PHASE- 33 次なる指標


「ん……」
「………!」
雛が俺に密着してくる。
彼女は、眼を瞑りながら自らの額と俺の額を重ねていた。
突然の急接近を躱そうとしても無理だった。既に俺の側頭部は雛の両手に掴まっていて、その上怪我で俺はまともに動けない身だった。
「なにを……している…!?」
「言ったでしょ、厄を抜いてあげるって。痛かったらごめんって、キチンと警告したわよ?」
「だからといって…ここまでお前を近づかせることを許した覚えはない…」
警告と共に、再び銃を手に取ろうとする。
女性だろうと相手は人ではない以上、“妖怪”に属する生物なのだ。神だろうと、天人だろうと、人を軽く殺せる力の持ち主なのだ。
そんな相手にこれ以上勝手をされる覚えはない。
「動かないで」
銃に俺の指が触れた途端、吐息と共に雛の警告が俺の行動を縛る。
真正面へ向くと、彼女の深緑の瞳が俺を捉えている。その輝きは宝石で例えるならばまるでエメラルドのようだ。見ているだけで吸い込まれそうな、森の様にどこまでも奥のある緑。雛の瞳の奥にある暗闇をずっと見ていると、不思議と手が緩む。この女に向けていた殺意が、徐々に吸い取られるような―――
「アンタぁっ!」
浮つき始めていた俺の意識に叩きつけられる激情。
その声と共に、緋色の揺らめきが雛に向かって放たれる。
「ああっ!」
俺は雛に突き飛ばされ、力なくその場に倒れる。直後、雛の深紅の体に何かが命中した。いや、その正体は高速回転した“緋想の剣”だった。さっきの声といい、この剣を扱える者といい、正体は俺の知る限り一人しかいない。
「ラウさん!ああ…やっと!」
もう一つの、俺を案ずる声が聞こえる。
霧を突き破って、二人の女が俺と雛の間に割り込む。天子と衣玖だ。ここへ降り立ったという事は、俺の身の安全は確実となった。しかし、
「アンタ!私の下僕に何してんのよ!」
ブーメランのように戻ってきた剣を手にして、天子の憤りが倒れた雛へ間髪入れずに叩きつけられる。
遠目から見れば、力なく立っている俺を捉えている様子はただ事ではないと思うだろう。例え雛が妖怪で無くとも―――初対面の男女がやる事ではない。
「ラウさん、お怪我をしているのですか!?まさか、あの女に?」
俺を抱きかかえる衣玖もいつもの彼女とは程遠い。
冷や汗を顔に浮かべながら、次々と心配の言葉を俺にまくし立てる衣玖は俺の知っている衣玖じゃない。
こんな衣玖は新鮮だが、常に相手にしたい彼女ではない。
「や…めろ、天子、衣玖。その女は俺に何もしていない…むしろその逆だ」
「どういうことだって言うのよ!?アンタさっきこいつに掴まって変なコトされて―――」
「いいから聞け…!」
息も切れ切れだが、持てる限りの大声で二人を制止する。まず落ち着かせなくては状況説明も出来ない。焦りでまともな判断ができないなら尚更だ。俺は倒れる雛の前まで歩いて、間を遮る。
「この女は俺を殺そうとしていない……少なくとも俺達の敵じゃない」
自分でも急な心変わりなのかもしれない。だが、あの澄み切った瞳は悪人にはあり得ないと思う。
それに今思えば、俺を殺す気ならば何時でも殺せたはずだ。雛の言葉通り、本当に俺を助けようとして先程の行動に出たのかもしれない。
「でっ!でもアンタ怪我してるじゃない!それにさっきちょっと見えたけど、変な事ラウにしてたじゃない!」
「あれはやり方が俺達の知らないものらしい。それにこの怪我は墜落の怪我だ」
「ううっ…でも!」
「心配してくれた事には感謝する。だが、俺はちゃんと生きている。だから雛を攻撃するのはやめろ」
憤る天子の手にある剣を下げさせて、俺は説得する。
幾ら雛が神だとしても、モビルスーツを切り裂ける“緋想の剣”を振るわれたら只事では済まない。それに勘違いでトラブルを増やされるのは沢山だ。
「……わかったわよ、アンタが言うなら…」
「それでいい」
「だけど、条件があるわ!アンタ今すぐ私と一緒に来なさい!幾ら桃で身体が強くなっていてもアンタは人間なのよ!強がった事ばっか言っても、そのままではいけないことぐらい私にだってわかるんだから!」
「俺が強がりだと?」
「そんな口してる時点で強がり!無茶苦茶汗かいてるし、足フラフラしてるし、顔色がおかしいのよ!さっさと医者に診てもらうわよ!死んじゃうなんて許さないんだから!」
「しかし、総領娘様。それではラウさんしか動かせない“プロヴィデンス”を置き去りにしてしまいます。万が一見つかって破壊されてしまったら……!」
それは確かだ。“プロヴィデンス”は奇跡的に不時着出来たとはいえ、この場に放置するのはいささか不安だ。煙は吹いていないから滅多に見つかる事はないだろうが、せめて修理が出来る時まで安全を確保しておきたい。
「あーん、もう!それとこれとはまた別!“プロヴィデンス”とラウ!衣玖はどっちが大切なの!?」
「それはっ!……そうですけど」
「いや、敢えて置いてみたらいいんじゃないかしら?ここは川が近いから時々物好きな河童が来るけど、あの子達なら色々してくれるんじゃない?どうせ、聞く限りだと他の人には動かせないんでしょ?」
その手は考えていなかった。この世界には河童という非常に器用な種族がいるらしい。
この“プロヴィデンス”を使えるレベルにまで修理したのも、元はと言えば河童の技術を利用したものだ。技術を知るだけでもある程度は他の種族でも機械に関する知識を身につけれるが、本職の技師なら当然それ以上だ。この大破した機体を、完璧に修理出来るのも出鱈目ではないだろう。
「今は…ここに置いていく、それでいいだろう。天子、衣玖、頼む」
迷う時間はあまりない。俺は即断して飛翔を二人に頼んだ。
「雛、お前には助かった。感謝する」
「礼を言われるほどの事はしてないわ…でも、貴方にはまだ抜け切れていない厄が纏わりついてる」
厄…か。
一体何が俺を蝕んでいるというのか。あと少しここにいればその厄とやらも完全に抜いてくれただろうが、俺の主人はそこまで気長に待ってくれそうにはない。
「覚えておく」
どうせ、またここには戻るだろう。どの道モビルスーツが無ければ俺に生きている価値など無い。俺の力は、戦いの中だけにしか価値が存在しないのだから。
「衣玖、そっち側持って!二人で一気に竹林まで飛ぶわよ!」
「了解です!」
天子と衣玖によって体が浮き、見る見るうちに霧を抜けて夕暮れの外へ出る。俺は目的地に着くまで二人に運ばれている間、疲れからかそれとも全身の痛みからか、歪んだ表情しか浮かべる事が出来なかった。


「ほら、急患よ!開けなさいよ、医者!」
天子が木製の扉を叩きつけて――壊れない程度に加減はしているようだ――医者を呼びつける。
今俺達がいるのは、“迷いの竹林”と呼ばれる竹林の奥に存在している屋敷の前だ。
俺は衣玖にフラつく身体を支えてもらいながら、天子の言う医者の出現を待っていた。
実際、樹海での天子の言葉は的外れではなく、俺の体は酷く消耗しているらしかった。身体を襲う痺れと鈍痛、立つこともかなわない程の衰弱、おまけに女に支えられるとは。情けないことこの上ない。
「大丈夫ですか、ラウさん。もうすぐ休む事が出来ますから…」
「…ああ」
「ほら、いないの!?どうせいるんでしょう!出てきなさいよ、このヤブ医者!」
…俺はヤブ医者に身体を診られるのか?
「ラウさん、あれは総領娘様の単なる煽りですから…」
「知らない間に俺の心を読むな」
「…空気を読んだだけです」
衣玖も、樹海の時に見た焦りの色はなりを潜めたようだった。
天子があれだけ焦った様子なのだ。せめて一人くらいはこのようにしてもらわないと困る。
「なに?一体扉をたたくなんて常識はずれもいい所よ。とっくに診療時間は過ぎているというのに…」
天子が扉をたたく音が止んだと同時に、知らない女の声が鼓膜に響く。
奥から姿を現したのは、紺と赤の二色が目立つ服を着た女性だ。
看護師らしい赤い十字のマークが刺繍された帽子を被り、その下からは銀色の長髪を伸ばしている。
外見は若いが別段幼いわけでもなく、この場の中では最も歳を重ねていそうだった。人間で例えるならば二十代半ばといったところか。しかし天子や衣玖でさえ単純に生きてきた時間を数字にすると、人間とは比べ物にならない為、幾ら俺がこの世界の相手の年齢を探ったところで、全く当てにならないだろう。
女はわずわらしそうに己の肩を叩きながら、呆れた表情を天子に向けた。
医者といえども、あくまで生業だ。自分の時間を邪魔されたくない気持ちは誰の心にでも存在する。
だが、天子は女の言葉に一歩も食い下がるつもりはないらしかった。
「アンタの眼には見えないの!?私の後ろにいるケガ人が!急患なんだからさっさとしなさいよ、このヤブ医者!」
「誰も診ないとは一言も言っていないでしょう……そもそも天人さんは怪我全然しないからここに来た事もないくせに、そんな侮辱は黙ってられないわよ?」
どうやら、天子が勝手にヤブ医者と呼んでいるだけらしい。
それを聞いてひとまず俺は安心する。直後に女は俺の姿を眼にして、すぐ近づいてきた。
「貴方…随分な怪我をしているみたいね……幸い今日は入院している人もいないし、特別に診てあげるわ。えっと、貴方達の名前は?」
俺達は女に問われて、其々の名を女に伝えた。
「そう。天子、衣玖、ラウね。私は八意永琳。この永遠亭で診察所を開いている医師よ。さあ、さっさと来なさい?すぐに終わらせるつもりだから」
永琳と名乗った医師は足早に玄関へと戻り、俺達を招く。天子が率先して中に入った後、俺も衣玖に助けられながら永遠亭とやらに入る。自分の怪我を直すために奮闘してくれる天子と衣玖にささやかな感謝の感情を浮かべながら、俺は傷ついた体を懸命に動かした。


「気がついたの?」
声が俺の頭に木霊した瞬間、俺の眼は開いた。
眠気が俺を襲っている。身体の感覚もどこか鈍く、感じる筈の痛みをあまり感じない。まるで麻酔でも打たれた様な感覚だ。
しかし、眠い筈なのに不思議と眼は開け、身体もいつもより軽い気がする。
まず第一に視界に入ったのは、木造で出来た部屋の天井だった。無数の木目の模様が俺の目の前にあり、外から夕焼けの光が差し込む。
だが、目覚める前より世界はどこか褪【あ】せた色をしている。
聞こえてきた声は馴染み深い筈なのに、いつもより柔らかく、優しい響きが俺の耳に届く。
俺の横でそれを発する持ち主は―――
「おはよ、ラウ」
なんと、天子だった。
いつもは尊大で、しかめっ面で喚いてばかりの彼女が今、俺の目の前で柔和な表情を浮かべていた。
「て……んし…?」
夢でも見ているのだろうか。いま目にしているこの天子は、俺の知っている天子ではない。
いつの間にか眠りについてしまったのだろうか?
「ねえ、大丈夫?…いまのあんた…とても苦しそうよ?」
こんな猫なで声でケガ人を心配することなど、この女にはあり得ない。
いや、もしやこれは天子が考えた俺に対する悪戯なのだろうか?そうならば、早急に衣玖を読んでふざけた行ないをやめさせてもらおう。
「衣玖……どこだ、衣玖?」
「今、衣玖はいないわよ。ここにいるのは私とアンタの二人だけ…二人っきりって奴よ」
救いさえもないのか。
「ねえ、ラウ…私、アンタにお礼がしたいの……」
熱っぽい表情で、天子が甘ったるい声を耳元でささやく。
普段との空気の違いに、俺の背筋に悪寒が走った。寒気さえも感じているのかもしれない。
「いいこと……しない?」
奴は俺が横になっている布団に入り、両腕、両足に絡みついて抱きしめてくる。
非常に苦しい。天人の腕力は人間とは比べ物にならないほど違うのだ。そんなもので絞めつけられたら死んでしまいそうになる。
「うふふっ。固いね……ラウ…」
彼女のくすぐったい言葉に反して、あまりの抱擁の強さに俺の身体が悲鳴を上げているようだった。痛い。とにかく痛い。ヒビの入った骨が今度こそ完全に折れそうだ。このままでは俺は天子に殺されてしまう。
冗談じゃない。なんとしてもこの愚挙をやめさせなくては。
全力で天子の体を弾いて、布団から飛び起きる。そして倒れた天子を組みふせて怒声を浴びせようとした瞬間―――


「な、なにすんのよ…!」
「…………何?」
眠気が覚める。視界が開ける。
それと同時に全身に鈍い痛みが駆け巡り、漠然としていた意識が明確になるよう後押しされる。
褪せた視界が色を取り戻し、意識の痺れが完全に抜けた。
「天子…か?」
やはり、夢だったらしい。
今俺は意識を明確に取り戻して目の前の女を夢と同じように組みふせている。問題なのは、その女が夢で見た女と同じだという事だ。夢の内容とまったく同じに、勢いのまま彼女を突き倒してしまったのだ。一度行った事は二度と取り返しのつかない現実で。
「あ……」
弁解の言葉が思い浮かばない。それどころか、焦りと気恥ずかしさが俺の思考を激しく邪魔して、心臓は勝手に早鐘を打つ。
長らく感じていなかった感情を覚えたことで、俺は彼女から離れることも忘れていた。
「ラウ…あんたまさか…私をそういう…!?」
いや、違う。断じて違う。いやまて、この状況はまずどういう事なんだ。考えを整理しよう。
俺は恐らく夢を見ていた。そこで、夢の中の天子に殺されかけていた。それを止めようと、俺は夢の中の天子を突き飛ばして、力任せに押し倒した。
なのに、なぜ俺の目の前には本物の天子がいるんだ!?
「わ…私、アンタがうなされているのを見て心配で近づいただけなのに……いきなりこんなことしてくるなんて……」
顔を真っ赤にさせながらボソボソと天子が呟いた。
うなされていた?俺が?だとすると、原因はやはりあの悪夢か。
「で、でも…幾ら衣玖が今いないからって私にこんなことをするなんて……まだ、心の準備が…」
「お前は何を言っているんだ?」
俺と天子の距離は極めて近い。少しでも顔を前に出せば、天子の瑞々しい肌に接するほどだ。
こうも天子の顔を間近で見ると、彼女の輝くばかりの美貌がはっきりとわかる。まがりなりにも天人の令嬢が俺とこうしている事自体が、絵空事の様にも思える。
「でもでもでも、やっぱりアンタも…その、男ってことなのかしら。主人としてそこは見過ごしていたわ……」
「何を勘違いしているんだ」
いつもの勝気な表情はどこに行ったんだ。
こんな天子は、俺の知る天子ではない。まだ俺は、夢の中にいるのか?
「だけど…ちょっとぐらいなら許してやらない事も……」
「いいかげんにしろ」
これ以上妙な雰囲気に付き合うのは勘弁したい。
俺は天子の頭を軽くチョップして、夢気分から現実に引き戻す。
「痛い!なにするのよ!」
「痛くするほど力を込めた覚えはない。変な夢のせいで目覚めが悪いだけだ」
実際、間違っていない。
まさか夢から覚めても似たようなシチュエーションが待っているとは思いもしなかったが、なぜあのような夢を見たのだろう?俺自身が天子に対して特別な思いを抱いた事は自覚しているうえでは一度もない筈だ。しかし何故?まさかとは思うが―――眠る前に妙な薬でも飲まされたか?
「総領娘様、ラウさん、この衣玖、只今戻らせていただきました…って、なんで二人とも御顔を赤くさせているのですか?」
「気にするな…大したことではない」
いつの間にか、俺も天子に対して妙な意識を持っていたらしい。
気持ちを切り替えて、俺と天子は改めて戻ってきた衣玖を迎えた。


「一体、どんな夢を見たっていうのよ!」
「気にするな…俺はもう気にしない」
「そんな言葉で誤魔化されないわよ!」
「二人だけ盛り上がっているところ悪いのですが、お体の方は大丈夫ですか?先程まで里の方に寄った際に、果物を幾つか頂いてきました」
衣玖が手に提げている買い物袋から、幾つもの果物が取り出される。林檎、蜜柑、桃。色取り取りの天然物が俺達の目の前に転がった。
「特にこの桃は天界の物とは違って、甘くてとても美味しいですよ。さあ、包丁は一緒に持ってきましたので切りましょうか」
「どこから持ってきた?その包丁」
「永琳さんから特別にお借りしたのです。ただ、私と会話した後すぐに焦った様子で屋敷の奥へと行ってしまいましたが…」
「ま、私はそんなことやったことないからね。天界じゃいつも皆があらかじめ切ってくれてたし」
済まない、と感謝の言葉を告げると、衣玖は温かい笑顔を向けた後で果物をむき始める。
こなれた手つきと、そのお淑やかな物腰が妙に板についている。外見だけならば自分や天子とそれほど離れているようには見えないのに、だ。
「そういや、なんで衣玖は里の方へいってたのよ?」
「貴方は自分がした事をお忘れになったのですか?貴方が里の方へ被害を出したのだから、私が被害の様子を確認しに行っていたのです。臨時召使を務める以上、総領娘様の行ないを総領様に伝える義務がありますので」
「…そっか。そういえばそうだったわ………」
「…被害の方はどうなんだ」
「幸い、負傷者や死傷者も出ず、敢えて被害を挙げるとしたら広場に建てられていた河童のアドバルーン程度です。当日はお祭り騒ぎ同然だったようですが……心苦しい知らせは今のところ耳にしておりません」
衣玖に里の様子を幾つか質問した。俺は今まで天子の近くでしかこの世界を行動していない。それどころか、地上の地理も全く知らないのだ。その里とやらも、聞く限りはこの世界の人々の集落だろうとはおもうが、この後進的な世界の事を幾ら想像したところで全く頭に思い浮かばない。
「それよりさ…」
不意に、俺と衣玖の会話を遮るように呟きが響いた。
天子は珍しく、酷く沈んだ表情をしている。衣玖から渡された地上の桃も食べていないどころか、触れてすらいなかった。
「私達、負けたんだよね……“フリーダム”に」
「総領娘様………」
空の様に蒼い長髪を力なく垂らす天子。
敵機の名を口にした途端、俺をも含めた皆が一堂に顔を渋る。
「………勝ち負けがどうにしろ、機体は大破している。今のままでは次はないな」
明確な勝敗がなくとも、戦う手段を失った時点で負けた事と変わりない。
あの時確かに俺は“フリーダム”に苦し紛れの一撃を与えたが、墜とせたかどうかは確認していない。
もしかしたら―――墜としたところで何も意味もないのかもしれない。
この異世界で身勝手な事をしているのは天子ではない。むしろ俺だ。俺は奴を討つという名目でこの女達を利用しているも同然なのだ。
その事実が俺の心に鋭く突き刺さっている事に、眼をそむける事が出来ない。
「私、勘違いしてた……」
「何を」
「私の力は何物にも通じる。私と私の剣があればこの世の全ての摂理が思いのままだって思ってた」
以前にも聞いた、天子の絶対的な自信。
自らの持つ圧倒的な力と、万物に干渉できる“緋想の剣”の力。それを統べる己のみがこの幻想郷で威を張るに相応しい存在なのだと。
一度だけではなく、似たような文句を俺はこいつから何度も聞かされた。
「唐突だな」
「だけど、そうじゃなかったのよ。幾ら私が強くても、自分の気持ちだけは制御できなかった。私一人でも“フリーダム”を倒せるかもって思ってた。だからアンタといると絶対倒せるって、絶対楽しそうだって私は考えていた」
「そんな軽い気持ちで奴に向かおうとしていたのか」
「…否定できないわよ。元々私は、退屈で退屈で仕方なかったのよ。アンタの願いを聞いたのも、アンタを助けたのも、アンタと一緒に“フリーダム”と戦ったのも、全て私が私の為にやったことだもの」
「総領娘様、という事は貴方…」
「皆まで聞かなくてもいいわ…そうよ、私だってアンタを利用していたのよ。自分の退屈を晴らすために。どうしようもない私の周りにある世界を変えるために…」
それは、天子の虚勢の裏にあった本音―――という事なのか。
天子も俺も互いを利用し、己の為に手を組んでいたと。そして衣玖も、俺達の利用に巻きこんでしまったという事だろう。
何故、それをいきなりここで言う?俺は天子にそれを問うた。
「我慢できなかったのよ!アンタが怪我して、衣玖が血相変えて!全て私のせいでこんな事引き起こしたみたいで…ッ!」
あの衣玖が血相を変えた?そこに疑問が向いたと同時に今一度、天子の顔を見た。
だが、予想外な光景が俺を待っていた。
涙。それを見たとき、俺の表情は揺らいだと思う。
天子の大きい二つの瞳から澄んだ液体が一筋ずつ流れていた。細い体は痙攣している様に震えて、顔を見られまいと急に帽子を深めに被る。日光に照らされ続けているというのに、全く焼けない陶器のように白い肌も、顔のまわりだけ真っ赤に染め上げられている。
けれども、天子は泣くのを堪えていたようだった。口から嗚咽は出かかっているのに、無理矢理それを抑え込んでいる。それでも完全に音を無くす事はかなわなかった。天子が苦しげに息をするたびに、震えた声が漏れる。軋んだ声が静かな辺りに響く。
本当は、天子だって堪えたくない。我慢したくないのだろう。だが、彼女は泣きたくないと態度で示している。それはなぜか?考えるまでもなくすぐ分かった。だが、本人にそれを直接伝えると天子は自らの惨めさを呪いたくなるだろう。自らの心を殺したくなるだろう。
―――衣玖。
視線だけ、衣玖に送った。
俺の考える限りの対処はこれしかなかった。幸い、彼女も俺の意図をくみ取ってくれたのだろう。衣玖は優しげな視線を俺と天子にかけた後、静かに腰を上げて部屋から姿を消してくれた。これで、この部屋には俺と天子しかいない。
俺は、涙をまともに隠す事すら出来ないのならいっそ晒した方が楽だと思い、天子の帽子を無理に取ろうとした。が、直後に俺の手に天子の手が重なる。痛かった。彼女の少し伸びた爪と、加減はしているのだろうが、力のこもった握りが俺の痛覚を刺激した。
「………!」
歯ぎしりが彼女の激情を示しているようだった。強く結ばれた唇の奥に見えるのは、閉まりきった天子の歯だ。顎に力が籠っている証拠だ。己の感情から無意識に人間はそんな顔になる。俺も“フリーダム”と交戦していた時には、気付いてなくてもこんな風に力のこもっていた表情をしていたのだろうと思う。涙を流した覚えは全くないが。
衣玖はいつも俺に柔らかい笑顔を向ける。その反面、それ以外の顔はあまり目にしていない。天子はその逆だ。いつも怒っているかのような顔をしていたとおもったら、時に子供の様に満面の笑みを見せたりして多様な感情を表現している。それは普通の人間と何も変わらない。人間を超えた存在と言っておきながら、天子本人は人間以上に人間らしい。
「天子」
名を呼び、痛みを堪えながら天子の帽子の鍔を摘んで上げた。やはりだ。天子は瞬き一つもせずに強い形相で畳をにらみつけていた。涙を流さまいと眼を瞑る事もせずに、ただ震えながら興奮しきった荒い息を小さく吐いていた。それはまるで、爆発寸前の火薬の様だった。
「なっ…に…よ!」
やっと、天子が俺の方に返事をくれた。眼はこちらに向いているが、顔を揺らしたら涙を露わにしてしまうせいか、睨みつけるようにこちらを見ている。いや、実際俺は天子の逆鱗に触れる寸前なのかもしれない。彼女の思い通りに行かなかった原因は俺にもある。俺の不甲斐無さを恨んで、天子は怒りと悲しみを浮かべているのかもしれない。
「なんでそんな顔をしている。いつものお前らしくない」
「うっ…さい!なんだっていいじゃない!」
さっきまでは弱気だったのに、俺が質問する側に入ると天子は誤魔化すように剣幕を張る。不謹慎かもしれないが、天子の顔を見ていると飽きないと思った。笑って、怒って、泣いて。何の躊躇いもなく素直に表現できるこの女が少しだけ、俺は羨ましいと思った。
そんな天子が、涙を堪えるなどらしくない。
「我慢するなら泣くな。その方が楽だろう」
口ではそういうが、彼女からすれば無理だろう。というより、普通の人間には無理な事を俺は言っているのだと思う。
もっと優しいアドバイスも世の中には存在すると思う。だが、俺にはこんな言い方しかできなかった。諦めている訳ではない。優しい言葉をかけようとしたら、俺の方が恥ずかしくなって何も言えなくなってしまうからだ。
「馬鹿…そんなことできたら苦労しないわ!」
「お前は言っただろう。お前の力は何物にも通用すると。豪語するからには、こんな些細なことなんか容易いだろう」
「それとこれとは話が別なのよ!」
「それは、お前が全てを我が物に出来ないと認めている証拠だ。自分の心さえコントロールできないんじゃ、全てが手に入る事はない」
「うっ…!」
「それを知る事が出来ただけでも、お前は進歩しているんじゃないのか?」
今俺の顔は、少なくとも怒ってはいない―――と思う。出来るだけ穏やかに、優しくして俺は天子に語りかけている。安心感を与え、心を許せるように俺は努力している。
俺たちは互いに互いを利用して、“フリーダム”に敗れたのだ。二人でかかって勝てる筈の戦いを、みすみす逃してしまったのだ。
ならば、これ以上お互いの建前を飾って協力していても不毛ではないのか?今以上に進歩した関係でいた方が、俺達はいいのではないのか?
「生きているという事は、それだけで価値がある。明日があるという事だからな」
「ラウ……!」
「俺は生きている。お前が俺と衣玖の事を思って泣きたくなるほど悲しいのなら泣けばいい。だがその涙は、決して悲しいだけの涙じゃない」
「…う……」
「我慢する必要はない。お前が一人で泣きたいのなら俺は黙って出る。だがお前自身で我慢できなくなった時、俺は―――」
そこまで言いかけた時、軽い体重が俺の上にのしかかってきた。
勢いで帽子が力なく落ち、天子の頭が俺の胸元に押しつけられた。握りこぶしを作っていた彼女の手は、俺の服をちぎれんばかりに掴みこみ、堪えていた嗚咽と涙が堰を切ったように放たれた。
「うああっ……わああああああんん……」
「遠慮は不要だ」
まるで子供の泣き様だ。こんな無様な姿を、彼女は今まで誰に見せた事があるのだろう。
多分、自分だけにしか見せていないのではないのか。自分の肉親にも、従者にも、あの衣玖でさえもこの姿を簡単に晒したとは考えにくい。
そして、天子の悲痛を眼にしていると妙な既視感を覚えた。今よりもっと前、俺は彼女と同じようにひたすら泣いた様な覚えがある。優しげに見つめる男の前で、俺は惜しげもなく無様な姿をさらした覚えがある。
その男の顔は―――俺の頭に何度も浮かぶあの長髪の男だ。
俺は、あの男と親しかったのだろうか。自らの弱さを、あの男に見せられるだけの親密な関係だったという事なのだろうか。
俺は今、その長髪の男の役割を天子相手にしている。ならば、何も言わずに天子を受け止め続けるのがいいだろう。俺は両腕で彼女の体を包み、彼女の昂ぶりに収まりがつくまで共にいた。


「包丁、ありがとうございました。お返しします」
「あら、随分と早くこちらにもどったわね。もしかして、二人の邪魔者にされたの?」
「…いえ。ただ今は、私がいない方がいいと思ったからです」
衣玖は部屋を出た際に持ち出した包丁を永琳に返す。
永琳は先程ラウから抜いた血液を試験管に入れていた最中だった。恐らく、検査の為に必要な行動なのだろう。傍には幾つもの得体のしれない薬品が置かれてあり、その手の知識を有していない衣玖には傍から見ているだけでも何をしているか判断できない。
「貴方、もしかして男女関係でお困り?相談次第ではその方向の薬を作ってあげてもいいわよ、面白そうだし」
「御冗談を。そんな怪しげな話を信じるこの永江衣玖ではありません」
「そ、もちろん冗談よ」
永琳は手を一時も休ませずに言う。眼も試験管から離さずにだ。
「でも、貴方の態度を見ればすぐに分かったわ。幾ら彼の前で平静を装っても、私の目はごまかせない。貴方は彼に対して特別な思いを寄せている……そうじゃないの?」
「なぜ、そう言えるのです?」
「相手の心を察知できるぐらいじゃないと、診療所なんか開こうと思えないわよ。幾ら“地上の兎”が永遠亭を手伝ってくれてるところで、私がいなければ全然ダメ。私の弟子の鈴仙もちょっとは医者らしくなったけど、まだまだヒヨッコ。兎のリーダーであるてゐに至っては時々患者に悪戯するから困ったもんだわ」
「随分と…苦労していられるのですね」
「別に~?独り言よ。ヒトリゴト」
他人の気がしない―――とまではいかないが、衣玖は永琳の言葉に親近感を覚えていた。彼女の気苦労がまるで自分の苦労の様に思えて仕方がない。
「医者というのも、お辛い職業の様ですね」
「貴方みたいに誰かの下につくのも苦労するとは思うわ」
互いに愚痴をこぼしたところで、小さく苦笑しあった。
「まあ、私は貴方を応援しているわよ衣玖。私、わりとそういう話大好きだから」
「ふふっ…そんな悪趣味、願い下げですよ。永琳さん」
気が合う者同士は、タイプも似るのだろうと、衣玖は改めて感じる。あまり、天界付近以外に出歩かない衣玖にとっては、地上の者と親しく話を交わすのは新鮮味があった。これが、ラウの怪我によって起こった事ならば衣玖は彼に感謝しないといけないだろう。永琳とはいい友人になれるかもしれないからだ。
「ふふ………あれ…?」
しかし、永琳の顔から次第に笑みは消えていった。色の変わった試験管を眼にして、永琳の表情は険しく、神妙になった。一体どうしたというのだろうか?
「ねえ、衣玖……貴方達が連れ込んだ彼…一体どこの子?」
「え…ラウさん…ですか?」
なぜそのような事を聞いてくるのだろうか。
自分が試験管の中身を見ても少し色の変わった血液が入っているだけとしか思えない。しかし、永琳の眼には確かに何かを捉えたようで、試験管の中を食い入るように見ている。
「何かあったのですか?」
「……私の知らない血液反応がでたのよ。人間用の検査薬を入れたのだけれど、今まで眼にした事もない反応だわ。殆ど色が変わってないの」
「殆ど…つまりどういう意味です?」
「単刀直入に言うわ。彼、本当に人間?」
頭を何かで叩きつけられたような―――衝撃を感じた。
永琳の言っている一語一句が、ラウに対して懐疑的だった。それがいったい何を表しているのか、不明確ながらも衣玖は感じ取った。
「どういう意味です?彼は外来人ですが……私から見る限りでは明らかに人間です。霊力も特別な力も持っていない、ただの人です」
敢えてモビルスーツを扱える力を持っている事に関しては伏せた。あれは能力ではなく、技術だ。それと医療には全く関係が無いし、無為に広めても面倒だ。
「そう、ただの人間なら外の人間だろうとこの薬は反応する。けど、あの子の血液に薬をかけても、ほんの少ししか変化しない……この薬は、生物の遺伝子を基に様々な情報を示してくれる。そこから私はその人間に合った薬を作るのよ。だけど、殆ど反応が無いという事は、遺伝子に薬が反応していない……こんな事本当はあり得ないわ」
「えっ…!?」
「参ったわ。遺伝子に関する書物は月を出る際に置いてきてしまったし、今あそこに戻る事は出来ない。となると、外の世界の医療の情報が欲しいのだけれど―――それを探せる場所は大きく分けて二つしかない、か」
「何を言っているのか、私にはわかりかねます。つまり、ラウさんの治療に何があったのですか?」
衣玖は永琳の発言が理解できなかった。だが、永琳の次に発した言葉は衣玖の心を抉った。
「彼……このままじゃ怪我と関係なく、死ぬわ」


「シン?怪我はない?大丈夫?」
「俺は…大丈夫ですよ…皆さんの、おかげです」
「霊夢さん、そんな焦らなくったって……鈴仙さんと永琳さんも診てくれましたし、もう心配する事ありませんよ」
「そういいながら早苗、あんただって相当顔が沈んでたじゃない。私だけが馬鹿みたいに心配していたみたいに言わないでよ」
椛と和解して後日。
白蓮の言葉通り、医師の永琳とその弟子の鈴仙が命蓮寺へと足を運び、シンの怪我を治すよう尽力してくれたのだ。
その後で、早苗が呼んだのか霊夢とにとりも看病に来てくれて、今シンが休んでいる部屋は今までにない人数が集中していた。
「まあ、お前が怪我しちゃあ私達の修理の意味もないからな。出来る限りならこうして見舞うのもいいんじゃないかと思ってるよ」
「ケガ人のお見舞い自体は別に悪い事じゃないんだけど……休日にこれだけの人妖が集まるとは思いもしなかったね。永遠亭の二人に巫女二人。おまけに河童と傘っ子と白狼天狗のオマケつきだ。そしていま、寺の皆もこの部屋にいる。今日が通常営業だったらあり得ない光景だね」
「ナズの言うとおり…確かに大所帯ですね。広めの部屋にアスカ君を寝かせておいてよかったです…」
「私は雲山と仕事が終わったから来てみたけど…ちょうどタイミング良くナズもぬえも星も姐さんもいるものね。びっくりしたわ」
「雲山が大きさを調整できる妖怪で助かりました……一度にこれだけ集まったのは異変の時以来じゃないですか?だいたい村紗が献身的に少年の世話をしていたと思ってたら、いつの間にかこれだけあつまっていましたから驚きです」
「まあまあ、星。それだけ、シンが皆さんに慕われているという事なのですよ。私達はこの子のおかげで、こうしていられるのですから」
白蓮が、慈しみの籠った顔でシンと目を合わせる。
思わず、ほんのり顔を赤くして顔をそらしてしまうシン。
「あ、照れてる~可愛いシン!」
「ちょっと!そんなんじゃないって、小傘ちゃん!」
「あはっ、シンも聖の笑顔にやられちゃった?仕方ないよね、あれだけ優しい笑顔だったら誰だって直視できないよ!」
「ぬえも茶化さないでください。アスカ君が困ってるでしょう!」
「は~い、船長さん♪」
舌を出して茶目っ気に誤魔化すぬえ。しかし水蜜にはふざけているように思えたのか、顔は難色を示していた。
「しかしまあ、これだけ集まると、聞きたい事も聞けるから助かるわ。ねえ、鈴仙」
「はい師匠。以前おっしゃっていた、あの患者に関する事ですね?」
一方で、騒ぐ皆をよそに会話している永琳と鈴仙。
早苗はその様子を見て、二人に近づいて問う。
「どうかされたのですか?何かを聞く、ってさっき聞こえたのですが…」
「そうね、聞くべき事はさっさと聞いた方がいいわね。みんな!ちょっと聞きたいんだけど?」
永琳は両手を打ち合わせてこの場の注意を一点に集める。
「ちょっと聞きたいんだけど…この世界で外の世界の書物が集まる場所ってないかしら?ある事情で調べてるんだけど、なかなか詳しい事は見つからなくてね……何か知って無い?」
その一言で、再び場がざわつき始める。
「事情って…どんな事情よ?」
「流石の霊夢でもこれは言えないわ。患者のプライバシーに関わるからね」
「プライバシーってなんなの、お医者さん?」
「プライバシーは、患者の秘密の事よ。傘の妖怪さん」
永琳の返答に、小傘が腕を組んで納得する。
「しかし、外の世界の本ね…あんたの事だから。またなんか薬でも作ろうって訳?」
「憎らしいほど察しがいいわね、霊夢。ええ、そうよ。ちょっと困っていてね…今日は出張で寺に来たけど、これだけの人数がいるなら誰か知っているんじゃないかと思ってね」
「けど師匠。どうやら寺の人たちは知っているようには見えませんよ?」
「そうね、鈴仙…やはりタイミングを間違えたかしら…」
問いに対して望める答えが返らない事に、永琳は困り顔を晒した。だが、ざわめく皆の中から一人の少女が永琳に進言した。
「外の関連物……ならば、香霖堂なんかどうでしょうか」
香霖堂。その単語が出た途端、早苗と霊夢も閃いたように口を開いた。
「そうか…あそこは外の世界の物を多く扱っています。ならば、書物ぐらいすぐ見つかるかもしれません!」
「そういや忘れていたわ。霖之助さん、いつもあそこにいろんな物をおいていたわ。外の物くらい簡単に見つかるかもしれないわね」
「魔理沙さんと霖之助さんがいる場所か…こんなところで名前が出るなんて思わなかったよ」
早苗、霊夢、シンが頷きながら納得する。以前“フリーダム”を回収しに行った際、協力してくれた二人の人間。魔理沙と霖之助の存在を思い出す。今は確か、香霖堂で二人は過ごしていると聞いている。またあの二人に会える事になろうとは予想外だった。
「しかし、シンはまだ病み上がりですよ?“フリーダム”もまだ山に置きっぱなしですし……」
「そうね。私はにとりと一緒に“デスティニー”の修理を手伝っているけど、まだ未完全よ。流石にケガから立ち直ったばかりのシンを行かせるのは心配だわ。それに、あそこは魔法の森近くよ?手負いのシンには危険よ」
シンの身を案じて、霊夢が言う。
包帯の殆どは外してもいい体になったが、未だに痛みは残っているし運動能力の低下は否めない。今まで一人きりで幻想郷を歩いた事はないが、妖怪の危うさは今までの体験から身をもって知っている。
「なら、私がシンと一緒に行きます!私の“神の風”なら、ケガ人のシンでも安全に移動できる筈です」
「ダメよ。最近は異変が何度も起きたから、空の妖精たちが凶暴化しているのよ?あいつら、無差別に弾幕を撃ってくるから空も安全じゃない」
「だったら、助っ人を頼んだらどうだ?」
にとりが提案する。自分達が動けない分、誰か臨時の同行者を用意しろという事だろう。
しかし、一体だれが付いてきてくれるのか?にとり達は動かせない以上、頼れるのはこの場の誰かという事になる。
しかし、自らの勝手で他人を縛る事は出来ない。シンの中でその葛藤がせめぎ合う。
「ならば、山までなら私が行きましょう」
「椛……」
「言ったでしょう?貴方は私が仕留めると。そして、今すぐにでも私は貴方と戦いたい」
「わ、私も行きます!三人よりも四人の方が安全ですし、私なら特に急ぐべき用事もありませんから」
「船長……!」
二人が同行の進言をする。確かに、彼女達は少なくとも並の妖怪よりは格段に強い事は承知している。
協力してくれる事は嬉しい。だが、手負いの自らの為に彼女達に頼らざるを得ない状況がシンにとっては内心腹立たしかった。自分だけでは何もできない事実にも腹がたつが、一番の原因は彼女達の身を自分の為に縛り付けてしまう事だ。
「お二人方が…ですか!?」
早苗の方からすれば明らかな予想の範疇外だった事は想像に難くない。
水蜜はともかく、椛は以前戦った敵なのだ。本人はシンと戦いたいと発言しているといえ、早苗からすれば敵の言葉は馬鹿正直に信用する事が出来なかった。だが。
「いらぬ心配は無用です、東風谷早苗」
早苗の心を読んだかのようなタイミングで、椛が言う。
「正々堂々と、私はシンに勝つ。貴方が迷う必要はない」
「椛…さん…!」
「大丈夫だ、早苗。俺だってもう動ける。調子が落ち着いたら俺だってやれるさ」
「そうですよ、風祝さん。いざという時は、私がアスカ君を守りますから!」
早苗を安心させる為に笑顔で応えるシン。その後で隣から水蜜も魅力的な笑顔で同意した。
「…わかりました。じゃあ、まずは山ですね。“フリーダム”をなんとかして作業場に移動させた後で、香霖堂へ向かう。距離的を考えても、これが一番いいです」
「シン、“フリーダム”の損傷は大丈夫なのか?」
「なんとかいける筈だ、にとり。高高度飛行は今出来ないけど、移動くらいならやれる。足が損傷しているからまともな機動は無理だろうけど」
最後に見た記憶を頼りに説明する。とりあえず、これからの行動に不利な支障が今の所ない事に一同は安心した。
「けどな、シン」
その中でも、未だに暗い表情を続けているにとりが、シンに近づいて一言つぶやく。
一体どうしたのだろうか?シンは脳内で疑問符を浮かべながら、彼女の俯く顔をのぞき見た。
「頼むから…もう、無茶しないで」
にとりは水色の輝きを有した眼でシンを捉え、事静かに訴える。
その言葉を聞いて、後ろめたい気分に襲われた。
自分はこの世界で何度無茶をした?何度死にかけた?
自らを思ってくれる彼女達に、一体どれだけの迷惑をかけた?数えるだけ無駄なのかもしれない。そんな事を念頭においても、自分は無謀な賭けを何度もしてきたのだから。自分が今も生きて皆の顔を見れているのは、ただの運なのかもしれないのだ。
「人間は頑丈じゃないんだ……もう、危ない真似は控えろよ」
それでも、立ち止まれない。己の為すべき事を果たすためにも行動を止めるわけにはいかない。これだけは、幾ら恩人のにとりでも譲るわけにはいかなかった。だからシンは、彼女に告げた。
「俺は大丈夫さ…にとり。約束するよ、絶対」
約束は絶対に破らない。破るつもりは微塵もない。無茶をしないとは守れないが、必ずまた彼女達の元へ戻る事は約束できる。それゆえの発言だ。
「…そうだよな。それがお前だもんな」
にとりも肩の荷が下りたように、やんわりと表情を緩めてくれた。自分の思いが伝わったことにシンはほのかな達成感を覚える。これでまた、自らは動く事が出来る。
「さあ、話が落ち着いたところで外へ出ましょうか。皆さんのお見送りをしましょう」
白蓮の呼びかけで、皆が一堂に腰を上げて部屋の外へ出る。シンもその言葉の後に、痛みが響く身体を動かしてゆっくりと外へ出始める。
空は淀み一つない、満天の快晴だった。


「白蓮さん…今までありがとうございました。俺、なんてお礼したらいいのか……」
「そのお気持ちだけで私は満足しています。もう、私達はそんな現金な事は一切望んでなんかいませんよ」
支度をして、寺の前に出る。見送りには寺の皆が来てくれた。
四人で山の滝へ向かうにしろ、途中まではにとり達三人一緒だ。小傘もこの寺の生活に馴染んでいたが、結局は作業場に居着く方が一番落ち着くらしかった。
「ぬえ、楽しかったわ!また新しい人の脅かし方、教えてね!」
「もちろん。小傘も時々こっちにきてくれたら色々教えてあげるわ!」
「まったく…君たちは本当に仲良しだな」
ナズ―リンが呆れたようにため息をつく。
寺にいた際、小傘は寺の妖怪達と終始仲が良かった。もしかしたら、小傘にとって初めての自分達以外の友人じゃないのだろうか。そうだとしたら、シンはとても嬉しかった。
「さあシン。準備もできましたし、そろそろ向かいましょう」
「そうね早苗。にとり、小傘。さっさと行くわよ。もたもたしてたら修理が遅れるわ」
霊夢は背伸びをして彼らに告ぐ。確かにこれ以上は単なる時間の浪費にしかならない。
「東風谷早苗、博麗霊夢の言うとおりです。さあシン。行きましょうか」
「椛さんの言うとおりです。さ、アスカ君!」
椛が理性的に。水蜜が快活にシンを誘う。次なる指標の元へ進む為にも、シンは彼女達に頷く。
「ああ!行こう、皆!」
白蓮達に手を振って別れて、シンは彼女達と歩みだす。
闇雲ではなく、見えている目的に辿り着く為にも。止まっていた足は再び前へ進み始めた。

≪次回予告≫
迷い。苦しみ。悲しみ。
全てを乗り越えた先にある希望は、人に何を与えるのか。
踏み出す為に、歩いて、走って。
前へ進みだす事は決して不名誉なことではない。彼が動けば動くほど、世界は広がる。
踏み出せないものに明日はあるのか。未来は、目的はあるのか。
諦められない思いが人間を動かす。シンも、“彼”も。巡り続ける世界で生き続ける為に、二人は。
次回!機動戦士ガンダムSEED DESTINY 運命の赤い瞳
『果たす約束』
想いを形に乗せて、少年を守れ!にとり!


PHASE- 34 果たす約束


暫くぶりに外へ出ると、それまで気にも留めなかった空気の違いに敏感になる。
ただ体を動かしているだけでも、今まで感じていた退屈が嘘のように消えていく。
命蓮寺から徒歩で離れて数分。
彼らは、“フリーダム”の不時着地点である“九天の滝”へと続く森の中を進んでいた。一行の中には作業場と方角が同じなためににとり達の姿もある。
永琳の治療は効果覿面だった。
鈴仙の話によると、患者の血を採取してそこから最も効果の及ぶ薬を調合するらしい。永琳は正確には薬剤師だが、彼女の生み出す薬は外科内科に関わらず、効果があるという。
『その様子なら、貴方の怪我も後数十分程度で完治するでしょ。その分私の依頼、よろしく頼むわよ』
永琳は診療所の医師としての役割がある為、長期にわたって席を空けるわけにはいかない。この幻想郷を探し回っても永琳程の腕利きの医師は他にいないからだ。その彼女でも治療が難航してしまう患者とは一体どんな人物なのか。シンは歩いている間、密かにその事を考えていた。
「どうかした、シン?」
「あ、いえ…霊夢さん」
気付かぬ間に霊夢は前に出て、にこやかに微笑みながらこちらを覗きこんでいた。考え込んでしまうと暗い表情になるのは悪い癖だ。しかし、ここで『なんでもない』という類の言葉を口にした所で、霊夢を誤魔化せるとは思わなかった。永琳も語っていたが、霊夢は常人と比べると正確すぎる程の直感の持ち主なのだ。例えその事を話さなくとも、霊夢は最初から全て知っていたかのように理解している。
「ちょっと気になっちゃって、あの永琳さんが言ってた事。俺の怪我をあっという間に治したのに、あの人が手こずる程の患者って一体どんな患者なのかなって……」
「そうね…たしかに妙な話よね。外の世界の書物だか何だかよく分からないけれど、あいつが知りたがる医療の情報って一体何なのかしら?事情を聞こうとしても、プライバシーって言葉で断るものね」
他人が他人の秘密を知る事は本来は許されない。それを踏まえての永琳の言葉だろう。自分達は頼みを引き受けたとはいえ、患者の事まで知らなくてもいい。他者の領域までわざわざ踏み込まなくてもいいのだから。
「そう言えば……霊夢さん、にとりさん。“デスティニーガンダム”の修理の方はどこまで進んでいるのですか?今回の戦いで“フリーダムガンダム”がダメになったとしたら、すぐにでも“デスティニー”が必要になると思われるのですが…」
シンの前を歩いていた早苗が振り向きざまに霊夢へ問う。
「“デスティニー”の修理自体は大体終わってるわ。ただ……」
「ただ?」
神妙な面持ちで霊夢は言葉を濁す。
「損傷した装甲を治すのは案外楽に済んだんだ。けれど、肝心の推進系と翼の複雑な仕組みがやっかいだからな……おまけに推進剤の確保もまだ遅れているんだ」
霊夢の隣を歩いていたにとりが彼女の言葉の続きを口にした。推進剤は霊夢の“神降ろし”の力を利用して補給できるらしいのだが、にとりの話によるとやはり使われている技術の差が現れたのか、中々思うようにいかない様だった。シンがこの世界に来るより前に霊夢は“住吉三神”の力を借りて宇宙へ飛ぶ為のロケットの推進剤を作ったらしいのだが、前時代の技術で作られたロケットと最新鋭の技術を投入して作られた“デスティニー”とでは訳が違う。
「ごめんなさい、シン…私のせいで遅れちゃって…」
申し訳無さそうに顔を俯かせて、静かに謝罪をかけられる。あの霊夢でも、壁に当たればこんなものなのか。シンの目の前で落胆している目の前の少女は、普段からは想像もつかないほどの暗い姿だった。普段の自信に満ち足りていて、頼りがいのある姿を目にしていた分、その差は激しい。
しかし、己の為に力を注いでくれた結果だ。何もせずに無理と意思表示されるより、実行に移した結果が今の霊夢を責め立てているのだ。それなら、彼女にかけるべき言葉は決して責めではない。
「いいえ…霊夢さんもにとりも頑張ってるじゃん。だったら俺は嬉しいよ。それに、まだ完全に修理が出来ないと決まったわけじゃないんだろ?」
「そうですよ二人とも!まだまだ諦めるには早すぎます!」
シンの労いと共に、早苗も元気づけようと笑顔で励ました。常人にとって無理難題と言える課題をこなしてくれる霊夢とにとりには、何度感謝をしてもしきれないくらいだ。愛機が傷ついてしまい、戦う力さえ失ったと思った時に皆の協力のおかげで、今もシンは元の世界に帰る為の行動を続ける事が出来ている。早苗もシンの手助けをしているからこそ、彼女達に感謝の言葉を告げたのだ。
「シンが元の世界に帰る為に“デスティニー”は絶対必要……霊夢さんじゃないですけど、私はそう思うんです。やっぱり、あの機体はシンが乗るべき機体ですから」
「そうだな…“フリーダム”がダメって訳じゃないんだが、船の異変を救ったのは確かに“デスティニー”だもんな。どうせ帰ってしまうんなら、しっかり持ち主に返さないと。な、霊夢」
にとりが目配せをして返答を誘う。
それを受けた霊夢は肩をすくめながら、朗らかな顔を浮かべて言った。
「あんたの言うとおりね。引き受けた以上は意地でも解決するわよ。それが異変だろうと、シンの機体の修理だろうとね」
「ありがとうございます、霊夢さん」
「感謝は全て終わった後でいいわよ。じゃないと、同じ言葉を何度も聞かされそうだからね」
シンの礼を受けて、照れくさそうに霊夢は眼をそむける。その顔に注目してみると、心なしかその白い肌もほんのり赤みを帯びていて、彼女の心境を露わにしているのが見て取れた。
「あ、もしかして霊夢ったら照れてるの~?」
「ち、ちがうわよ!っていうか、いきなり後ろから話しかけてこないでよ小傘!びっくりするかと思ったじゃない」
「えっへへ、昨日の夜必死に考えたの。効果抜群でしょ?」
「…二の手は食わないわよ」
霊夢の背後から不意に小傘が話しかける。だが、霊夢は小傘のおどかしより赤面したことについて触れられた事に動揺を示しているようだった。
「なんだかんだいって、霊夢も人間なんだな」
「う、うるさいわよにとり!もう、別れ道も近いんだからこれ以上私をからかうの禁止!」
「あははっ…意外でした。噂の博麗の巫女がこんなに素直な方でしたなんて」
霊夢の純真な反応に一同は笑みをこぼす。一行の後ろについていた水蜜も彼らの話を耳にしている内に吹き出してしまっていた。
「楽しんでるな…」
先導していた椛も、彼らの話を耳にして思わず無表情を崩してしまう。いつも険しい顔をしている彼女も、この時ばかりは素直な感情を浮かべていた。


「それじゃあ、私達はここで一旦お別れだな」
森を進んで行く内に、河原の水の流れる音が聞こえてくる。山に近づいた証拠だ。その道中にある別れ道の前に立ち止まって、にとりが振り返って彼らに言う。
ここからは、それぞれが自分のするべき事の為に進む。にとり達三人は“デスティニー”の修理の為に作業場へ。シンは“フリーダム”の回収の為に再び“九天の滝”に向かう。護衛には早苗と水蜜も付き添い、以前の約束を果たす事も兼ねて天狗の椛も同行する。
「そうですね……私達は滝に行かないといけませんから」
「早苗の言う通りそうなんだろうけど…シン、お前椛と戦うって言ってたよな」
「ああ、それがどうかした?」
「お前な…武器もないのにどうやって妖怪とやりあうんだ。人間の力じゃ、並の妖怪にだって到底追いつけないぞ。何か策は持ってるのか?」
心底呆れた様子でにとりはシンに迫った。シンが以前にとりから借りて使っていた携帯サイズの“フラッシュエッジ”は、聖輦船の異変で破損してしまっている。同じ時期に作られた“エクスカリバー”もだ。にとりからすれば今のシンは丸腰同然に等しいのだが―――
「いや、一応武器ならあるさ」
シンは軍服から革製の細いカバーに包まれた取っ手を取り出す。そのカバーのボタンを解いて中身を引き抜いてみると、鈍色の鋭い金属が姿を現した。暗闇でも光らない、無反射加工を施された刀身。先端から鍔まで一直線に伸びる、極限まで研がれた刃。その反対側の刃背には、汎用性を高めるために様々な用途を想定して設けられたセレーション。余計な装飾は一切付いておらず、機能性、多用性を念頭に置いた無骨なデザインは、この世界には一切存在しない物だった。
「ナイフ……ですか?」
早苗が恐る恐るシンの持つそれを眼にして問う。
「ああ。護身用として兵士に持たされているサバイバルナイフだ。といっても、大戦中は使う機会がまず無かったし、この世界に来てすぐの時は“デスティニー”から離れていたしね……これを持ちだし始めているのもつい最近だよ」
「アスカ君ったら物騒な物を持っていたのですね……でも、私も錨を投げたりしているから人の事は言えないかな」
「けどお前、そんな物があったところで安心できる訳ないだろ。ナイフと剣じゃ差があるじゃないか」
「別に、椛と殺し合いをする気はないよ。俺も別に好きでナイフを持っている訳じゃないし、約束だからってもうあの時みたいに本気でぶつかる気もない。それでいいだろ、椛?」
「…私はあくまで貴方と戦いたいだけです。その為なら、多少のルールを設けたところで問題はありません」
心配するにとりをよそに、椛はいつもの冷ややかな表情を崩さずに言い放つ。霊夢の話によると、この世界で妖怪と人間が勝負をする時、その力の差を埋めるために決めごとを作ったという。その最も代表的な例が“スペルカードルール”だ。シンはこの世界からすれば外来人にあたる為にその内容を詳しく知らないが、水蜜の提案で椛との戦いにルールを決めることにした。お互いに怪我を負わずに正々堂々刃を交わす勝負。即ち模擬戦という形でシンは椛と戦おうとしているのだ。
「元より、外来人と戦闘のルールが成り立つわけがない。だから、命蓮寺で私達は戦いの取り決めを作ったのです。河城にとりがシンを心配する必要は一切無い」
念を押すようににとりに訴える椛。それに押されたのか、にとりは消極的ながらも彼女らの言葉に首を縦に振った。
「分かったよ、お前らがわかってるんなら。けど、怪我したり危ない目に遭うのは絶対許さないからな。特にシン、お前は」
「わかった…わかったってば…!」シンボイス
「なんだよその言い草は!私はな、お前が心配だから言ってやってんのに…!」
「何度も言われなくったってわかってるさ。ったく、もう少し俺を信用してくれよ」
「あははっ!仲睦ましいですね!お二人は」水蜜
何度も釘をさしてくる心配性のにとりに対し、シンは苦笑しながらなだめる。
その柔らかな雰囲気に、当人達をよそに他の皆は笑みを浮かべていた。
「じゃあ、行きましょうか!行くべき場所に!」
「ああ!」
早苗の号令で、彼らは二手に分けて歩みを進める。
果たすべき約束と自らの目的の為に、シンは滝へ続く道を。にとりは自らの作業場へ続く道に足を進めていった。


「大きい滝ですね……!」
水蜜が九天の滝に辿り着いた途端、感心しながら目の前の景色を窺う。
山へ続く道を歩いて数十分後。彼らは上流から流れる谷川を遡って山の麓にある滝まで歩いてきた。
辺りは岩と石ばかりが転がっていて、ただ歩くだけでも足にかなりの負担がかかった。地面から飛べる彼女達は体を浮かせるなりして水からの負担を軽くする事が出来るが、ここでもシンはそうもいかなかった。だが、シン自身もアカデミー時代に訓練の一環として険しい山を登った経験があるので、特別苦労するわけでもなかった。
前方にある滝壺から、着水によって起きる水しぶきと轟音がシンに降りかかる。空間に舞う水滴は太陽の光を受けて輝き、まるで光の粒子の如く煌めいている。水しぶきが肌に触れる度、冷たい感触が身体を襲ってくる。が、それと同時に、爽快感も降りかかるため、不快感は全く感じない。この暑くなり始めた時期だ、これぐらいの水の冷たさが本能的には適しているのかもしれない。
「ん~!水が涼しい!こうまで気持ちいいと、この川で泳ぎたくなりますね。ね、アスカ君?」
「もう、水蜜さん!私達は遊びに来たわけじゃないんですよ!それに、水着なんて用意してないですよ…」
「あははっ、ごめんなさい。でも、私は船幽霊だから、水に関することに敏感なんですよ」
「そうだな…今が急ぐ時じゃなかったら、夏にみんなでここで遊ぶってのもいいのかもな」
思えばこの世界に来てから、純粋に息抜きとして場所を訪れる、と言う事を一度もしていない。皆何かしらのついでと言う形で休憩したり、その場に留まったりしていた。この一連の流れが止んだ後で目的を二の次に出来る状況であれば、皆で遊ぶのも悪くないだろう。人は休むこと無しにでは出来る事も出来ないのだから。
「ですが、今の私達の目的はあれです」
陽気な彼女達をよそに、淡々とした口調で椛がある一点を指差す。その先は滝の着水地点で舞う、霧のように濃い水しぶきだ。
「…?滝が流れていますね。…それがどうか?」
「よく見なさい、東風谷早苗」
そうだ、自分達の目的である“フリーダム”を先程から見かけない。木々に囲まれた辺りを見回しても、底が見える程に透き通った水面を見ても、鉄灰色の巨体はどこにも見えない。
「…そういえばそうでした。私の視力と貴方達では差がありました」
椛は少しだけ口元を歪めて、苦い表情を出す。周りと自分との差を自覚して、その違いに苛立ってしまっているのか。
「以前、聖から聞いた事があります。白狼天狗は、常人や並の妖怪とは違って強力な視力と聴力を持っている。だからこそ、山の高所で哨戒任務が出来ると」
その力は人間の数倍、いや、数十倍に及ぶほどの鋭い能力であるらしい。野生で培われた能力―――妖怪である以前の動物としての能力の名残が、人以上の力を彼女達に持たせているのだろう。妖怪より当の昔に、生まれて持った力の殆どを理性で縛り付けている人間には、到底持ちえない能力だ。
「私たちからすれば当然の能力ですからね、失礼しました。……あの滝の下辺り。そこをよく見てば貴方達でも見える筈」
椛に誘導されて三人は、着水の泡と水しぶきばかりで白く染め上げられている滝壺の奥を注意深く眺める。
どこまで見ても水しかないと思っていたが、そうではなかった。泡の合間に、灰色の自然に溶け込めていない色が見える。岩や石とも違う、あの光沢を有する人工物は―――
「“フリーダム”!」
確認した。滝に叩きつけられながら、その身体を水に沈めている鉄の塊はまさしく、墜落するまで自分が乗り込んでいた機体である“フリーダム”だった。
「シン、貴方をあの機械人形から引きずり出した後、私は東風谷早苗と共に寺へ運びました。…しかし、あの機体はぶつかった衝撃で滝の岩肌が崩れて、貴方を助けたすぐ後に水に沈んでしまったのです…いずれにせよ、あれを回収するのならば、周りの岩を壊して、水から引き上げるほかにない」
「引き上げるったって…!」
怪我が治ってすぐにこっちに戻ってきたのはいいものの、ただでさえ巨大なモビルスーツを、しかも水の中から引き上げる方法など持ち合わせていない。たとえこの世界に重機があったとしても、下手に滝の岩壁を傷つけてしまったら落石の恐れさえある。
どうすればいいのかと、シンは考え込む。椛の言うとおり、機体の引き上げに邪魔な周りの岩を削るにしてもなんの手段も用意していない。それに、何とかして乗り込まない限り人間である己の身ではどうする事も出来ない。打てる手が一つもない。
「あの、アスカ君」
そんな時、シンの険しい顔を案ずるように水蜜が呼びかけてきた。
「どうしたんですか、船長?」
一旦思考を止めて、水蜜の方に向きなおす。
「あの機械って、アスカ君が乗ってた機体なんですよね。だったら全部は無理かもしれないけど、私の錨を引っ掛けて機体を水面まで引き上げる事は出来ないかな?」
「そんな事出来るわけ………そっか。船長は…」
忘れていた。水蜜は自分と早苗とは違って、妖怪の一種である、“船幽霊”だ。常人とは比べ物にならない腕力を持っていて、およそ人間には扱えない巨大な錨を行使する事が出来る。その持ち前の錨の返しを使って、沈んだ“フリーダム”を上げようと提案してきているのだ。
「で、でも大丈夫なのですか。幾ら水蜜さんが幽霊でも、あれだけの物ですよ?御身体にも負担がかかるんじゃあ……」
「大丈夫ですよ東風谷さん。私は既に死んじゃってる身体だし、せっかくついて来てるんだから役に立ちたいんですよ!」
「…確かに人間程度の力なら、道具無しには無理でしょう。しかし私達妖怪ならば話は別。村紗水蜜の言葉通りに賭けてみる必要は十分にある。…ならシンと東風谷早苗は少し離れていた方がいい」
「椛はどうするんだよ?」
椛の自らを含めない警告に、シンが問い返す。
「恐らく、村紗水蜜が引き上げる時に、勢いで滝の岩が幾らか崩れる筈。私はそれを斬る」
彼女の腰に提げてある、刀身の太い刃―――柳葉刀【りゅうようとう】が鋭い金属音と共に鞘から姿を見せる。椛が以前、作業場へ襲撃して来た時に持っていた刀はシンが破壊した為に新調したのだろう。相も変わらずの長くて太い、その無骨な刀はまず人間には構えることすらできない、まさに妖怪専用の携帯武器だ。
「それじゃあシン、二人の言うとおり私達は離れましょう。水蜜さんがコックピットに入れるところまで引き揚げたら、私がそこまでシンを運びますから」
「ああ…わかった。頼む、みんな」
了承した後、水蜜と椛は首を縦に振って飛翔する。水蜜は空中で制止して、今までにも何度か見た巨大な錨を手に持つ。錨自体が水蜜の霊力で出来てある以上、彼女の意思で自由に出す事が出来ると以前寺で聞いた。
「犬走さん!準備はよろしいですか!?」
水蜜は空中から大声で椛に呼び掛ける。椛は無言で首を振って肯定し、準備が出来ている事を示す。シンと早苗は、その様子を滝壺から数メートル離れた場所で眺めていた。
「じゃあっ、行きますよおっ!」
水蜜は覇気を込めた大声と同時に、錨の頂点にあるリングからのびる鎖を両手で掴んで、まるでカウボーイの様に激しく振り回す。そこから生まれる遠心力で錨は空気を切り裂く音と共に、水蜜の頭上で回った。
「せええ………やああっ!」
その勢いのまま、錨を沈む“フリーダム”に投擲した。放たれた鈍色の錨は一直線に水面にぶつかり、金属同士がぶつかる低い音を鳴らしたと同時に、機体の装甲の隙間に上手く引っ掛けた。
「そのまま引き上げてください!水蜜さん!」
「こんのおおおおッ!」
女性らしい細い腕からは考えられないほどの力で、水蜜は空中から鎖を引く。すると、周りの岩に擦られながらも“フリーダム”が徐々に水底から引き上げられているのが分かる。暗い鉄の装甲が日に当たって、徐々に明るくなっていく事からも確実だ。
「せいっ!」
“フリーダム”が周りの岩に当たった衝撃で、椛の懸念通りに岩肌が崩れ始める。そこから生まれる落石を椛は一喝と共に手に持つ刀で薙ぎ払った。
「アスカ君!」
「シン!あそこまで行きますよ!」
“フリーダム”の胸部が水面から露出したと同時に、水蜜の合図で早苗はシンの手を持って水面に飛翔する。緊急用パネルを操作してコックピットを引き出し、乗り込む。コックピットに入ってしまえばこちらのものだ。幸い、操作系に致命的な損傷はないらしい。素早く主電源を起動させて、スラスターを操作する。錨によって支えられていた巨体が自らの推力によって起き上り、水面から離れ出す。
「ようし!」シンボイス
外部スピーカーで呼びかけた後に、操縦桿を巡らせる。あれだけ苦労してやっと引き上げた“フリーダム”は、身軽に身体を浮かせる。残ったマニピュレーターと片足を使い、無事地面に着地した後でシンは張り詰めていたものが抜け落ちるのを感じた。
「……なんとか、無事にできたな」
安定した姿勢にするために“フリーダム”をその場に跪かせる。片足と片翼を失っている以上、偏ったバランスで直立させる事が出来ない為だ。その後で再びコックピットを開放して、シンは三人がいる滝の方へ振り向く。
「サンキュ、みんな!」
礼を言って、機体から降りる。全力を出して疲れ切った様子の水蜜も、シンが乗り込んでからずっと不安げな表情を浮かべていた早苗も、あまり感情を表に出さない椛も、思い通りに機体を引き揚げられた事に満足して笑みを浮かべていた。
「おやおや、山で何か騒がしい事をしていると思ったら…また会いましたね皆さん」
「何よ…また文についてみたら、いつかの外来人と風祝じゃない。それに、今日は見ない顔までいるわね」
シンの視界に入る、滝の上から舞い降りてくる二人の少女達。
「あれは…」
黒い翼を大きく広げ、白いシャツを纏ったあの姿はどちらも記憶に新しい。常に真意が読めない笑顔を浮かべている少女と、屈折した態度を崩さない紫の意匠が入った服を纏うツインテールの少女は―――
「射命丸文…それに、姫海棠はたて」
以前敵対した二人の新聞記者。椛は同類である二人の天狗の名を口にして、軽やかに着地する様子をじっと眺める。予期しない突然の登場に、その場にいた誰もが呆気にとられていた。


今朝は目覚めが悪かった。人間ほど睡眠を要さないこの身だというのに、昨日からずっと疲れが取れない。
永遠亭の一室で、静かに佇む。今日は珍しいほどに遅く起きたものだ。衣玖はまどろみを無理矢理振り払い、自らが横になっていた借り物の布団を丁寧に畳んだ後、部屋に置かれてある机の前に座っていた。
机の上には何も置かれていない。木製の机の上をただとりとめもなく見つめている。そして、頭の中で昨日告げられた宣告を一語一句復唱していた。
『彼には未来がない。……今の状態が続けば、怪我と関係なく死ぬでしょうね』
「―――――――っ」
永琳からの悪夢のような言葉が耳に入った後の記憶が殆ど思い出せない。確か、眩暈を感じながら永琳に誘導されて部屋で休むことを勧められた気がするのだが―――だからこそ自分は今さっきまでこの空いた部屋で休んでいたのだろう。簡素ながらも、この部屋は永琳が用意してくれたのだろう。幸運にも、この部屋に自分以外誰もいない事がありがたい。今の自分は、普段通りの表情を作る事は難しい。こんな自分は天子にも、ラウにも見せる事が出来ない。
今の自分は、スカートと元々下に着込んでいたシャツだけという身軽な恰好だ。とりあえず、部屋の外へ出る事に備えて近くに置かれてあった自らの帽子を手繰り寄せる。その横には永琳が脱がしてくれたのか、愛用している羽衣もあるのだが……今は着れる気分ではなかった。
とにかく苦しかった。心も、身体も。頭が痛くなりそうなほどの苛立ちと焦りが心の中で渦巻いていて、振り払う事が出来ない。発散したくても、どうやって発散すればいいのかも見当がつかない。
「はあっ……」
自らを襲う苦しさから少しでも逃れようと、シャツの首元のボタンを解いてラフな格好になる。この際構うものか。誰も見ていないのなら、誰も知らない自らの内側をさらけ出してもいい。
やはりこの苦しさは、ラウの事を気にかける自らが原因だろう。永琳から聞いた言葉は、余命の宣告に等しいものだ。彼が普通の人間とは違って、早く命を落としてしまう事実を知った時から胸が非常に苦しい。
何故、こんなにも苦しいのだろうか?何故、ここまでラウの事を気にかけてしまっているのだろうか?今思えば平静に保っていた筈の自らの感情が狂い始めたのは、ラウが危険な状況に遭っていた時だった。東風谷早苗と戦っている時は平常心を保っていた筈なのに、“プロヴィデンス”が墜落する様を目撃した途端、彼を助けることしか頭になかった。
―――何なんでしょうか…この想いは。
今まで感じなかったと形容するより、新たに芽生えた感情だと例える方が正しいのかもしれない。彼が無事なら自らも以前と同じ、いや、前以上に冷静でいられて彼の存在を無くした時は落ち着く事が一切できなくなる。
不便だ。こんな自分の感情に振り回されるのだったら、いっそ彼に会う前の自分の方がいい。
どうして、自分はこんなにも彼の事を気にかけてしまっているのだろうか。外来人とはいえ、自分は今まで幾度も人間と接した事はあるのに、一人の存在に執着してしまうなんて。
「いけませんね。こんなんじゃ誰の前にも出れません」
独り言をいって、思いっきりため息を吐き尽くした。心を落ち着かせなければ、恥ずべき己の内側を晒してしまう。そんな事はご免だ。
ボタンを締め直して、服装を整え直す。帽子をかぶって、羽衣を羽織り、いつもの自分の服装に戻る。
確認の為に、部屋に置かれてある鏡を使って自分の姿を見つめ直す。
人前に出る時の、いつもの自分の姿がそこにあった。優雅なドレスの様に広がる緋色の羽衣を纏い、毅然とした姿勢で部屋に立つ“永江衣玖”の姿が映っている。
しかし、表情だけはいつもより暗く、気力が伴っていなかった。
―――ラウさん…
鏡を伏せて、再びそこへ正座する。彼と天子の前に出るには、もう少し時間が欲しかった。衣玖は明かりもない薄暗い部屋の中、何一つ言葉を発さずに肩を震わせ続けていた。


「……暑くなってきたな」
怪我の痛みを抑えながら、俺は身体を起こし始めた。眼を覚ますと、外から照らし続ける太陽の光が俺の身体に当たっている。季節の変わり目なのだろうか。初夏の涼やかな風が竹林の奥から流れ込み、部屋の隅々まで澄み渡る。その軽やかな勢いに、俺の前髪が揺れた。気持ちの良い風だ。
「う…ん……」
俺が寝ていた布団の奥で、もう一つの布団が揺れ動いた。枕元からは、規則正しい寝息が立てられ、空色の長髪が垂れている。そこで寝ているのは天子だ。正確には、あれが元々の俺の布団と言うべきなのか。
天子が泣き疲れて横になった後。俺は自分の寝ていた布団に彼女を寝かせ、新たに布団を引き出して俺は眠った。
押し入れに複数備えられていたのがありがたかった。なければこの体に鞭打ってでも、彼女から離れなければならなかっただろう。
不意に、障子の奥から床の軋む音が聞こえてきた。この規則正しい音のリズムは、人が近づいてくる音だろう。俺はそっちの方に身体を向けて、訪問者に備える。
「おはようございます。お体の調子はどうですか?」
姿を現したのは、兎の耳を頭から生やしている妖怪だった。薄い色素の長い髪を靡かせていて、紺のブレザーと桃色のミニスカートを纏った、まるで学生の様な恰好をしている人物。名は確か、鈴仙と永琳から聞いている。少女の見た目ではあるが永琳の助手を務めていて、血液検査の時に俺に針を刺した少女だ。
「身体は痛むが、特に問題ない」
「それなら良かったです…私達が診たときは色々大変でしたから」
鈴仙はほっとした様子で柔らかな笑みを浮かべている。それほど、俺の体の怪我は案外深刻だったのだろうか。
「あの医者…永琳はどうしている?」
「師匠なら、先程まで私と一緒に寺から帰った後、また薬の調査の為に資料を読み漁っています。勿論貴方の検査は行ないますので安心してください…」
「そうか…」
俺が眠っていた間、彼女達は出張と言う名目で外に出ていたのだろう。そもそも俺の起きた時間が正午直前なのだから、彼女達が特別早い時間に行動していたわけでもない。
「お前は何故こっちに来た?」
「何故って、患者の様子を見ることも仕事の内ですからね。師匠一人きりに任せない様、私も頑張っていますから。といっても、今の患者は貴方一人だけみたいですけど。それはそうと…何で貴方に割り当てた部屋に天人の彼女が眠っているのかしら?」
「布団を余分に借りたのはすまない。だが、あいつも疲れているんだ……見逃してくれないか?」
「…別に。被害を起こさないのでしたら構いません」
鈴仙は口元を歪めて天子を一瞥した後、すぐにこちらに視線を戻した。恐らく、過去に天子と面識があるのだろう。表情から察するにやはり、天子に好印象を持っている人物は少ないのだろうと想像する。元々の性格があれなのだ、無理もない。
「一つ聞きたい事がある、鈴仙。俺をここに連れてくる時にいた、羽衣の女はどこにいる?少し話がしたいんだが」
天子が眠ってしまっている以上、機体をなくした俺は次の策の為に衣玖と相談したい事があった。…例え天子が起きていたとしても、俺は衣玖と相談するのだろうが。
「ああ、あのパッツンパッツンの天女さんですね。彼女なら、この部屋から二つ隣りの部屋で休ませています。いきなり倒れかけるものだから―――」
「…衣玖も怪我をしているのか?」
「ああ、いえ、違うんです。ちょっとショックを受けちゃったみたいで……とにかく、別状はありません」
ショック?衣玖が何のショックを受けて眩暈を起こしたというんだ。いつの時も平然とした態度でいる彼女が、何故倒れる必要があるのだろう。
「行きたいのでしたら、そこまでご案内しますね。さあ、掴まってください」
詳しい事情を知らずに、俺は鈴仙に身体を支えられながら廊下に出る。空は明るく輝いているが、俺の心境は曇り続けている。鈴仙の言葉で、その曇りは幾らか濃くなっただろう。俺は新たに生まれた不安を抱え込みながらも、軋む体を動かした。


「着きましたよ。ここに、永江衣玖さんがお休みになっています」
「助かった。ここからは俺一人でいい」
礼を言うと、鈴仙は頭を下げて俺の前から遠ざかる。別に俺一人でもここまで歩くのは不可能ではないだろうが、身体に無理をさせないに越したことはない。それを思えば、鈴仙の存在はありがたい。無駄に響く痛みにも遭わずに済んだからな。
…さて。この障子の向こうに衣玖がいるのだろうが、この時間だ。既に彼女は起きていてどこかの空を飛んでいる可能性だってある。しかし、万が一いたとしたら、無遠慮に入るのもまずいだろう。俺は障子を小さく叩いて、中にいるかどうかの確認をする。
「衣玖、俺だ。いるのか?」
「………っ。ラウさん…?」
返事が返ってきたという事は、中に衣玖がいるという事の証明だ。しかし違和感を感じた。あの衣玖が今の時間まで部屋で待機していたのも意外ではあるが、それよりも彼女から発せられる声に震えが混じっていた事のほうが勝【まさ】っていた。
「…どうかしたのか?」
「なんでも、ありませんよ…どうかされたのですか?」
「お前と相談したい事がある。天子抜きでだ」
相談の内容は、天子がいない方が都合がよかった。天子の性格上、これから離す内容の漏洩【ろうえい】が起こる可能性もあるからな。
「入るぞ」
「わかりました…」
衣玖の了承を受けて初めて、俺は障子に手をかける。戸をゆっくりと横に引いて薄暗い部屋に侵入する。衣玖の部屋は完全に締め切っていたのか、俺が扉を開いた瞬間に風が吹き込んだ。こういう事に気を使いそうな衣玖なのだが、俺の思い違いだったという事なのだろうか。それとも、単に気が回らなかっただけなのか。
部屋の机の横に衣玖は座っていた。いつも着けている帽子を深めに被り、背筋を伸ばした姿勢が常の身体はやけに力がこもっていない。ここから見える横顔はやつれたとまではいかなくても、気力がまるで感じられない。
「大丈夫か?」レイボイス
あまりのその変わり様から、俺は堪らず呼びかけた。あのお淑やかな彼女がここまで変わってしまったなんて。いつもの生真面目な態度はどうしたというんだ?
「大丈夫です…ちょっと、夜更かしをしてしまって…」
「嘘を言うな。夜更かしくらいでそんな表情をするわけないだろう。何があった?」
確かに夜更かしをしたら着る時間も遅くなるし、不摂生である事は確かだが衣玖がそんな愚かなことをするとは思えない。そんな見え透いた嘘しかつけないという事は、余程の事が衣玖を襲っているのだろうか。
「今から鈴仙と永琳を呼んでくる。だから―――」
「まってください!」
とっさの判断で廊下に出ようとした途端、俺の病衣が背中から引かれる。いつの間にか、座っていた衣玖が立ち上がって俺の身体を引きとめていた。
「大丈夫です。私は大丈夫ですから…話、あるのでしょう?」
「衣玖…」
振り返ると、無理矢理な作りかけの笑顔を見せる衣玖の顔があった。何にせよ、全力を出せない俺はこれで衣玖から逃れることは不可能になった。諦めて、彼女の望むとおりに話をするとしよう。俺は机越しに衣玖と差し向って、話すべき内容を口にした。


「…以上が、俺の考えだ」
話の内容。それは俺の考えた作戦だ。再び機体を確保して、今度こそ“フリーダム”を撃墜するために考えた策。俺の直感は、依然“フリーダム”が健在だという事を示している。確実に、再びあいまみえる予感がするのだ。
「ですが、私は……」
「…これはお前にしか頼めない。天子に頼む事も出来るが、あいつでは作戦に支障が出る可能性がある。お前の様な性格の人物が、この作戦には相応しい」
「………」
また、他人を利用する事には俺も抵抗がある。相手が衣玖なら尚更だ。天子ならば気に入らない事があれば正面から断る事もあり得るのだろうが、衣玖ならばそうもいかないだろう。
「俺も無理強いはしない。これが出来なければかなりの遠回りになるが、戦えないわけじゃない。だが、この作戦ならば僅か数日で準備の大半が整う」
この作戦には二つの段階があり、さらに河童の技術力を利用する必要がある。その為にも衣玖にはこの作戦の最初の段階である行動をしてもらいたい。これは比較的素早く行なう必要がある為、例え全快でも飛翔出来ない俺の様な人間には無理だ。
「動ける身体になり次第、俺も行動する。それまではお前にしか頼めないんだ」
すまないとは思っている。衣玖に再三、俺の身勝手な望みにつき合わせてしまう事が。だがしかし、これしか手の打ち様がないのだ。
「…それは、私を必要としてくれているからの言葉…ですか?」
衣玖は真剣な表情で俺の顔を見る。澄んだ両目であり、その底には常に窺い知れない想いが宿っているのだと思う。俺の言葉をどのように受け止めているのかは衣玖しか知りえようがない。だが、俺は確かに衣玖と言う存在がこの作戦に不可欠だと思った。
「そうだ」
短く、返答した。これだけの言葉でも、衣玖は俺の肯定を確認した後ですぐに表情を和らげてくれた。
「…わかりました。それが貴方の望みであれば」
「…助かる」
「しかし、条件があります」
……条件だと?一体何を思っての条件なのか、今の時点では判断できない。
だが、その心配は次の衣玖の言葉でかき消された。
「今後“フリーダム”と戦うときは、必ず勝って生きて帰って来てください。相討ちと敗北は認める事ができません」
「……」
「この条件が呑めなければ、私は貴方の策に乗る事ができません。だから……」
なるほど、そういうことか。
つまり、衣玖は俺に死んでほしくないという事だ。俺が死ぬような危険な状況にみすみす放り込むようなことはしたくないと、彼女は言ってくれている。
「当たり前だ」
即答。
初めから、俺は己の身を滅ぼす様な真似は考えていない。
「フッ…この力も含めて俺は俺だ。俺は俺の信じる未来の為に戦う」レイボイス7秒
「ラウさん…貴方は…!」
「この命の尽きる時まで……!」レイボイス
俺は決めている。俺の持っているこの力も、この命も、決して無駄にさせない。例えこの世界に取り残されたとしても、俺は生きて、俺といてくれるこの二人と一緒にいたい。天子の我儘も、衣玖の気苦労も、俺は分かち合っていきたいんだ。
「では、そういうことだ。……ぬかるなよ」レイボイス
話は終わりだ。俺の伝えるべき事は全て言った。これ以上彼女の前にいてもどうしようもないだろう。俺は静かに立ち上がって、未だ寝ているかもしれない天子を起こす為に廊下へ出ようと障子に手をかけた。
「ラウさん!」
しかし背後から衣玖の声を聞き取って、俺は反射的に動作を止めた。条件は呑んだ。まだ何か、衣玖は俺に言いたい事があるのだろうか?
「貴方は……貴方は何故そうまでして…“フリーダム”にこだわるのですか!?」
なんだ、そういうことか。確かに、俺がこうまで一つの機体にこだわる理由など、俺以外には知りようがないだろう。唯一理解できるとしても、“もう一人の俺”ぐらいだ。
大した理由ではない。だが、俺は“俺”を殺した相手を殺さなければならない。人々の理想の塊である“最高の夢”を作る為に踏み台とされた“俺達”の命。俺が本当に一人の命として輝く時は、“最高の夢”―――キラ・ヤマトを超えた時だ。
「乗り越えるべき目標がある。俺が奴にこだわる理由は、ただそれだけだ」
振り返らず、自らに戒めるように俺は口にした。そしてそのまま、俺は廊下に出て自らの部屋へ進む。
俺の言葉を聞いた衣玖がどのような表情をしているのか、またはどんな感情を覚えているのかは、その時の俺に知る術はなかった。


「お久しぶりですね!シンさんに早苗さん。おおっ、それに最近話題の寺の船幽霊さんではないですか~!」
「気紛れに文に付き合ってみたら…久しぶりね、あんた達。確か、河童の作業場以来じゃない?」
文とはたて。二人の天狗が地面に降り立つ。文は以前ににとりをからかいに来ていた事が記憶に新しいが、はたての方は椛同様、作業場での一戦以来だ。
「あら?椛、あんたまでそっちにいたの?最近見ないと思ったら、なにやってたのよ?」
「別に気にする必要はありません、姫海棠はたて。成り行きで私は彼らと共にいるのです…もっとも、行動を共にするのもどうやらここまでになりそうですが」
命蓮寺で言った、椛が行動を共にする一番の目的はシンとの再戦だ。以前の様に緊迫に溢れる一戦をもう一度味わいたいがために、彼女は自分達についてきた。
「俺と、戦うのか?椛」
「…確かにシン、私は貴方と戦いたい。…ですが今、その考えは薄れています」
「どういうことです?椛さん?」
突然の椛の言葉に、早苗が怪訝な顔をする。あれほど再戦を望んでいた彼女が、何故今更になって戦う意思がないと言い出すのか。
「勿論、戦いたくなくなったという事ではありません、東風谷早苗。ですが、シンは今やるべき目的の為に行動している。その崇高な目的の途中で私が戦うという事で邪魔をしてしまうのは心苦しく思ったからです」
「それだけなのですか?犬走さん…?あれほど寺で堂々とアスカ君に宣戦布告していたのに…」
「もう一つだけあります。それはシン、貴方がその小さなナイフで私と勝負しようと考えている事です。私が望むのはあの時と同じ条件での戦い。全力を出し切って、かつ、躊躇を一切しない勝負が私の望み。シン、貴方は優しすぎる。貴方は本当に、そのナイフで私を刺せるのですか?」
確信を突かれて、シンは動揺した。シンが持つナイフは相手を殺すための武器だ。対して、にとりが渡してくれた武器は相手を倒すためだけに作られた、非殺傷を目的とした物だ。あの時は意識せずとも椛に対して全力で得物を叩きつけていたが、殺そうとは一切考えていなかった。
「私は待ちます。全てが終わって、また貴方がここへ来る時にあの時と同じ条件で正々堂々とやれる事を。…それまで、私との戦いは預けておきたい」
「椛…」
椛は薄っすらと笑って、再戦の約束を投げかけてくる。それを拒む理由は何一つなかった。しかし、あの攻撃的だった彼女が笑顔を浮かべて、シンの邪魔をしないようにという事で戦いを後回しにすることを提案してくるとは思いもしなかった。
「貴方達と寺にいた時間は楽しかったです、村紗水蜜」
「犬走さん…いえ、私もあなたとの将棋、たのしかったですよ。アスカ君と一緒にやるのも、新鮮でしたし」
「そう言っていただけるのは、正直嬉しいです」
「お~お~しばらく見ない間に椛さん、よく笑うようになりましたね!その顔、すっごく可愛いですよ!」
「なっ…ふざけないでください!」
「その噛みつき具合!やっぱり椛さんですね。私としては多彩な表情を見せる椛さんも面白そうですね~からかいがいがあります!」
文が椛の笑顔をネタにして、にししと笑う。対する彼女は、赤面しながら文に掴みかかろうとするが、その身体を捉える事が出来ない。その様子に周りは苦笑し、シンも椛のあわてる様子に吹き出してしまう。
「あ~あ…文の悪い性格がまた出ちゃってるわ…」
残った天狗のはたてはその二人の同類を目にして、眼を細めながらやれやれと肩をすくめて呆れていた。


「それじゃ、俺達はそろそろ行くよ」
「あやややや…もういっちゃうのですか?つれないですね~もう少しいてくれたらそこの船幽霊のことを調べつくしたり、そのボロボロの機械についてノイローゼになるくらい質問したかったのですが…」
「そういうのは勘弁です!アスカ君も私も!」
「水蜜さんの言うとおりです!シンをノイローゼにしたら退治しちゃいますからね!?」
文の口は、その場にいる人間の殆どを焚きつける効果があるらしい。他人を挑発する能力には恐ろしく長けていると、シンは掴みどころのない文の言葉を聞いてほとほと思う。
「文の言う通り、取材しようにも留まらないんじゃどうしようもないわね。あ~あ、また新たなネタ探しにどっか飛ぼうかしら?」
「どうせ、はたては念写を使えば幾らでも写真を集める事が出来るんじゃないですか?二番煎じだけど」
「うっさい文。だから動いてるんでしょうが、私は」
「仲がいいんだか、悪いんだか…」
はたてと文が口喧嘩をしている間に、シンは機体に乗り込んで機体の起動を促す。操作系が全てオンラインになったのを確認した後で、シンはスピーカーで早苗と水蜜を呼ぶ。
「よし、準備はいいぜ!」シンボイス
「水蜜さん、“フリーダム”に乗りますよ。一気ににとりさんの所までひとっ飛びです」
「分かりました、東風谷さん!」
開放したコクピットに、早苗と水蜜が新たに乗り込んでくる。“デスティニー”の時にも感じたが、やはり狭いコックピットに三人で入るのは辛い。だが本来、多人数が乗り込むことを前提としていないので仕方がない。
「これがこの機械の中…凄いですね…」
「これだけの物が私達とは比べ物にならないスピードで飛べるんですよ?水蜜さん!」
「二人ともしっかり掴まっててよ?頭ぶつけても知らないぞ」
飛びたとうとする直前に、警告を促す。慣性が働いて怪我でもされたらたまったものではない。
「じゃあな、椛、文、はたて!」
外の天狗達に呼びかけると、文は満面の笑みで手を振り、はたては腕を組んでこちらを眺め、椛は無表情ではたてと同じくこちらを見上げている。三者三様の反応だ。
「シン・アスカ!“フリーダム” いきます!」シンボイス
スラスターから莫大な推力が生み出され、“フリーダム”は再びその巨体を空に浮かせる。この機体を直す為にも、そして待つべき者の元へ早く戻る為にも、シンは作業場へと進路を向けて飛翔する。
「シン…私は…貴方と」
その傷ついた蒼の翼を、滝の横で眺める椛。再び彼と戦える時はいつになるのか。それは全く分からないが、必ずその時が来る予感はしている。それは勘の様に確固たるものではないが、言葉では言い表せないものが再会を呼び寄せる気がした。
今の椛は、それを知る事だけで満足していた。