PHASE- 35 希望の在処 前編


これで、彼と共にモビルスーツに乗り込むのは何度目になるのだろう?
早苗は“フリーダム”のコックピットの中で密かに物思いに耽【ふけ】る。
水蜜の強引な方法によって、“フリーダム”は無事回収することはできた。今はシンと水蜜と共に三人でにとりの作業場へと帰路に就いているのだが、早苗の中で腑に落ちないことがあった。
―――どうせなら、シンと二人きりでいたかった。
先程の“九天の滝”でも、水蜜の力あってだ。シンに自らを見て欲しいのに、自分に出来る事が限られている事が気に入らない。
しかし、今感じるちょっとした不機嫌の元はそれとは別件である。
―――水蜜さんとシン、あんなに楽しそうに話してる……
「すごい……!法界の空の時にも見てたけど、実際に乗ってみるとこんなにも早く飛べるのですね」
「今は損傷度が高いから割とセーブして動いてるんですけどね。あ、船長!そんなに前に身を乗り出したら危ないですよ!」
「大丈夫です。アスカ君が操縦しているんですから!」
聖輦船の異変以来、水蜜とシンの距離が近い事は傍から見ていても確実だ。自らも彼のことが好きなのに、明らかな水蜜の行為は見逃せない。
この水蜜に対する自分の感情は嫉妬なのかもしれない。しかしだからと言って、彼女の好意をみすみすシンに受け止めさせるわけにもいかない。早苗は水蜜の水兵服を引いて、シンから離す。
「ダメですよ水蜜さん。シンの邪魔をして機体が墜ちてしまったらどうするんですか!」
この言葉は建前だ。本当は自分がシンの傍にいたいのに。シンに水蜜がより近くにいる事が、早苗の心境を焦らせてしまう。もしかしたら思い人である彼を横取られてしまうのではないか―――という早苗の焦りが先程の行動を誘発させてしまった。
「どうしたの東風谷さん?私はただこの機体がすごいなって、アスカ君と話してただけですよ?」
「どうしたもこうしたもありません。シンは操縦しているのですから、目の前をふさいだら危ないです!」
都合のいい建前ばかり口から出る事に自己嫌悪してしまう。だからと言って、自分が好意を抱く彼に、他の女性が近づくのは感心しない。そしてこれは勝手な予想だが―――恐らく水蜜はシンに好意を抱いているだろう。彼を眺めているときの水蜜の眼差しと表情に、熱が籠っているのが分かる。自分も、シンを見ている時に胸の奥が熱くなるから。水蜜の眼は自分の眼と極めて似ているからだ。
他人の好意に、気付いてしまった―――
「とにかく、服を離してください!」
「ダメです。ちょっとはしゃぎすぎですよ水蜜さんは…!」
口争いをしている内に、お互いの両腕が組み合ってしまう。水蜜も流石に人間相手に本気の力を出すわけにはいかないと思ったのか手加減してくれているのだが、その顔は明らかに自分へと不機嫌を示していた。
「シンも少しは注意してはいかがです?万が一の事があってもいけないでしょう?」
「あっはは!いいじゃん、にぎやかでさ!」
「…もう!」
――――これでは取り越し苦労じゃない。水蜜も彼の目の前を完全に塞いでいる訳じゃなく、十分にシンの視界は確保させているのだ。なのに早苗はいらない不安と嫉妬を露わにして水蜜に当たってしまった。
―――こんな私は……人を、彼を好きになっていいのでしょうか?
現人神【あらひとがみ】として祀り讃えられたとはいえ、早苗の内面は普通の少女と全く変わりない。こんな想いをする時は、神の力など何の役にも立たないことを早苗は痛感していた。彼と会った後【のち】に好意を抱いてから―――何度も、何度も。
「ねえ、東風谷さん」
悩み込んでいる自分の背後から水蜜が静かに耳打ちをする。
虚を突かれて一瞬反応が遅れてしまうが、早苗は水蜜の方へ視線を向けた。
「私、知っているんですよ。誰がアスカ君の事を気にしているのかを」
―――知られていた。
柔らかく微笑んで水蜜は囁いた。それはつまり、水蜜は早苗の好意に気付いた上で彼を想っているという事なのか?
不思議じゃない。少なくとも早苗はシンに好意を抱くことを誰にも隠した覚えはない。その気になればあからさまに見せつける事も躊躇しない気でいるからだ。けれど、そのことを恋敵に正面から口にされると強く胸が締め付けられる。
水蜜が意地悪な人物ではないから尚更だ。こんなに良い少女が、シンの事を想ってくれている。その現実から自分の立場が追いやられるような感じがして、不安という感情を刻み込まれてしまう。
「だからこそ……貴方も遠慮しちゃ駄目ですよ?」
「……貴方にそういわれても、素直に受け止められません」
「何言ってるの。私はもう死んでいるけど、貴方は彼と同じ人間じゃないですか。貴方の方が彼と生きるのによっぽど相応しいんですから」
少しだけ寂しげな響きと悲しみを秘めた眼差しで、シンの背後を流し見る水蜜。この異世界で様々な人妖と過ごしていると、相手が自分と異なる命の持ち主であるとつい忘れてしまう。自分は神である以前に、人間だ。同じ命の重みをもつ自分の方が、彼と共をするには相応しいのは当然だ。しかしそれを相手の口から言われてしまうと、まるで恋愛面でも手加減されているようで悔しい。
遠慮されて手に入れられる結果など、欠片も嬉しくない。
「だからといって、私はあきらめませんよ?私は幽霊でも、今を生きているという事には変わりありませんから……ほら、人間と幽霊が一緒になっちゃダメだって、誰が決めたんです?」
「…私だって、誰にも渡す気はありません。貴方にも…他の誰にも」
「その意気です、東風谷さん。だからこそ私も、手を抜く気が全く起きない…!」
応援してくれているようで、実際には彼女は恋という種目の競争相手。余裕ぶった態度といい、人間以上の時間を過ごしているといい、多くの面において水蜜が上手【うわて】であるものの、決して早苗は負けるつもりなどない。彼と添い遂げるのは自分だと想い続けている限り、絶対に負ける訳にはいかないからだ。
「さ、もうすぐ作業場に着くぞ。揺れるからしっかり捕まっててよ」
「うん、アスカ君!」
「あ、ちょっと!なんでシンの体に捕まるんですか!?」
「ふふっ、悔しかったら貴方も真似してみてください!」
「ちょ、ちょっとおい!?ただでさえ片足の着地って難しんだから……って、二人とも抱きつくなー!」
コックピットの中で繰り広げられる恋模様にシンは圧倒され、ただでさえ不安定一歩手前の“フリーダム”の空中姿勢が落ち着かない。必死になってモニターを眺めるシンの目の前には、馴染みの作業場の屋根が近づいてきた。
その横の河原に立つ、水色の髪を風に靡【なび】かせる少女の姿。
こちらを見上げる少女、にとりは太陽の光に負けない笑みを向け続けている。
彼女の声は聞こえないが、やっと帰ってきたか、と言わんばかりの顔だ。
その姿を目にして、早苗も安心感に包まれる。
徐々に近づく作業場の景色を三人は眺めつつ、“フリーダム”は残った翼を広げてゆっくりと河原へ舞い降りた。


「ただいま、にとり。戻るの遅くなっちゃってゴメン」
「…お帰り、シン。怪我してなさそうだし、私の言う通り山でちゃんと無茶しなかったみたいだな、うんうん」
「あっ、シン!お帰りー!」
「ただいま、小傘ちゃん」
“フリーダム”から降りて、出迎えてくれる二人に小さく手を振って応える。無邪気に走ってくる小傘をシンが受け止めるのもこれで何回目になるだろうか。背後にいる早苗と水蜜もその光景に口元を緩めて微笑む。
「見た感じ、天界で派手にやってきたんだな……装甲なんか無茶苦茶になってるじゃないか。幸い、霊夢と他の河童達のおかげで修理の材料は大方そろってる。整備性は“フリーダム”の方が簡単だから、“デスティニー”が直せる頃にはコイツも元通りになるよ」
「だったら、“フリーダム”の方を優先して修復してくれ、にとり。モビルスーツがあることに越したことはないし、また何か異変があってもいけないからね。……そういえば、霊夢さんは?」
霊夢もにとり達と共に作業場に向かっていた筈だ。彼女はにとりの手に負えない部分の修復を頼んでいるのだが―――
「ああ、霊夢なら今朝方に私と一緒に修理した後に疲れちゃって寝てる。今も作業場のベッドで横になってると思うよ。また後で修理に戻るしな」
「だったら、起こせないよな…」
にとりから聞いて、ついシンは作業場の方に視線を向けた。自分の任せた行動で霊夢が身体を壊さないか心配だった。少なくともにとりの話では、そこまで霊夢は自らに無理を強いていないらしいが。
「ゴメンねシン…霊夢もにとりも頑張ってるのに、私は何も出来なくて……にとりが直した機械を見ても何が何だか良く分からないんだもん……」
この場で一番安穏と過ごしているのは小傘だろう。彼女は妖怪で人間以上の体力はあるが、機械に関しての知識は一切無い。霊夢もにとり程の機械の技術を持っていないが、霊夢は出来る範囲内でにとりの修理を助けているに過ぎない。何もできない小傘の劣等感は彼女達の足手纏いだと絶えず責め立てているのだ。
だけど、そんな理由で小傘が落ち込む必要はない。小傘が何も出来ないのは今いる全ての存在が理解している。出来ないことをしても、こなせるはずが無いのだ。小傘には小傘の役割がある。異変から戻ってきた時、彼女の笑顔を目にするだけで、十分シンの心を癒すことに一役買っているのだ。
「そんなこと無いって。小傘ちゃんが出来ないことして怪我する方が危ないよ」
「うん…」
「やれるにしても、時々にとりや霊夢さんの手伝いが出来る程度でいいよ。それだけで俺も嬉しいからさ」
「………!うん!」
暗くなりがちだった小傘の表情を、優しく言い聞かせながらシンが変える。本当に誰からも要らない存在なら、ここに留まる理由がない。一人一人が何かしらの頼りにされているから、人は、妖怪は、一つの場所に集まるのだ。
「それじゃ、行くのか?香霖堂へ」
「ああ、にとり。俺と早苗と船長はこれから霖之助さんの所へ向かうよ。早苗、ここから香霖堂ってどのくらい時間がかかるんだ?」
「多分、飛べば数十分も掛からないと思いますが…霊夢さんの話だと空は妖精達が徘徊しているみたいですからね。徒歩で向かうとするならば少々の時間を要すると思います」
「大丈夫だよアスカ君。疲れたら私がおぶってあげますし、妖怪が出ても私と東風谷さんならすぐに片づけてあげますから」
「あっ、抜け駆けは酷いです!私だって、シンくらい頑張れば…!」
「気持ちはありがたいけど、女の子におぶられるのは恥ずかしいかな……はは」
「そ、そんな…女の子だなんて。面と向かって言われたら恥ずかしいですよ、アスカ君」
そんな自分を他の通行人に目撃されたら溜まったものではない。以前シンは里に向かう時ににとりに背負われた経験があるが、もしあの時に他の視線があったならば、恥ずかしさからすぐ背中から降りてしまっていただろう。
「お前ら相変わらずだな……じゃあシン、“フリーダム”をハンガーに収容するぞ。モビルスーツを動かせるのはお前だけなんだからな」
「分かった、にとり」
返事の後に“フリーダム”に乗り込んで、苦労しつつもバランスを取って作業用ハンガー内に機体を固定する。準備が整うとシンは早苗と水蜜と共ににとり達と別れた後、三人で香霖堂の方へ歩みを進めた。


「時間を無駄にするな!速やかに起きろ!」
部屋の仕切りを開け広げて、昆虫のさなぎの様に包【くる】まる天子から容赦なく布団を剥ぎ取る。
寝癖がついた長髪を顔に纏わり付かせながら、天子は寝ぼけ眼でこちらをみていた。
「んん……何すんのよ、いきなり…」
「怪我人でも病人でもないのにいつまでも寝るな。だらしない」
キッパリと言い捨てて、剥ぎ取った布団を部屋の押し入れに仕舞い込む。起こされた側の天子からすれば迷惑かもしれないが、もう既に時は正午を過ぎているのだ。自主的に起きなかった分余計に眠く感じるかもしれないが天子には我慢してもらう。
「なによ、いきなり私の布団勝手に仕舞い込んで。衣玖みたいじゃない!」
「…俺がお節介だといいたいのか?」
「そうじゃなきゃこんなことしないでしょ!?」
気付いていないようだが、怒っているうちに目が覚めて来ているのだろう。目蓋は開き切り、焦点もこちらをしっかりと合わせている。不機嫌にしてしまった事については謝ってもいいのだが、正直衣玖のいない時に俺一人でいても仕方がない。それに、寝ている女が横にいるというのも落ち着ける雰囲気ではなかった。
「別に大した理由はない。ただ、目の届く範囲にいつまでも寝ている女がいるのが気に入らないだけだ」
「ふうん、ご主人様に向かって結構反抗的じゃない。それとも…単純に私が寝ているところを見るのが恥ずかしいのかしら?結構可愛いところあるじゃない……お仕置き代わりに生意気言うあんたのその口、寝起きついでに塞いであげよっか?」
「いつまでも寝言を言うな。さっさと顔でも洗ってこい」
「あ、もしかして照れてる?」
「いいから行け」
俺がそう言うと、天子は不機嫌そうに顔をしかめて洗面所の方へ進みだす。衣玖の部屋からここまで戻ってくる時に俺は既に済ませている。この診療所で数日過ごして分かった事だが、普段から活発な天子は意外と朝に弱い。幾ら天人だと称したところで、元は人間に変わりない。肉体面には人間よりも健康的なのだから、遅い目覚めは天子に染み付いてしまった習慣なのだと推測する。だが、俺が来るまで退屈ばかりの生活を送っていた彼女からすればそれもあり得るだろう。暇だったら何かで時間を潰せればいいが、それさえにも飽きが来てしまったら何をやろうとも思わない。幾ら“緋想の剣”があるとはいえど、振う相手すら存在しなかったら宝の持ち腐れだ。生きる時間に余裕がありすぎるのだから、寝て無為に時を過ごしたくなる天子の気持ちも理解できない俺じゃない。
俺はこの世界に来てしばらくは、何を目にするのにも衝撃的だった。それが絶え間なく続くのなら“暇”という言葉とは無縁でいられるのだが、慣れてしまえばそれら全てが自分にとっての“自然”と化す。飛翔できない俺にとって、空に浮かぶ天界ではただでさえ自由に行動できない世界であるのに、天子や衣玖以外で暇を潰せるものなど何も無かった。特に挙げるとしても、俺が休まされていた天子が用意してくれたベッドくらいだろうか。
もしかしたら、俺は心の奥で話し相手が欲しいと思っていたのかもしれない。さっきは天子にああ言ったが、俺も所詮人間だという事だろう。心に寂しさを感じて、その穴埋めに天子を起こしてしまったのかもしれない。我ながら情けない本音だ。
「どう?綺麗さっぱりしてきたわよ?」
部屋の外から天子の快活な声が聞こえる。少し考え込みすぎたのか少々時間が過ぎてしまったらしい。天子の姿に注目してみるとあれ程乱れていた長髪が規則正しく揃えられていて、外から吹き込む微風に靡いている。元々眩しい光沢を放つ天子の髪は、この部屋を出た時より重みを含んでいて、落ち着きのあるしっとりとしたものになっている。ふと気づくと天子の細い身体からは、湿りを含んだほんのりと暖かい空気が漂っていた。それに混じって花の香りが俺の鼻腔をくすぐって来る。これは確か―――
「気付いた?ちゃちゃっと朝風呂に入ってきたのよ。ここは地上だというのに、割と肌や髪を整える洗剤が充実しているからね。私の髪さっきより綺麗でしょ?」
「ああ……どうりでいい香りがすると思った」
天子が指すのは、俺の世界で言うシャンプーに当たる。俺もここの風呂には何回か入ったことがあるからこの花の香りには覚えがあった。聞いた話によるとあれは鈴仙による自作らしく、自身の髪を綺麗にすると同時に使用した者の心を落ち着かせる効果の面で工夫した結果がこの漂う香りらしい。医術の面で彼女はまだ見習いだと永琳から聞いたが、薬品に関する事なら医術以外でも役立つのだろう。少し前に衣玖から聞いた話によると永琳も気に入っているらしく、日常的に使っているのを聞かされた事があった。俺としては非常事態でも最低限身体を洗えれば文句はない。むしろ今の状況は
贅沢に値する方だろう。俺の髪も同年代に比べると長い方で、手入れには苦労する。天子の言う通り髪を整えるには十分な代物だ。
「衣玖も気に入ってるらしいわよ。前に風呂から出た後を見た時かなりご機嫌みたいだったわ……そういえば、衣玖の姿を見かけないわね。どこにいるのよ?」
天子が知らないのは当然だ。俺が故意に衣玖の行く先を知らないように手を打っておいたのだから。衣玖には作戦を告げた後にすぐに部屋を空けるように促したからな。今頃はもう屋敷のどこにもいない筈だ。
「衣玖はまた里の方に様子を見に行っているらしい。すぐに戻って来るだろう」
でまかせを放って天子の注意を削ぐ。天子には悪いが、俺の考えている流れには天子の介入は相応しくない。今しばらく彼女を騙してしまうことになるが、やむを得ないことだ。
「そうなんだ……じゃあ、これからどうするのラウ?あんたの怪我はまだ完治してないし“プロヴィデンス”もこのままじゃ直せないわ。今日も何も出来ないのかしら……」
「………」
天子に言われなくとも熟知している。確かに、ここにいるだけではただ時間を無為にしてしまうだけだ。俺の怪我を直し、機体も修復して再び“フリーダム”に挑む。だがその準備がまだ整っていない。その為に衣玖には動いてもらっているが、残された俺と天子はじっとしているしかない。
「暇になったわよね……これじゃ、天界にいた時と何も変わらないじゃない」
「何か起こっている方が、お前には嬉しいのか?」
俺がそう聞くと同時に、天子は部屋の外の廊下へと出る。俺も後を追って外へ出るが、日光の眩しさに一瞬視界を奪われて、目をつぶってしまった。
「まあね、もうかれこれ何年も退屈な時間を経験してきたから。剣の力で、向かってくる奴を懲らしめたり私の寿命を狙う死神を追い返したりはするけれど、そんな事にも飽きてきちゃった」
「死神を追い返す?それが天人の長寿の理由なのか?」
「そうよ。元々は私も人間だったけど、天人になってから死に怯える事も無くなったわ……いや、簡単には死ねない体になったといった方がいいかしら。ねえ、ラウ。あんたは天人になりたいと思う?」
何を突然。何とも非科学的な理屈を述べた後に、天子は俺に問う。天子の話では“天人”になったところで、ただ時間を過ごすことしかできないと何度も聞かされてきた。そんな負のイメージを十分に抱かされた後で、俺が首を縦に振るのかと思っているのか。しかし、天子の次に放った言葉で俺の考えは変わってしまった。
「私は……なって欲しいと思っているわ。だって、今のままじゃ私よりも衣玖よりも、あんたが真っ先に死んでしまうじゃない」
「天子…」
上着の胸元を握りしめて、天子は小さく俺に言った。種族の違い、それとも命の違いと例えるべきなのか。俺は“人間”であって衣玖のように“妖怪”でも、天子のように“天人”でもない。人間の寿命の平均は、どちらの生きる時間とも比べ物にならない程短命だ。生物はいずれも老いて朽ちるが、幻想郷の中でそのスピードは人間が一番早いのだ。
「俺は…」
急にその事を詰め寄られても返す答えがない。だからといって、この場をはぐらかせる程の機転を俺は考える事は出来なかった。真剣な眼差しで見てくる天子の双眸に、俺は暗い表情で無言を通すことしか出来なかった。だがその時―――廊下の外側、つまり永遠亭の庭で小さな影が俺たちの目の前を横切った。


柔らかな癖のかかった栗色の髪。その下にある白い顔は小さく、幼さを秘めた大きな瞳が収まっている。服装はその小さな体躯に見合わない程の広がりを持った桃色のワンピースを着用していて、動きやすくする為か両袖の先にリボンを巻きつけている。ここまで評すればただの子供同然だが、明らかに人間とは違う特徴があった。頭頂部からは二つの長い兎耳が覗いており、スカートの背部には丸く白い尻尾が突き出ていた。そして、俺は極めて類似した身体的特徴を有した女を知っていた。
「こらっ!待ちなさい、てゐ!」
「や~だよっ!返して欲しかったら捕まえてみなよ、鈴仙!」
「…なんだ、あれは?」
てゐと呼ばれたワンピースの少女が首元の人参を模したペンダントを揺らしながら、後ろから追う鈴仙を挑発している。ちょうど頭に思い浮かんだ人物が目の前に現れるとは思いもしなかった。鈴仙は息を切らせながらスカートを揺らしつつ走るが、てゐはそんな彼女を小馬鹿にするように笑いながら庭の奥にある竹林の方に潜り込んでしまった。
「はぁっ……はぁっ……ああもう!逃がしちゃうなんて…!」
「何かあったのか?」
汗を浮かべて息を荒げている鈴仙に問う。その途端兎の妖怪を追いかけていた足を止めて、吐息交じりにこちらへと答えた。
「どうしたもこうしたも……師匠の部屋にあった薬品をあの子が―――因幡てゐが盗んだのですよ。あの薬品は未完成で危険だから、返して欲しいとお願いしたのですけど…そしたらあの子、急に外に飛び出しちゃって…!」
「急いては事を仕損じる、ね。あんたの能力なら、いっそあの子兎の動きを完全に思うように支配することも出来るというのに、そんな様子じゃあ無様極まりないわね」
「はあっ……焦った時だと相手の波長が掴みにくいのよ、私の“狂気を操る程度の能力”は。いつでも役に立つ能力だったら苦労しないわ、天人さん」
荒い息を整えて、垂らしていた汗を腕で拭う鈴仙。その兎特有の赤い両目をてゐが飛び込んだ竹林に向けて凝視する。
「あそこは……結構奥まで逃げ込んだわね。あの娘ったら…!」
鈴仙には何かが見えているようだが、俺には理解できない。奥は重なる竹林に塞がれていて、てゐの姿など欠片も捉えられない。
「鈴仙。お前には見えるのか?」
「直接の姿なら私にも見えません。ですが、てゐの極端に短い波長が、林の奥から発せられているのがわかります。その源を辿れば、すぐに捕まえられます」
鈴仙の眼には、あの妖怪の存在が見えている。俺の世界でいうレーダーの様な能力でもあるという事なのだろうか。
「盗まれた薬品…とはどういうものなんだ?」
「そ、それは…私も詳しくは知らないのでお話しすることは出来ませんが、とにかく師匠が取り戻して来いと仰ったので…」
鈴仙は表情を曇らせて、冷や汗を浮かべている。恐らく、患者の治療に使われる薬品の一種だろう。もしかしたら、俺に投与するはずの薬をてゐが持って行ったのかもしれない。今のここの患者は、俺一人だけだからだ。ならば手を貸さない訳にはいかない。彼女の問題の解決は、俺の問題の解決になるからだ。
「俺も手伝う、鈴仙」
「ちょっとラウ!あんた身体怪我しているでしょ?そんな状態で兎と追いかけっこできるの?」
当然の反応だろう。俺は今朝にも鈴仙に支えられながら移動していた。こんな状態ですばしっこい兎を追いかける事自体、無謀なものかもしれない。だが、今の俺は今朝程の身体の痛みも消え、走る事さえもできそうだ。このあり得ないぐらいの回復の早さは、やはり永琳や鈴仙の治療のおかげだと思う。
「大丈夫だ、問題ない」
この一言で、俺の状態を天子に示す。俺も馬鹿じゃない。言われなくてもいざという時は、自主的に行動を控えるつもりだ。
「なら、ありがたく力を借りることにします。ラウさん、迷いの竹林は私達の様に把握している者でないと危険です。私から離れないように後を付いてきてください」
「了解」
「あ、ちょっと待ちなさいったら、ラウ!!私も一緒に行くんだからー!」
外履きに履き替えて、先導する鈴仙の背中を追って迷いの竹林に入り込む。天子も大声で不服を言いながらではあるが、俺の後ろを駆けて来た。薄暗い竹林を舞台にやんちゃな兎による逃走劇が幕を切った。


「ここが、霖之助さんの言っていた…」
「香霖堂、ですね。シン」
目の前に見えてきた家屋に近づいて、シンの呟きに早苗が重ねる。
魔法の森に差し掛かる道に、小さく建っている平屋。辺りは整理されているものの、シンには用途の分からない物が沢山溢れ返っている。これはいったい何なのだろうか?そういえば以前、河原に魔理沙と霖之助が足を運んでいた時に霖之助が自分の店について口にしていた記憶がある。
『色々と物はあるが、正直上手く扱えないものが大半でね……外来人のシンならば、何か使えるものが見つかるかもしれない』
ここにある道具の大半は霖之助が言っていた様に使い道が無いものばかりなのだ。幾ら道具屋の売り物といえども、価値が分からない物で店を埋め尽くすわけにはいかなかったのだろうか、優先度が低い物から、店の外に陳列――と例えるのが適切かどうかは怪しいくらいに乱雑だが――している。
「それじゃあ、これ二つ頂きます。最近の稽古で屋敷にあった木刀が折れてしまったので……」
「毎度あり。確かにお代は頂いたよ、今後ともご贔屓【ひいき】に」
「はい。是非そうさせて頂きます」
店の奥から女と男の声が聞こえてくる。片方の事務的で平坦な声は霖之助の声だと直感的に判断出来た。それまで店があまりにも静か過ぎた為留守かと思ってしまったが、その可能性はたった今消えた。その声に応じるもう一つの声。この落ち着いたトーンは少なくとも魔理沙の声ではない。会話の内容からしてこの店に足を運んだ客だろうか。
数分もしない内に、店の奥から二つ―――いや、四つの長物を身に着けた銀髪の少女が姿を現した。
右手に持つのはさっきの会話にも出てきた二振りの木刀。だがそれとは別に、漆黒の鞘に包まれた長刀と短刀が彼女の腰に携【たずさ】えられている。切り揃えられた前髪が目立つセミロングの頭には同色の黒のカチューシャが添えられ、着ている服はその武士然とした刀には似合わない、くすんだ緑のベストとスカート。和洋の入り混じったその容姿と美貌に奇妙な親和性を感じながら、シンはその姿を数瞬見つめていた。


「あ、こんにちは。皆さん」
銀髪の少女は店から出た途端―――いや、店から出る前から既にこちらへと視線を向けながら挨拶をしてきた。
「あ、ああ……こんにちは」
刀を提げる銀髪の少女に笑顔を向けられて、戸惑いながらも同じく笑顔に応じる。
「東風谷さん、あの娘は…?」
背後にいる水蜜が早苗に問う。
「確か冥界に存在する屋敷“白玉楼”の剣士である妖夢さんです。とは言っても、私があの方に会ったのは数える程で詳しい事は良く分からないのですが……」
妖夢と呼ばれた少女は、笑みを浮かべたままこちらを眺める。早苗の言葉に反応したのか、眉をピクリと動かして付け足すように口を開いた。
「正確には庭師も兼ねていますけどね。ご存じの通り、私の名前は魂魄妖夢。半人半霊の剣士です」
妖夢は微風に前髪を揺らしながら、彼らにそう名乗った。
「では、私はこれにて失礼させていただきます。皆様方」
名乗りを置いたままに、こちらへ名を聞き返すこともなく香霖堂から離れ出す。脇を通り過ぎるまで視線をシンへ向けつつ、妖夢は流れるような足取りで姿を消した。
「おや。外から会話が聞こえたと思ったら…シン、君達も来ていたんだね。どうやら、珍しく今日は商売繁盛のようだ」
「へえ、妖夢やあいつら以外にも香霖堂に客が来るとはな……こりゃ不吉だな、香霖」
店の暖簾【のれん】をかき分けて、奥から二人の影が現れる。
「魔理沙さん、霖之助さん…お久しぶりです」
「よっ!にとりん家以来、しばらくだな。シン」
「いらっしゃいシン、早苗。そして君は……?」
「名乗りが遅れました。私は村紗水蜜。この度里の郊外で寺を構えることになった者の一人です」
白黒の魔法使い、霧雨魔理沙と道具屋の店主、森近霖之助は、以前と変わらない面持ちでシン達を歓迎する。シンは久方ぶりの再会に笑顔で応じながら、霖之助に誘われるままに香霖堂の中へと足を踏み入れた。


香霖堂の中は、外に溢れる道具達以上に雑多だった。
正確には一切床には散らかってはいない。だが、店内に並べられている多々の道具が余りにも人の通りを阻害するまでに詰められている為、少しでも体をぶつけてしまえば商品が棚から転がり落ちてしまいそうだ。それはつまり、散らかっていることと同義だ。
「ここが、霖之助さんのお店なのですか?」
「まあ、趣味で開いてるようなものだけどね。折角来たのだからゆっくりしていくといいよ。余裕があれば何か買っていってもらえると、こちらとしても嬉しいね」
霖之助はそう言うのだが、この品物に埋もれそうな通路を歩くだけで苦労しそうだ。足の踏み場はあるのだが、あくまで『ある』だけだ。狭いここで転倒したら確実に周りを巻き込みかねない。
「あ、見てくださいシン!これって外の世界の模型ですよ!」
「森近さん、これは一体?」
「早苗が持っているそれは確か、外の世界でプラモデルと呼ばれているものだね。どことなくシンの“デスティニー”に似ているあたり、どこの世界でもロボットは人類の夢なんだろうね」
プラントでも、軍事力のプロパガンダとしてモビルスーツを模したキットが多数販売されている。香霖堂の棚に置かれているプラモデルは、まさしくそれと類似していた。パッケージに描かれているイラストも早苗や霖之助に指摘されてみると、どことなくコズミック・イラのモビルスーツに見紛うデザインだ。
「ホントだ。確かに“デスティニー”や“フリーダム”に似ているな……なんていう名前なんだ?」
「えっと、パッケージには…VだのWだのアルファベットがついていますね。νって名前の模型もあります」
「アスカ君、こっちはゼロが二つ書かれたものやAGEって書かれたものがありますよ?」
「へぇ、こんなモビルスーツがあったら凄いだろうな……」
「ま、そんなものが有ろうが無かろうが、私の火力には負けるだろうけどな!」
霖之助の横で魔理沙がパッケージに描かれたイラストを見て高らかに言い放つ。
「ちょっと魔理沙さん!その言葉は聞き捨てなりません。私達よりも誰よりも、シンの“デスティニー”が一番すごいのですから!」
「何だよ、言ってみただけだろ~?そんなにムキにならなくても機械と張り合う気は全くないって、全然」
「まあ、そういう物もあるけどウチの店は品ぞろえが割と豊富でね。日用品も含めて他にも色々見ていって欲しい」
霖之助は右腕を広げて店内の全容を目にする様に促す。滅多に見ない珍品たちを前に、早苗と水蜜は目を光らせながら店内を練り歩く。対するシンも苦笑しつつ霖之助の言葉通りに品物を眺める。
自分達がここへ来たのは永琳の依頼でだ。早苗も水蜜もそれを忘れていないとは思うが、己だけでも真剣に探す必要がある。店の脇に並ぶ書物の背文字をじっくりと眺めながら店を歩き出す。
「うわっ」
「んっ?」
しかし、余所見をして眼前が見えていないのが仇となった。並ぶ本ばかりを見て上の空で歩いた結果、膝元が何かにぶつかって転倒する。薄暗い店内では少し遠ざかった人影を捉えるのも一苦労する。早苗達とも霖之助達とも離れているという事は、目の前にいるのはそれ以外の人物、つまり他の客という事になる。
「あら、“予定”通りね……咲夜、私の言ったとおりでしょ?」
「そのようですね」
薄闇の奥から声が聞こえる。よく目を凝らしてみると、片方は閉じた日傘を片手に持ったドレスを纏った小柄な少女。その横に立つのは、シンと同程度の背でありエプロンドレスを着た女性。
「気まぐれに外に出てみると面白いこともあるものね。ここで“何時か来るはずの人間”の姿を見ることになるなんて」
少女は不可思議なことを口走りながら、ゆっくりとシンのもとへ近づく。そこで初めて少女の背後にあるあり得ないものが見えた。彼女の背に広がるのは蝙蝠のように鋭く、細い翼だった。触れてしまうだけで怪我をしてしまいそうなその異形の翼に、シンの視線は釘付けになる。
けれども接触したことについては謝らなければならない。突然の状況に焦りつつもシンは立ち上がって服の埃を払い出す。そして目の前の二人に相対して口を開いた。
「ごめん、ぶつかって。怪我はない、君?」
「口を慎みなさい。このお嬢様をどなたと―――」
「いいわ咲夜。幾らなんでもこの子は知らないのよ。そこまで過敏にする必要はないわ。……私は大丈夫よ、そっちはどう?」
「俺は大丈夫だよ。よかった、怪我してなくて……」
少女に何も怪我を負わせていないことについてシンは安心する。
「探し物をしているのかしら、貴方?」
「えっ……うん、そうだよ。君は何を探してるの?」
「私は気に入りそうなティーカップを探している所よ。どんなに綺麗で見栄えがあるものでも、毎日見ていると飽きちゃうからね……パチェの分も含めて咲夜と一緒に探しているのよ」
咲夜と呼ばれた女性は小さく頭を下げて会釈をする。このドレスの少女の付き人なのだろうか。刃のように鋭く切れた目つきを絶やさない咲夜は、少女の横からシンを常に食い入るように見つめてくる。
「当たったことについては私からも謝るわ。とりあえず貴方、そこを通らせてくれない?」
目の前の二人組はシンの横を通りたいらしい。言われてやっとで、シンが道を譲ろうと縁に体を寄せると二人は静かに通ってゆく。
また、会える事を楽しみにしているわ―――
「えっ…!?」
通り過ぎる際に真横で少女にそう言われた気がして、シンは急いで振り向く。だが、そこにはもう誰の姿も無い。
「シン?さっき誰かと会話をしているような声が聞こえましたが……どうかしたのですか?」
狭い店だ。こちらの声は例え小さくしてもある程度隣には漏れる。棚越しにいた早苗にはこちらの会話が断片的にしか聞こえなかったらしく、きょとんとした視線でシンに問う。
「うっ…!な、なんでもない!」
今さっきまで見ていた二人組はもしかしたら幻なのだろうか。いらぬ不安を胸に抱きながらシンは早苗の問いを躱して、目的の医療書物を見つけ出そうと、再び棚を探る作業に戻った。


「お買い上げありがとう。今後ともご贔屓に」
「この腐葉土の塊、大切に使わせてもらうわ」
霖之助が香霖堂に立ち寄る人妖を相手にしている間、シンは手の空いた早苗と水蜜を呼び寄せて三人で目的の外界の書籍を探し続けていた。まだ日は沈みこそしていないものの、徐々に赤みを帯び始めている。この店に来てから結構な時間が経ってしまったらしい。
目的の書籍の題など誰も知るはずが無いので中身を走り読みしながら探す。だがここにある物は、医療関係に関連する単語など、どれにも載ってはいない。椛の閃きで自分たちは香霖堂へ来たが、ここまでやりつくしては外れなのではないかと誰もが考え始める。
「水蜜さん、そっちの本はどうです?」
「…ううん、全然それっぽい事が載ってない。アスカ君の見ている本の方は?」
「ダメだ、手がかりが無い。関係ない本は沢山あるのに…!」
黙読で見通した書籍を勢いよく閉じて、引き出した棚に戻す。水蜜は頭を傾げ、早苗は読み疲れたのか首がうつらうつらとふら付いている。積み重なる苛立ちの表れが其々の一挙一動に現れていた。
「どうも難航しているみたいだな、お前たち」
「霧雨さん…」
彼らが唸ったり手を休めている内に、店の居間から魔理沙が姿を現す。その手に持つのは四つの湯呑みが収まっている盆だ。
「焦っていると見える筈のものも見えてこないぜ。こいつは暇だから作ってみたがどうだ?」
「魔理沙さんが淹れたのですか、このお茶?」
早苗が懐疑的な面持ちで魔理沙に尋ねた。
「淹れた…と言っていい物なのかね、これは。香霖の私物が入っている棚から拝借したんだが、この茶葉の入った袋を使うとあっという間に緑茶が出来たんだ、不思議だろ?実験がてらにやってみたんだ」
魔理沙が懐から取り出したのは、残っている未使用のティーパックだった。この世界ではこんな些細な物でも珍しいのか、自慢げに魔理沙は語る。
「成程…それも外の世界の便利な道具なのですね。どうりで霧雨さんみたいな人がそういうのを作れると思っていました」
「おい村紗、そいつはどういう意味だ?返答次第では私でも怒るぞ?」
「ふふっ。冗談ですよ、冗談」
茶化す水蜜の物言いが心外だったのか、口を尖らせる魔理沙。シン達は行なっていた本探しをいったん中断し、居間の畳に上がって腰を下ろす。談笑する皆を眺めながらシンは静かに渡された茶をすする。すると次第に暖かい茶が喉から全体に澄み渡り、焦っていた心境は徐々に落ち着きを取り戻してゆく。丁度いい茶の熱がほんのりと身体を温め、緊張がほぐれていくのが明らかに感じ取れた。
だからと言って、すぐに探すのを再開したところで目的がすぐに達成できる訳でもない。シンは茶を全部飲み終わると、湯呑みを盆に返してゆっくりと腰を上げ始める。
「シン、一体どこへ?」
「ちょっと休憩。外で体でも伸ばしてくるよ」
早苗の返答も待たずに、シンは玄関から差し込む日光の方へ足を向ける。考えすぎて固くなった頭をほぐすには、一人になって綺麗さっぱり頭をリセットするのが一番だ。少なくとも今のシンはそう考えていた。


「ん…っはぁ……」
両手を組み、思いっきり天へ伸ばして体に残る窮屈を全て吹き飛ばす。同時に息を限界まで吸って、吐き尽くす。
顔を上げて日が射す青い空を目に据えて、シンは今ある状況の整理をし始めた。
「見つからないな……」
無論、目的の書物の事だ。これだけ探しても無いのだから恐らくここには無いと推測できる。ならば一体どこへあるのだろう。ただでさえ手がかりになる場所に当てがない異世界でこれ以上自力だけでの探索は不可能だ。ならば、様々な道具に関しての知識が深い霖之助に聞いてみるのが最善だろう。彼ならば外の世界に関する道具が行き着く先に心当たりがあるかもしれない。何もこの香霖堂と無縁塚に限られているとは耳にした覚えなどない。書物に関してなら、書物が集まる施設に進めば良いだけの話だ。問題はそれが実際に幻想郷に存在するか、なのだが。
「とりあえず、早苗と船長に本探しを切り上げさせるか」
心を苛立ちから平常に落ち着けた後で、上げていた顔を正面に戻し始める。
「うん……?」
その瞬間目の前に、奇妙な光が揺れる。
紫色の光を秘めた小さな何かが、シンの目の前を横切った。
二対の羽の様なが突き出るその光を、シンの知る限りで一番近い生物に挙げるとするならば揚羽蝶が適切だろうか。二対の翼からは鱗粉の様に細やかな光の粒子が零れ落ち、一切の空気の波を起こさずにこの大気の中を羽ばたかせている。不自然で固められたこの“光の蝶”の幽雅な様子はまず目にする機会が無い。これを目にした誰もが、その生物的な動きをする光に魅了され、心を奪われてしまうだろう。事実シンも、そのありえなくも優艶な光の蝶の動きを目で追っていた。
やがて蝶は辺りから一斉に湧き上がり、その行方は一つの影に凝集する。
「何だ……!?」
蝶の行く先に佇む、傘を差した人影。傘の幕下にあるその体には、特徴的な括【くび】れと胸元の膨らみが現れている。それはその存在の性別が女だと示す材料には十分すぎた。
シンとその存在との距離は別段遠いわけではなかった。その存在が近づいてきたのに気付いていなかったのではなく、ただ、いつの間にかそこにいたとしか形容のしようがない。どちらにしてもその女がシンの前にいるという事実に変わりはなかった。
傘の下には地面に着きそうなまでに伸ばされた金髪が揺れ動き、そのシルエットに広がりを加えている。その長髪の先には幾つもの真紅のリボンが添えられていて、傘の骨の先にも同じリボンが結ばれている。
その広がる姿に相反するかのように華奢な線が目立つ体の持ち主が身に着けているのは、薄いレースをあしらった紫色のドレスだ。同じ色のドレスに無数の蝶が集う様は、まるで蝶自体が人を象っているようにも見えた。
「誰だ……あんたは?」
そう声を振り絞るのがやっとだ。蝶を見かけてからという物の、周りの時間が止まってしまったかのように不変だった。外だというのに風は一切吹き込まず、辺りに見える草木は揺れもしない。ふと、その女に近づいてみようと足を動かそうと力を入れても、右も左の足も根を生やした植物のように動かない。今この状況で動けるのは自分だけだとでも言いたげに、女の髪は主の些細な動きでふわりと揺れていた。
「ただの通りすがりよ、ただの……ね」
耳触りの良い優しげな囁きが艶やかな唇から発せられて、シンの鼓膜をくすぐる。紫のドレスの女は彼の心を絶えず揺れ動かす笑みを向けて、静かにシンの方へと歩みを進め始めた。


PHASE- 36 希望の在処 後編


「通りすがり……」
唯一満足に動く口を動かして、シンは手前へ歩む女に問いかけた。
時が止まったかと錯覚するまでに張りつめた空気。それに圧されてしまい、初対面の相手に敬称を付けるのを忘れてしまうまでに刺々しい口調が無意識に出てしまう。
だが女は、それに不満を示す片鱗を一切見せなかった。
シンが睨む先にある彼女の顔は不変の笑みを崩さない。まるで最初からそう出来ていた人形の造形の様に、妖しく両端を曲げた口を平坦にしない。
―――何故、そうも笑っているのだろうか?
こちらに向けるその笑顔は、単純な優しさだけが秘められている物では無かった。注意深く観察している内に笑みに隠れた情が微かに伝わってくる。心配、同情、憐み。それらを一纏めに現したかのような、曇った笑み。彼女の真意は知りもしないが、あの顔は初の人間に出す代物ではない。
「貴方も、ここに何か用なのですか?」
息を整えて、穏やかかつ丁寧に彼女へ聞く。
「いや……ここへ足を運ぶ事になったのは偶然。私の望むものは、この店にはないわ」
「だったら、散歩でも?」
「それも違うわね……私は少し様子を見に来たの。境界を跨【また】いで、未だ根付きもしていない未熟な“種”の様子を」
彼女の言葉は何かの例えなのか?それとも只の妄言か?
捉え所の無いドレスの女の言葉を聞いて、シンは相手の理解に苦しむ。
「貴方は、この店で探し物をしているのね」
「な…何で…そんなこと……!?」
「ふふ……貴方の考えなど、態々【わざわざ】心に“境界”を引かなくたって手に取るように分かる。ここにはこの世界でもなかなか見ない珍しい物ばかりがある。里の人間の多くはこんな魔法の森近くの辺鄙な場所に訪れたりなどしないものね。それに、私はここに訪れることは初めてじゃないから大体の予想は出来た」
自らの考えを覗きこまれたような悪寒を感じて、動揺をさらしてしまう。女の長弁が耳に入り始めた内は古明地さとりと類似した能力を持っているのかと予想をしたが、そうではないらしかった。彼女は単純な推察でシンの行動を言い当てたのだ。
「確かに、俺は探し物をしていますが。それがどうか?」
「単刀直入に言うとしますか。貴方の探している物はここには無いわ」
「何!?」
「何故わかったという顔をあからさまにしているわね。それも言ってあげましょうか?貴方が暗い表情でこの店から出てきたところを私が見てたからよ。ここは小さいけれど、少なくとも物の数はかなりの物ですからね」
「なんで…そんなにこの店の事を知ったような事を?」
「そんなの単純な理由。私はこの店の掛取り人を担っているからよ。これでも、店の中にある品物は全て私の頭の中に納まっているわ。その中でも取り合わせの少ない物を貴方は探していたんじゃなくて?」
取り合わせの少ない物とは、書物の事を指しているのか。確かに、香霖堂は雑多なものばかりで溢れているが、書物の類はその中でも群を抜いて少なさを感じた。なにせ、薄暗い店内の一端に小さな棚が一つあるぐらいなのだ。シンはそこから全ての本をたった一人で抜き出して早苗達と探したが、殆どの本を斜め読みすることにさほど時間はかかっていない。言い換えれば、その程度の数しかこの店には無かったという事だ。この休憩の後に探しなおしてもさしたる成果が得られるとはシンも半ば思ってもいなかった。
そこから先は霖之助に聞くという選択肢しか頭にない。だが―――
「気紛れに、助言をしてあげましょう。貴方の背中を押すのも、また一興」
「なっ………?」
気付かぬ間に、歩みを止めない彼女の体はシンの目の前にまで接近を許していた。認識が遅れたことにシンは不安にも似た焦りを覚えるが、その囁きは次第に正面から右にずれ始める。すれ違う様にシンの体を躱す女からは、鼓膜を優しく叩く囁きがシンの意識を刺激した。
「紅い館。それをここの店主に聞いて御覧なさい。そうすれば、貴方の望むものだって見つかる筈」
「え―――」
「貴方の“紅い種”が、どのように咲いていくのか見ものね。シン・アスカ」
最後の言葉が耳に入ったと同時に、シンは根付いた様に動かない体を、すれ違う彼女の方へと無理やり振り向かせた。けれども、そこには誰の姿も無かった。それと同時に気づいたこともある。あれ程の圧迫感があった空気と、生物の音すらも響かなかった空間が元ののどかなものに戻っていた。鳥のさえずりが聞こえ、風の流れが体の脇から通り抜けていく。さっきは、それさえも無かったほどの別物だったというのに。
―――俺、名乗ったか……?
そして気付いたことがもう一つあった。最後に女が発した自らの名。自分は、彼女に一言でも名乗った覚えがあっただろうか。どうして彼女が知り得ていたのか。
底の知りえない―――胡散臭いともいえる彼女との不可解な会話の後で数々の疑問が湧き上がる。その中でも、今確かに自分のやるべきことの一つに先程の女の言葉が反響する。
紅い館。それは建物の外観を差しているのだろう。そして彼女の言葉を信じるのならば、その場所を霖之助は知っていることになる。
―――俯いてばかりじゃ、始まらない!
口にせず奮起して、香霖堂の方へ戻る。そして、店外で顧客とのやり取りを終えた霖之助に向かって胸中にある質問をシンは投げかけた。


「ホントですか!?」
内心に漂っていた不安が晴れ、芽生えた希望からシンは大声で霖之助に問い直す。
「嘘をつく訳がないさ。シンが言う館っていうのはここの事だと思うよ」
言いながら取り出した地図を指しているのは、ここからそう遠くない湖の向こうにある建物だった。“霧の湖”と呼ばれる湖の向こうにある館。名を“紅魔館”と呼ばれ、そこには香霖堂とは到底比べ物にならない書物の数が収まっている図書館があるという。
「そこなら、私行ったことあるぜ。ちょいちょい訪れていくつか魔道書を借りているんだ。生憎、借り出し期間は誰も設けていないから無期限で借りっぱなしだけどな」
「まだその泥棒紛いの悪い癖を止めていないのかい、魔理沙……だから魔法の森からこっち来るときにやたら本を持ってくるんだと思ってたよ。あれ全部盗品かい?」
「ただでさえ研究している魔法があるんだから仕方ないだろ、香霖。より良い火力、より派手な魔法を使おうとしたら魔法に関する資料の本は必要なんだって。私も“八卦路”が壊れてなけりゃ、こんなせまっ苦しい店に厄介になったりしない」
「言ってくれるね。てっきり僕は魔理沙が独り暮らしで心がすり減って寂しがり屋になったんじゃないかと心配で受け入れてみたんだけど……その強がりは一生治りそうにないね」
「言ってろ、香霖。私ももう十八だぜ?そんな理由で知り合いの家を訪れるなんて絶対にない。絶対だ」
霖之助の焦慮をツンとした鋭い態度で魔理沙は突き放す。ふわりとした長い金髪を揺らしながら心外そうな表情を浮かべる彼女に、霖之助は呆れながら頭を掻いた。
「にしても、そこにお前たちは用があるんだろ?」
「ええ、魔理沙さん。香霖堂で目的のものが見つからなかった以上、残る可能性はシンの示す紅魔館の図書館にあると思われます。生憎私の方は紅魔館に私用で向かったことが無い為、大した案内は出来そうにないかもしれませんが……」
早苗が眉をひそめ、未踏の地に関しての無知を皆に示す。
「私の方も詳しくは知りませんね…ここにきて初めに私が言った様に、私達命蓮寺は聖の救出に夢中だったからあまり幻想郷の事情を知れなかったのです……」
「それは仕方がないですよ、船長。貴方達は貴方達で、大変だったんですから気に病むことはありませんよ……」
「…うん、ありがと。アスカ君」
やはり水蜜も紅魔館の情報には疎かった。己の無力を悔やむように暗い表情を零してしまうが、事情を知るシンが口を添える。そのシンの必死な弁明を聞いて、水蜜は小さく感謝を告げた。
「仕方ないな……だったら、この霧雨魔理沙がお前達の本探しに付き合ってやろうじゃないか!」
「えっ、ええ!?どうしたんだよ、いきなり!?」
意外な進言にシンは驚きを隠せない。
「なんだ~?私がお前たちと同行してやるというのがそんなに気に入らないのか、シン?」
「そうじゃないです。でも、魔理沙さんは以前言ってませんでしたか?持ち前の武器が無いから香霖堂に居候してるって…」
早苗の言う武器とは魔理沙の持つミニ八卦炉の事を差す。作業場での霖之助の言葉を借りるならば、魔理沙は払える代金が無いからその代わりに香霖堂の元で霖之助の手助けをしていると聞いた。
「そうだね…魔理沙が君たちに付いて行くって言うなら、勿体ぶる必要も無くなったかな?」
霖之助の懐から、八角形が目立つ小物が取り出される。中心には陰陽を表す白と黒の太極図が記されてあり、そこから八方向へ黒い線で描かれた模様が並んでいる。初めて見るそのオリエンタルな外観に、シンの興味はひきつけられる。
「お、おい香霖!それ、いつの間に直してたんだ!?私の八卦炉!」
「…ちょうど実用レベルまで修理できたのが二日前。けど、渡してしまうと折角退屈しなくなった店が静かになりそうだったからね……それに折角僕を慕ってきた女の子を手放すのは惜しいと思ってたから、中々話を切り出せなかったんだよ」
魔理沙の驚きにやや困惑しながら、香霖が八卦炉を魔理沙の小さく細い手にしっかりと握らせる。
「良かったですね!霧雨さん!」
「霖之助さんったら、隅におけないですね!」
「香霖……」
水蜜と早苗が霖之助の功労を褒め称える中、魔理沙は両目を防止の鍔に隠すように俯く。静かに青年の名を呟きながら魔理沙は詰め寄った。


「へへっ、ありがとな。お前は八卦炉の次に愛してるぜ!」
香霖の背後に回り込んで、その小さな体躯を預けながら彼の首に両腕を軽く回す。魔理沙は満面の笑みを浮かべながらシン達の前で香霖に感謝を表した。
「…それは喜んでいいものなのかな?」
「あ、ちなみに私が一番に愛しているのは魔法な。それに比べたら香霖なんか何でもないからな」
「そうかい。ならば、そういうことにしておくよ」
「仲の良いお二人ですね……」
―――私もシンとあんな風に出来る仲になれたらいいのに。
早苗は魔理沙と霖之助のスキンシップの様子を見て、羨望の眼差しを浮かべてしまう。
口ではあんなことを発しておきながら、魔理沙も霖之助も仲睦ましく笑い合っている。その恋愛とは違った親密な関係が、早苗の眼にはうらやましく映ったのだ。
無論、早苗が求めているのは彼ら以上の関係。だがシンとは異世界の人間同士であり、近いようで遠い存在。互いの間に見えなくて越えられない壁が建っているみたいで、早苗はそれを歯がゆく感じた。
「そういえば、船長も紅魔館まで来てくれるのですか?」
「その事なのですが……」
早苗が内心で迷っている間に、シンの問いに水蜜が声のトーンを落とす。何かあるのだろうか?と、早苗は迷いを棚に上げて顔を水蜜の方へ向ける。
「アスカ君の手助けをしたいのは山々なのですが…私、そろそろ命蓮寺の方へ戻らせて頂きたいと思っています」
申し訳なさそうに、水蜜は静かに彼らの前で表情を曇らせて頭を下げる。
「どうしてですか、船長?貴方がいれば俺としても心強いのですが…」
「ゴメンね……ホントはアスカ君のそばに居たかったけれど、寺が建ったばかりで本調子じゃない以上、私は聖達を助けなきゃいけないから。あんまり寺から離れたらみんなに迷惑かけちゃうもの。私だけこんなんじゃいけないよね」
「水蜜さん…」
「その代わり次にアスカ君達が来たときにはうーんとお持て成しを致しますから!聖もぬえも他の皆も、寺の事さえなければ本当はこちらに同行していたと思いますよ?恥ずかしがってなかなか言えないだけで……」
ちょっぴり頬を赤らめながら、水蜜はシンに告げる。
「私達は皆、アスカ君の事を大事にしたいと想ってますから」
「ありがとう、船長…!」
「それに、東風谷さん?」
急に早苗の前にまで寄って、早苗の耳元まで唇を近づける水蜜。触れるか触れないかの手前で静かに囁いて、水面の様に済んだ声が早苗の鼓膜を揺さぶらせた。
「これはハンデですよ?私がいない間に、アスカ君とどこまでお近づきになれるか楽しみです」
「えっ!?ええっ!」
反射的にのけ反る間もなく、囁かれた言葉に早苗の思考は混乱し、正常な判断が出来なくなる。水蜜はそんな早苗を見て楽しむかのように笑いながら言葉を続けた。
「じゃなきゃ、あの子は私が頂きますからね!せめて口に出して好きと言える所にまで進んで下さい!」
囁きなのに、叫ぶかの如く強い語彙を発した後に、水蜜の唇は早苗から離れる。先程の会話は当のシン本人には聞こえていないらしく、こちらに向けて疑わしげな視線を送るばかりだ。
「どうしたんだよ、早苗も船長も……」
「いいえ、乙女同士のちょっとしたお話ですよ」
水蜜はそうあっけらかんと言い放ってシンに向かって笑い誤魔化す。逆に早苗は何も答える事の出来ぬまま、これ以上ないくらいに顔を真っ赤に染めて言葉を詰まらせていた。
「はいはい、お別れは済んだか?三人共。私の方はいつでも出れるぜ?」
早苗らが内輪で話している傍らで、魔理沙はいつか見せたあの箒を自らの横に立てている。恐らく自分達が注意を向けていない間に店の奥から取り出してきたのだろう。
「じゃあ、俺達は行くよ。船長、霖之助さん」
「ああ。魔理沙も気をつけて行ってきなさい」
「残念だが、私は用事がすんだらそのまま自宅へ戻るつもりだぜ香霖。パチュリーの図書館からまたいくつか借りるつもりなんでな。お前の店にはしばらく私の荷物を預けとくぜ」
「ちゃんと取りに来なよ。僕の家は倉庫でも何でもないんだから」
「アスカ君、怪我はしないで。何時でも私達の寺へ来てもいいからね!」
「ありがとうございます、船長!」
「それじゃあ行きましょうか!シン、魔理沙さん!」
香霖堂から三人と一人が道を分けて進み始める。彼らが目指す先は湖を超えた先にあるという紅の館、“紅魔館”。永琳から受けた頼みを成し遂げるためにも、湖へ向かう道の土を三人は踏み始めた。


「あった……!」
ラウが墜落した妖怪の山付近を飛び回って数刻。森の木々に紛れながら衣玖はようやくして目的の場所を発見する。
その眼の先にあるのは、川を挟んで対岸にある施設。この世界で大規模な機械を扱うのは数える程しかない。その中でも、もっとも出入りが簡便でポピュラーなのが河童が使う河原の作業場だ。
勿論、一言で河童の作業場と言っても一つしか存在しないというわけではない。規模の大きい場所もあれば小さい場所もあり、多種多様だ。しかしその中でもモビルスーツを格納できる場所はと言えば限定される。目の前にある作業場は河童の中でもかなりの腕を有する河城にとりの作業場だ。
―――やはり、彼女の作業場にありましたか。
衣玖はよく目を凝らして、作業場の薄闇にある損傷した蒼き翼の機体を発見する。ラウが撃墜寸前まで追いつめ、ラウとは別方向へ墜落した“フリーダム”だ。
「……あれは?」
その横には“フリーダム”と遂になるように、鋭敏な翼を有したモビルスーツが安置されている。初めて目にするその巨体の存在にしばし衣玖は圧倒されながらも、ラウから渡された紙片を懐から静かに取り出した。
『衣玖。お前には単独で“フリーダム”が格納されている場所を突き止めて欲しい』
永遠亭を出る前、衣玖はラウが考案した作戦の一連の流れを耳にしていた。作業場を目にして、再び彼の言葉が頭の中で再生される。
『はて、私一人でですか?しかしその場所に私は見当も―――いや、河童の技術力が活かせるならば……』
『そうだ。何の施設もなしに天子に傷つけられた機体が直る筈もない。お前達の話では河童という種族は“妖怪の山”の麓を住処にしているんだろう?恐らくそこに“フリーダム”はある』
『ラウさん…しかし見つけたとして、どうされるおつもりなのです?』
衣玖がそう問うと、ラウは机に置いてあった紙片と鉛筆を衣玖に差し出してきた。
『これはこの部屋にあったものを拝借した物だ。衣玖は目的地を見つけ次第、その内装を出来る限り正確にこの紙に記してきて欲しい。そこにいる人員もだ』
ラウは淡々と衣玖に目的を伝えていく。
『必要な情報が採れ次第、速やかにそこから離脱しろ。この退路は“飛翔”出来る者が最適だ。俺が例え全快の状態でも、飛べる奴よりかは明らかに時間がかかりすぎる。それがお前に頼む理由だ』
『素早く行なう事が、作戦の要だとでも?』
『そうだ。衣玖は戻ったら、皆がいない時にすぐ俺へ伝えて来て欲しい。それで作戦の一つの段階が終了する』
『残り二つの段階は?』
『……この作戦の内一つは、その作業場に乗り込む必要がある。だが、それにはもう一人協力者が必要になると考えている。制圧用の装備が全くない以上、この永遠亭の者を当てにする必要があるだろう』
『最後のは……私に教えてくださらないのですか?』
『……どの道、全てが上手くいかないと作戦など意味が無い。それについては別に知らなくてもお前の行動には問題ない……以上が、俺の考えだ』
帽子を外して、前髪の奥にある瞳を凝らす。
一見して、作業場にいるのは三人だった。いつか里の上空にいた傘の少女の姿もある。“フリーダム”のパイロットの仲間であるならば、ここにいるのは当然ともいえるだろう。今は仲間の河童らも呼び寄せていないのか、作業場の警備は甘い。元々作業場を狙う存在などこの幻想郷には酔狂なものでない限りはいないも同然だったので、警備なんか必要ですらないのだろう。
しかし、内一人は自分たち妖怪にとって、ある種天敵とも呼べる存在だった。
―――博麗霊夢…!?
人間とは思えない身体能力を有した博麗の巫女が、作業場で過ごしているのが見えた。彼女は“神降ろし”を行なっているのか、作業場の機体の横に座り込んで瞑想を行なっている。衣玖の有する知識から察するに、恐らくは神の力に頼らなければならない程、機体の修理は難航しているのだろうと判断する。
観察を続けて鉛筆に細やかな字で記録している内に、河童が修理している機体は両方の機体だという事に衣玖は気づいた。もう一つの機体はスペアかと思っていたが、そうではない。まだ未修理のパーツが見受けられることから推測して、あのもう一つの機体こそが、“フリーダム”のパイロットの本来の機体なのだろうか。そう考えられる材料はあった。霊夢が向かっているのは“フリーダム”ではない。あれ程傷ついていた“フリーダム”の大部分が復旧済みなことから、河童の技術力だけで直せるのは“フリーダム”で、もう片方は任せっきり。
異例の事態に戸惑いつつも、内装の大体の位置情報を図で。分かる限りの必要な情報を出来るだけ丁寧に記す。
気付けば鉛筆のとがっていた先端は丸くなるほど使い込まれ、力を加えなくとも接地面の形から太くなるほどになっていた。
―――これで良いのですね……ラウさん。
衣玖は内心で彼に問いながら、静かに森の奥へと身体を移す。作業場から十分に離れた後に飛翔して情報を持ち帰る為だ。彼の為だ、この行動は。自らが好意を抱く彼を想っての行動だと自らに言い聞かせる。間違っていない事だと。
滞りなく目的を達する事が出来たというのに、靄がかかった気持ちは晴れることは無い。短命の彼を手助けするには、もっと別の事を行なうべきなのではないのか。衣玖は言い出すことのできない言葉を堪えながら、永遠亭の帰路に就こうと静かに地を蹴って身体を浮かせた。


「狙い撃つ!」
一喝と共に鈴仙の銃を模した指先から光条が放たれる。
俺と天子はこの竹林で鈴仙と共に、因幡てゐを追いかけている。
原因は因幡てゐが盗んだと聞く薬だ。鈴仙曰く八意永琳の所持していたものらしいが、その用途までは俺達にも知る術はない。本来ならば俺と天子には一切関係無い他人事なのだが、丁度今の俺には鈴仙の持つ能力が気になっていた所だった。
「逃げたって無駄よ、てゐ!」
鈴仙の後ろに着く俺と天子には竹ばかりしか見えてこないが、当の鈴仙には何らかの方法でてゐの姿が見えているらしく、先程から迷う事無く真っ直ぐに、時には走る方向を曲げてひたすら走り続けている。彼女の言葉を信じるならば、鈴仙の両目はてゐの体から発せられる“波長”なるものを掴んでいるらしい。言うなれば一種の索敵器、レーダーの機能だ。鈴仙の視力そのものは普通の人間程度と変わらないらしいが、俺達には得る事の出来ない情報であの小兎の後を追えている。
「えへへっ、撃ったってあたりませんよ~だ。この竹林の中じゃ、例え弾幕を乱れ撃ったってそうそう当たるものじゃないもの。どうってことないね!」
鈴仙は走りながらてゐが逃げたと思わしき方向に弾を放ってはいるが、相手に当たっている様子には見えない。こいつらの放てる“弾幕”とやらがどれ程の射程距離を有しているかは未だ分からないが、そうでなくてもこの障害物が非常に多い中、むやみに撃っても竹に阻まれて弾道は止まる。少し考えてみればすぐ理解できる事なのだが、鈴仙も必死になっているのか落ち着いた様子ではなかった。よっぽど盗まれた物が彼女を動揺に追い込んでいるのか、それとも単にてゐの口車に乗せられているのか。
「なによ、ちっとも当たっていないじゃない!」
この鈴仙の姿に見かねたのか、天子も悪態をつき始める。
「ちまちまと撃ってないで、一気に吹き飛ばしちゃえばいいのよこんなもの!!」
鈴仙の前に出て、緋想の剣を前方に向ける。それと同時に天子の横からいつか“フリーダム”とまみえた際に目にした要石が現れて、前方の竹々に打ち出される。
少なくとも、鈴仙の小さい銃弾を模した光よりかは効果はあった。天子の肩幅より少々小さめの大きさの要石だが、勢いを帯びれば相当な威力の衝撃を持つ。竹林をなぎ倒し、薄暗い林に差す太陽の光が直線状に増す。これに巻き込まれたら例え直撃を避けたとしても、倒れる竹に巻き込まれて怪我を負う事は免れないだろう。たかだか人物一人を捉えるための処置としては大仰すぎるかもしれないが。
だが、天子の放った要石をてゐは被害を被ってないらしかった。理由は簡単だ。直後に石の道筋とは全く別の方向―――俺達三人の真横からてゐの声が聞こえてきたからだ。
「あははっ、どこみてんの!」
天子は憤慨し、鈴仙からは小さい歯軋りの音が聞こえる。単純なすばしっこさであの天子の攻撃を躱したという事だろうか。この自由に身動きが取れそうにない竹林の中で良くやる。俺と天子はこの辺りの勝手を知らないからどういう風に動けばいいのか分からないが、てゐと鈴仙は当然別だ。俺達が鈴仙の後を付いて行くだけでも竹藪に阻まれて四苦八苦するというのに、兎の二人は竹などまるで最初からなかったの如く速度を殆ど落とさずに竹林を駆け抜けているのだ。
「でも…やられっぱなしじゃつまんないのよね!」
てゐの嘲笑染みた声と共に、竹林の奥から赤い光弾が俺達に向かって放たれる。やはり、鈴仙と同じように飛び道具による攻撃手段を持っていたか。半ば予想は出来ていたことだが、障害物に当てずに俺達だけを正確に狙ってくるとは。
鈴仙は当然の様に躱すが、俺と天子は反応が一歩出遅れた。天子は剣で光弾を弾く事が出来たが、俺は防ぐ得物を持っていなかった。足元に光弾が当たり鋭い痛みが身体を襲うが、別段骨が折れるなどの障害は起こらない。どうやら彼女達の“弾幕”は痛みこそあれど、受けた者の身体に外傷を引き起こす代物ではないらしかった。それは俺達の世界の銃弾に比べたらはるかに安全だろう。
だが、痛みによって行動を封じられたのは大きすぎる問題だ。俺は撃たれた際に転倒し、草木の繁る土に這いつくばってしまう。直後に稲妻が脳内を奔る。
背後から悪寒を感じ、顔を傾けて視線だけ振り向かせる。すると、竹の奥にてゐの姿が見えた。薄ら笑いを浮かべながら、てゐは今まさに光弾を手の平から打ち出そうとしているのが分かった。このままでは俺は直撃を免れない。どうすればいい?どうすればこの場を切り抜けられる―――?
「ラウっ!」
赤の光が俺に打ち出されたと同時に、天子が動いた。その手にある“緋想の剣”を光弾に投げ放って弾を打ち消したのだ。以前天子から聞いた剣の特性、それは“緋想の剣”が常に対象の弱点を突ける事だ。回転しながら俺の頭上を飛ぶ剣は、そのままてゐの方へと向かっていく。一直線上にある竹という名の妨げも無意味だ。鋭い切れ味でなぎ倒していく中、勢いを失わずにてゐの小柄な体躯を目指す。
「馬鹿正直に、見え見えなのよ!」
それでもてゐには当たらなかった。それまで直接彼女の姿を目にしていなかったからこそ予想できない動き。一瞬姿を消したかと錯覚するぐらいまでの俊敏さでてゐは横へ身体を飛ばした。極低空での跳躍だ。
「私の“因果の剣”を躱した…!?」
虚空を切り裂く“緋想の剣”は空へ伸ばした天子の右手に再び収まる。恐らくは天子の意思で剣をある程度までコントロールできるようだが、相手に対する誘導性は皆無なのだろう。一番手っ取り早い例えがブーメランだ。必ず天子の元まで戻るという点は明らかに異なるが、傍から見ればそれと原理はほぼ同じだ。
「まだまだお楽しみはこれからよー!」
俺達に聞こえる様にあざ笑うかの如く、大声をまき散らしながらてゐは竹藪の奥へと消えていく。鈴仙が声の方に指を構えるが、射程距離外だったのか撃とうとしなかった。撃っても無駄だと直感から判断したのだろう。
「逃がした…!まちなさい、てゐ!」
「待つのはあんたよ!」
鈴仙が駆けようとする直前に、天子の怒号で引き止める。
「ラウは怪我してるのよ!あんたがいなきゃ永遠亭まで戻れないわ!」
言葉通りだ。単に竹林からの離脱だけならば天子と共に空に飛翔すればいい。だが、今の俺達の詳しい位置情報までは知る術はない。鈴仙がいなければ永遠亭に戻るまでにかなりの遠回りを食わされることになるだろう。
「…大丈夫だ、天子。血は出ていないし痛みだけだ、たいした問題じゃない。それよりもあの兎だ」
半ば痩せ我慢をしながら、気力で立ち上がる。病衣で動き回るというのは不便極まりないが、動き回れる程度には健康だ。この程度の痛みに負ける程俺は軟【やわ】じゃない。
しかしこれで分かった。無策で奴を追っても軽くいなされるだけだ。俺達は何か工夫して追い込む必要がある。それには奴の隙に付け入るほかにない。ならばどの部分を突くのか。奴の性格、行動、身体能力、思考……あらゆる面で裏を突いて、一歩先にまで回り込まなければ勝機はない。
てゐの性格ならば、今までにも似たようなことが起きていない訳が無い。その場合鈴仙はどうやって奴を捉えたのだろう?今回の様に一人で追ったのか、それとも永琳と行動を共にしたのか―――恐らくは後者だ。あの翻弄具合からして、鈴仙一人でてゐを捉える確率は低い。ならば俺達が鈴仙と協力しててゐを捕まえる必要がある。
今の段階では俺と天子がかえって足手まといな事は否めない。鈴仙から離れすぎれば帰路に困り、密集すれば実質鈴仙一人で追う事に大差ない。これではチームワークも組めはしない。さて、ここからどうすればいいのか。
「鈴仙、天子」
俺は二人の名を呼んで注意をこちらに向ける。間もなくして天子は不機嫌そうな膨れ顔を、鈴仙は焦りを秘めた不安顔でこちらを覗く。
無策でダメならば、作戦を思いつけばいい。それももっとも予想外な形を相手にぶつけれる物を。俺は一回深呼吸して、精神を平静に保つ。そして、俺は用意していた言葉を二人に言い聞かせた。
「俺に考えがある」


「よし、始めるぞ」
「ええ!」
「はい!」
俺は二人に考えを告げた後で、てゐの後を追っていた。時刻は既に夕暮れ時。より視界が利かない今、俺達は薮越しにてゐの背後に着いていた。俺が告げたのは、鈴仙の持つ波長を操る力―――通称“狂気を操る程度の能力”を前面に押し出した作戦だ。俺達の持つ波長を操作して、てゐ側から視認できなくさせる。これが作戦の最初の段階だ。
だがこれには限りがある。幾ら波長を歪めて見えなくした所で、俺達の姿が消えるわけじゃない。てゐに近づきすぎれば看破され、追い、追われのいたちごっこを繰り返すことになるだろう。それに鈴仙の能力には鈴仙自身の精神状態も大きく関わる。彼女が落ち着いた状態を保たなければ、完璧に隠れることは出来ない。小兎と言えど彼女も妖怪だ。人間以上に他者の存在には敏感で、鈴仙抜きには目に届く範囲にまで近づくことすらもできないのだ。
「俺が追い込む。前へ回り込め」
鈴仙はそのままに、天子にそう告げて俺はある物を渡されててゐの背後へ走る。当然足音までは鈴仙の能力でも消し様がないので、慎重に草木を分けながら進んでいく。その間に天子はてゐの前へ姿を現して、注意をひきつける役割を行なう。
「あれれ、ついに鈴仙とあの人間も諦めちゃったのかな?たった一人で私を追うなんて、大した度胸じゃない」
「あんたなんか天人である私だけで十分よ、わざわざ無能な奴らに頼らなくても十分だわ!」
……随分な言い様だ。鈴仙が真に受けて精神を乱してなければいいのだが。
「驕【おご】りね驕り。もう逃げる事にも飽きちゃったわ。あんたを潰してさっさと休ませてもらうわね!」
しめた。てゐが逃げる事より天子との戦闘を選んだ。わざわざ時が経つのを待って、暮時にしたことが功を奏した。だが、天子にとって不利な場所に変わりはない。重ねてこの視界の狭さだ。天子にとっては劣悪の戦闘に違いない。だがそれも、てゐの油断を誘う材料の一つだ。
俺がゆっくりとてゐの意識が向かない後ろへと回っている内に、天子とてゐが火花を散らす。てゐはこれまで後退しながら俺達を攻撃していたがさすがに相手が一人だと強気に出たのか、天子へ積極的に近づいて撃つ。対する天子も要石を召喚して、盾代わりにてゐの攻撃を凌ぐ。これも俺の出した指示だ。天子の性格上反撃したいのは山々だと思うが、役割はあくまで時間稼ぎだ。その為にも今は耐えてもらう。
…よし、所定の位置に着いた。俺は薮から少しだけ顔を出して、組み合う天子に合図を送る。合図を受け取った証明に、天子はさりげなく片目を瞑った。これは薮の鈴仙にも見えている筈だ。準備は整った。
俺は事前に渡された“それ”を、思いっきり力を込めててゐの背中に投げ放つ。それは鈴仙の力によっててゐには全く気付かれていない。だが、ここで敢えて鈴仙の能力を指定したタイミングで解かせる。
「えっ―――」
てゐは両手で組み合う天子から離れて、俺が投げた得物を背中に当たる直前で回避する。この瞬間、てゐの全神経は得物に向いた。この瞬間が決め手だ。
「今だ!」
天子が投げられた得物―――緋想の剣を受け取ったと同時に、俺は声を出して鈴仙に合図を送る。鈴仙は薮から現れて無防備なてゐの足元を威嚇射撃しながら動きを止める。俺もてゐの方へ走り、その身体を押し倒して頭を地面へ押さえつける。
てゐの顔に、天子の剣が向けられる。これで完璧に動きを封じた。ここから万一抜け出したとしても、鈴仙の射撃が慌てふためいたてゐを捉える。作戦は成功だ。これでもう、てゐが逃げる事はかなわない。
「大人しくなさい、てゐ!」
鈴仙が指をてゐに向けて宣言する。動けば撃つと、最後の警告だ。俺も受けたあの痛みを、こんな近くで食らえば相当の物だろう。
「……はあ、参った参った。降参ですよっと」
これにはもう、てゐも降参する他に無かった様だった。


満月が闇夜に浮かぶ頃。俺達は鈴仙の案内で竹林を出て永遠亭の庭へと戻ってきていた。
勿論、再び逃げないようにと天子が持ち前の力でてゐを捉えている。奴も諦めたのか、逃げ出すそぶりもしないで大人しくしていた。それが一番望ましい事なのだが、こちらが油断してまた追いかけまわすようになるのは御免だ。俺も病み上がりで動いた分、かなり体力を消耗している。口からは荒い息しか出てこなかった。
「さあ、着いたわよ。盗んだ薬を返しなさい」
「はぁ~い…」
てゐはしぶしぶ懐から二つの薄手の包みを取り出して、鈴仙の手の平に落とす。中には白と薄桃色の粉末が入っており、それを見て天子が疑問をあらわにした。
「ねえラウ、これなによ?」
「俺に聞かれても困る。……だが、少なくともただの粉とは判断できないな。因幡てゐ、これは何だ?」
「片方の白いのは永琳の机から拝借した物。もう一つのこれは寝ているあんたに飲ませた奴ね。あんたがここに初めて来たとき、たまたま部屋の隣を通りがかった時にちょっと……ね。寝ているときのあんたの顔は見ていていい気分だったわ~」
「え、何があったの、ラウ?」
満面の笑みでてゐは忌々しい笑顔を俺に向ける。まさか、あの時の天子との妙な夢はコイツの怪しげな薬が原因だったのか?だとしたら、俺は一度この小兎を叱りつけたい。直後に天子が俺に質問してきてやむを得ず対応することになったが。
「いや、なんでもない……」
とてもではないが夢の内容など言えない。知られた日にはきっと、俺は気が滅入って口も利けなくなっている事だろう。
「あら、漸く捕まえて来てくれたのかしら?」
亭の廊下から、聞き覚えのある女性の声が聞こえた。振り向くと、そこには永琳の姿があった。
「あっ、師匠!やっと取り返す事が出来ましたよ!」
鈴仙が嬉々として手に収まる粉末を零さないように永琳に見せる。
「そう。確かにどっちも私が作った薬ね。しかし、数日前から薄桃色の薬が無くなっていたことはすっかり忘れてしまっていたけど……」
「永琳、その色がついた薬は何だ。麻薬か何かか?」
苛立ちを抑えながら、俺は飲まされた方の薬について問う。
「ああ、これは私が趣味で片手間に作った奴よ。もともと夢が見れる薬としてお遊び半分で作ったのだけれど…失敗作だから机に置いて忘れてしまってたのね。別に依存性も禁断症状もないから安心しなさい」
その言葉を真に受けていいのだろうか。再びあのような夢を見せられたら堪らない。
「それよりも、本題はこっち」
永琳の鋭い視線は、もう片方の無色の薬に注がれる。そういえばあの薬の用途を聞かされていない。あれはいったい何なのだろうか?
「これはラウ、貴方の治療の為に作っていた秘薬よ」
「なんだと?」
「本来の薬が出来上がらなかった時の為に、もう一つの薬を作っておいたの。この薬には前身があって、あくまで治療用だから本来の薬に比べればかなり効力は弱まっているはずなんだけど……それでもこれを飲めば少なくとも貴方の課題は解決するわ。ただ一つの問題を除いて」
ただ一つの問題だと?
「なんなのよ、それって」
俺の横から天子が永琳に問う。物事をハッキリさせなければ気が済まないのだろう、この女は。
「それについては、私の口から言わせて頂くわ」
永琳とは別の、女の声がこの場に加えられた。永琳が歩いてきた廊下の奥から、もう一人が姿を出す。床に着くほどの艶やかな黒髪。相反するように露出の少ない桃色の服から覗く白い肌。不遜な表情は高貴さを帯び、その名状しがたい雰囲気にこの人物が普通の存在ではないことに俺は気づかされる。
「私は蓬莱山輝夜。そしてその薬の大元を服用した月の人間」
「大元?月の、人間?」
発せられる、理解しがたい発言。それに俺の思考は翻弄され、言葉の認識が遅れてしまう。
「その薬の本来の名前は、“蓬莱の薬”。限りある人の命を永遠へと変える、禁忌の薬よ」
「えっ……!」
天子が愕然とし、俺は女の言葉に打ちのめされる。目の前に見えている薬が、急に触れる事もはばかられる程の威圧感を出した様に錯覚してしまう。直後、俺の心境を見透かしたように、蓬莱山輝夜と名乗る女は静かに笑みを向けてきた。彼女が何を想って笑っているのか、何を考えているのか。俺は想像する事が出来なかった。


湖を超えた先には、森に囲まれた洋館が聳えている。
大きな時計台を中心とし、その横に伸びる屋根。しかし、屋根から下の館の大きさとは不釣り合いに、窓の数が異様に少ないゴシック調の建築物。
緑が生い茂る木々と空の色を反映する湖の傍で、その館は自らの存在を誇示するかのような赤い色に染められていた。
赤土よりも紅い、深い色。血の様に紅い、くすんだ紅。夕暮れ時になるにつれ、館の紅は一層鮮やかさを増し、空も館も湖も、全てが一色へと変貌する。
館の名は紅魔館。いつ、誰がこの館に名前を付けたのかを知る者はいない。その“紅魔館”という名が見た目からの渾名なのか、建築者が自ら付けた名前なのかも分からない。里からかなりの距離を隔てているこの館の詳細を知る者は、幻想郷を探し回っても数える程しかいないと言う。
「ま、私はあそこの図書館ぐらいにしか用はないけどな。それ以外は別にどうでもいいし、人間様に特別住みやすい環境でもない」
魔理沙が箒を肩に担ぎながら、ヘラヘラと語る。シンも早苗もこれから向かう場所の事に関する知識など殆ど持っていない。魔理沙に聞けば少しは情報が得られると思って聞いてみてはいたが、どうやら図書館の事しか魔理沙の頭には無いようだった。
しかし、自分達の目的からすればそれだけでも十分ともいえる。
「どの道、さっさと目的のブツを見つけておいとますればいいんだ。お前達だって別に長居する気はないだろ?見つけるのに時間をかけすぎたら別だがな」
「図書館というからには、かなりの本が収められているのですよね、魔理沙さん。この世界に便利な検索方法があるとは思えませんし、時間をかける以外に本を見つける事は無理なのでは……?」
「別にその本が一冊だけとは限らないだろ。医療に関する本を片っ端から引き出して、適当に幾つか持って帰れば最悪満足するだろ。お前達に依頼した八意永琳もな」
湖の畔に沿って洋館を目指す途中で、シンの耳に二人の会話が差し込んでくる。そうは言うものの、絞り込む範囲が広すぎてしまったら持ち帰る書物の量も多くなる。それもかえって面倒だ。空を妖精達が飛び回っている今、徒歩でしか安全な移動手段が無い。モビルスーツも使えない今、大量の運搬はなるべく避けたい。
少女二人が会話している内に、湖から離れて館の正面へと続く道に差し掛かる。両側には規則正しく植え込まれた針葉樹が生えており、その中心には道全てを覆う金属製の門が設けられている。
門の上部には矢じりの様に鋭く伸びた針が無数に並べられ、侵入者の抑制を無言で警告している。夕日を背にした門は本来以上の大きさかと目に映る者全てを錯覚させ、異様なプレッシャーをまき散らせている。
その門の中心部。鍵で固く閉じられた門扉の手前に、何かが立っていた。


シンはよく目を凝らしてみる。緑の中華装束を纏った長身の影。夕日に負けない位に赤い髪は風に靡き、影の広がりを加えている。頭部には小さい帽子を被っており、星をあしらったバッジが飾られている。スカートのスリットからは、白く細い、それでいて非力さを感じさせない肉付きを持つ肢体が地面のレンガを力強く踏みしめている。
「………門番?」
直感でシンは言う。門の前に立つ人物の背後にある館とその装束は不釣り合いなコラボレーションではあるが、そいつ以外にそこには誰もいない。館の門を取り仕切る存在と言えば門番だと、連想からシンはその単語を口にしたのだ。
「あら、お客様?」
荘厳のこの場にまたもや似合わない声が加えられた。程なくして、発された方向が門に立つ人物からだと悟る。声の音域は自らより数段高い。そこで初めて、この門番が女であると認識が確定した。それまでは外見だけはまだしも、発せられる雰囲気から確証が掴めなかったからだ。
赤毛の門番はほんの少しだけ俯かせていた顔を上げて、自分達の方へと向く。声と同じようにやけに明るい面持ち。強気とも取れる表情に、シンは強い既視感を感じていた。
赤毛、緑の服。声の響き。どれもがつい最近まで自分が相手にしていた人物に近い。その女は確かこの世界に迷い込む以前から―――
「よう、め―――」
魔理沙が門番に手を伸ばしながら話しかけるより前に、シンは発作的に脳内に浮かんだ名を大声で発した。
「メイリン!メイリン・ホーク!?」
「え、どうして……私の名を?……ホーク?鷹じゃあ無いですよね?」


既視感の正体を掴んだ瞬間、ある少女の姿が浮かんだ。友人であるルナマリア・ホークの妹、アカデミー情報科出身であり、戦艦“ミネルバ”の管制担当の少女だ。今はその腕を見込まれて最新鋭艦の“ミネルバ”とザフト栄誉艦“エターナル”の管制席の間を行ったり来たりを繰り返していると聞いたが、今目の前にいる人物と彼女は驚くほど似ている。声も大差ない。
「あん?よくこの女の名前が分かったな、シン。あ、まさかあれか?お前コイツのファンか何かか?」
茶化す魔理沙を意に介さず、シンは突発的にメイリンと呼んだ門番の元へ走る。近づいてすぐ様、シンは質問攻めを女に繰り出し始めた。
「どうして君が!?ってか、どうしたのその恰好は?なんでこの世界にいるの!?」
「うえっ!?ええっ?なんなんですかいきなりこの子は!?」
慌てふためく門番を前にしながらも、シンの動揺は収まらない。女らしい身体の形に若干の差異はあれど、目の前に立つ女はメイリンと瓜二つだった。
「とにかく、落ち着いてくださいシン!」
シンと門番の間に割り入って、早苗が両手で無理やり二人の距離を離す。
「何を勘違いしているか存じませんけど、シンは人違いをしているのではありませんか?」
「ええっ?けど目の前にいるのは……」
紛れもなくメイリン・ホーク。かと思っていたが、門番の反応から察するにどうもそうではないらしかった。思えばまだ会ってすぐだというのに、かなりの無礼を帯びてしまったことをシンは後悔した。
「お互い、自己紹介がまだですよね。私の名前は紅美鈴。この紅魔館の門番を務めている普通の人です」
「ちなみに、“普通の人”っていうのはコイツの自称だからな。一応この女も妖怪だぜ。腕っぷしは強いし、喧嘩を売ればまず勝てない相手だ」
「ああっ、そんなこと言わないでくださいよ霧雨魔理沙さん。折角初対面の人に対して警戒心を与えないようにしようと考えた紹介文句なのに~」
魔理沙の暴露に対してそれまで漂わせていた厳かな雰囲気は鳴りを潜め、美鈴はオドオドした様子で発言を撤回する。その愉快とも喜劇的とも言える彼女の様子に、シンと早苗だけがあっけにとられる。
「まあ、魔理沙さんのおちょくりはこの際放っておいて……少年、君の名前はなんていうのかな?」
「えっ、ああ……シン・アスカです」
「あら?君がシン君なの?今朝方聞いた名前ね。確か咲夜さんが夕暮れごろに来るって言ってましたっけ」
「咲夜…?」
その名に聞き覚えはあった。確か今日の真昼。香霖堂で目的の書物を探していた際に蝙蝠翼の少女が付き人の事をそう口にしていた様な―――
しかし、今朝方だと?この女は朝早くに自分がこの地に来ることを聞かされていたというが、自分は勿論、早苗も魔理沙も紅魔館を訪れることを事前に伝えていない。なのに、どうして彼女はその情報を得る事が出来たのか。
『あら、“予定”通りね……ほら、私の言った通りでしょ?』
何を指して、“予定”通りだと言ったのか?
『貴方様の行動とその結果にはいつも驚かされます』
あの付き人の女は、あの少女の何を知ってそう言ったのか?
―――俺の動きを、あの女の子は知っていた……?
「随分と早い到着じゃない」
門の向こうに、日傘を差した小さい影が近づいてくる。その横には、香霖堂でも横にいたエプロン姿の女。
そういえば、香霖堂でも少女は付き人に対して「咲夜」と呼んでいた。とすると、美鈴が話を聞いたのはあの銀髪の女に違いない。
「夕暮れとはいえ、日が沈んでくれないと簡単に外を出歩けもしないのよね。私の白いお肌が焼けちゃうわ」
少女は歩きながら、辟易と太陽を尻目に呟く。決して、振り向いて正面から見つめようとはしない。
聞き覚え、見覚えのある姿。昼間の記憶から少女の言葉が脳を駆け巡る。
―――あの娘は俺の事を、『何時か来るはずの人間』って言ってた。
―――あの娘には、俺達がここに来ることをずっと前から分かっていたのか?
「ようこそ、紅魔館に。この紅魔館館主、レミリア・スカーレットが貴方を歓迎するわ。シン・アスカ」
幽雅に、そして外見からは到底想像できない艶やかな響きで翼の少女、レミリア・スカーレットは告げる。
ふと、両手に力が入り手汗がにじむ。訪れるべくして訪れた筈のこの地に、何か大きな力で引き寄せられたのを、シンは無意識に感じ取っていた。