PHASE- 39 宿命との対立


古典的な武器の代表格と言えば、やはり銃と剣になるだろう。
研ぎ澄まされた刀剣は対象を切り裂く事に長けている。が、一人や二人斬り捨てれば当然血液が付着して切れ味が落ちる。元の切れ味を保つためには持ち主が念入りに手入れを行なう必要がある。コレは現代でも使われている刃物全般に言える事だ。
逆に銃は飛び道具である。距離と狙いさえ完璧ならば、どんなに非力な者でもトリガー一つで対象を殺せる。しかも弾倉さえ入れ替えてしまえば、弾自体は使い捨てになるものの殺傷力自体はまず落ちない。しかし劣化は銃も例外では無い。使い続ければやがて故障し、しかるべき処分を受ける。
あくまで簡単な例えだが―――
効率や手段、使い勝手や威力などはこの際別としても、二つの武器に共通しているのは“相手を殺す”為に存在している物だ。
法が敷かれ、美術品の様に飾られている代物も存在してはいるが、結局は今も昔もこれらの武器を使って誰かが誰かを傷つけている。
人々の本能は必ずしも闘争を秘めており、それをスポーツに置き換え、戦争に置き換え。何時の時代でも人は争いを続ける。その過程として効率を求めたのが武器なのだ。
俺達の世界の武器はそれらの延長線上にあるのだろう。弾と刃を、荷電粒子の塊に置き換えた所で、結局は相手を殺す為に使われる。
今俺の目の前に見える巨体も、所詮その武器の一つに過ぎない。
「あそこですね。衣玖さんが示している場所は」
俺の隣で作業場を凝視している鈴仙が呟いた。太陽の光が入らない薄闇の奥には、二つの巨大な鉄の塊がある。間違いなくあそこにモビルスーツが安置されているのは明白だった。
辺りを目を配る。数人の河童が機体の周りに散らばっている。その内一人、中心となって他の者に指示を下している女の姿がある。
「鈴仙、あの女がこの場所の持ち主か?」
「私もあまり面識がありませんが、多分。衣玖さんの紙によると河城にとり、という名前だそうです」
相手の名など個人を特定する記号以上でも以下でもないのだから、重要視する要素ではない。俺の名前にしても所詮便宜を重視しただけだ。
「ここにきて今更になりますが、本気であそこへ向かわれるのですか?今私の眼で確認しましたが、あちらは妖怪が多数と博麗の巫女。こちらは私と貴方だけ。これ以上無いってくらいの悪条件です」
鈴仙は意欲なさげな事を言いつつも、永遠亭から持ち込んできた鞄の中から手に丁度収まるほどの大きさである硝子玉を取出し、慎重に地面に置く――この慎重さは、中に秘められた薬の効力ゆえか――。俺の方もただ黙って彼女の動きを見ている訳では無い。この世界で目覚めてからも、一度も使用していない拳銃を一旦分解して、内部構造を確認する。
銃という物は対象を狙い、トリガーを引くだけで最大の効果を発揮するが、定期的なメンテナンスが無ければ動作不良を起こす。俺は記憶を無くして以来、銃を持ったのは雛に対して威嚇目的で突き付けたぐらいだが、永遠亭に入院して自由に動けるようになってから、密かに銃の分解と組み立てを手に馴染ませていた。いざという時に頼りにならなければ持っている意味がまるでないからだ。
こんな地道な作業を鈴仙の横で行なっていると、彼女が羨ましく思う。
自分の霊力を弾丸のイメージに見立て、指の先から発射する。そこには自らの思念しか介入する余地がなく、健康状態が万全ならば定期的なメンテナンスも予備弾倉等の部品も必要ない。
鈴仙本人の話では、単なる弾丸に留まらず、大きさも威力も自らの霊力を対価にした分だけ自在に応用できると言う。改めて出鱈目で常識が通じない世界だと思う。天子達の様に“飛翔”が出来る時点で物理法則も何もこの世界にはあるものではないが、俺の様に原始的な武器を使っていると馬鹿馬鹿しく感じてしまう。
しかし、俺の行動には必ず武器は必要だった。彼女達のように幻想的な武器は無くとも、確かに相手を危めれる武器がある。身を守るためであれ、物の強奪の為であれ目的の達成の為にも、もうしばらく俺は武器を手放すことは出来ないだろう。
―――最も、手持無沙汰になる頃に俺が生きているかどうかは分からないが。
「準備は出来たな。作戦の再説明は不要か?」
短く確認すると、鈴仙は無言で首を縦に振った。
ここに向かうまでに鈴仙にはすでに作戦を説明していた。俺と彼女だけ、たった二人で行う機体の強奪。狙うは衣玖の言うもう一つのモビルスーツ。満足な装備も無い状態で作業場の連中を潜り抜ける電撃作戦―――!
精々、二、三分で強奪を行わなければ。相手の大半は妖怪だ。こちらの銃が通じない場合も考えられるし、鈴仙のバックアップがあるとはいえ、彼女の行なうのは遠距離からの銃撃だ。普段の連射とは異なるスタンスに不慣れで無い訳がない。最善で牽制になってもらう程度だろう。俺が鈴仙を連れているのは単なる射撃技術に目を付けた訳では無いのだが、最大限の役割はこなしてもらうつもりだ。狙撃はその中の一つに過ぎない。
「お前には期待している」
地面に散らしていた拳銃のパーツを既に組み終え、抜いていた弾倉を込める。出来るならば試しに一発実際に撃って信頼性を確認したいところではあるのだが、永遠亭でも森の中でも安易に拳銃を発砲できる状況ではなかったのが悔やまれる。こちらの行動に相手が気付いたら一貫の終わりだからだ。この手を直接血で染める事に抵抗はあるが、最悪撃たねばならない事もあり得るだろう。最後の良心である安全装置を解除して、俺は対象の作業場を見据える。
「ではいいな。タイミングを誤るなよ」
義務的な言葉をかけた後、俺は拳銃を、鈴仙は片手に硝子玉を持って鈴仙の射程ギリギリまで距離を詰める。何とか向こう側からこちらが確認されない程度だ。幾ら俺達が川の対岸にある茂みに隠れていると言っても、肉眼で捉えられない距離ではない。意識がこちらに向いていないからこそ、俺達の行動は明るみになっていないのだ。
「よし、行くぞ!」
仕掛けるなら、今を逃す手は無い―――!
俺の一声で鈴仙は硝子玉を前方高くに投げ出し、空いた方の片手で狙いを定める。同時に俺自身も茂みから飛び出して、銃を片手に川の浅瀬を疾走した。


「なっ―――!?」
最初は何が起きているのかまるで理解できなかった。
河童の同業者と、霊夢と共に、“デスティニー”と“フリーダム”の修理の最終チェックに入る前で異変は起きた。
にとり達はその時修理から離れて、霊夢と共に小休憩を挟んでいた頃だった。この作業場に住み着いている小傘も交えて、三人で里で購入したキュウリを共に頬張りながら少しでも溜まり切った疲れを和らげようとしていた。
「――ッ!」
その最中、霊夢は電撃が走ったかのように鋭い眼差しで外の方へ視線を移す。
にとりも直感的に異常に気付き、――博麗の巫女が険しい顔をすると、決まって只事ではない事は幻想郷周知の事実であった――顔を向けてみるとそこには信じられない光景が広がっていた。作業場の外には河童の好みの環境である浅瀬の川が広がっているのだが、その向こう側から太陽の光を受けて煌く“何か”が放り込まれた。
間もなく、それは空中で鋭い閃光に貫かれ、中から毒々しい緑色の靄【もや】が漏れだす。外にも休憩目的でくつろいでいる河童が数人いるが、その靄をまともに浴びた河童達が力無く倒れる姿を見て、にとりの認識はいよいよ混乱を迎えた。
「おい、みんな!?」
「何なの!?」
「な、何!どうしたの!?」
続いて、靄の向こうから同じ閃光が作業場の中に無数に打ち込まれる。立て続けに起こる異常にあの霊夢でさえ、状況が呑み込めないでいるらしかった。当然にとりと小傘にも掛け値なしの不意打ちだった。小傘は声にならない悲鳴をあらん限りに発し、自分の方は焦燥の真最中に追い込まれている。心臓も早鐘を打ち、思考を奪われ、愕然とするしかない。
それでも、目の前の状況を出来る限り整理して理解しようと努める。とにもかくにも、ここは突然の襲撃に見舞われたようだった。即座に霊夢はにとりと小傘を機体の裏側に連れて姿を隠させた。思いのほか素早い判断ににとりは内心感謝をしながらも、自分達を襲う光の弾丸から余念が無い。
「様子が変よ!にとりと小傘はここに隠れて。私、ちょっと外に出てみる!」
「お、おい!」
霊夢はそれだけを言って、にとり達を尻目に作業場の外へと駆ける。にとりも突発的に彼女と共に飛び出そうとしたが、自らの服を必死に掴む涙目の小傘の存在が躊躇させた。
「………くぅッ!」
歯軋りをしつつ、小傘を作業場の奥へと引き連れる。外の対応は霊夢がどうにかしてくれるだろう。彼女は幻想郷随一、異変の対応に慣れている女だ。霊夢ならばすぐにこの状況を収めてくれる。霊夢なら―――


――― 一体全体何が起きているの?
仮に河童達がこの靄で命を落としているならば、さしずめこの場は死屍累々と形容すべきか。外に出た霊夢は直感的に靄の持つ危険性を見破り、すぐに鼻と口を袖で覆った。
これは、恐らく神経性の毒なのではないのか。根拠はないが、鍛え抜かれた第六感が確かな答えを導き出す。陽気に雑談をしていた河童達は例外なく意識を失い、河原の石絨毯の上で倒れている。靄の奥からは絶え間なく鋭い光の弾道が撃ち込まれている。幸い狙いにバラつきが少なからず見受けられたので、霊夢は最小限の動きでそれから逃れる。
―――反撃開始よ!
懐に手を伸ばし、馴染みの“対妖怪用御札”を取出す。あの弾丸の飛んでくる方向へ投げつけて勢いを止めようとした途端、こちらに向かってくる存在に霊夢は気付いた。
淡い金色の長髪を揺らしながら、川の浅瀬を駆ける男。その顔は氷の様に冷徹で、殺気を欠片も隠そうとしなかった。その今までに対峙したことのない人間の存在に、数瞬だけ、霊夢の対応が遅れる。
それでも、霊夢は通常の人間とは違った。僅かに芽生えた恐怖を振り切って、即座に札を弾丸の源から男の方へ目標を変える。しかし、男の掌から発された鋭い一発が、霊夢の自由な手にあった札を貫いてしまった。
今までに受けた事の無い殺意に満ちた未知の攻撃に、霊夢の緊張が振り切れる。それが結果的に莫大な隙を生み出してしまったのか。気が付けば霊夢は男にいとも簡単に組み伏せられ、河原に身体を叩きつけられてしまった。
そこで初めて男の服装を理解した途端、霊夢は目を見開いた。
色合いこそ違えど、そのタイトなスーツの模様と形は見覚えがあった。この世界に迷い込み、幾度となく力を貸してあげた少年が、モビルスーツという名の巨人に乗り込む際、決まって着込んでいた服。目の前の男の服は正しくそれだった。
―――まさか……この男!
「ぐぅっ!」
この男の正体が閃くと同時に、霊夢の頭に鋭い一撃が加えられる。この不和を一刻も早くシンに伝えなければ。けれども自らの身体は既に自由を奪われていた。一撃を食らった際、悲鳴から口を開いてしまった事で靄が肺に入ってしまったようだった。意識が薄れ、視界が不鮮明になる。世界が暗闇に飲まれていく中、脳裏に浮かんだ少年の顔が目に浮かびあがったと同時に、霊夢の身体は弛緩した。


―――お前の相手をしている時間は無い。
ラウは内心でそう吐き捨てながら、紅白の和服に身を包んだ少女の頭に拳銃を叩きつける。あの女の対応の速さには冷や汗をかいたが、所詮は人間だ。エスパーでもスーパーマンでもない。男の全力で打撃を与えれば、意識を失うのが当然なのだから。こちらも黙って静観する余裕は無い。脊髄反射で女を無力化したが、殺さなかったのが不思議なくらいだ。だが無駄に死体を増やす所で、結局は後々の手間が増えるだけだ。それよりも―――
見つけた。“フリーダム”と衣玖の報告にあったもう一つのモビルスーツ。鉄灰色の装甲を纏った巨大な兵器は今、抵抗する術を無くして俺の目の前に佇んでいる。当然だ、これらの機体に乗り込む存在は、今不在なのだから。
しかし、俺はこの初めて見る筈のもう一つの機体―――“フリーダム”のそれよりもより鋭角的で実用に達している翼状のウイングユニットを背負い、各部にビーム砲、折りたたまれた長刀を装備した未知の機体に、俺はどこか懐かしい感情を抱いていた。かつて昔、共にこの機体と戦場を駆けた記憶が存在していた様な―――
―――考えるな。気を散らせばすべてが無駄に終わる。
自分にそう言い聞かして、無駄な考えを振り払い、次の行動に移る。俺の最終的な目標は“フリーダム”を戦いで討つことだ。“フリーダム”の強奪ではない。よって、俺の“プロヴィデンス”を再び行使できる様にする為にも、この未知の機体を利用する必要がある。
そろそろ鈴仙の方も伝えておいた作戦通り、その狂気の瞳で河童の連中に催眠を仕込んでいる頃だろう。俺の機体が放置されている、“妖怪の樹海”への誘導。そう。俺の目的は、この機体と河童達の技術を使って“プロヴィデンス”を生まれ変わらせる事だ。
コックピットから垂らされた昇降用ラダーを掴み、俺は翼の機体に乗り込む。操縦系統に違いはあれど、個人的にはこちらの方が手に馴染んでいる。むしろ、“プロヴィデンス”の方が操縦系統は旧式だったのだろう。簡単に装備を見ても、小型化が進んだ洗練されたフォルムに、極限まで詰められたフレームの隙間から、この機体が新型だと証明していた。
主要電源をオン。各種機能、OSを緊急起動。[Gunnery United Nuclear-Deuterion Advanced Maneuver System]の文字が現れたのち、即座に機体管制システムの推進系だけを書き換える。戦闘機動は満足に行えなくても、目的はこの場からの離脱が行なえればそれでいいからだ。
“ZGMF-X42S デスティニー”のツインアイに炎が灯る。修理の為に設けていたキャットウォークを巨体で破壊し、作業場の外へと歩みを進める。
ラウがフェイズシフトを作動させると、鉄灰色の機体は瞬く間に派手なトリコロールへと姿を変える。この姿は鈴仙にも明白なはずだ。作戦は成功したのだ。ラウはこのままこの場から撤退し、鈴仙はここにいる河童を樹海へと誘導させる。彼女の方も指示していた通りにそろそろ離脱する頃合いだろう。
終わってみれば驚くほどあっけないものだった。確かに巫女の存在は鈴仙たちからすれば驚異の存在であったに違いない。だが、相手の土俵に入らなければ例えどれだけ腕が立つ者だろうと力を発揮できない。鈴仙の放った“瓦斯織物の玉”はあくまで牽制、二次的な被害を狙っての事だったが、結果的に必要以上に銃を使う事無く場は収まった。
―――なぜ、俺は安心しているのだろう。
相手を殺さなかった事が嬉しいのかと言われれば、否定できない。モビルスーツで間接的に相手を殺すより、直接手にかける方が精神の負担は遥かに大きい。加えて、銃の弾を使い切れば俺の身を守る物は今度こそ無くなる。この世界でも銃の脅威が通用した事に、安心せざるを得ない。
あとは樹海に戻るだけだ。俺は操縦桿を巡らせて、この機体、“デスティニー”の発進体勢を取る。他人の機体だけに、少々操縦に満足の行かない部分があるが妥協するしかない。どの道、近い内に慣れた機体へとまた戻るのだから。
「出るぞ」
推進口から莫大なエネルギーが放出され、機体は重力の柵【しがらみ】から解き放たれる。“デスティニー”はその紅の翼を広げながら、河童の作業場から姿を消した。


「にとり、シンの機体が!奪われちゃうよぉっ!」
その後ろ姿は、確かににとりの眼で捉えていた。
自分達を襲った突然の事態は終わりを告げ、その中心にいた男は自分と小傘に気付かないまま――慌てふためく小傘の口はにとりが必死で抑えていた――シンの“デスティニー”に乗り込み、誰からの抵抗も受けないまま奪い去られてしまった。
「う、そ……だ……」
呆然自失。にとりは両膝を地面に着けて力無く伏せる。彼の為に一心に修理した機体が、強奪されてしまうなんて。霊夢が唯一抵抗したとはいえ、こうもあっさりと。
大声で泣き出せたらどんなに気楽だろう。しかし、その泣くだけの気力もにとりは奪われていた。決して泣き叫ぶ小傘の前だからという、些細な理由だからではない。行き過ぎた絶望が、彼女の心境を埋め尽くしているのだ。
「“デスティニー”…………あいつの、私達の、“デスティニー”がっ……!」
そう声を絞り出すのがやっとだった。すぐにでもあいつから渡された通信機を使って知らせなければ。けれどもそれをこなせるだけの力さえ湧いてこなかった。空へと姿を遠ざける。真紅の翼の後姿を見つめながら、にとりはただ呆然とするしかなかった。


「俺はいったい何をやってるんだ…」
床に散りばめられた無数の本の一つを手に取りながら、シンは溜息交じりにぼやいた。
紅魔館の地下から早苗の負担を気にかけて、急ぎ足で図書館に着いて早苗の無事な姿を確認できた事はいいものの、そこは本棚から雪崩の様に本が散在し、涙目になりながら激しく咳き込む細身の少女と、傷だらけの人形を辺りにはべらせている金髪の少女の二人組が、魔理沙に対して怒りを露わにしている場面だった。
その場にシンが出くわすや否や、すぐさま激高少女の片割れである、パチュリー・ノーレッジから魔理沙、早苗と共に図書館の整理整頓と、傷んだパチュリーの服の修繕を命じられた。幾らパチュリーが紅魔館の住民として下働きの者に命令できる立場と言えど、突然の状況にいくら何でもシンはあんまりだと思った。
「何やってるんですか、貴方は!?」
「すまん!まずいことをしたと思ってる!だからそんなに耳元で大声出すな、響くんだよ…」
唯一無傷で済んでいた早苗から簡単な経緯を聞き、怒り大半、呆れ少々でシンは魔理沙を勢いで怒鳴りつけた。とっくに就業時間は済んでいるというのに、魔理沙のせいで要らぬ行動が加えられてしまった。外は深夜の最中だというのに。
けれども、折角図書館に来たのだ。どの道この大部屋の中から目的の医療に関する書物は探し出さなければならない。かなり無理に前向きな考え方になるがわざわざ本を取り出す手間が省けたと、今の状況を捉えなければ到底今からパチュリーの言葉通りに動こうとは思わなかった。
「ってか、なんでアリスだけ何も言われてないんだよ。えこひいきするのかパチュリー、私がここに来なくてもお前らドンパチする所だったんだろ?」
そろそろ彼らがそれぞれの行動に移ろうとした直前で、魔理沙が思い出したようにパチュリーの指示に反論する。そういえばそうだ。パチュリーの指示から一人だけ自然に除外されている存在がある。今も必死に手を動かして自らの人形を直すことに没頭しているアリス・マーガトロイドだ。
「別に不公平にしている訳じゃない。一番気に入らないのは、力任せのあんたが来たから余計に私の図書館は被害を被ったのよ。それにどの道、この女は自分の大切な人形達を直し終わるまで動こうとしないでしょう」
「パチュリーの言う通りよ。私の人形が傷だらけでボロボロでみすぼらしい服を着ているなんて放っておけないもの。私の服だって魔理沙の攻撃で煤だらけで穴だらけだし。けど、私とパチュリーだけで戦ってもここの周りが被害受けるのは確実だっただろうし、手を貸さないつもりはないわ。こっちが終わり次第貴方達の方を手伝うわよ」
「マイペースだねえ。時間が沢山あるお前達魔法使い二人が羨ましいぜ」
「言っとくけど、魔理沙は本に触るの許さないわ。あんたは大人しく私の服を直す為に裁縫よ。嫌とは言わせない」
「心外だ!そりゃないぜパチュリー!?」
「目を離したら本盗むのが貴方でしょ。ねえ執事、風祝。この白黒しっかりと見張っておいて。もし妙なマネをしてたらきついお灸をすえて構わないわ」
「は、はあ……」
パチュリーに釘を刺され、魔理沙は冷や汗を浮かべる。やはり、本を拝借して持ち帰る気だったのだろうか。
シンもこれには曖昧な返事をするしか術が無かった。
「じゃあ落ち着いたところで、私とシンで崩れていった本を片づけましょう。ついでに探したい本があるのですが、構いませんかパチュリーさん?」
「好きにして。私はちょっと休む。さっきのせいで動悸が収まらないのよ……全く」
早苗が確認で問うと、彼女は気怠るそうに低い調子で応えた。シンは魔理沙達三人の戦いを早苗から聞かされた程度しか知らない訳だが、余程激しい争いだったのか。彼女達の姿からもそれが窺えた。
「はあ……アンニュイだぜ」
―――それは俺の台詞です!
小さく呟いた魔理沙の言葉を聞いてシンは反射的に怒声を叩きつけようとしたが、最早その気力さえ呆れに奪われてしまっていた。


「ん………ここをこうしてこうすれば…よしっ、終わったわ」
パチュリーの下した命令で手分けして図書館の後始末に専念してから数時間が平気で経った。
魔理沙がパチュリーの傷んだ服に対して四苦八苦している隣。日頃から常備しているお手製の裁縫道具を巧みに扱い、傷ついた人形達の最後の一つを直し終えたところで、気持ちの弾みからアリスは無意識に笑顔を振りまいていた。
アリスは魔法使いであるが、魔理沙達とは異なり魔法そのものを用いるのではなく、魔力で人形を操る事を得意としている。アリス本人が大した魔法が使えなかったり、何も人形に頼らなければ単独で戦う事が出来なかったりする訳では無い。人形の武器にダウンスケールした刀剣類があるのも、アリス自身が刃物の扱いに長けている為である。
そして、彼女は人形を心から愛していた。その無機質な樹脂で出来た体のパーツを、自らの血が通った手で組み上げ、大きさを除いて人に限りなく近い姿形の一つの存在を自らが生み出す。その一連の創造を、アリスは酷く好んでいた。アリスにとって己が作り出した人形は我が子同然だ。ならば傷ついた姿など直視していられない。命を持っていないとはいえ、苦しみの声を上げないとはいえ、大切な存在をそのままにはしておけないから。人形が傷つくことは、そのままアリスの心にも大きな痛みを伴っていたのだった。
だから人形が無事に直って、再び元通りの姿を主人に見せてくれた事にアリスは喜びを隠す事が出来なかった。他者には到底信じられない程の傾倒ぶりではあるが、アリス本人にとって人形は唯一無二の存在であった。
「随分とご機嫌じゃないか。人形が直ったぐらいでそこまでヘラヘラしてたら、いつか笑死にするぜ?それにお前自分から人形を爆破させたりするじゃないか。そんな物騒なお人形、とてもじゃないがそんな風に抱きしめたりするのも億劫だ」
「あれは最初から爆発しても壊れない人形だし、私の意思でだから別なの。確かに似たような人形ばかりなのは認めるけど、私にはちゃんとわかるのよ?何も知らない素人さんがそんな風に言わないの」
「へーへーわるうございましたー。どうせ私は人形の事なんかロクに知らなくて、光や熱しかまともに魔法に出来ない人間の魔法使いさんですよっと。まあ、後者の方は最近そうでもないんだけどな」
アリスをからかおうと思ってちょっかいを出してみたら、逆に彼女から自分の不得手を突かれて不機嫌を禁じ得ない。肩をすくめて大仰な態度をとりながら、魔理沙はふくれた。
「ま、魔理沙がこんな性格なのは今に始まったことじゃないか。パチュリーだって、最近付き合いだしてからもずっとあの調子で引き籠ってばかりだし。今度からこっち来る時は裁縫道具は勿論、マスクも持ってこないとダメね」
「だったらついでに私にもくれよ」
「ダーメ。あんたは霖之助さんの店から調達したらいいじゃない、私も時々日用品とか買ってるんだし」
アリスは人差し指を口元に添えて、茶目っ気に魔理沙に言う。それに魔理沙は「えー?」と不機嫌を隠そうともしなかった。
「それにあんた、確か八卦炉の故障で厄介になってたんじゃなかったの?」
「そいつは今朝までの話だ。コイツが直ってしまえばあとはアイツに用は無い。まあ、成り行きでシンと早苗とこっちに来たんだが咲夜に入館拒否されてなあ…ドジって門番から一撃食らったから館に入り込んでから痛みを堪えてたら、まあ、なんだ。とっくに外は夜になってたさ」
「……なんか簡単に想像できるわ。魔理沙が美鈴さんのストレートを一発まともに食らっている所。それでずっと我慢している様子も」
「よしてくれよ。それ、大方お前の言う通りだから」
「そう、ふふっ。あ、こっちの手が空いたから、そろそろそっちも手伝うわね」
「おいおい、私の仕事取る気か?」
「どうせパチュリーは礼を言わないし謝礼も出さないわよ。私達の方から勝負を仕掛けたんだから。ほら、強がり言わずに大人しく空いてる方貸しなさい」
「その気なら、私の予備の服取ってきてパチュリーにもお前にも貸してやるぜ。香霖が沢山用意してくれたからな、様々な奴が私ん家に転がってるぜ」
「私は当然、パチュリーも願い下げって言うだろうわ。そんな古典的な白黒衣装なんて、魔理沙みたいな女しか来たがらないと思うわ。それよりもサイズが合わない事が重要かしら」
「ちぇっ、せっかくこの面倒な作業を踏み倒すいい案だと思ったのに」
魔理沙は霖之助の家に居候をする前は幻想郷の“魔法の森”の中に住居を構えて一人暮らしをしていたが、どうにも一人で生きていく為の技術を身に着ける事が苦手で仕方が無かった。今でこそ八卦炉を活用することを前提として、一人でも難なく生活を送る事が出来るが、どうしても裁縫や掃除など、八卦炉で簡単に代用が効かない事が好きではなかった。
その面で見るならば、同じく“魔法の森”に住んでいるアリスには完全に劣っている。これは認めざるを得ない。だが、彼女よりも勝っている部分が幾つも魔理沙は持っていたから、特に劣等感は感じなかった。自分に出来ないことは誰かがやる、といった風に考えるタイプだからだ。
「なんだ、結構ひどく見えるけど薄い生地だから割と苦労はしなさそうね。人形の服を仕立てるよりも簡単よ」
「お前の技術が高すぎるんだよ……そんなの新しい物を調達すれば済む事だろ?」
「もう一度言うけど、だから魔理沙は馬鹿なのよ。そんな考え方で捨てられた物が可哀そうじゃない。もしそれが人形だったら私には耐えられないわ。貴方の大切にしている八卦炉だって、そうに違いないでしょ?」
「知らん、そんなことになったら香霖に新しい物を作ってもらう。不眠不休でな」
魔理沙の横柄な物言いに、アリスは溜息を吐くしかなかった。だが、これが魔理沙なのだ。同じ同業者でありながら、自分達とは価値観も考え方もまるで違う。アリスにとってはそんな彼女と会話することが、少し楽しくもあった。森の中では迷い込んできた者以外と会話することは叶わないからだ。自分の創り出した人形は命を持っていないが故に、暮らしに退屈を覚える事も少なくない。
―――だからいつか、自分の手で命を持った人形を生み出したい。命を作り出す権利を持つのは神だけでは無い事をこの世で証明したい。
自立人形【オートマトン】の創造。自らの生み出したモノが個々の魂を持ち、人妖と同じ存在に並ぶ事がアリスの夢であり、願いでもあった。だからこそこの図書館に来て、少しでも早くその研究を深めようと熱心になっていたのだが―――
「まだまだ、こんな風に反応する人形を作るのには時間がかかりそうね」
アリスは、共に縫い針を持ってネグリジェに空いた穴を塞ぐ事に苦労している魔理沙の落ち着かない表情を眺めて苦笑しつつ、自らの夢の実現が厳しい事を改めて実感した。


「はあ、こまったな…」
魔法使い二人組とは別に、大量の本を前にシンは辟易とした様子で肩をがっくりと落とした。こちらは早苗と共に、ばら撒かれた書物の後始末を担当している。分厚いハードカバーの本がおびただしい数で床に散らされた様子は、紙で出来た絨毯の様だ。
「一向に手がかりとなる物が見当たりませんね……これでもないし…」
早苗も手を動かしながら呟いた。広がった本を拾い上げては、中身を斜め読みにし、目的の物で無ければ隣に積んでおく。パチュリーの読んでいた本の様に読めない物が幾つか見受けられたが、そちらは保留して本の海から離して置いておく。混ざってしまえば二度手間だからだ。
「正直、眠たくなってきました………シン」
「大丈夫か?もう結構な時間が経ってるみたいだし……」
「いえ、申し訳ありません。弱気なこと言っちゃって。けど、これだけの本を目にしていると……ちょっと」
シンと早苗。片側だけでも何百冊と本を確認してきただろうか。休み無しに本を開いては置き、開いては置きの繰り返しで、正直苦痛にしか感じない。シンの方はここに来る前に一息ついているものの、早苗の方はどうなのだろうか。昼で分かれて以降、ずっと自分達の為に動き回っていたのだとしたら、これ以上の無理は勧められない。
「パチュリーさんに言ってから、毛布取ってこようか?休みたいのなら休んだ方がいいし、俺はもうちょっとだけ頑張ってみるから……」
親切心からシンがそう言う。すると早苗は首を横に振って、
「そんな、シンにだけそんな思いはさせられません。まだまだ大丈夫です!」
「とは言ってるけど……早苗、すごく眠たそうだぞ。両目とも細いし、フラフラしてるし。やっぱり放ってはおけないよ」
紛れもなく事実だった。この深夜の中、早苗は良く持ってくれた方だとは思うが疲れもあったのか限界なのだろう。頭が揺れ、目蓋を重たそうに堪えている様子は、いっそ休んでくれている方がシンとしては気楽だったのだ。
「ほら」
シンは座り込んでいた床から立ち上がり、早苗の傍に寄る。そして、着込んでいた真紅の軍服を早苗の上に優しく被せた。その行動に、早苗の頬は赤く染まる。
「えっ、あ………ありがとう……シン…」
「ゆっくり休んでいいから。俺は毛布とって来るから、それまでそいつで我慢してくれよな」
穏やかにはにかんで、シンは薄着のままパチュリーのいる方へと向かう。幸いにも今は涼しい時期だ。上着を脱ごうが脱がまいが、あまり気にしなくていい。それよりも、早苗が辛い思いをしていることがシンには耐えられなかった。
―――シンは本当に………優しい。
その後ろ姿を眺めている早苗は意識が段々うつらうつらとする中、彼に対して感謝の気持ちを秘めつつ、遂に睡魔に負けてゆっくりと瞼【まぶた】を閉じていった。


今日だけで何度同じ廊下を歩き回った所だろうか。シンは朝、咲夜に教わった客人用の家具が置いてある部屋から毛布を取り出し、腕に抱えて廊下を歩いている。この夜中だ、女の子を床に放っておくわけにもいかないと思い、気を利かせて四人分の毛布を運ぼうとしたのが仇となったのか。腕の中で膨らんだ毛布を何度も落としそうになりながら、それでも必死に抱えていた。
重さはそれほどでもないのだが、一つだけでも相当な大きさは増えるとどうにもならなかった。束ねた毛布が腕から零れ落ちそうになり、その度に足を止めて持ち直す。図書館まで距離があるのも災いした。それを見込んで無理に一度に持ったのだが、軽はずみの考えをしたのが間違いだったのだろう。
「正直、俺も眠いかも……」
睡眠を軽く取ったとはいえ、幻想郷に来てから昼夜正しく生活をしているシンにとっては深夜は辛かった。軍にいた頃はスクランブルに備えて今の様に眠気に誘われることはある筈の無い事だったのだが―――
「俺、あんときより鈍くなったのか………?」
何時元の世界に戻れるかもわからない。永遠にここに住む事も、最悪考慮しなければならない。一人でいる時ほどこのような考えが頭の中でちらつく。それぐらい、この世界から抜け出したい想いがある事の証明にはなるのだろうが、
―――この世界に住んでみるのも、悪くないかもな…
悪夢のような争いの無い世界。発達した科学こそ満足にないものの、自分の力でも生活できる世界。正直な思い、この世界で生涯を送ることは満更でもない。それは確かだ。
「…うわ!」
上の空で歩いていたことが原因になったのか。紅のカーペットが敷かれた廊下の上で、シンは足を取られてしまう。毛布のせいで直接足元は見えなかったが、恐らくカーペットの皴【しわ】だろう。そこにつまづいてシンはバランスを崩してしまう。
勢い余って床へと身体が倒れこむ間、視線を上げてみれば抱えていた毛布が床へと投げ出され始めているのが分かった。そのまま図書館の本と同じように床に広がるかと思っていたが、次の瞬間。目の前にあったはずの毛布が、シンの目の前から文字通り“消えた”。
「しっかりしなさい、シン」
「咲夜さん……」
すぐ横から凛とした声が鼓膜を突いた。十六夜咲夜だった。彼女はこの夜中だというのに、眠気のそぶりも見せない程の鋭い眼差しで、シンの顔を見つめていた。その瞬間今朝の家事をシンは思い出し、反射的に睡魔が遠ざかる。紅魔館にいる間とはいえ目の前の上司に対して、シンは無様な自分を見せる訳にはいかなかった。
「よしなさい、今の貴方は仕事中じゃないでしょ。プライベートの時までそんなに畏まられても対応に困るわ」
咲夜はそう言いいながら、シンが落としたはずの毛布を抱えている。
「すみません、俺がミスしたせいで……」
「いいわ。どこまで運ぶの?そこまで手伝ってあげるから」
仕事の時と殆ど変わらない淡々とした口調で咲夜は問う。これが彼女の素なのかと、シンは内心で感じた。
「え……ありがとうございます。じゃあ図書館まで―――」
行き先を告げて、咲夜から四つの毛布の内、一つだけを預かる。多い方をシンは持とうと進言したのだが、「気にしないで、一つも二つも変わらないから」と咲夜は言って運び続ける。シンは彼女の好意に感謝を告げて、暗い廊下の中を咲夜と共に足を運んで行った。


「ここまででいいですよ。後は俺一人で大丈夫ですから」
「そう」
図書館の扉を開いて、後は中に入るだけ。そこでシンは咲夜の持つ毛布を受け取る。咲夜の助けのおかげで彼女達に綺麗な毛布を届けられる。それがとても嬉しくあった。
「本当に助かりました。こんな夜にわざわざ……」
「別に大丈夫よ。“偶然”廊下で貴方の姿を見て倒れそうになる所を見たものだから」
笑顔で告げるシンの礼に、咲夜は小さく微笑んだ。こんな謙虚な方が自分を助けてくれた事がシンにとって嬉しい事以外の何物でもない。
「そんなこと無いですよ。見えない位の速さで俺の毛布を落ちる前に拾ったんですから。まるで手品みたいでした」
「手品…ね。そうね……」
以前にも見た咲夜の妙技。意識を離した隙に出来上がっている料理、香霖堂で一瞬にして消した姿。いずれも普通の人間にはこなせない事だ。ましてや知覚さえ満足に出来ないのだからシンには早業と捉えるしかない。
「ちょっとしたトリックよ。大したものでも何でもないわ」
やけに控えめな彼女の態度に少々の違和感を感じ得ずにはいられなかったが、この言葉もいつもの謙遜だとシンは考える事にした。
「それじゃ俺はそろそろ。おやすみなさい、咲夜さん」
「ええ、お休み。シン」
早苗達を待たせる訳にもいかなかった。折角会ったのだから個人的に聞きたいことは数多くあるのだがそうにもいかない。早々に話を切り上げて、シンは扉の奥へと場所を移す。
すると、図書館で素肌を露出させた少女の姿が目に移った。傷んだネグリジェではなく、半袖の新しい薄着を纏って図書館に設けられたベッドの上に座り込んでいる。その手にはやはり本が握られており、視線の向く先は一心に手元へと注がれていた。
「…何だ、執事か。どうしたのシン?そんなに大きな毛布抱えてここまで来て」
「毛布を持ってきました。折角だから他の皆にも要るかと思って」
「そうね、ありがたく頂くわ。ちょっと寒いかなと思ってたから」
毛布の一つをパチュリーに渡す。彼女の白い肌に鳥肌が立っている様には見えなかったが、本人が言うのだから必要なのだろう。受け取るとすぐにベッドに広げ、下半身をそこに埋める。
「他の皆は?まだ起きてるのですか?」
「見ていないから分からないわ。まあ、魔理沙とアリスは当分寝ないでしょうね。二人とも隙あらば私の本を見ようとするし。毛布なら私の机に置いてたらいいわ、勝手づいたら自分で取りに来るだろうし」
そう促されて、シンの両手は漸く自由になる。ずっと物を掴みっぱなしというのも苦労するものだった。咲夜はこの様な事をこの館で毎日やっているのかと思うと同情するしかなかった。当の本人はあの様子だと対して苦に感じていないとは思うが。
「ん、何よ」
パチュリーを眺めていた訳では無いのだが、自らの顔の方向から誤解されたのだろう。他の者を気にしていたシンに対し、釣り上った瞳を向けてパチュリーが声をかけてくる。
「あ、いや……ああ、そうだ、早苗はもう寝たのですか?」
パチュリーの勘違いなのだろうが、彼女の無表情に押されて何か喋らないといけないような気分に襲われる。一瞬で何か思いつこうと考えた結果、軍服を渡した早苗の姿を思い起こした。
「あの風祝なら、ほら」
パチュリーがシンの背後へと指を指す。そこへシンが視線を移してみると、大きいソファーの上にシンの軍服を羽織った早苗の華奢な姿が横たわっていた。
「私が運んだんじゃないわよ。礼ならあいつに言ってやって」
早苗の方を指していた指が、今度は別の方へと向く。先程まで早苗と自分が整理をしていた場所だ。そこに自分達の代わりに、新たな姿が映っている。
シンプルなシャツとミニスカートを身に着け、桜色の髪を伸ばした眼鏡の女だった。人間の耳と背中に値するところから蝙蝠に似た翼を伸ばしている事から、紛れもなく妖怪に違いなかった。シンと早苗が既に読み終えた用済みの本の数々を細腕でいとも簡単に持ち上げ、その翼でおよそ届かない棚の部分へと本を片づけていく。飛翔できる者だからこその利点だ。この図書館の棚自体が、どう考えても普通の人間には利用できないぐらい高い事が本当は異常である筈なのだけれども。
「私の使い魔よ、悪魔のね。といっても、彼女はそれほど力を持った悪魔じゃないから“小悪魔”と称した方が正しいかしら。人手が少なくなったから私が召喚したのよ」
パチュリーが彼女の事について簡単に説明する。それと同時に彼女の方へ右手を伸ばして、手招きをした。すると小悪魔と呼ばれた少女はこちらの方に気付き、近寄り始めた。パチュリーの使い魔であるが故に、声に出さずとも命令を下すことが可能なのだろう。
「あっ、貴方がパチュリー様の仰っていた執事の方ですね。初めまして」
「ああ、こちらこそよろしく。ありがとな、早苗をわざわざソファーまで運んできてくれて」
「お気になさらないでください。人間の女の子位、私にとっては数々の本を一気に運ぶ事よりも大したことありませんから。貴方達の本探しの事も魔理沙さんから耳にしています。どうぞお構いなく」
使い魔と言うよりも、パチュリー専属のお手伝いと称した方が相応しいとシンは思う。感情豊かな部分を別にすれば、控えめな性格は咲夜に似ているとも言える。この館のメイドは未だ咲夜しか見ていないが、彼女にもその手の素質は十分にあるだろう。
「用は済んだ?なら小悪魔、貴方はそこの毛布を風祝に被せた後で引き続き整理を頼むわ。シン、貴方はこれからどうなの?」
どうと言われても、これからの事などシンの頭には入っていなかった。早苗は既に寝ているし、本の方は小悪魔が代わりに行なうと聞く。早苗の様に休んでもいいかと考えたが、どうしたものか。
そこで、パチュリーに限らず紅魔館の住民に是非とも問いたい要件がある事を思いだした。この際丁度良い、パチュリーならばこの館の事にも詳しいだろう。折角の機会から、意を決してこの館で一番気になっていた事について問う。
「………パチュリーさん。一つお聞きしたい事があるのですが」
「…なあに?」
「フランドール、って女の子についてなんですけど」
フランのいた部屋の異質さから、腫れ物に触れる様に恐る恐るそう言った途端、明らかに今までとは異なる反応をパチュリーは見せた。本に這わせていた白い指が硬直し、視線を初めてシンの方へ移す。やはり、この館の住民は彼女について触れられたくなかったのかと、シンは確信した。
「何時の間に知ったの?」
「ここに初めて来る前、です」
極めて慎重な態度を取り続ける。檻同然の異常な部屋を、知ってて放置しているのだとすればそれはとても異常な事に変わりはない。だが、それを真正面から質問するには勇気が必要だった。廊下で出会った咲夜にも問おうと心積もりにしていたが、彼女のクールな対応には些か引けるものがあった。しかし、聞かずにはいられなかった。一刻も早くあのような扱いから解放させてあげたい。その思いがパチュリーへと問う一番の原因だった。
「……そう、案外早かったわね。気付くの」
「知っているんですか、あの娘を………あの娘があんな所にいるのも!?」
「ええ。結構前の頃からね」
―――結構前だって!?
「そ、それ!何時からの話なんだよ!」
憤りと驚きから、シンの口から敬語すら消える。
しかしパチュリーはあまり気にしていないのか、それを咎める事もせずに続けた。
「貴方は当然、咲夜だってこの館にいない時からよ。あの娘は生まれてから一度も、館の外を自由に出た事が無い。あの娘にとっての世界は、この紅魔館の一角だけなのよ」
「なんだって……!?」
「とはいえ、あれでもかなりフランの扱いには気を配っている方なのよ。レミィも、咲夜も、私も。前に一度だけ、あの部屋からフランが出た時があるけど、その時は全て丸く収まったから。あの子が外に出てしまったらとてもじゃないけど目も当てられないわね」
「なんでそんな事、フランに対してするんだよ……彼女にいったい何があるって言うんだ」
「簡単よ」
パチュリーは極めてわかりやすい理由を、シンに告げた。
「フランは妖怪としての……吸血鬼としての力を一切加減できない。レミィの様に普通の振る舞いが出来ないのよ」
親友の愛称を呼び、それがレミリアの事を指していると分かったシンは質問を続けた。
「レミィ――レミリアの様に?それって……」
「察しの通り。分かるでしょ?あの娘とレミィは、実の姉妹なのよ」
それはシンにとって信じられない言葉だった。実の姉が、肉親に対して無慈悲な扱いをする事が。レミリアの妖艶な笑みの裏で、見えない所で、彼女が非道な行いをしていることが。
「この事はレミィの前で言わない事ね。彼女からすればプライベートな事なんて知られたくないだろうし、貴方の目的にも支障が出るでしょうね。貴方さえ妙な真似をしなければ、今まで通りの生活が送れるわ。当然咲夜にもよ。彼女もフランの事を理解しているけど、貴方が知ったと知れば私とは違った対応を見せるでしょうね。あの女はレミリアの忠実な部下だから」
パチュリーは特に怒るでもなく、ただ淡々と他言無用をシンに勧めた。頼れる人間に相談をすることも出来なくなった事に、シンは暗い表情以外をする事が出来なかった。
「話はこれでお終い。今後は黙って執事として頑張る事ね。どうせレミリアだって貴方を興味本位で館に置いている訳だし、別に気にする必要はないわ。彼女だってやっている事はあくまで軟禁程度だし、虐待じゃないもの」
「………」
「シンが気付いたからって、別に私は貴方に対して何の罰も与えないわ。私にそんな権利はないし、かといってフランと逢う事を禁じたりもしない。気になるのだったらまた夜に顔を出してみれば良いわ。咲夜がちゃんと食事を与えているから、貴方が襲われる危険性は多分少ないと思うし、無傷でここまで来てるって事はきっと貴方は好かれたのね、大丈夫よ」
ざわつく疑問を必死で抑え、シンは黙ってパチュリーの諭しを耳に入れる。自分さえ何もしなければ―――この館の均衡は崩れない。それを理解した時から、シンはこの館について知ってはならない事を知ってしまったのだと打ちひしがれた。
「…はい」
漸く彼女に返した言葉は、これだけだった。あの話を聞いた後で、誰が平気でいろと言うのか。仮に言われたとしてもシンには無理だった。身を翻して、今日はもう休もうとシンが内心で呟くと。
「帰るんだったら、そこの風祝も持ち帰りなさい」
背後からパチュリーはシンにそう促す。その理由は、彼女のささやかな気遣いだった。
「後でソファーにアリスと魔理沙が横たわると思うから。どうせしばらく、あの二人はここで過ごすだろうしね」


それからは、シンは確かにパチュリーの助言通りフランについて一切住人に触れずに、紅魔館で執事として過ごしていった。初日に数多くの事を経験したものの、二、三日しただけで慣れの方が上回った。パチュリ-の話を聞いて、咲夜に対する認識が変わったのは確かだが、シンの視点からすれば悪人には到底思えなかった。家主の為に力を惜しまず尽くす従者である彼女の真摯な対応は、この紅魔館の闇をシンから忘れさせてくれる清涼剤でもあった。不慣れなシンが仕事でミスをした時も、咲夜はいつものポーカーフェイスをとりながら、助けてくれた事もありがたい。
その間に、他の下働きの者達とコミュニケーションをとる事もあった。この世界では普段から少女たちと接する機会が多かったシンには、里の者と話すことが新鮮でもあった。この世界についての知識も、紅魔館に住んでからは深まった。
早苗の方も魔理沙、アリスと共に本探しを続けている。初日の時の様にトラブルもなく、割方平和の様子らしい。しかし、毎日の様に早苗から帰って来る結果は「無い」の一言に尽きた。図書館の全ての書物を漁り終えた訳では無いので、対して落胆しない様に二人は心がけていたが、日数が経てばそうにもいかなかった。早苗にはいつも迷惑をかけて済まないとシンは感じているが、今回程そう思った事は無かった。
そんな日々が続く中、シンは毎日欠かさず続けている事が一つだけあった。フランのいる部屋の訪問だ。毎日決まった時間だけ、彼女の部屋へと寄り、二人きりの遊びをした。時には早苗や魔理沙に聞いて、二人で出来る遊びを探したりもした。それだけ彼女が放っておけなかったのだ。
そして、この館に来てから一週間が丁度経過した。
「よし。シン、今日はもういいわ。もう夕暮れだし、もう自由にしていいわよ」
「……はい、お疲れ様でした」
勤務を終えて、シンは首元のネクタイを緩める。執事服もこの頃になれば着慣れる物になった。しかしシンには襟元までしっかりと服を着る事が窮屈で仕方が無かった。咲夜は黙認してくれているが、仕事を追えればまず首元を崩す事が茶飯事となっていた。
「ああ、シン。お嬢様から伝言があるのだけれど、いいかしら?」
「レミリアが……?」
いつもはシンに就業時間を終えた事を告げるとそのまま別の部屋の方に向かう咲夜が、珍しくシンを呼び止めた。
その違和感に、シンの頭の中に疑問符が浮かぶ。
「そうよ。今日は貴方に用があるからって。着替えた後で良いから後で館のホールに行く事。私も後で向かうわ」
「咲夜さんも呼ばれたのですか?」
「貴方と同じようにね」
口元を緩めて、微笑みながらシンに言う。最初の頃よりも咲夜はシンに対して幾らか態度が軟化した。それは、シンの執事業に対する態度がひたむきだった事が大きい。咲夜も最初はレミリアの選んだ“もう一人の人間”という観点から、シンの存在に対して嫉妬にも似た思いを秘めていたが、打ち解けられれば咲夜もいつまでも引きずる人間ではないという事だ。
シンは自室に戻って、着慣れた軍服に着なおす。私服を持ち込んではいない為、男性用の服が皆無な紅魔館では殆ど着の身着のままでいるしかないのだ。だからと言って仕事の合間を使って洗濯は欠かせていないし、少なくはあったがレミリアからのご褒美という名目で幾つかの賃金も受け取った。今度里に向かった時には、お気に入りの服を選ぶことも悪くないだろう。シンはそう思っていた。
戻ってきたついでに、隣の早苗の部屋をノックしてみる。……無反応だった。彼女は今日も図書館の方で頑張っている事だろう。もう少し日が暮れるまで、彼女達は向こうに留まる事はここ数日で明白だった。
―――行くしか、無いか。
特に気にする私事も無かったので、咲夜の言葉に従う事にした。紅魔館の間取り中心部に広がる、ダンスホール。咲夜によると時にはここに招待者を呼んでパーティーを開くことも珍しくないらしい。つい最近では、宇宙に飛べるロケットが完成したあかつきに祝杯をあげた事もあるらしい。その時は大いに盛り上がっていたそうだ。
最後の扉を開いて、その広大な空間にシンは一人たたずむ。咲夜に言われてきたが、レミリアの姿が見えない。と思ってら、部屋の中心にいつの間にか咲夜の姿があった。いつも通りの神出鬼没だ。一々驚く事も無く、彼女の登場に慣れてしまった事も、この世界に馴染んだ証明になるのだろうか。シンは一人納得する。
「咲夜さんだけですか?おかしいな、レミリアの奴、遅れてるのか……?」
「お嬢様なら来ないわ」
咲夜の口から出た言葉は、呆れに浸っていたシンの意識を急激に引き戻す格好の材料となった。その良く響く声がホール内に広がったことから、咲夜がいつも以上に大きい声を出したことに気付く。
いや、実際に咲夜は対して声を上げていない。ただ、言葉に強い意志が秘められていた事が、自然と空気中を良く通る声を生み出したのだ。
「シン」
―――トッ。
固い音が足元で響いた。即座に首を傾けて、そこに在るものを確認する。小さいナイフだった。持って使うにも困難な程短い柄に軽量化の為の無数の穴が空いており、鋭利な切っ先が床に突き刺さっている。これがもし、シンの足に命中していたのならば、苦悶の声をこの空間に響き渡らせていた事だろう。爆発するようなカッとした感情が即座にシンに湧き、「危ないじゃないか!?」と咲夜に叫びを浴びせかけようとした途端―――
「抜きなさい。この十六夜咲夜が貴方との一対一の勝負を所望するわ」
投げた方の右手を真っ直ぐにこちらへと伸ばし、冷徹な表情で咲夜は宣言した。
「!?」
即座に彼女の身体はこちらへと跳躍した。僅かに反応が遅れはしたものの、危機感から既にシンの頭はかつての緊張感に支配されていた。後方へと飛びずさって、近づいてきた咲夜の一閃を躱す。胸の部分を真一文字に薙いだ、殺意の籠った一撃だった。その容赦の無さに冷や汗が噴き出る。
「何の真似ですか!貴方は!」
この問い以外に何があろうか?シンの呼びかけに咲夜は答えず、ただ鋭い視線を向けるのみだった。文字通り、目の色が違いすぎる。明らかにいつもの仕事に対して生真面目な“十六夜咲夜”では無い。もっと冷たく、近づくことも出来ない刃同然の存在が目の前にいた。
「お嬢様からの指示よ」
「!」
「シン・アスカ、貴方を殺す」
片手にナイフを携えて、咲夜は再びシンへ跳ぶ。これ以上の問いも話も無駄だ。シンは床のナイフを取らず、懐に収めている手慣れたコンバットナイフを右手へと収める。実際の戦場では一切振るった事の無い、穢れを知らない武器だ。
「どうして……」
絶望感だけがシンの中にあった。彼女に対する信頼も、恩義も。何もかもかが一瞬にして否定された気分になり、目の前にいる存在が忽【たちま】ち敵であるとしか認識できなくなる。
「……ちっきしょおおおおっ!」
感情が沸点を通り越して、シンは怒りの声を上げて咲夜の方に身を躍らせる。真紅の空間の中心で、二つの刃は正面から交わった。


PHASE- 40 ふたつの紅


銀の刃と鈍色の刃がけたたましい音を立てて交錯する。一直線に付き出された鋭利物の間では、摩擦熱からの微細な閃光が発生し、互いの操り主の持つ闘争本能の様に燦々【さんさん】と輝く。
血の様に彩られた真紅の空間の中心。紅魔館のダンスホールの中で、シンと咲夜は戦っていた。片方が利き手に収まるナイフを突出させ、受け手であるもう片方は必死の形相をして躱す。あれが当たれば最後、深手は免れない。シンはそう理解している。軍隊で学んだ武器の脅威は、いざ目にすると恐怖の感情と隣り合わせに陥る。
―――間違いない……本気だ!
咲夜の冷静な表情を崩さずに放つ、銀のナイフの一閃は一つ一つが巧妙だ。ただ真っ直ぐに斬りつけてくるのではなく、常に間合いを一定に保って刺突してくる。二、三連続で躱しただけで、冷や汗が服の下を覆ってくる。それはつまり、自分が咲夜の殺気に圧されているからに違いない。
だからとは言え、このまま回避に甘んじていてはいずれ姿勢を崩されて決定的な一撃を貰う。そうなるわけにはいかない。シンは彼女と距離を離す為に、極めて最小限の動きで咲夜にコンバットナイフを突き出す。彼女のシンプルで、軽量化が図られたスローイングナイフとは異なり、近接戦闘における実用性を重視したそのナイフは、刃渡りが長く、反射性を抑えられるように無反射加工が施されている。単に間合いを図るだけならば、リーチの長い得物を持つシンの方に優位性がある。
しかし、咲夜が館で働くメイドとはいえ、刃物を扱う以上彼女は素人ではなかった。即座にシンの伸ばした腕から身を翻し、そのまま腕を脇で抱える様に捉える。心臓がバクンと高鳴り、反射的に逃れようと力を込めるが遅すぎた。その細い女の身体からは想像できない力強さで、咲夜はシンを背負い投げる。密着時からの非の打ち所がない対応だ。シンは受け身を取る事もかなわず、そのまま大理石で出来た床に背中から叩きつけられる。
「くっ!」
痛みを味わう暇も、彼女の容赦の無さに動揺している暇もない。床に投げつけられたと同時に咲夜の手からナイフが来る。その危うい輝きが自らの脳天を刺すよりも先に、シンは無我夢中で咲夜の腕を膝で蹴って弾く。少しでも狙いがブレれば十分だ。そのまま今度は床を蹴り、咲夜のナイフが届かない距離にまで後ずさる。
「やめてください、咲夜さん!貴方はこんなことする人じゃないだろ!?」
そこで漸く彼女の行動を諌める言葉が出てきた。この一週間、あれ程までに自分に対して親切に接してきた彼女が、なぜそうも冷たい眼差しを浮かべて立ちはだかるのか。理解できない。理解できる道理もない。だからこそ悲痛な叫びがシンの口から響き渡った。
「さっきも言った筈よ」
返ってきた言葉は、淡々とした呟き。十六夜咲夜が常に浮かべているポーカーフェイスと親和性が高い、感情表現の薄い落ち着き払った声。しかし、その裏に読み取れる彼女の優しさが微塵も伝わってこない。その手に持つ刃と同じ様に、冷たい態度と近寄りがたい発気が、シンの背筋を逆なでる。
「貴方を、殺す」
「……なんでなんだよ!」
咲夜の一声で、シンと彼女は再び同時に動いていた。シンは咲夜を止める為。咲夜はシンを殺す為。再び彼らの刃は交差する。自らの刃に殺意を込められない事が却って腹立たしい感情を呼びこまれる事に、苦汁をなめる様な想いでシンは堪えていた。


「はあああっ!」
勢いと共に、シンは咆哮する。力の籠る彼のナイフが咲夜の片手にあるナイフと交わり、もう何回目になるかもわからない接触が起こる。
彼女に対して向けられるのは、殺意ではなく疑問。だが迷ってばかりでは彼女の勢いに呑まれる。感情を押し殺して、彼も咲夜に斬りかかる。腕を横に振り、彼女の身体を薙ぎ払おうと前に出る。身体、腕力、技量ならばこちらも引けを取らない。アカデミーでのナイフ戦績は決して伊達では無かった。ブランクはあれど、大戦時の緊張感は常にシンの力を研ぎ澄ませ、錆び付かせてはいない。
―――引き付けて…躱す!
咲夜の反撃が来る、咄嗟に身を引いて回避に転じる。成功だ。咲夜の切っ先は空を薙ぎ、隙が生まれる。
そこをシンは見逃さない。彼女の懐に飛び込んで武器を取り上げようと突進した。せめて怯ませて組み合う事が出来れば、無理矢理にでも話し合いに持ち込める。それを狙っての行動だ。
だが、考えが些か甘かったのか。
「そんな攻撃!」
咲夜の声に初めて明白な怒りが込められた。伸ばした腕の先に存在していた筈の彼女の身体は、いつの間にか遠ざかっている。当然シンの腕は届かず、勢いで床に転倒する。
―――避けられた!?
まただ。彼女の周りで起こる、一瞬の出来事。調理、移動、そしてこの戦い。いずれにしてもシンの認識が追いつかず、咲夜の姿を認識した時には既に常軌を逸した行動を遂げている。今回のケースもそうだ。シンの対応は完璧だった筈なのに容易く躱されてしまい、かつ反撃へと咲夜は移ろうとしていた。
「マジック―――」
咲夜の天に上げた両手には無数のスローイングナイフ。その鋭利な刃が並ぶ様に、シンの肌を汗が伝う。理解よりも先にシンは判断していた。何よりも回避を優先せねばと―――!
―――速い、けど!
訓練で叩き込まれたナイフの動きではない。通常、ナイフの投擲と言うものは、攻撃を当てる事よりも躱された後の鹵獲を考慮すればデメリットの方が大きく、手段としては積極的に用いる物では決してない。だが、咲夜の攻撃は実用に十分耐える術だった。銃ほどではないがその速度でこちらに到達する様は、ほぼ一瞬。彼女の手よりナイフが離れる前に動いて尚、ナイフはシンのすぐ隣を通過した。
―――目で追えない動きじゃない!
射線をいち早く予想できていた事が回避の成功に繋がった。最低限、ナイフの向かう先さえ読んで動き続けていれば、一直線の軌跡を描くナイフから逃れる事は容易だ。最も、ナイフの戦闘に長けている者しかこの理屈は通らない。シンの反応の速さは、数あるザフトの兵士の中でも随一を誇る。それは決して生身の戦闘で腐るものではない。
反撃に入る。投擲術では圧倒的に向こうに分がある。こちらが軽はずみな猿真似をした所で簡単にいなされるだろう。ましてや、こちらの武器はサバイバルナイフ一本で、咲夜のナイフを鹵獲して投げつけようにしても、鋭く撃ち込まれたナイフは遥か後ろの紅い壁に刺さっており、抜く動作自体が封じられている。ならば、活路は唯一。
咲夜の投擲を避け続けて手数を誘う。ナイフが強くとも、いずれ撃ち続ければ残量切れを起こす。しかし、この戦法をとるには絶えずシンの反応が咲夜の投擲を上回らなければならない。少しでも遅れれば、ナイフによって串刺しは免れない。やれるか?だが、他の戦法が思いつかない。とにかく、彼女を斃すにしろ、止めるにしろ、接近しなければ話にならない。持ち込んでいる自動拳銃で応戦しようにしろ、懐の銃を抜く動作までに咲夜がナイフを打ち込む暇はいくらでもある。
そう考えている内に、第二波を告げる風の裂く音がシンの耳に届けられる。ナイフを受ける、弾こうと思うな。右に、左に、相手の射線から最短で外へ逃れる方法を一瞬で模索、そして判断し、シンは駆ける。
―――そんなもんに! 
心中で吐き捨て、咲夜との距離を確実に詰める。彼女とナイフは、奇妙な程の親和性がある。その理知的な性格、洗練された華奢な姿。ミステリアスな言動と行動。全てが十六夜咲夜と言う人間を象徴し、研ぎ澄まされた武器であるナイフの使い手に相応しい。
しかしシンとしては、彼女は紅魔館で信頼していた人間であった為に冷静ではあっても冷徹な人であって欲しくなかった。ましてや、自らを殺害しようとする者だとは予想外の何物でもない。
「騙したのか…!?」
シンは衝動的に咲夜へ呼びかける。彼女の落ち着いた笑顔と、確かに信頼できるその存在が、否定されることが苦しくて仕方がない。こうして彼女と相まみえるだけでも、シンの心は削られていく。
「貴方も、レミリアも……騙してたのか!俺を、俺達を!」
「応える義務はないわ」
それ以上咲夜は応えない。もう限界だった。彼女を止めようと今まで考えていたが、その迷いを完全に捨てる。今は早苗達の事も、目的の医療書類の事も、全部思考から外す。今のシンにあるもの。それは、目の前の敵に対して最大限の力を用いて対処する事。その手段の中には、殺害を用いて攻撃を止める事も最早辞さない。
「はあああっ!」
今まで持っていた“手段を考える”事を全て放棄し、集中。視界が絞られ、シンに見えているは、彼女の放つナイフと彼女のメイド姿だけ。自らの得物を、あの敵に差し込めばこの煩わしい刃の群は消える。その極端な持論が浮かんだと同時に、シンはすぐに行動へ移していた。
さらに距離は詰められ、とうとうシンのナイフの距離にまで咲夜との間は狭まる。
この間合いなら、やれる―――
シンの一撃が咲夜の胸へと放たれる。鋤骨で止まらず、確実な一撃を与えられる様、刃を水平にして身体の中心を捉える。正しく、シンの得意とする距離だ。幾ら遠距離で咲夜が優位に立っていたとしても、近寄ればその対応の切り替えにはほんのコンマ数秒のラグが生物である以上発生する。叩くならば、今しかない。
今まで幻想郷の住民に向けた事の無い、確かな殺気を込めてシンは腕を伸ばす。一瞬が永遠に感じる程の緊張感が意識を支配し、その切っ先が吸い込まれるように咲夜の肩口に差し込まれる寸前―――
既に咲夜の右腕に在る刃も、自らの脚へと伸ばされていた事に彼は気付いてしまった。
≪場面変更 早苗視点≫
心がざわついた。不意に、それも図書館で相変わらず書物を探している最中に。
早苗は、この一週間書物の海を漁り続けていた。本、本、本。無数の本。和書、洋書区別なく、紙と紙の間に挟まる言語の羅列を通し続けるだけでも、相当な作業量。初日の一件以来、魔理沙、アリス、パチュリー、三人の魔法使いの少女も力を貸してくれているものの、その結果は芳しくなかった。
「ああもう、何時まで経っても見つからないじゃないか。ったく、シンの言葉で紅魔館に来てみたのはいいんだがな、ここまで難儀するような本探しは初めてだ。アリス、パチュリー。お前らの方はどうだ?」
「ええ、私の方も少しは探すようにしているけど、見つけたかと聞かれたら答えはノーよ。私の人形もセミオートマトンで探させているけれど、手掛かり無しね。シン君には悪いけど本当にあるのかしら、その資料。ただの医学に関する本ならば少しは見当たるけれど、あの子が言っていたのは遺伝子に関する物でしょ?そんなの全然見ないわ」
アリスは肩をすくめ、呆れた表情で深い溜息を吐く。彼女の方も早苗と魔理沙と同じく、結果はゼロらしい。
「小悪魔、首尾は?」
「はい、パチュリー様。こっちも時間の持てる限り探してみましたが、該当書籍の件については見当たりませんでした。それと……使い魔の身でありながら皆様に質問なのですが、本当にそのような本はこの図書館に存在するのでしょうか?私はこの図書館の管理を務めている以上、殆どの本の概要を覚えていますが、遺伝子に関した書籍は記憶にございません」
「では引き続き、図書館での検索を続けておきなさい」
「おいおい、パチュリー。お前ここの管理人だろ?なんでお前が把握せずに、使い魔に任せっきりなんだよ?あれか、余りに引き籠り過ぎて本を読むのがめんどくさくなったのか?」
「違うわ、興味の無い物は覚える気が無いの。この図書館は無縁塚や幻想郷に紛れ込んだ外の世界の書籍もあるけれど、この膨大な数から一つを特定しようとすればたった一週間程度で出来る訳ないわ」
傍から聞いていた早苗は焦れる感情に揺り動かされるが、無言を保つ。弱音は吐きたくなかった。例え明確な答えが簡単に見つけられなくても、この行動には人の命が圧し掛かっているのだ。見ず知らずの人物とはいえ、見捨ててはおけない。シンと共に行動するなら尚更だ。どんな逆境でも、彼と共にいるのならば何としても完遂させる。その折れない意志が早苗にはあった。
「そもそも、貴方達は里の医師である八意永琳に頼まれてここに来たと執事から聞いているけれど、彼女がこの図書館を指定したの?何でこの場所に来ようと思ったの?」
「永琳の事はシンから聞いたけど……私は、シンが香霖堂でいきなり紅魔館の事を聞くもんだから……あっ」
魔理沙がパチュリーからこの建物に足を運んだ理由を問われ、半ばまで答えた所で何かに気付いた。その語尾の響きに、その場にいた他の四人全員が魔理沙の方へ注目する。
「なあ、早苗」
「…はい」
急に雰囲気が引き締まるのを早苗は身近に感じた。いつも飄々としている彼女が急に押し黙り、真剣な表情を浮かべたからだ。そこに先ほど感じた予感が重なり、早苗は胸を鷲掴みにされたような悪寒を覚えた。
「ここに行き出すと言い始めたのって、確か―――」
「シン……ですよね」
答え合わせを早苗が言う。当初シンと早苗は、水蜜を連れて香霖堂の方へ向かっていた。結果的には当てが外れたのだが、シンの提案によって初めて紅魔館に足取りを向けて今に至るのだ。
しかしよくよく考えてみれば、シンは何故この場所を思いついたのだろうか?この世界の地理に疎く、知識も早苗以上に深くないというのに。
それ以前に、それを言い出したタイミングは何時だった?
≪回想 香霖堂≫
『霖之助さん!』
『ん、どうしたんだい?』
『“紅い館”って……心当たりありませんか…?』
違う、その直前を思い出すんだ。早苗は自分にそう言い聞かせて記憶を辿る。その時点では既にシンは紅魔館の事を知っていた。だが、何時?
『シン、一体どこへ?』
そうだ、あれは―――
魔理沙、水蜜と三人で共に茶を啜っていた時。その時シンは。
『ちょっと休憩。外で身体でも伸ばしてくるよ』
そう言い残して、彼は外へと身体を向けたのだ。自分達が一時にうつつを抜かしていた後には、シンは既に紅魔館の存在を香霖に示していた。
詰まる所。
彼から目を離していたあの間に、新たな知識を付け加えた何かの存在が、香霖堂の外にいたシンに接触したのだ。
「そう言えば彼、最近ここに顔を出す時間も少なくなってない?」
アリスは不意に何かを思い出したらしく、唐突に口を開く。
「あ?何を言い出すんだアリス?」
「いや、気にはなっていたんだけど……彼、シン君って紅魔館【ここ】の執事としてレミリアにスカウトされたんでしょ?その仕事ってどれくらいの時間なのよ?」
「え、それは―――」
「彼本人がここにいないから聞きようがないけど、大体昼間の忙しい時まででしょ?そういうお手伝いさんって。私だって人形を生活の補助に使うけど、ずっと行使させるなんてもってのほかよ。そうだとしたら働いてる人達だって主に付いて行かないでしょ?」
「最近は外の異常な気質に影響されて、妖精メイド達が使い物にならないからね。レミィは里の人間達を使って労働力を充てているけれど、図書館【こっち】は小悪魔だけで十分よ。ずっと顕現させておくと力の消費が多いけれど、じっとしてれば自然回復と対等だから心配ないわ。だから私は此処から動く必要が全く無い」
「体のいい言い訳だぜ……天才は言う事が違うね」
精霊魔法を扱うには多大な霊力を要する。それを蓄えて置けるパチュリーの保有霊力は魔理沙とアリスに比べれば大きく差が開いていた。当然魔法の規模にも直結する要因である為、単純な威力ならば魔理沙の光熱魔砲に匹敵。アリス以上に汎用性の高い魔法も行使できる。それでもパチュリーが二人に引けを取る原因があるのは、パチュリー自身のコンディションの不安定さだろう。日頃の不摂生が魔力で強化した身体を上回り、本来魔法使いに起こり得ない喘息が現れる様になった。それ以来パチュリーは持病に苦しみ続ける生活を送っている。
「私だって、医療の資料が手元にあれば可能な限りで自分の治療に役立てているわ」
「意地張らずに貴方も外に出て永琳さんの世話になればいいじゃない。何でも魔法で代用しようとしたら、思うようにいかなかったりコストが大きかったりするわ、パチュリー」
「私はあまり利器に頼るのが好きじゃないのよ。同様に便利な技術による楽もね」
パチュリーは相変わらずの不動を保ちながら、椅子の上でハードカバーの書籍を読み耽っている。人と話すときもこんな調子なのだ。外出そのものも好みではないのだろう。
「とにかく、シン君は仕事が終わって、ここに来ない時何処にいるかって話でしょ?早苗、魔理沙。貴方達に心当たりはないの?」
「心当たり……ですか…」
早苗には想像できなかった。只でさえここの住民とは希薄な間柄であるというのに、シンが興味を示すものなど思いつかない。
「ふん…レミリアがあいつ誘ったんだし、なんか裏でやっているのか?それとも…いや……」
対する魔理沙は何かしらの見当が幾つかあるらしい。早苗がこの世界に来るより前からの付き合いであり、且つ早苗とは違って関係も深い方だ。
「パチュリー、お前。“あいつ”についてなんか喋ったか?」
魔理沙は意図的にイントネーションを変えて間接的表現で問いかける。それを理解し、汲み取れたのかパチュリーはで首を縦に振り、
「ええ、所々抜かしてるけど」
と付け加える。その意味あり気で、理解できない人間を度外視した会話内容に疎外感を受ける早苗。当人同士の話程、聞いててじれったい物は無い。
「大体把握したぜ。シンの寄り道の行き先と、レミリアの対応にな」
魔理沙は自前の帽子の鍔を小さく上げて、口元を曲げる。その明るい表情と大きな態度が表に出る時は、魔理沙が確固たる自信を持った時だ。それが例え根拠の取れないものであろうと、彼女は一つの事を信じて疑わない。そして、霊夢の勘と同等であるが如く、最終的にそれは正しい判断である事も多々ある。
「おい、お前ら」
そのまま、魔理沙は自分以外の皆に対して言い放つ。
「こんな固っ苦しい事やってないで、本館の方へ向かおうぜ。中々スリルな出来事が起きているかもしれないしな」
早苗は魔理沙の無遠慮な態度に辟易しながらも、彼が遭っているこの紅魔館での出来事の真相を知りたいが故に、その言葉に従う事にした。
「小悪魔は残っておいて。私達は一端席を外すわ」
「了解しました、お気をつけて。パチュリー様、皆様」
その後を小悪魔は主人の出迎えを称えるように、優しく手を振って見送っていた。
≪シン視点 フラン登場≫
刃が来る。咲夜の無慈悲な軌跡がシンの大腿部へと伸びるその瞬間が酷く緩慢に見えてしまい、世界自体が止まってしまったのかと錯覚してしまう。懐に飛び込まれてしまったのが運のつきだ。反射的に背後へ飛びずさろうにも、足が木の根の様に張り付いてしまい、自由な行動が出来ない。意識が身体の反応を超えてしまったのだ。これでは彼女の一撃に息を呑むか、怯えるしかない。
まだ、まだ死ねない。この幻想郷で命の危機に瀕するのはもう何度目になろうか。自分はまだ殺されるわけにはいかない。湧き上がる生への渇望と、面を点に変える程の強烈な集中力を持って眼前の出来事に対応する。やがてシンはその迫りくる刃以外の全ての意識を払い、神経細胞を極限まで行使させた結果―――!
≪SEED≫
既に、シンの中にある“種”は弾け、その感情は怒りと哀しみの二つに支配されていた。
同時に、今まで意識に追いつかなかった身体が少しずつ――しかしこの一瞬では極めて機敏な速さで――動き出した。彼の内側に眠る“S.E.E.D”による道理を覆した超反応が、身体を意識速度と同等へと追いつかせる不条理を生み出したのだ。
シンは咲夜に向けていたサバイバルナイフを退かせ、全力で床を蹴る。直後、咲夜のナイフが空を薙ぐ。彼女は確かに仕留められると確信していたのか、その一辺倒だった不変の顔に亀裂が入った。眼をあらん限りに見開き、必殺の一撃を躱したシンに対して視線を向けた時には、既に状況が違いすぎていた。
「ああああああああッ!!!!」
情念だけで象られた絶叫同然の響きが、シンから発せられる。空いた左腕で咲夜のノーガードであった肩峰【けんぼう】を殴りつける。その一瞬だけで良い。彼女が倒れ、その隙を露わにしたのならば後は全力で止めを刺すだけで良い。
しかし、この反応を持って尚、咲夜はシンの動きに引けを取らなかった。左手が咲夜に衝撃を与えた途端、咲夜の長い右脚が頭を蹴りつけてきた。お互いに苦悶の表情と激痛による呻き声が露わになり、双方床に倒れる。
だが、まだだ。まだ戦いは終わっていない。シンも、咲夜も。前方から目を離さず即座に握っていたナイフに更なる力を込める。痛みを堪え、二人は可能な限りの最短で立ち上がる。それはほぼ同時だった。最早言葉での疎通も意味が無い。今の二人に交わす事が出来るのは、言葉ではなく刃による執念のぶつけ合いだけだ。少なくとも、シンはそう捉えていた。
もうお互いに体力は限界同然だった。これ以上の戦闘は不可能とみてもいい。だが決着を付けなければ、彼女を倒さなければ。立て続けの感情の波から、その事しか考える事が出来ない。体全体で呼吸し、自らの不利となる感情と神経を全て押さえつけ、最後の一撃へと移行する。
咲夜も同じだった。それまで投げていた無数のナイフと超反応は鳴りを潜め、ただ一つの刃だけを構える。それだけの痛みを負ってまでして咲夜は何故自らに相対するのか。しかし、それを問う事は無理だった。今のシンには付け入るものが何もない。純粋な闘争心で満たし尽くされていたからだ。
彼女の持つその理由も謎も知らずのまま、シンは駆けた。全身に鈍痛が行き渡っているというのに、更なる速度で動く事が出来た。これならば咲夜に追いつける。瞬く間にゼロ距離へと近づき、咲夜へとナイフを振りかぶった。
咲夜は、避けなかった。
シンの切っ先をあろうことか素手で受け止め、掌を貫通した。裂かれた皮膚から夥しい血が刃を濡れだし、シンの方もその光景を目にして研ぎ澄まされた感覚が元に戻った。それでも咲夜は無抵抗では無かった。彼女の右手のナイフはシンの腹部へと刺さり、互いに深手を負う。
「あ…!ああっ!んああっ!くぁ…っ!」
「ぐうううっ……!!」
分泌されきったアドレナリンが痛みを多少和らげてくれるものの、もう彼に戦う事は出来なかった。力が急に抜け、その場に倒れこむシン。咲夜は左手を犠牲にするだけで済んだのが幸いなのか、まだ立つ事はできた。無論荒い息が吐き出され、その表情は決して常の彼女ではない。
「シン……!?」
咲夜の耳に女の声と爆発音が入る。この声は―――とても聞き覚えのある声だった。だが、ここまでの必死な響きは今まで聞いたことが無い。
ホールの出入り口の扉を粉砕し、そこに立っていたのは、真紅のドレスを纏った少女。背中からは虹色の翼を広げ、普段ならば地下の密室に籠リ続けている禁忌。“お嬢様”――レミリアと同じ種族であり、肉親でありながらその秘匿された影の存在は、決して今の様に表の世界に出る事は許されない。
なぜ彼女がここにいるのか。その疑問すら不必要だろう。吸血鬼は人間以上の身体能力を持っている。あの程度の扉など容易に破壊することは明白の上で放置していたのは、他でもない咲夜なのだから。最も、彼女を地下に留めておいたのはレミリアの矜持とフランの意地によるものだが。
「咲夜が………!お前がシンを…!?」
怨嗟の声が満身創痍の咲夜に向けられる。その言葉を肯定もしないし、否定もしない。
そもそもこの戦いの発端はレミリアの命であり、自らの意思でもあった。
「違う………“アイツ”ねェッ!!」
フランは吠え、その右手をこの館と同じ色である真紅の光を纏わせる。彼女の固有能力である“ありとあらゆるものを破壊する程度の能力”。万物に存在する“破壊の目”を見抜き、その小躯とは反比例な霊力を使って“目”を破壊し、相手を滅ぼし尽くす暴力的な力。瞬間的な威力ならばパチュリーの精霊魔法を軽く凌駕し、吸血鬼とて消し炭になる事は免れない。加減が出来ない以上、殺戮以外の結果が存在しないそれが今、咲夜へと向けられている。
「アアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
しかしそれが発動してしまったら最後、自制すら効かなくなるのが最大の欠点であった。フランの愛くるしい表情は消え失せ、狂気に委ねた歪な顔が表に出たら最後、全てを壊すまで止むことは無い。それを回避する手段は……フラン以上の力を以って、フランを倒すことだった。
フランの掌底が近づく。立つ事すら全力を使っている咲夜にはもう回避行動をとることは出来なかった。ここで命を落とすことも、レミリアの見通す運命の中に示されているのか。
「あ―――――――――」
そう覚悟した直後、フランの勢いは消えた。血の閃光をもたらす掌は光を失い、耳をつんざく狂気の叫びも一瞬にして止む。フランにも何故そうなってしまったのかが理解できなかったのか、押し黙って自らの身体に視線を移した。そこには。
「黙りなさい、我が愚妹【いもうと】」
フランの身体を巨大な槍が貫通していた。咲夜のナイフとは異なり、血の一滴も垂れていない刃。フランがそれを視界に入れた途端、急激な痛みが声となって表れた。それもつかの間、叫びをあげた後にフランは床に伏せる。あまりの激痛に意識を失ったからだ。倒れたフランの背後―――“グングニル”の槍が飛んできた方向に立っていたのは、紅魔館の主、レミリアだった。
―――ああ……お嬢様。
自らが慕う存在を目にすると同時に、安堵感が現れる。全身から力が抜け、倒れるシンの横に身体を投げる。最後にレミリアの姿を目にしただけでも咲夜は満足し、そのまま殺気を放ち続けていた両目は柔らかく閉じられた。
≪早苗駆けつける シン、咲夜、パチュリー&アリスに治療≫
最初にその無残な光景を目にした時、早苗は危うく意識を失いかけた。
魔理沙の誘導で紅魔館のあらゆる広部屋を行き来し、その過程でダンスホールの扉を開くとそこには、血に塗れていたシンと咲夜。二つの姿が在った。
恐怖から悲鳴を上げる事は出来た。だが、それを早苗以外の誰もしなかったから懸命に耐える事にした。しかし、動揺の色は魔法使い三人とも例外なく顔に表れていた。
「治療を!」
そう初めに言い出したのは、意外な事にあの低調子が普段のパチュリーだった。それまで駆けもしなかった彼女は即座に二人の傍へ座り込み、霊力を集めた光を咲夜に、空いたシンにはアリスが添えた。
治癒魔法。魔理沙は攻撃のみに特化した魔法しか扱えない為、行使は不可能だが。純粋な魔法使いである二人ならば別だ。霊力を魔力と言う名の別物質に変換させ、操る“魔法”には、生物を癒す使い道もある。細胞を活性化させ、自然治癒を加速させる方法は魔法の中でもスタンダードで重要な部類だ。かつて白蓮がシンを治療したのも、この魔法によるものである。
出血が見た目ほど酷くなかったのが幸いだったのか。治癒魔法をかけて数分後には、シンも咲夜も意識を取り戻し、激痛に呻き始める。しかしそれも時間が経てば表情が和らぎ、閉じていた瞳が彼女達に向けられるほどにまで回復した。
「シン!これは一体!?咲夜さんと一体何が!?」
早苗は切羽詰まった調子で問う。当然だ、彼らの倒れる身体の横には、血で塗れたナイフが転がっていたのだから。そこから連想できるものは殺し合い以外の何があるというのか?
「さ……なえ……魔理…沙さん、アリスさん……ぐっ」
「動かない方がいいわ、シン君。結構深いところにまで刺さっていたみたい。出血も少なくないけど、内臓は無事みたいだから、じっとしていればすぐに治るわ」
呻き声をあげて尚動こうとしたシンの身体を、アリスが優しく押さえつける。
「咲夜、貴方……」
「はあっ…はあっ…申し訳ございません、パチュリー様。お手を煩わらせてしまい、謝罪の言葉もありません……」
「そんなことはどうでもいい。とにかくこの有様は何なの?執事も、咲夜も。理由を話してもらうわ」
「パチュリーの言う通りだ、お前らこんなになってまで何やってんだ!?それに、なんでここの扉がぶっ壊れてんだ?教えてもらうぜ」
この惨状に流石の魔理沙も不安の感情を覚える他に無く、満足な会話が出来るほどにまで回復した二人から、経緯を聞く事にした彼女達だった。
≪暗転。 戦闘のあらましを聞いた後≫
出血が止まり、未だに荒い息を吐きながらでいるシンと咲夜から理由を聞き出し、彼女らは複雑な面持ちになる。
シンの方からは仕事を終えて咲夜に誘われた直後に決闘を申し込まれたこと。咲夜の方からはシンが倒れた後で、フランドールとレミリアの対峙があった事。それぞれの話は争っていた当人同士にも聞こえていた為、シンは咲夜に対して戦っていた最中持つ事が出来なかった疑問を向けた。
「どうして……どうして咲夜さんは俺を殺すだなんて……!」
「殺そうとした事は本心ではないわ……けれど、お嬢様からの指示があったのは本当よ」
どういう意味だと怒鳴ろうとしたが、そこまでの気力すらシンには持ち合わせていなかった。激しい疲労感もその一つだ。生憎、治癒魔法に疲労感まで回復させる便利な力は無い。あくまで細胞を活性化させる程度なのだから。
「あの方は、“運命を操る程度の能力”で、私を介してシンを試したのよ。貴方の中の“力”と、貴方の“翼”が行く先を、見極めるために」
「シンの力…?シンの翼?」
その思わせぶりな物言いに、早苗は混乱する。
「お嬢様はこうも言っていたわ……シンの中には、“紅い種”と“紅い翼”が見えると。後者は私に心当たりはないけど……貴方達になら分かるのかしら?」
咲夜にはシンに起きた異常な程の反応がおぼろげながら掴む事が出来た。シンの動きが驚く程迷いを捨てたものとなり、明らかな殺意を以って対抗してきた事。一歩間違えていれば、片方が命を落としても不思議では無かった。
「“紅い種”の方は分かんないけど……紅い翼って言うのはやっぱり。早苗、アレだよな?」
「“デスティニー”……シンが乗っていたあのガンダムですね」
あの機体の存在を、レミリアは既に察知していた。それも彼女の能力によるものなのか。だとすれば、その察知範囲からして彼女の目的は一体何を目指しているのか。それは聞いていた皆誰にも思いつかなかった。
「けど、前者。お嬢様の言う“紅い種”に関しては私にも理解できたわ。シン、貴方はただの人間じゃないって事が」
咲夜は同じく床に座っているシンに対し、疑問の答えを口に出した。
「貴方はただの無能力な“外の人間”じゃない。私達幻想郷の住民と同じように、何か特別な力を持っている。断言するわ」
「えっ……しかし、咲夜さん。シンは私達の様に空は飛べませんし、戦う事だってモビルスーツ以外では人並みなことしか出来ません。そんな彼に特別な力なんて―――」
「いいや、あるわ。私の能力で強化した反応に追いつくなんて、この場ではシン以外に出来ない。それに、彼は途中から私の攻撃を躱してあまつさえ、刺し違える程の結果に持ち込んだ。これが普通の人間でなくてなんだというの?」
咲夜の言葉を聞いて、香霖堂の外でも耳にした言葉がシンの脳裏で想起される。
『貴方の“紅い種”が、どのように咲いていくのか見ものね。シン・アスカ』
あの紫のドレスの女は、こうなる事を既に予測していたのか?自らの内に眠る力の存在を見破り、館の存在を教え、そこで起こり得る信頼をしていた上司との血闘の結末まで。こうして、命を落とす事も無く、紅魔館の真相にまで近づいている事さえも。
「お嬢様はシンのそれが知りたかったのよ。だから私とシンを戦わせた。あの一戦の間も、お嬢様は私の眼となってシンを見ていた事でしょう」
「そんなことが……だから咲夜さんは俺と……!?」
「けど、シンが倒れた時に誤算があった。妹様よ」
その単語がフランを指すことに、一同は直感的に気付いていた。
「シン、お嬢様は貴方が妹様と接触していた事を既に知っているわ」
「なんだって…!?」
「この紅魔館の内側にいる者の内、繋がりの深くなった存在の運命を、お嬢様は見通している。それほどお嬢様の力は強大な物なのよ。貴方を執事の任に置くことで、主と部下と言う名の繋がりが生まれた。それがまず初めに貴方に施されたトリックの一つ」
自らが執事となったことに疑問を抱いたことは何度もあった。だが、それがまさか自分の運命を覗くための手段でしかなかったとは予測出来る訳が無かった。
「もう一つは、私と貴方を信頼関係に置く事。私がいざ敵の立場となった時、シンの感情の振れ幅が大きくなるように仕向けられたものだったのよ。だから私も、貴方には出来る限りの助けを施した」
「全部………嘘なのかよ…!」
シンのその問いに咲夜は応える事をせず、最後の種明かしを続けた。
「最後の三つ目は、貴方が妹様と出会う事。館の封印を部分的に解いて彼女の境遇に貴方を擦り合わせる、そして僅かながらにも敵対心をお嬢様に向けさせる事。全てはお嬢様の計画の内。貴方の全てをお嬢様が知りたかったからよ」
「ふざけんなよ!」
怒りから、傷みすら消えて咲夜に怒声を放つ。
「そんな事の為に、俺は……フランと仲良くして……あんたの事を信じていたわけじゃない!」
「シン、落ち着いて!」
「離してくれ、早苗!俺は……!」
傷が治ったことが大きいのか、既にシンの身体は動ける程度にまで回復していた。それでも早苗が抑えつける事が可能なのは、シンの身体が大きく弱っているからだろう。
「行かなくちゃ……咲夜さんが言うには、レミリアも、フランもどっかに言ったんだろ!?俺は……!」
「けど今のシンじゃ、何が起こっても危ないです!」
「そうだぜシン!代わりに私達が向かってやるから、お前はここで咲夜と一緒に待ってろよ。早苗、シンを診てろ。アリス、パチュリー。お前達もこのままにしておけないだろ?」
「フランが暴れ出したとなれば厄介だわ。レミィに躾が出来る程、なった性格ではないだろうし」
「こんな様子じゃおちおち図書館で研究も出来ないわね。珍しく意見が合うじゃない、魔理沙」
魔理沙の号令に、治療を施し終えた二人が立ち上がる。どんな理由であれ、このまま二人の吸血鬼を野放しには出来ないのだろう。そのまま魔理沙は自前の箒に跨り、飛翔してホールの外へ飛び出す。後の二人も霊力飛翔を使って、彼女の後を追った。
「………一つ、聞いてもいいですか。咲夜さん」
「まだ私に対して……何かあるの?」
息も絶え絶えになりながら、シンは最後の問いを咲夜に向けた。傍に座る早苗も、彼の問いに対して見守る。
「『殺す』っていうんなら……何で貴方は、俺を本気で殺そうとしなかったんですか…?」
シンは見破っていた。咲夜の能力の使い所の不自然さを。超反応、瞬間移動。あの能力の詳細については分からなかったが、発動前後で特に反動は見受けられない。あの能力を多用すれば、簡単にシンの首を取る事も出来た筈だ。
「貴方の能力は一体…?」
問いに対し、咲夜は隠す必要性を感じなかったのか。いとも簡単に力の正体を二人に告げた。
「……私の力の名前は、“時間を操る程度の能力”。その名の通りこの世界全体に作用する力で、時を止めなくても常人以上の反応速度と空間操作能力を持てる」
やはり、あの一瞬の早業は、咲夜の力による結果だったのだ。咲夜の反応の良さも意識以外の時を止める事によってコマ送りの様に時間を遅めれば、シンの行動を手玉に取れるのも納得できる。例え、咲夜の身体能力が実は彼以下のものだとしても。
「こんな恐ろしい力が、存在しているなんて…!」
「けど、時間を止めれるって事は……」
しかし時を操る力。つまりそれは自らの時間だけが世界から逸脱する事と同義であり、目の前にいるこの女は今までに何度も、使用してきた経緯がある。そこから産みだされる歪んだ存在は―――
「……ええ。肉体の年齢は貴方より少し上だけど、魂の年齢は貴方よりも下。本当の私は幼くて、ずっと小さい心の持ち主なのよ……」
「そんなことが……!」
本当の咲夜はシンが信頼するような出来た人格者では無く、虚無の少女なのだ。この館で彼女が唯一の人間である以上、止めた時間の分だけ体の成長は進んでいく。レミリアの命令を実行する事しか出来ない、破綻した人間が咲夜だったのだ。
「無数のナイフを同時に操れたり、お嬢様の館で働けるのも、この力のおかげ。私は常にこの力と生きてきた。何もない私を拾ってくれたお嬢様には、どれだけ働いても恩を返しきれない。あの方の為ならば、例えに短命になろうともこの力を使い続ける」
「じゃあさっき、俺に手加減したのは……それくらい俺が弱かったからなのか?」
「そう、思っていたわ」
咲夜はシンに、戦った後では初めてとなる笑みを見せた。
「けど違った。シンの方がずっと強かった。力も、心も」
「な……?」
「貴方は私の世界を超えていた。私の速さをわきまえた上でのあの対処、その強い意志。殺し合いでは勝てても、人としての強さは貴方の方が上だった……だから私は、ここまで傷を受ける程にまで追いつめられたのね」
咲夜は達観した様に上を見上げながら、憑き物が落ちたように穏やかに語り続ける。
「シンなら、お嬢様と妹様の歪みを正せる。永く生きて醜く曲がってしまった心を、貴方ならこの紅魔館を救う事が出来る」
妖怪とはいえ、心その物は人間と大差は無い。シンがにとりや小傘と共に行動してきて学んだ事だ。そんなちっぽけな心が、時を経て摩耗する事は明白だ。だからそこから間違った考えが生まれ、心の擦れ違いを生む。人間とてそうだ。老いた者でさえも、時には執念に取りつかれて周りの人間と理解り合えない考えを生む。それと全く同じなのだ。
「だから……お嬢様と、妹様を……止めて、シン…あの娘達はきっと、紅魔館の聖堂。ここ以外で争うほど広い場所ならそこしか………ぐぅッ!」
「いけません、咲夜さん!怪我が治ったと言っても痛みはまだある筈です!」
咲夜はナイフを受け止めた左手を抑える。シンの無骨なサバイバルナイフの鋭い切っ先が、あの細い手を貫いたのだ。パチュリー曰く元通りになるようだが、しばらくはナイフを握る事すら出来ないだろう。
「早苗。咲夜さんを頼む」
「シン……!どこへいくつもりなの!?」
答えは決まっていた。咲夜の遺志を継ぐためにも、吸血鬼の少女たちを止める為にも、自分が行かなくちゃならない。先行した魔理沙達でも、彼女達を止めれるかどうか。レミリアと、フランと。両方についてある程度の理解を示しているシンでなければ、二人を理解り合えさせる事は叶わないのだ。
それに、シンには咲夜の言う“種”もある。この力を以ってすれば、せめて彼女達に言葉を届けるぐらいは出来る筈。自らの存在に気付き、シンは自分でも不思議な自信を見出していた。
「行って来る。レミリアと、フランを……止めなくちゃ」
「シン!」
早苗の静止を振り切り、血でぬれたナイフを再び拾った後、廊下に出て全力で駆けるシン。その心は、二人の幼い妖怪を止める想いに満たされ、彼のその優しさが激痛に晒され続けている身体を動かす原動力となっていた。
その背中を見守る早苗は、追って止めようなどしなかった。すればシンは却って悲しむ。かといって付いて行こうにも、ここにいる咲夜を放っておくことは出来ない。シンに言われたから。彼女を診てあげる事が自分に対する彼の信頼なのだと理解できているからだ。
「頼むわよ……シン」
咲夜はそう呟いて、ようやく肩の荷が下りる様に深い安堵感に包まれ、強張らせていた身体を弛緩させた。