怪我をしたり命を落としてしまったら元も子もない。
さらにはシンは自己犠牲をいとわずに他者を助けようとする性格を持っているから、なおさら気が気ではなかった。
胸の奥では危ない目にあって欲しく無いという、訴えをにとりは秘めているのだが―――なかなか上手く口に出せない。
故に、にとりはこの様なぶっきらぼうな言い方しかできない自分へ嫌悪感を抱いていた。
「うん…マジで、ありがとな」
シンはその彼女の想いを汲み取る様にそう、静かに告げた。
―――でも、彼のおかげで私は頑張れる。
にとりはシンの気遣いを受けて数瞬言葉に詰まらせた。
「う……そんな言葉はいいから、早く登るぞ。シン、小傘」
「ああ!」
「うん!」
快活な返事を受けた後で、微かに顔を紅潮してにとりは二人の前を先導する。
その先にある、“非想天則”がそびえる地へと。

―――ここは何処だ?
最初に頭に浮かんだ思考がそれだった。
“俺”の目の前には闇が広がっていた。身体は前に押し付けられ、苦い味が口から出た舌に伝わってくる。
身体が痛い。意識は酷く混濁し、まともに思考が廻らない。
四肢に力を込めて、俺は押し付けられている闇から身体を返す。すると目の前に蒼く、煌びやかな景色が飛び込んできた。
幾千にも広がる無数の輝き。見えている筈の空は暗い筈なのに、光源が自身を照らしていた。
その景色に近い物を端的に例えるとするなら―――宇宙だ。大気の無い空間でなら見渡す限りの輝きが顔を見せ、宵闇の中で絶えず自らを輝かせている様子を見る事が出来る。
しかしここは宇宙とは違う。大気は存在して、呼吸も出来る。
それに宇宙では見る事の出来ない現象が、澄み渡った星々に混ざって自らの景色に飛び込んでいる。
虹色のカーテンが光源に混ざって輝いている。
その正体を働かない脳で必死に探った。……そう、あの空を駆ける光のカーテンは―――オーロラだ。虹色の輝きはハッキリとしない輪郭を揺らしながら、蒼い宇宙に無限に広がっている。
こんな不可解で、それでいて美しい現象は見た事が無い。
程無くして、自分は雲海と見紛うほどの、白く艶の無い地面の上に倒れていた事に気がついた。
なぜ、自分は倒れていたのか?
ますます自身のいる場所に疑問を抱いてしまう。俺はまともに働かない脳を使って直前の記憶を思い出そうとした。だが、頭には何も思い浮かばない。微かに覚えがあるのは―――
赤い炎と黒い煙に包まれた鉄の空間。
自身の討つべき存在であった、『完璧な存在』。
溢れる血を胸から流し続けたまま、息も絶え絶えに自らの名を優しく呼びかける長髪の男。
泣き崩れる自分を優しく抱き、賛辞の言葉を掛ける栗色の髪の女性。
『―――』
男の呼ぶ声が今一度耳に響く。しかしそれを明確に認識することが出来ない。
―――俺の、名前は。
何度思いだそうとしても、自身の名が浮かぶ事は無かった。
それどころか、記憶の中にある男女の名すらも思い浮かばない。
「ゲホッ」
胸に穴が空いたような喪失感が己を満たす。胃の奥から嘔吐するような不快感も同時にだ。
必死に堪えて、俺は動かない身体に心底で無理矢理命令した。動け、動けと。
だがそれは敵わない。地面に就いた手足は滑り、白い地面に再びうつ伏せになる。これではまるで、生まれたての小鹿だ。何とも無様で情けない姿だった。
―――俺は、ここで斃れるのか?
無力な身体を投げ出して、一言吐く。
自身の曖昧な記憶の正体も掴めずに、この見知らぬ幻想的な空間で命を散らすというのか。
たった一つだけの、自らの命を―――
再度、咳を地面へ吐きだす。
口の奥から出たのは吐瀉物とも唾液とも違った。赤黒く染まったそれは徐々に身体を濡らしていった。
自分から流れる紅い血を眺めていると、二つ―――記憶が戻った。
そのうちの一つは、自身が出来そこないの命だという事。他の『命』より早く老い、同じ時間を過ごすことはできずにただ短い命を秘める事しかできない存在だということ。
そしてもう一つは世界を憎み続けた、“もう一つの自分”。
自らの名は思い出せないというのに、奇妙な事にそれは即座に頭に浮かんだ。不思議と懐かしみがこみ上げるその名前を、俺は血に塗れた喉で読み上げた。
「あら、私のお気に入りの場所に……あんた、大丈夫なの?」
血に溺れかける自分を呼ぶ声が不意に聞こえて来た。
消え入りそうな自分とは違って、力に満ち溢れた凛とした声が。
その影は真っ直ぐにこちらへと足を向けて近づいてくる。
開いているかも分からない、霞む両目でその両足を見上げた。
少女が、こちらを覗き込んでいる。
黒い帽子を被り、空と同じ色の蒼い長髪を靡かせたその少女は、心配の気などそぶりも見せずにただ、こちらを見ていた。その手には、桃色の塊が光を受けて輝いている。
「貴方、もしかして外――ね。今にも死に―――って様子じゃない」
所々が良く聞こえない。失血した体には五感すらまともに機能しない事を初めて俺は悟った。
「ねぇ、貴方」
少女はしゃがみ込み、紅く染まった俺を覗き込む。
「助けて欲しい?」
まともに認識が出来ない世界の中で、それだけは耳の芯にまで届いた。
先程まで自らの命に諦めがついていたのに、それだけは逃さずに捉えたという事は、俺はまだ生きたいという事なのだろう。
力無く、彼女の言葉に俺は肯いた。
「なら、貴方は私のものになるの。その為にも―――私に貴方の名を教えなさい」
生きたいという自分の願望が、混濁していた意識を払っていき、彼女の一語一句を丁寧に聞きとらせる。
―――名、だと?
必死に思いだそうとしても、自分の名は思い出す事は叶わない。
今すぐに自分で作ろうとしても、この働かない脳髄では口に出せるまでに意識が持つかどうか。
―――いや、名前なら。
あるではないか。自身の名では無くとも頭に浮かんだ一つの綴りが。
俺は自分でも驚くほどのかすれた声で、先程口にした名を告げる。『もう一つの自分』の名を。
「そう」
必死の思いで彼女に名を伝えた後。再び暗くなっていく視界の奥で、少女はこの上ない柔和な笑みを浮かべて手に持っていた桃色の塊を自らに差し出してくる。
これを手に取れという事なのだろうか。
「死にたくないのなら、これを口にしなさい」
俺は全力で手を伸ばし、桃色のそれを握った。光に反射するほどの艶のあるそれは、自らの血で次第に紅く染まる。
だが、一切の抵抗はせずに俺はそれを口内に押し込んだ。
華やかな色とは裏腹に、味といえない広がりが口を満たす。
そこで俺は持てる限りの力を使い果たし、再び暗闇に意識を投げ出された。


PHASE- 26 新たなる剣 前編


静かな部屋に、ピアノの音が鳴り響いている。
部屋の一角。白いスーツを着た少年が切りそろえられた金髪を揺らしながら丁寧に楽譜通りに指を巡らせる。
その横のソファには男の影がある。赤服を纏った“彼”は少年の弾くピアノを心地良いバックミュージックにしながら機嫌よく読書に励んでいた。
少年は無邪気に鍵盤を叩くことに集中しているため、“彼”の読んでいる小説の題名を知ることは敵わない。だが元より少年は読書をする暇があればピアノの教本を読む性格だ。とりわけ知りたくもないし、知る必要もなかった。
少年が弾いている楽譜の題名は『面影』という。およそ有名な童謡の類でなければ、流行りの一曲というわけでも歴史の偉人が産み出した名曲の類でもない。
少年はその曲を親しい男から渡された教本から教わった。
元より幼い頃は“特殊な出自”によって交流関係が少なく、好む娯楽や趣味も皆無だった彼にとって、ピアノは画期的な遊具であり新たに生まれた趣味と化した。
少年の横で読書をしている“彼”は、趣味は読書と、少年とは変わったベクトルの趣味を持っていた。
遠目から見れば碧眼、金髪、目元。その姿は親子かと疑うくらい似通った外見を有していた。だが実際には二人は血縁関係といったものではない。むしろ、同一の存在に値していた。
彼らは通常の人とは異なる生まれの持ち主だった。故に“彼”は必要以上に友を持たず、少年は幼い頃より“彼”と一人の科学者の男の存在しか知らない、狭い世界だった。
部屋に、二人の呼吸とピアノの音に混じって異なる音が鳴り響く。
この無粋な音は、ドアの音だ。
この屋敷に帰ってくる男は一人しかいない。
少年は演奏を止めて笑顔と共に振り向くと、ドアを閉めた一人の男の姿が目に入った。
「やあ…来ていたのか」
勤務を終えた長髪の男は、穏やかに口を開いて彼らに呼びかける。
少年にとって父親代わり、“彼”にとっては心の底から許せる相手である長髪の男は、駆け寄る少年の髪をそっと撫で下ろす。
「おやおや。―――、危ないじゃないか」
少年は大好きな相手に頭を撫でられ、思わず頬を染める。
その様子を、少年の背後から“彼”が柔らかい表情で見つめていた―――
「ご機嫌いかがかしら?」
夢の中を彷徨っていた俺の意識は、その言葉で目覚めた。
明確な感覚が身体に浸透し、同時に眠りで遮断されていた鈍痛が再び神経に揺さぶりをかけてくる。
―――痛い。なぜ、俺の身体は痛みが走っている?
聞こえてきた声に顔を向ける前に、まず頭に浮かんだ疑問がそれだ。なぜ俺の身体に痛みが走り、今も満足に動けない状況なのか。
覚醒したばかりの働かない頭に鞭打って、俺は無理やり眠りに付く前の直前を思い出そうとする。
程なくして、それは鮮明に思い出すことが出来た。
無数に煌く星々が浮かぶ、宇宙空間のような空。
雲間から除く白い光源と共に、宵を彩る虹色のカーテン。
そのもとに姿を表した、一人の少女。
そして―――少女から渡された『何か』を貪る自分。
―――俺は、生きている。
「ねえ、聞いてる?息してるんだから死んだフリなんか聞かないわよ」
急に耳を劈く金切り声を浴びせられて、少ない記憶に浸っていた俺は現実に引き戻された。
この声は…聞いた覚えがある。調子こそ違えどこの響きは意識が消える前に耳にした声。
俺に手を差し出した、女の声。
「聞こえているさ」
俺は短く答えて、自身の覚醒を彼女に示す。
寝起きの影響で未だまともに働いていない視界を正すために、俺は数回瞬きを繰り返して極め付けに腕で瞼を擦る。
すると、曖昧だった世界が鮮明に映り始めた。
あの時に見えていた宵は見えず、只目の前には蒼が広がっていた。
陽の光が遠慮なしに地を照らし、暗闇で見えなかった空の色が無限に広がっている。その下に自分はいる。
辺りを見回す。
自分のいる場所は、倒れる前にもみた『雲の上』。
しかし自らが横になっている場所は明らかに地面の上。斑状に見える山の頂点は、文字通り“島”だ。
数瞬経つと、雲海に広がる白い世界から覗かせる山々の一つが自らの下にあることに気づく。
他の“島”とは違い、自らの横になっている場所には色鮮やかに花々が咲き誇っている。
それだけでも自分がいる場所が他とは違う、『特別』な所とすぐに察することが出来た。
景色の分析を終えたところで、ようやく俺は首を声の持ち主の方に向けた。
そこには少女が立ち、やや不機嫌な様子でこちらを覗き込んでいた。
「お前は……」
一言呟いた後で、目の前の少女の姿が少ない記憶の中に在るものと一致する。
果実を飾った黒い帽子の下で伸びる、陽の光で鮮やかに輝く空色の蒼い長髪。
こちらを向く顔に収まる、赤い宝石の様な瞳は穢れのない、純粋な輝きだ。
強く引き締めた唇は、髪と同様に光を受けて健康的な潤いを秘めた艶を放っている。
少女の美しさの何もかもが、人間離れしていた。
「目覚めていきなり“お前”呼ばわりって酷いわね。貴方を助けてあげたのは私なのよ?」
少しばかり礼儀ってものを知らないの?
少女にそう糾弾されて、返答に困る。だが、確かに理にかなってはいた。俺は彼女に助けられたらしい。ならば恩を受けた身分で無粋な受け答えは十分な失礼に値するだろう。
ならば掛ける言葉は、感謝以外にない。
「お前のおかげで助かった。礼を言う」
彼女から指摘された代名詞が零れたが、訂正する間もない。
少女もそれに気づいたのか、一瞬だけ口元をムッとさせたのが…すぐに取り繕うように腕を組み。
「と、当然でしょ。私は感謝されて当たり前の事をしたのよ?突然あたしの所で倒れていたやつを寝かせてあげたんだから……あんたなんかに感謝されても嬉しくなんて無いの!」
そっぽを向いて辛口に声を荒げられた。
「すまない」
彼女の凄みに小声で答え、俺は再度視線を空に向ける。
淀みない、綺麗な空。
澄んでいて、穢れのない景色。
そこに、横から影が入った。
「誰が許可なしに私から眼を背けていいと言ったの?」
「は?」
訳が分からん。
「あんたが倒れる前に言ったけど、あんたは私の物なのよ?勝手に主人の命令を無視するなんて許せないわ」
「何だと?」
そこで自身の記憶を再度探る。
薄れ行く意識の中で、聞こえてきた言葉の内一つが脳内で再生される。
『助けて欲しい?なら、貴方は私のものになるの』
どうやら、そういうことらしい。
俺は命を助けられた代わりに、こいつの所有物扱いになってしまったようだ。
だが、俺はこの『主人』のことを何も知らない。
呼び方も、こいつの名前もだ。分かっていることは、俺に何かを食わせて、尚且つこうして介抱をしてくれたことぐらいだ。
「そうだったな。……では、お前のことはなんと呼べばいい?」
俺はそう問う。
「人に名前を聞くときはまず自分から…と言いたいけど、あんたはあの時に名乗ってくれたわね。私は比那名居の総領娘こと、比那名居天子。この天界で知らない奴がいない程名の知れた“天人”とは、私のことよ!」
「てん…し……」
自慢気に彼女、比那名居天子は自らを指さして名乗る。
だが、その名乗りの中に俺はある疑問を見つけた。
彼女の自己紹介に、聞きなれない単語がいくつかあったからだ。
「総領娘?天界?それに…天人?どういう意味だ」
まるでお伽噺のような単語が彼女の口から出てきた。それに対して不可解に思うのは俺だけではないはずだ。少なくとも、俺は記憶がなくとも最低限の常識は失っていないはずだ。
「そっか。あんた外来人だもんね。私の天使の様な可愛さにクラっときちゃった?」
「それはないな」
私に惚れちゃった?と天子が聞いてくるが、俺は否定する。
「それはそうと、外来人?たしかに俺はお前達と人種は違うかもしれないが…」
文面だけならこの返答は間違っていないはずだ。
「ああ、もう!これだから素直に私の言葉を飲み込めない奴は大嫌いなのよ!」
俺の返答は彼女の想像とは違ったらしい。機嫌も損ねてしまったようで、あからさまな苛立ちを俺は目の前にしている。
「いい、よく聞きなさい!」
その言葉を皮切りに、業を煮やした天子の口から一方的な説明が次々と並べられた。
自分は名家のお嬢様だということ。
この宙に浮かんだ大地、“天界”は自分達、比那名居一族が中心となって収めている土地だということ。
天子達、“天人”は身体、精神、地位、あらゆる面で地上の民である人間の上位に立つ存在だということ。
天子の言う“お気に入りの場所”にて、俺が血に溺れていたこと。
その主人である天子に、俺が無遠慮な口を聞いてしまったということ。
それがこの上なく天子にとって気に入らないということ。
「どう、分かった?あんたは私に失礼な態度を晒したのよ。あんたが怪我してなければゲンコツ一発喰らわしてるわよ」
しつこいぐらい大声を上げて怒鳴りつけてくる奴だ。いや…彼女の言葉をかりるなら、“天人”か。
先程、天子はあらゆる面で人間を超えた存在だと口にしたが、目の前に居る『天子』は子供そのものだ。我侭を言い、好き勝手な指示を下してくる愚かな少女。
人間より優れた存在と言っても、そこに甘んじているこの女はなにもヒトと変わらないではないか。
威厳もなにもあるには思えない。人間より永い命を持っていると言ったが、やはり天子は子供なのだ。
どうやら、俺は運がないらしい。
こんな『ご主人様』に助けられたというのだから。
「では、俺はお前にどう接すればいいんだ」
呆れながら俺は彼女に冷めた視線を送る。
「う~ん、そうねえ。あんたは私の下僕なんだから私のことを敬って欲しいけど…あんたの性格じゃ、そういうの似合わなそうだもんね」
勝手な判断をしてくれる。
「せっかくあんたのことを気に入って助けてあげたんだから…いいわ、特別にあんたは私の事を呼び捨てにするのを許可してあげる。ついでに普通に私と話せる権利もね!」
身勝手な女だ。
言葉を注意したり、途端に許可をしたり。やはりこいつの器は然程大きくないようだ。
「くっ…ははっ」
「な、何がおかしいのよ!?」
当たり前だろう。
こんな我侭な子供―――といっても見た目は俺とそれほど大差があるとは思えない。十代半ばぐらいだろう―――に俺は助けられたというのだ。
しかも下僕扱いだと?可笑しくて笑うしか無いじゃないか。
「いや、お前に助けられたことが嬉しくてな」
しかし、俺は口から出任せを放っておく。本音を言って殴られでもしたらこの身体にはたまったものではない。細腕に見えるが、彼女の言葉通り人間以上の力を有しているとしたらそれは脅威だ。
「なっ、変なコト言うんじゃないわよ!下僕のくせに生意気よ!」
「それは、俺が悪いという事か?」
「当然よ」
身体が痛むため大笑いはできないが、堪えようとしても無理な笑いが喉元から湧いてくる。
「あんた…無感情に見えて案外笑うのね」
「それはお前の偏見だ」
わざと皮肉めいて俺は言う。
「生意気な子供ね」
「お前が言うか」
俺がそう言うと天子は口をムッとさせて俺の肩を小突く。割と痛い。
「でも、いいわ。あんた、その様子じゃ死にそうにないようだし、やっぱ私の“桃”のおかげね」
桃だと?
「あんたに食わせた天界の果実よ。特別に一つ上げたんだから感謝しなさいよ?」
「果物を食べたぐらいで傷が治るのか?」
「信じてないような顔ね!嫌ならもう食べさせてあげないんだから」
別に食べたいとは言っていない。
「ま、今は何も考えずに寝てればいいわ。桃の効力にも限界があるし、あんたは怪我人なんだしね」
そうぶっきらぼうに言って、天子は俺の横に座る。
「それに……」
天子は俺が眼を瞑る瞬間に一つ、質問をしてきた。
「なんだ?」
「私のことはさんざん話したけど、今思えばあんたのことは全然知らないわね。いま問い詰めるのは大変そうだから……一つだけ、聞くわね」
今までの自慢気な態度はなりを潜めて、彼女は静かに囁いてくる。
「あんたさ、願いってある?」
今の俺にあるものは、こいつとのやり取りとほんの僅かな記憶らしきものぐらいだ。
だが、願い……というよりは野望に近いが、果たすべき事を俺は持っていた。
「俺の……やることは」
そうだ。“もう一人の俺”を討ったあの翼。あの死の天使を俺は今度こそ葬らなければならない。
『それが、君の運命なんだよ……』
頭に長髪の男の言葉が鮮明に響く。
そうだ。それしか、俺の存在する理由がない。俺の成すべきことが空っぽの頭の奥から湧き出てくる。
「“フリーダム”を……討つことだ」
俺は彼女に呟いて、意識を投げた。

「「………」」
「うっわあ、すっごーい!」
シンとにとりは絶句し、小傘が満面の明るい表情を露にして驚愕する。
作業場から上流をしばらく歩いた後、彼らは木々を抜けると開けた場所に出た。
そこに聳え立つのは一つの巨大な影。
青を基調としたトリコロールで覆われた鎧甲、背中に全長の幾割かに匹敵するほどの巨大な翼上のバインダー。頭部は見慣れたツインアイと金色の装飾が施されたブレードアンテナ。
「なあ、にとり。これって…」
「やっぱり、アレだよな……」
間違いない。
作業場で休止している機体と彩色の際はあれど、この巨体は、“デスティニー”と同一の姿を象っていた。
「来ていらしたんですね、シン!それににとりさんも小傘さんも」
巨体―――非想天則を見上げていた三人に呼びかける声が、軽快な足音を立てながら近づいてくる。早苗だ。
「早苗、これが非想天則なのか?」
シンの質問に満面の笑顔で早苗は頷く。
「はい。これが神奈子様と諏訪子様達が御作りになったアドバルーン…非想天則です、けど…」
「やっぱり、殆ど“デスティニー”だよな?コレは」
にとりが巨体を見上げて肩をすくめる。
「偽物を作るにしたって、もうちょっとどうにかならなかったのか?」
「それが……神奈子様がこの形にしたい!って一点張りでしたので……一応は反対意見を申したのですが、このような結果になってしまいました」
早苗も多少の負い目は感じているのだろう。
元より、守矢神社に寄った際に“デスティニー”の存在があったからこそ、非想天則の外見は急遽変更の一途を辿ったのだ。
「お、来ているじゃないか。シン!」
「シン、来ていたんだね」
不意に早苗の背後から二柱の声が聞こえて来た。
「神奈子さん、諏訪子さん」
「どうだい?シン。立派に出来ているだろう。これが、シンの“デスティニー”を元にして作り上げた、“非想天則”だ!“翼”が開いたり“目”も光るんだぞ!」
「他人のデザイン借りておいて威張る様な事じゃないでしょ……神奈子や」
右手で巨体を指し、自信満々に神奈子は言い放つ。
シンは“非想天則”を見た時から感じていたとある疑問を神奈子に聞く。
「俺の機体を元にしたって……これは、モビルスーツなんですか?」
デザインはともかく、兵器である“デスティニー”を忠実にコピーされたら堪ったものではない。要らぬトラブルの原因を防ぐためにもこれだけは聞いておく必要はある。
しかし、その心配は神奈子と諏訪子の返答で不要になった。
「いや、あくまで見た目だけだ。確かにあれ程の技術は魅力的であるし、素晴らしいものではあるが、この世界に必要ではない。技術革新の手段の一つとして利用したいものだが、間違った扱いをしてしまうと嘗ての外の世界と同様になるのでな」
「オーバーテクノロジーを行使しようとすると流石にコストも材料もバカにならないしね……現状持てる技術だけでこの“非想天則”は作ってあるし、万が一に付喪神になっても困る」
諏訪子の言葉に、小傘が反応して問う。
「“ツクモガミ”って、あたしの事?」
「そういえば、お前は傘の妖怪だったね。うん、そうだ。稀にではあるが自我を持つ物は“妖怪”になる。そうなると“非想天則”は強すぎる力を持ってしまうんだ。それを防ぐのと兼ねて仕組みを単純にするために、核融合から作られる蒸気を主な動力として、大部分を空洞にしているんだ」
「要するに、コイツの仕組みはいざって時の安全装置って訳なんだな」
「流石河童の中でも有名な技師だ、察しが良い」
にとりが長い説明を要約し、その的確な発言を神奈子は称賛した。
「ということでだ、シンに頼みたい事がある」
「なんでしょうか?」
神奈子の双眸がにとりからシンに移る。
「実は、この“非想天則”は急遽外見を変更した為に思わぬ欠陥が出来てしまってな…長距離の自走が不可能なんだ」
「…は?」
急に冷や汗をかいて弱気の姿勢を露呈する神奈子に、シンは戸惑う。
「急に翼や掌とか可動部分をムダに増やす突貫作業を行なったからだね。おかげでバランスは狂う寸前だし、河童達は連日連夜働いたせいで今は使い物にならないし」
自信に満ちて製作したものに弱点が出来てしまった事が神奈子の恥なのだろう。やれやれ、といった感じで諏訪子は皮肉った。
「うるさい黙れ諏訪子。…ということで、非常に申し訳ないんだが、以前君達の作業場にもう一つの機械人形が運ばれたろ?アレを利用して何とか人里近くまで運搬しては貰えないだろうか?」
神奈子の言う“機械人形”とは“フリーダム”のことだろう。
数日前からにとり達河童の協力によって、“フリーダム”の大部分は修復が進んでいる。
「おいおい。“フリーダム”はまだ修理途中だぞ」
にとりの言うとおり、先日回収した“フリーダム”は未だ中途半端にしか直せていない。内部データから“フリーダム”の武装は現在製造中だが、実用に至っているのはOS含めて約六割程度だろう。その上、最近は特にトラブルも無かった影響で手を付けていないに等しい部分も多い。
だが、モビルスーツは元来作業用の機械から発展した代物だ。ZAFT製のモビルスーツは中でも操縦系が複雑なのが大半だが、OSの設定を簡易的なものに差し替えればナチュラルでも操作する事は簡単だ。事実、コズミック・イラの至る所で、スペック面の遅れから退役した古いモビルスーツ―――ジン、ストライクダガー等の前々大戦の機体が大半だ―――は民間用にデチューンされて売買されている。戦闘機動こそコーディネイターでないと無理なモビルスーツが多いが、基本はマニュアルを読破すれば誰にでも歩く、持つ、運ぶと、人の動きをそのまま再現できる作りになっているのだ。
これは、量産を前提としたモビルスーツは軍の主力である為に、操作系を出来るだけ単純にしておくという理念が優先されている影響だ。ワンオフ機は採算度外視されている傾向が強く、操作系も並外れた反応をパイロットに要するが、それでも『動かす』だけなら大半の人間が可能なのだ。
「わかりました、神奈子さん」
「お、おい。シン、お前あの機体まだ―――」
「大丈夫だにとり、動かせるだけなら俺にだって出来る。操縦系を作業中心に絞ればやれるはずだ」
メカニックとしては万全を期して無い物を触らせる訳にはいかないのだろう、にとりはシンの意見に反対した。
「大丈夫だよ、コイツを運ぶだけなんだからさ」
穏やかに告げて、シンは神奈子の頼みを承諾する。
それを聞いた神奈子は柔和な笑みを浮かべ、シンの厚意に全てを任せる趣を伝えた。
「シン、大丈夫なのですか?“フリーダムガンダム”はまだ修理の途中なのでしょう?」
「早苗までそんな顔しないでよ。別に戦うって訳じゃないんだからさ。それじゃ、一旦作業場まで戻ろう、にとり、小傘」
「うん」
「わかった!」
そう伝え、シンはにとり達と共に下流へ足を向ける。
暫くした後、“非想天則”の上空に蒼の翼が近づき、同等の大きさを誇るアドバルーンを掴んで人里の方へ進路を向けた。
「よし、着いたな」
シンの駆る“フリーダム”は”非想天則”を捕えたまま、里外れの広場に着地態勢をとる。
デリケートなアドバルーンに傷をつけない様にスラスターの操作に気を配る。
程無くして、鉄の重たい接触音が地面に鳴り響く。
その様子を追いかけて来た彼女達は感心しながら眺めていた。
シンは操作を終えて、コクピットから降り立つ。
操縦はそこまで単純では無かった。基本形はインパルス、デスティニーと同等であり、作業だけならやはり今まで通りに動かせる。
だがOSの大半の内容はかなりの手が加えられていた。機体の戦闘機動に関する記述にキラの手が加わっている事でデフォルトの設定とは別物に等しい物へと変貌を遂げていたのだ。これを全て自らの物に変更するにはかなりの手間が必要だろう。
それでもこのOSを見て学ぶものはあった。確かに“フリーダム”は今や型落ちの機体だが、これ程の複雑な設定をすることで機体の100%以上の動きを可能にする事が出来るのだ。その点はキラの腕前を認めるしかない。
―――やはり、俺とあの人には差があるのか…
宿敵の機体に乗った事で、改めて自らの器量を実感する。
その想いのなかには、悔しさも混じっていた。
そして、“非想天則”を里に運搬し、しばらくの後。
里には珍しいもの見たさに集まる人だかりで賑わっていた。
実際には“非想天則”の横に運搬を補助した“フリーダム”の姿もある。その思わぬサプライズに里の老若男女はざわめいていた。
「これって噂の河童の宣伝のやつでしょ?よくできてるよね~」
「ええい!河童の技術はバケモノか!?」シャア
「これって噂では“ガンダム”っていうらしいよ~このまえ知り合いの河童から聞いたわ」
「前々から目撃情報あったのってこれじゃない?今度開く寺を運んできたのはこれらしいわね」
「ガン……ダム……ガン……ダムッ!ガンダアアアアアアアムッ!!!!」
「何だ…俺の涙か…」
「まるで天使みたい~!」
“非想天則”は設置された場所で、駆動部分を動かして存在をアピールしている。それを見ていた里にいる人達は口々に感想を漏らしていた。観客に混じって様子のおかしい少年の声も耳に届いたが、敢えてシンは無視することにした。
神奈子はその様子に満足しているのか、無言で首を縦に振っている。
「凄い盛況ですね…シン」
「そうだな…“フリーダム”も“デスティニー”も本当はそんな大層なものじゃ、無いんだけどさ」
所詮、兵器は壊れるまで兵器だ。それがどの場所にあろうと、認識が変わる事は決してない。パフォーマンス用の機体はあれど、使い方を誤れば確実に人の命を奪えるのが、シンの世界の兵器、モビルスーツなのだ。
「こんな誇れる存在じゃないんだ…俺達の機体は…」
「シン……」
シンが喜び勇んでいる皆を視界に入れる度、後ろめたい想いが次々とわき上がって来る。
戦争とは言え、自らはあの戦いで沢山の命を手に掛けたのだ。それが世界の歪みからとはいえ、否定できない現実だ。
「シン!すっごい盛り上がりよ~なんかお祭り騒ぎみたいね!」
シンが暗くなりかけていた顔を上げると、りんご飴を口にしている小傘が駆け寄って来る。
自らの真意を悟られない様に、シンは無理矢理顔を笑みに変えて小傘に接した。
「す、すっかり楽しんでるね、小傘ちゃん」
「傘の時はこんな楽しみなんか無かったからね。腹は膨れないけどお菓子って甘くておいしいのよ!」
どうやら小傘にも人間と同じく味覚が存在するようだ。今まで人間の驚愕を糧に生きて来たと言うのだから正直彼にとっては予想外だった。
「シンにも一つ上げるね!」
一つ余分に買ってきたのか、小傘が口に運んでない方の左手でシンに飴を指し出してくる。
「あ、うん」
それを受け取って、小傘は満足そうに可愛らしい表情を振りまいていた。
「じゃ、私は諏訪子とにとりと遊んでくるから!また後でね~!」
それっきり告げた後、小傘は再び人ごみの中に入っていく。
残されたのは、早苗とシンと神奈子だ。
「それじゃ、私は“非想天則”にトラブルが起こらない様にここらで見張っておくとするか。早苗とシンは二人で里の中をのんびりしてみるのもどうだい?」
「ふふっ、いいですね!シン、一緒に行きませんか?」
「あ、ああ。そうだな」
早苗はシンの腕を引いて、人ごみへ連れ出そうとする。
特に断る理由も無く、早苗の行動に身を任せるシンであった。
そして、その二人を神奈子は上機嫌で眺めていた。
「盛り上がってるな…」
暫く道路を歩いてシンは呟く。
早苗とこうして歩くのはにとりの買い物以来だ。確かあの時は霊夢から異変の件を伝えられた覚えがある。
ここ数日は異変らしき知らせは全くない。だがいざその様な事態になると自らの帰還の手がかりはまったく掴めず、堂々巡りの毎日が続く。
唯一の綱は、自らの手に収まった“フリーダム”だけ。
「シン」
「?」
「今は、この時を楽しみましょうよ。そんなに暗い顔されてると、私まで心配になっちゃいます…」
「俺、そんなに落ち込んでたか?」
「全くです。シンったら“フリーダム”を見た時から変ですよ?」
否定できない。
事実、シンは“フリーダム”を見た時から元の世界の事は気がかりではあった。ホームシックの類では無く、単に情勢が心配なだけなのだが。
幾度も戦いを重ねた世界の上に、今のコズミック・イラは成り立っているが、火種は完全に消えている訳ではないのだ。
「ゴメン。でも俺はなんともないから…」
シンはそう言って早苗の心配を退ける。
自分達の世界の事を、他人に―――ましてや異世界の人間に押し付ける事はあってはならないと、そう思いながら。
「あっ、貴方は……」
途端、下に向いていたシンの前方から嘗て聞き覚えのある少女の声が聞こえて来た。
それに反応して目の前に視線を上げる。そこには。
「村紗船長」
シンは彼女の呼び名を口に出す。
そこには以前聖輦船の件で協力した少女、村紗水蜜の姿があった。
以前見た時と違うのは、若干面持ちが明るくなったことと手に提げているバッグの存在だ。
それを一瞥した後、シンは彼女に向き直す。
「久しぶりです、船長」
「お久しぶりですね、確か…村紗さん?」
「アスカ君と、いつぞやの風祝さんですね。お久しぶり」
村紗は以前と変わりなく丁寧な言葉遣いで彼らに接する。
しかし、彼女は前に顔を合わせた時より若干フランクな印象を受けた。以前、異変が解決した事ことが原因だろうか?何にせよ、前の悲しげな彼女の顔よりかは好感の持てる明るい表情だ。
「寺の方はどうなったのですか?」
「今は、聖達が頑張って寺の再建に励んでいますよ。私はその合間の買い出しを命じられたんです」
「やっぱり、船長は買い物の途中だったのですか」
「今の私は船長じゃないよ、アスカ君。船がしばらく寺になるから、おかげで私の船長職も廃業同然。やる事は無いし、こうして皆さんのお手伝いをするぐらいです。御二人は、さっきから盛り上がっているあの巨体絡みでこちらまで?」
水蜜の尋ねに早苗がこたえる。
「ええ、そんな感じでちょっと散歩してました」
「船長もこれから帰るのですか?」
「ええ。ですが先程妙な知らせを受けたのでちょっと悩んでいた所です。そこに貴方達を見受けたので声をかけたのですが…」
「妙な知らせって?」
「さっき通りすがりに、緋の羽衣を纏った女性が一人一人の住民に声をかけていたのです。何でも“しばらくしたら地震が起きるので気を付けるように”だとか」
それは確かに変わった知らせだ。予知にしても信じるには値しない、デマと認識されるのが普通だ。だが、『それ』はシンの世界の常識だ。
「もしかしてリュウグウノツカイですか?」
早苗が聞き慣れない言葉を言う。
「恐らくは。でもあまりにまどろっこしくて事務的にその使いは言ってたので誰も耳を貸していませんでしたが……」
早苗の表情に陰りが入る。
その顔には心配の色があらわれていた。
不審に思い、シンが問う。
「どうした?」
「この幻想郷における地震は極めて稀な現象です……それが再び起きるとなるとこれは異変か、もしかしたら…」
早苗が意を決したかのように力強く彼に向いた。
「急いで広場に戻りましょう、シン!“非想天則”が危ないです!」
言うや否や、早苗は全速力で元来た路を駆けだす。
彼女の顔には、焦りが表れていた。
「すみません、船長!」
シンも水蜜に礼を言って彼女の跡を追い、一心不乱に”非想天則”の元へと向かった。