PHASE- 43 亡者の帰還


傷ついた翼が墜ちる。
煌びやかなその蒼翼はもぎ取られ、ヒビさえも入らなかった天使の装甲は悪魔の機体の持つ一本の長刀に勢いよく貫かれている。
早苗の前でそれは平然と起きてしまった。愛する少年と、信頼を寄せていた友人を乗せた巨人が、成す術もなく水面に没する。抱いていた期待も希望もよそに、彼女を大きく裏切る結末が目の前に広がる。
波紋が早苗達のいる湖畔にまで届き、水しぶきと暴風が襲ってくる。冷たいし不快だ。だがそんな事は問題ではない。問題にはならないのだ。
シンは、にとりはどうなったのだろうか。必死に頭を巡らせるが、認めたくない事実しか浮かんでこない。ただ一つ言えるのは、早苗の想像の中ではすでに二人はあの長刀の炎で焼かれたことだった。
それは人の死に方としてあってはならない。皮膚を焼かれ、内臓を焼かれ、黒焦げどころか蒸発さえしてしまう残酷な死に様はあまりにも凄惨過ぎてはっきりとした想像が出来なくなるほどだ。アニメや映画の中で目にする、人が一瞬にして消えてなくなるような綺麗なものでは無い。痛く、熱く、苦しみぬいて死んでしまうのだ。例え妖怪だろうと。
一しきり叫んだ後で、早苗は目の前の事実が信じられなくなる。元の世界で散々見た戦争や紛争のニュース。見た事もない人が見た事もない場所で数多く死んでいっている世界を、早苗は生きていた。
そう、目の前の事はまさしく戦争における死に方だった。映像作品でお家芸のドラマチックな演出もなければ死に様の一言を聞ける余裕もない、本当の命の儚さ。その重みを早苗は初めて味わった。愛する人の喪失で。
「嘘………そんなの、嘘……!」
早苗の悲鳴の後で、ポツリとした一声。フランだった。彼女はそれまでにない―――とは言うものの、この中で彼女の表情を数多く知っているのはシンぐらいだろう―――恐れに満ちた顔で湖の水面を見つめる。その小躯を両手で抱きしめて震えに満ち、顔を横に振っている。見たくないと云わんばかりに。
「シン……!?」
誰一人として、目の前に衝撃を受けていない訳がない。あのレミリアも。
「そんな訳ない。私が認めたたった一人の子が―――いなくなってしまうなんて事―――そんなッ、バカなことが!」
いなくなる。死ぬという事はこの世界からいなくなってしまう事なのだ。しかし、妖怪は人間よりそれに疎い。自分達は強靭な身体と命を持ち、人間以外の死を目にする機会が少ないのだから。
周りの声が届かないぐらいの喪失感に包まれる中―――早苗は力なくして座り込んでいた湖畔の砂利から立ち上がる。その眼にはそれまで秘めていた明るさはない。
―――許せない。
涙を流して顔を滅茶苦茶にして、怒りと悲しみと苦しみに痛めつけられながら早苗は暗灰色の機体を睨みつける。身体の中にある感情だけで自らが爆発するような思いだった。
敵わないといって諦めるか?死ぬと分かって怯えるか?そんな事だってどうでもいい。今は、あの灰色の機体が許せない。憎い。敵を討ちたい。直前まで言っていた彼の邪魔だってどうでもよくなる。ただ、早苗は。
「……………てよ」
「さ……なえ?」
俯いた前髪で覆われた早苗の言葉を、近くの咲夜が聞き取る。とても小さく、か細い声。
「…………よ。………えして、くださいよ……!」
「しっかりしなさい早苗、何を言って――――――!」
許さない。許せない。許すつもりもない。怒りで真っ赤に染まった視界の中で、彼女の若葉の様に瑞々しい瞳は涙を蓄えて遠くのモビルスーツを睨む。涙腺のダムが決壊し、奥歯が砕けそうになるまで力を込め、呪詛の呻き声をあげて早苗はたった一回だけ地面を蹴った。
それだけで、全身の霊力を活かした飛翔が出来た。流星の如く空を滑り、灰色へ近づく。その中にいる人間の喉元を掴み殺してやるような想いで早苗は吠えた。
「シンを………かえしてえええええエエエエエェッ!!!!」
早苗は生まれて初めて、本当の殺意を人に向けた。灰色の機体の腹部に向かって、その内側の命を同じようにもぎ取ってやろうと突進する。
距離は遠いが、追いつく事だけならば出来た。機体の腹部に向かって白い拳を叩き付ける。激しい痛みが早苗を襲うがそんなこと気にもならなかった。代わりにがらがらの叫び声が涙と共に出るだけだ。
「返してッ!シンを返してッ!なんで貴方が生きているんですっ!?なんでシンが殺されなきゃならないんですか!?」
もし相手が生身を晒したら殺すつもりだった。神の力を使わなくたっていい。力づくで敵わないのならば、絞首でも高所からの落下でも幾らでも殺し方はある。その想いがまずかった。感情を抑えられない早苗は、目の前にまで接近を許しているというのに自分を殺そうともその場から避けようともしないモビルスーツに対して挑発されたような思いに駆られた。だから、
「なんで貴方があああああああああっ!」
コクピットブロックの正面の隔壁を殴りつける。ビクともしない、当然だ。人間の、ましてや女の拳で歪みもするわけがない。幸い“フェイズシフト”は相転移反応で表面に微量な熱を持つだけで早苗の手は自らの行ないによる打撲だけで済んでいるが、無駄だと分かっていても早苗は叩き付けた。
この声だって、シンの呼びかけの様に届いているとは限らない。でも、それでも早苗は怒りの声を上げる事しか出来なかった。


外から女の声が聞こえてくる。当然だ、既に切っておいた外部音声を復旧させているのだから。
ついに“フリーダム”を墜とした。キラ・ヤマトを殺した。だが達成感はひとかけらも無く、むしろ心に穴が開いたような喪失感に打ちひしがれてしばし指先一本すら動かせない。終わってみればとてつもなくあっけない。このような現実を生み出せたのは自らの怨嗟からなのか、それともこの機体の性能のおかげなのか。
どっちでもよかった。悲願の達成には些細な事など問題にもならない。
だが、あの機体を墜とす直前。このコクピットには一人の少年の声が響き渡った。
『レイイッッ!!』
聞こえてきた声は、ずっと暖かい響きだった。戦いの最中に思い起こされた、落ち着き払った男の声とは違う。眠っていた記憶の中で呼ばれた名前と同じ響きを叫ぶ声は、ずっと前から知っていた気がした。
『レイ!世界も君も、闇で包ませやしない!』
“レイ”。これが俺の、本当の名前なのだろうか?
記憶の中で呼びこまれた名前を思い起こすと様々な覚えが蘇って来ると同時に、激しい頭痛に襲われる。前者は混乱のたまものだが後者なら俺には分かる。そろそろ身体の限界が迫っているのだ。激しい頭痛と眩暈。現時点でこれを鎮める方法は無い。あるとするならば、最短で永琳のところへ戻って処置をしてもらうことぐらいか。だが、今いきなり機体を動かすことは出来ない。なぜなら、
「返してッ!シンを返してッ!なんで貴方が生きているんですっ!?なんでシンが殺されなきゃならないんですか!?」
外から女の声が聞こえる。澄み切った瞳を怒りの色に染めた少女の声だ。彼女がこの機体に取り付いてる状態で機体を動かしでもすれば、衝撃で彼女はあっけなく死ぬだろう。
戦いで死ぬのは、あの男か俺だけでいい―――
いや――――――“シン”、だと?
さっきからこの女が口にしている物の名は、シン。その名前は懐かしみを覚える。
俺が殺したのは、キラ・ヤマトではないのか?だとしたら、あの“フリーダム”は別の誰かが乗っていた事となる。俺が殺したがっていた敵は、別の何かなのか?
「下がれ」
外部スピーカーをオンラインにした。荒い息が混じった、まるで老人の死に際のような声を絞り出す。自分で記憶の便りを消してしまったことに苛立つ。さらには思っていたよりも自分の衰弱は酷いものらしく、大して苦戦もしなかった戦いの後だというのに俺は精一杯になりながら無様に言い渡す。
「下がらなければお前は死ぬ。蜂の巣にされるか、機体に轢き殺されるか、二つに一つだ」
“レジェンド”の頭部CIWSが女の姿を捉える。撃つと言った手前ではあるが、殺すつもりは毛頭なかった。所詮はこの世界における只の女だ、力ない事を悟れば大人しく退く他にない。それが分からない程、愚かな女ではないだろう。
「下がりません!!」
「何?」
予想とは違う。並大抵のものではない剣幕のままに、怒りの形相で吠え続ける女。もしや俺と天子の様に、“フリーダム”と仲が良かったこの世界の住人だろうか。
ならば当然か、俺がこうも恨まれるのも。俺がやったのは紛れもない殺人だ。人がモビルスーツに乗っているだけで、鋼鉄の“人”一人に変わりない。俺の手は奴の血で染まっているのだ。それ以前にも、記憶を失くす前の俺は多くの人命を銃で葬ってきたのだろう。
「貴方がシンを、シンを殺したぁっ!許しはしません、貴方だけは!」
「ならばどうする?」
俺は律儀に答える事にした。
「お前が俺を殺す気でいるならば、今すぐ俺はお前を殺す。ここで大人しく退くというのならば追いはしない。俺の目的は“フリーダム”の撃墜だけだ。お前に用は無い」
「私にはあります!貴方は私が……っ」
この女は俺を殺したがっているだろう。だが、その口で『殺す』という単語を言うあたりに留まるという事は、この女は戦士ではないという事だ。人を殺し、崇高な目的のために泥沼の戦場に身を投じる戦士。それが俺達の様な人間だ。同じ戦いという単語を使っても、この女や天子や衣玖は戦士ではない。遊びでやるのとは全てが違うんだ。
その面でいえば俺とキラは同じだ。互いに命の奪い合いに台頭する、戦士でしかない。この女の口にする、シンという者も―――!
「お前に用はない、消えろ……」
機体の動作に用いる全身の推進口からスラスターを吹かせばこの女は焼ける。このまま放置していたところでこの女は離れはしないだろうし、ハッチのロックから俺を引きずり出すことも出来ないが、俺の方のコンディションは心身ともに劣悪だ。
蘇る記憶。呼びかけられる言葉。そして………シンという響き。全てが脳裏で交錯し錯乱を呼び覚ます。あらゆる要素がグチャグチャの麺のように絡まり、今在る自分を歪ませる。これは一体どういうことなのか。“ラウ”としている己が、徐々に破片をこぼしながら崩れ落ちる感覚、とでも例えればいいのか?
『その生命は君だ、彼じゃない!君は他の誰でもない、君自身だ!!』
“フリーダム”撃墜直前に見たあのビジョン―――記憶の中のキラ・ヤマトが発したように、俺は誰かの代わりとなる事など出来はしないのか。それとも、“彼”である必要はもうないからこうも自分は空虚になっているのか…?
『未来を創るのは、運命でも遺伝子でもない!特別な力なんか無くても、人は“人”なんだッ!!』
『それが…君の運命なんだよ……』
『レイの運命は…変わらないのか?』
憎むべき敵。妄信していた父代わりの男。友でいた少年、友になった少年。男、ギルバート・デュランダルによって初めて知った己の運命。老いを遅らせる劇薬は“彼”であるラウ・ル・クルーゼも常用し、何時か自分も使うはずの避けられない未来。今味わっているこの身体の痛みはきっと、その薬を服用していないからなのだろう。ようやく正体を掴んだ。
だから女の叫ぶ名前だってすぐ掴めた。彼の名は確か…シン、シン・アスカ。目の前の女が叫ぶものと自分の友は同じ名前。俺が討ったのは大切な友の命で、俺の得られない明日に生き、守る筈の男という事。
それさえも失えば、あの生まれ変わる世界を見守る男が、自分の遺志を継いでくれる男が、全ての世界からいなくなるという事になる。
なら、俺の“運命”は―――――――――どこに在るんだ―――?
闇に包まれていた記憶が一つの点へと遡る。重ねてきたこの世界での生活よりもずっと前。激動の世界の中で闇より生まれ落ちた一つの不完全な命…それが自分。“彼”と同じ遺伝子を持ち、“彼”より生まれた命である自分の名が、記憶が、まるで地底深くから噴き出る間欠泉の様に蘇る。
そうだ。俺の名は――――――“ラウ”じゃない―――!
「ッ!」
コクピット内に警報音が急に鳴り響く。刹那の逡巡から我を取り戻し、接近警報の知らせを受け取る。
どういうことだ?周囲の様子を視覚的に表す各種レーダーに目を移すと、ただ一点が表示され、接近を許している。あまつさえ、その反応から微弱な熱源が投射されたことを機体が感知していた。
回避運動。いや、駄目だ。目の前の女が推進の炎で死ぬ。なら!
「させるか!」
“レジェンド”の右腕にある得物、“エクスカリバー”を前方に投げ込む。微弱な反応の正体はビームという名の光だった。一瞬にして高熱に晒された“エクスカリバー”は、融解と同時に内部機構がショートして誘爆を引き起こす。最小限の動きで腹部にいる女に破片が当たらない様に両腕を交差させ、俺は切り替わった頭と威勢のままに呼びかける。
「離れろ、女!」
人間や妖怪程度の攻撃で墜とせはしない。ならばモビルスーツがこの近くに存在しているというのか?そんな事があるものか!“フリーダム”ならば今しがた俺が討ったはずだというのに……!?
光の矢が降った上空へとカメラを向ける。モニターに映ったそれを見て、俺はそれに対して返すべき言葉を失うほどのショッキングに陥った。
―――あれは、そんな。
“レジェンド”の眺めるその先。関節部から黄金の輝きを放ちながら、その八つの翼を広げる巨体が空で静止している。太古の昔に人々の間で信じられていた天使の様に神々しい雄姿を放ち、天へ聳えるそれを俺はもう知っている。
そう、あの悪夢を体現したかのような翼の名は―――!


「“ストライクフリーダム”………!?」
まるで天使の転生の如く。“フリーダム”の後に現れた“ストライクフリーダム”は、早苗の上でその輝く眼光を暗灰色の機体へと見下ろし、その手に有る巨大な銃を淀みなく向けていた。


「想起、『自由への祈り』!」
「そ、その声…!?」
予想だに出来なかった現実によって早苗を襲っていた熱は冷める。ただ、聞き覚えのある声が聴覚を刺激し、これと関係のある人物はシンの世界の住民を除いてただ一人しかいない事に気づくのに数瞬かかりすぎた。
「「古明地さとり!?」」
後を追って来た二人、アリスとパチュリーが空中で制動をかけつつ名を叫ぶ。遠くの紅魔館からでも澄んだ大気の中、二つの機体を目にするのは砂漠の中から指輪を見つけるよりも容易い。だが人間大との大きさともなれば湖畔から肉眼で目にするのは難しかった。それほどまでに紅魔館とシンの戦っていた場所は遠かった。早苗は怒りの余りに飛んでいる間それすらにも気づく余裕が微塵もなかったが。
そしてアリスとパチュリーは以前に地底に向かう魔理沙と協力した際に妖怪サトリである彼女を知っていた。とっさに名前を発したのはそれだけだった。
「さとり、さん……」
「お願い“フリーダム”。あの機体を追い払って…!」
さとりの声に応えるように“ストライクフリーダム”のツインアイが眩しく光る。さとりが右手を一振りすると、意のままの虚ろな傀儡【かいらい】が銃を携えて“レジェンド”へと飛翔する。
「ロングライフル」
あれはモビルスーツではない。外見こそ“ストライクフリーダム”だが、全くの虚像で形作られた別物だ。内部に人を抱える事もせず、さとりのもう一つの手足となる人形。意思と声に呼応し―――それでいてモデルとなった本物のモーションを忠実に再現しながら―――二丁のビームライフルをドッキングさせる。“MA-M21KF 高エネルギービームライフル”のロングレンジ・ライフルモードだ。
強烈な光をもたらす矢をさとりの“フリーダム”は放った。対する“レジェンド”は避けようとしなかった。ただ“フリーダム”が現れた時から、あの機体は固まっているだけだった。
もしかして、驚いているのか。早苗の頭はやっと正常な働きを始め、相手のパイロットの推測が出来るまでに回復する。同時に、先の今まで近づいていた巨人の恐怖が遅れて全身を襲う。
―――私は…一歩間違えばもしかしなくても死んでいた…!?
直撃。“レジェンド”のボディに投射された光が命中する。無抵抗だった灰色から火が噴き出て、シンと同じ様に湖に叩き付けられ―――
「ッ!?」
「何なの!?」
「嘘!」
なかった。
確かにビームは直撃した。が、当の敵機は何ともない。仰け反りもせず、ビクともしない。初めからビームなど無かったかのように。
「そうか……さとりさんの“ガンダム”は…!」
この中で一番知っているべきは己だった。それを忘れていた自分を呪いたい。地底での一戦時、早苗はさとりの“フリーダム”からビームの直撃を受けたことがあった。だが、防護札で容易くしのげはしたし、熱は感じたが完全に防御しききる事が出来たから今も五体満足だ。
「シン君のビームじゃない…!私達と同じ、“弾幕”程度の威力しかないんだわ!」
「いくら光や熱を持っても、せいぜい魔理沙と同威力程度……直撃でも本物のアレには届かないんだわ。もし魔理沙が“マスタースパーク”を撃ったとしても結果は同じね」
「早苗が言っていたことは大当たりだったって訳ね……」
口々に魔法使い達が顔をしかめながら言う。おかしいとは感じたが気づくのに時間がかかりすぎた。本物ならば人間が兵器を生身で受け止めきれる訳がないというのに。
「“ドラグーン・フルバースト”!」
“フリーダム”が八基の起動兵装ウイングを射出、“スーパードラグーン”が自機を包囲する。本来ドラグーンシステムの端末は、その小型さゆえに“レジェンド”と同様大気圏内では使えない。重ねていえば、“レジェンド”のパイロットの様に、特異な空間認識能力を必要とするが、さとりの贋作は別物故にそれを無視できた。最先端の科学の英知の結晶でも得られない、航空力学でさえも。
大気圏中近接防御機関砲、レール砲、二丁のライフル、腹部ビーム砲、計十五基における全ての火線を一点に集中して放つ一斉射撃が、“レジェンド”を襲う。
それでも駄目だった。ビームシールドを発生させたわけじゃない、防御態勢をとったわけでもない。無防備な悪の権化をさとりは墜とすことが出来ない。討つことが出来ない。
「……“スーパードラグーン”、スパイクモード!」
名称の宣言によってさとりの持つイメージを形にする。それらには、本来の持ち主であるキラでさえ積極的に用いる事はなかった武装まで全て活用させる。蒼き羽の一片から光が生まれ、無数の刃が一挙に飛ぶ。
しかし何時までも待ってくれるほど甘くなかった。それまで動かなかった“レジェンド”も、立て続けに攻撃を受ける立場ではなくなった。腰の左右に取り付けてあるビームジャベリンでドラグーンを斬りおとす。相手の方は焦る必要は何一つなかった。どれだけ火を受けても、どれだけ刃を突き立てられても、本物の“フェイズシフト”には敵わない。傷一つさえ通らなかった。
流石にこれでは、冷静沈着な彼女の頬にも焦りの色が入る。歯を食いしばり、憤りを秘めた鋭い瞳が“レジェンド”を射抜く。
「アリス!」
「分かってるわ!」
“フリーダム”が攻撃を続ける中、“レジェンド”の空いた多角からアリスとパチュリーが立ちふさがる。二人は早苗の様に傍観者となるべくここまで飛んできた訳ではない。
「ここから出ていって!“上海人形”!」
「暗黒へと帰りなさい。“フロギスティックピラー”!」
無駄だと知りつつも、敵わないと心で本当は分かっていても、少女達は攻撃を止めなかった。その無敵の巨人に抵抗の術を持っていて、かつ邪魔であるから攻撃するだけだった。その苛烈さは、スペルカードルールの取り決め内で行われる生易しいものでは無い。全力の霊力が本気の弾幕となり、美しく強烈な輝きが“レジェンド”を包んだ。
やっと初めて“レジェンド”がビームシールドを発生させた。そして、逆噴射をかけて自分達との距離を一瞬にして離す。早苗としては逃がしたくないし、シンの事を問いたかったが、追いかけれる距離でもスピードでもなかった。自転車で新幹線を追いかけるような無謀に等しかったからだ。
―――終わった………?
誰に対してでもない、自分に疑問符を投げる早苗。だが、応える事はできなかった。応える気もなかった。恐れと絶望を一度は振り切ったはずなのに再び全身を包むように苛まれてしまい、挙句の果てに怨敵さえもいなくなった途端、早苗はそれ以上意識を保つことが出来なかった。
「早苗!?」
アリスが自らを案じる声が聞こえた気がしたが、一度乗った勢いを止める力が湧いてこない。自身の身体が浮力を失って墜ちていく様を、無気力の早苗は最早どうすることも出来なかった。


衣玖にとって、“レジェンド”が善戦しようとも、苦戦しようとも、確かな帰路についてくれるだけで『ああ、生きていてくれた』と安心することが出来た。戦いの結果よりも彼の安否そのものが第一だった彼女には、命の奪い合いの後でもう一度会えることが至上の喜びだった。
勿論被害を被った紅魔館に責任を感じて安否を気遣ったことはあるし、墜とされた“フリーダム”に対しても同情を覚えなかったわけがない。彼の戦いの理由だけに。けれどどんなことよりも、愛する男が今の彼女の中では最優先だった。
これで全てが終わった。ラウは救われる。あの三人の幸せな時が戻って来る。けれども、それが一人の敵を討つ事によって得られる未来だという事が、考えただけで吐き気を催すものだったことは平和な世界に住んでいた衣玖に重すぎた。
「ラウ………勝ったんだ」
天子は自分ほど事を重大に見ていなくてほっとした。こういう彼女を能天気、楽天家と他者が揶揄するのは容易いが、辛い現実を見続けるよりも、辛い現実を知らない方がどれだけ幸せな事か。もし気付いていたとしても、天子の性格ならば少なくとも、自分よりかはこの現実に打ちひしがれる必要はない。
そんな天子もあれだけ憎らしいほどまでにいい加減な女だったというのに、彼が現れてからは少なくとも幾分かは真面目で女の子らしい振る舞いをしていたことは、衣玖は傍から見ているだけでキッチリと知り得ていたが。分かりやすいのだ、この少女は。
「………っ…!」
衣玖は唇を噛んだ。赤い血が切れて出るまでに。肩を震わせ、歯が砕けても構わないぐらいの力が自然と入った。この痛みは、人を殺すことを躊躇しなかったラウの心の痛みの代わりだと思った。でも駄目だった。衣玖は彼じゃないから、どれだけ力を入れようとも、彼の感じるべき痛みがどれ程のものかが分からなかった。
その痛みを建前にして泣く事が出来たのは、彼を思うが故に幸せな事かもしれないと衣玖は思った。
「衣玖…泣いてるの、アンタ……?」
「……はい。彼がやったことを想うとなると、見ていられませんでした」
「………少なくとも気分がいいものじゃないわよね。機械人形を使ってとはいえ、命の奪い合いなんて……」
こういう時、天子が自分より冷静に見えたのは、彼女が元々人間だったからと思った。当然、異なる生物だからという幼稚な結びつけではない。
人間は妖怪より心がずっと強い。確証を述べた書物など見たこと無いし、理論的に説明する学者の発表を聞いたわけでもないが、長い時間を生きてきて漠然と得た知識だ。『地子』という彼女の真の名が用いられていた時では、多大な苦労を背負う時があったのか。こういう時どんな顔をするべきか考えた上で、涙で濡らした顔しか思いつかない衣玖とは違って、天子は泣きもせず、喜びもせず、怒りもせず、ただ茫然としていた。
思い返せば、彼女は自分に向けて常に不満そうな面白げのない表情ばかりしていた。彼女の泣き顔を見た事はあるが、自分が見ている回数よりも、それ以外で晒す方がずっと多いのではないだろうか。当然、自分と知り合ってからの回数に限定してだが。
自分の見てない所で、天子の方がラウの心に近づいていたのだろうか―――?
それを考えた所で、激しい妬みが生まれかけて、止めた。
「戻りましょう、衣玖。全部終わったわ。また天界で彼と一緒に過ごすのよ。永琳の治療が終わったら………今度こそ、あの子は私達と一緒になれるのよ………」
天子は身体を前に傾けて空中を滑り始める。衣玖は霧が立ち込め始めた昼の湖を一瞥した後、“フリーダム”の中にいるべき人物が脳裏によぎった。その者を、結果的に自分が殺してしまったことも。
これは、罪だろう。彼を想ってとは言え、閻魔にだって裁かれても弁解の余地がない。地獄行き―――も辞さない程の罪かもしれない事は想像に難くなかったが、所詮死んでからの事。恐れる事はなかった。
それよりもラウの抱えている真実を知らされている衣玖にとって、天子の言う三人の幸せな時間が思っている程そう長く続かない事に対しての方が余程恐れを抱くに値する事だった。


身体の緩みがない事を自覚して、自分の身体を見回すと、少なくとも身に着けているはずのネグリジェがない事を知って、『ああ、自分は夢に寝てたわけじゃないんだな』と思えることが出来た。
身に着ける物が一切ない早苗は、紅魔館で借りていた部屋に寝かされていた。ホテルで見かけるようなしっかりと伸ばされた新品同然の布地が自分を覆いかぶさり、柔らかいベッドの上で体を起こす。何時も感じていた朝の時と違うのは、気温が温かい事と、顔が激しく濡れていたことだった。
―――そうだ、私はあの時………湖に…
空中で意識を失えばそこからは簡単だ。ただ墜ちるのみ。だが、近くにアリスもパチュリーもさとりもいれば、墜ちたとしても助け舟が来るのは難くない。
多分、濡れていたはずの身体は、彼女達か今は外にいる妖精メイド達に拭かれたからなのか乾いていた。紅魔館に直属の男は居なかったはずだから自分の潔癖についてはひとまず安心する。それでも外が捜索で賑わっている中、呑気と言われるかもしれないがシャワーを浴びなおしたのは身体を洗ったという実感が欲しいのと、顔に張り付いた涙を流しきりたかったからだ。
妖精メイドが薪をくべて焚いたと思われるシャワーの温水に打たれながら、バスタブに早苗はしゃがみ込む。流しても流しても湯とは違う、暖かいものが流れるのは、最愛の少年の死を確かに自覚しているからだと気付くには、今の早苗には残酷すぎて無理だった。どんな行為でこれを慰めればいいか、早苗の頭には何通りをも方法がよぎったが、シンとにとりの無事を確かめたいからそれさえも考える事を止めた。
身体を温めて、どん底の悲しみを流しきった後は、外に出るだけだった。
巫女装束が妖精メイド―――尚、後に咲夜から知ったことだが今働いている妖精メイドは相変わらず異変の影響を受けて不調続きだったが、この時のレミリアの命によって無理矢理徴用に漕ぎつけた様である―――メイドに申し付けた結果。洗濯中の今早苗が身に付けれるものは客人用のドレスだけだった。いつの間に作っていたのか驚きだが、薄い若葉色のそのドレスはサイズが不思議なほどにピッタリで、広がる割に軽さもあって着ているだけだと服を着ている実感がないぐらい身体に馴染んだ。
外は閉ざされた世界だった。昼の太陽の光すらも陰る景色の中、よく目を凝らせば、咲夜や美鈴達に加え、二人の魔法使いにさとりの姿も。それどころか紅魔館を行き来していた妖精メイドの別陣営と里から徴用された、所謂バイトの者達も湖の水面に浸かりながら湖を探し回っていた。シンを見つける為に。
この湖の名の由来。“霧の湖”と言うからには濃霧が毎日、それも必然的に発生するのは当然だった。幻想郷の住人には何故この地域で霧が発生するのかは知る由もないが、科学による検証を元に知識を大人たちから教えられてきた早苗にならばこの世界で得た知識と合わせてその正体もわかる。
本来霧は水の粒子そのものだ。それが大気中で飽和状態となる事で、光を散らす水の粒子が視覚に現れるほどの水滴の大きさとなる事で霧と呼ばれる現象と化す。これは空の雲と変わらないが、両者の違いは地面に近いか遠いかだけだ。
さて、目の前の湖を覆うこれが早苗の世界の霧と同一かと問われれば、答えはノーだ。霧という現象の内、視界を奪う特徴は共通していたし、光を散乱させているのは宙に浮かぶ水滴で間違いないのだが、この霧の湖ではそもそもの発生源が違う。
妖精や妖怪が集まりやすいこの地は、様々な霊力が混ざる。特に妖精の霊力は自然の発生源ともされており、妖精そのものも自然から生まれるとされる為、二つは相互関係に落ち着いている。
自然の力が妖怪の霊力で刺激されたのならばそこは終始、人ならざる者の魔境となるべき場所である。わざわざ吸血鬼が苦手とされる水辺の隣にこの館を建てたのも、レミリアがこの一帯の空気を好んだと滞在している間に聞いた。
この地域では大気中の水滴が昼間に集った妖精の霊力で刺激されて特異な自然現象による冷却と過熱を繰り返し、毎日例外なく昼間に霧が発生する。この世界では無数に存在する怪現象の一つではあるが、幻想郷の常識だ。だから、元の世界の尺度でこの世界を測る事は出来ない。考えをシフトしないと、頭がどうにかなる。早苗もそうだったし、近頃はシンもこの世界の生活に慣れてきていたから自分と同じように考え方を切り替えていたのだと思う。
当たり前のことではあるが、霧が晴れている時と晴れていない時では湖から受ける広さのイメージが違いすぎる。晴れていようが、それでもモビルスーツ同士が十分に暴れまわる事が可能な相当な広さであることに変わりないから、妖精メイド達の捜索もまだ終えていないのだと推察した。


「貴方がこちらに来ていたなんて、予想外でした。古明地さとりさん。それに、こいしさん」
「………お久しぶりです。東風谷早苗、さん」
「お久しぶり山の風祝さん。いつぞやはどうも、彼とは上手くいってる?」
湖畔の浜にいたその華奢な姿を目にした時から、その方へ一直線に飛ぶことしか頭になかった。早苗は以前敵だった妖怪の彼女、古明地さとりと妹であり、シンに協力した古明地こいし二人に対して未だ暗さを含んだ声で呼びかけた。さとりも近づく早苗に対して最小限の動きで振り向き、相変わらずの起伏の少ない表情と共に返す。こいしは異なって、能天気に満面の笑みで手を振りながら唐突に問われたが、返す気分ではなかった。
さとりは地底の嫌われ者の妖怪。会話が成り立たないとまでされる能力、『心を読む程度の能力』の持ち主である彼女は、シンがこの世界に来て間もない頃に相対した者の一人だ。“デスティニー”の修復の後はこちら側が地底に戻る機会も無ければ、地底の住民が地上に来る事も無かったから対面する事がなかった。その彼女が何故地上に?落ち着いている今、浮かんできた疑問はまずそこだった。
「どうして、こちら側……地上に?」
だからまず聞くことにした。どういう経緯でこの地へ来たのか。
「………地底界と幻想郷の間では賢者達によって、自由な行き来を認めないというのが暗黙の了解でした。ですが今、過去の一件―――そちらでは間欠泉事件とも言われてましたね。それ以降から妖怪を阻む結界が地底に溜まっていた怨霊の噴出によって壊されてしまい、行き来が自由になったのです」
「地底の一件……神奈子様と諏訪子様が、一時期守矢神社を抜けていた時ですね」
よく覚えている。この幻想郷になじみ始めて元の世界で持たされた常識的な考えを忘れかけた頃、敬すべき二柱が短い間自分達の神社から仲良く姿を消していた時期があったのだ。それはこの世界で神奈子が誰の相談なしに勝手に発案した『幻想郷エネルギー革命計画』によるものであり、地底の妖怪烏の一匹、霊烏路空に核融合の力を授けていた事を当時全てが終わってから知らされた。その時の記憶が当時壊れていた“デスティニー”を修理できたきっかけにもなった。
余談ではあるが、この時の神奈子の計画によって早苗達が元の世界から持ち込んできた機械が河童達によってリバースシーケンスされ、神奈子の広めた信仰と共に外の世界の技術が幻想郷のいたるところにまで澄み渡り、大規模なカルチャーショックが起こったのは言うまでもない。河童の持つ、人間と比べれば異常とされるほどの機械への対応力もここ数年で飛躍的な進歩を遂げた。今の彼らには見た事の無いモビルスーツでさえも、触って数時間もすればその設計図のレプリカまで作れることをシンとの付き合いの中で直に目にしている。にとりはその河童の中でも先駆者であり、複雑な整備系統の塊である“デスティニー”は彼女の監督なしには他の河童でさえも簡単にさわれるものでは無かったようだ。
「だからね、私とお姉ちゃんでこっちに来ることにしたの。単に上へ行きたかったというのもあるし、何よりももう一度二人でシンにお礼が言いたかったからね。だってさ、お姉ちゃんたらシンが帰ってから毎日のようにあの子の事を話してばっかで―――」
「ちょっと!誤解されることは言わないで頂戴、こいし!私はただシンさんが、『貴方は嫌われ者じゃない』って言ってくれたのが嬉しかったから、会ってお話がしたかっただけでっ……!」
「あ、照れてる~そんなんだからお姉ちゃんはいつまでも奥手なんだよ、何事にもね」
「もう、調子に乗らない!」
こいしの言葉に取り乱し、それまで冷静だった彼女の顔が燃えるように赤面する。少し間が経ってから、それまでさとりが口にしていた彼への呼び名が、いつの間にか名字から『シンさん』と名前の方で呼んでいる事に早苗はただでさえ一杯一杯の胸がさらに追い打ちで締め付けられた気がした。
「それで……さっきのあのモビルスーツ、“ストライクフリーダム”は…?今どこへ?」
だけどもまだある疑問の波は出来るだけ解消したい。いつもならばさとりとこいしの会話にムキになって介入していたのだろうが、全て聞き流して問いを続ける。
「あれは私の能力でさっきの灰色の機体のトラウマを呼び込んだだけにすぎません。まさかシンさんと同じトラウマの形が現れるとは思いもしませんでしたが………おかげでうろ覚えになる事もなくもう一度この手に従えることが出来ました。今は私の霊力という形で何時でも呼び出せるようにしていますので、必要ない時は消しています。霊力を直接的に実体化させるだけで私の負担も大きいものなので」
「だからさっきまで私とお姉ちゃんはそこの紅魔館っていうところの妖精メイド達に話を聞きながら湖をまわっていたの。どこかにシンが流されていないかなって」
「まだ見つかっていないのですか!?」
シン、という二文字を聞いて鬼気迫る想いが蘇る。あれからどれくらいの時間がたったのかは横になっていたから具体的にはよく知らない。まだ日も暮れていない事からそこまで時間が経ったわけじゃないと思う。だが、こんなにも湖に見回りが展開しているというのににとりもシンも見つからないとはおかしいのではないのか?不真面目でいい加減なのではないかと、頭が熱くなる。
こうしてはいられない。一方的に話を打ち切って、邪魔なくらいに幽雅なドレスを翻して空へ飛ぶ。ドレスの合間から下着さえない地肌に冷たい風が吹き込むが周りの愚鈍とも見えた対応への嘆きから微塵も気にならなかった。
風を切って自分が気を失った場所―――“フリーダム”が墜ちた場所へと空を滑り行く。その場に残されたさとりとこいしは早苗の必死な様子を見て、まずこいしが口を開いた。
「彼女、シンが好きなんだね。お姉ちゃんもああいう風に顔に出してみれば?そしたらシンなら振り向いてくれるかもよ?」
「そ、そんなことないわ。私は別に彼が特別好きってわけじゃないもの。第一、人間の方との付き合いってよく分からないわけだし……それに、単にシンさんは私の友達になってくれた人なのよ。好きとかどうという事とはまた別なの」
さとりには何時でも思い出せる。シンが言ってくれたあの言葉。自身の運命を変えてくれた魔法の言葉。
『これから俺達は……俺とさとりさんは友達だ』
『俺達はこうやってお互いに話すことが出来て、分かり合えるから。さとりさん』
その言葉を信じている。心を読む能力はどうしようもなくたって、目を逸らすことはできる。耳をふさぐことはできる。出来る限りの対応を凝らして、他者との相互理解を進めることが出来る。それがいまのさとりの生き甲斐で、地底の民との確執を埋める道だった。
その道しるべを作ってくれたシンの事を想わないはずがなかった。さとりは彼の事を思うと顔が赤くなるし、心が熱くなるし、誰かにこの想いの正体を聞きたかったりもした。だが持ち前のシャイな性格がそれを阻むから、所謂色恋事で誰かに相談したことはペットは勿論、妹のこいしですらも話したことは無かった。
それはさとりの認識からすればならだが、実は当の前から今さとりの隣にいるこいしはさとりの今気にしている彼の事についての心境を読み取っていた。妖怪サトリとしての能力を一切使わずとも、姉の心が読める。それが出来るのはこいしが能力を封じて人間や他の妖怪と同じように表情や態度で他者を推察できる力を得た事と、さとりの思ったことが顔に出る分かりやすい癖が相まったからだった。
―――そういう気持ちが、誰かを好きになるってことなんだよきっと。お姉ちゃん。
こいし、という一度も恋などした事の無い少女が内心で口に出さず呟く。自分については分からなくても他者が他者を想うことに対して敏感なこいしは姉の想いの成就が叶う事を信じて、あの時のシンとさとりの笑顔を眼前の青空という名のスクリーンに投影していた。
「さて、私達もいこっか。お姉ちゃん」
視線を姉に戻した後で、歪みも淀みも陰りもない屈託なき笑顔でこいしは言う。
「行くって…どこに?」
「あそこの館」
姉を見たまま聳え立つ館に向けて人差し指を指す。外見も建築様式も塗装も違うが、自分達の住む地霊殿の様に大きく立派な建築物に対し、こいしの興味は全開だった。
「シンを探してる館だもの、挨拶ぐらいしていった方がいいでしょ?この件でも、恋でもね!」
茶目っ気な言葉を受けて、さとりは全身をくすぐられたように心を鷲掴みにされた想いと全身の血液が沸騰するぐらいの気恥ずかしさに駆られた。


飛んでいる時、魔理沙や射命丸の様に誰とも歴然な差が生まれるぐらいの疾さが自分にもあればと、思わずにいられないのは自分がまだまだ心身共に未熟故だ。
全力で空を滑る中、徐々に湖中域に飛び出た早苗は水面に目を通していた。だが無意味だった。この湖はその広さから考えられないほど深くあり、太陽の光は霧と水に阻まれて底にまで届かない。さらにはこの濃霧でこの視界さえもまともに確保できなくなってくる。こうして飛んでいる今も、霧で方向が狂って全く見当違いの場所に出たらと思うと、皮膚を破り、血管が切れてしまうのではないかと思うくらい頭をかきむしりたくなった。
それを結果的にしなかったのは、飛んでいる間に見知った者の姿を目にしたからだろう。
「咲夜さん!アリスさん!」
「早苗……」
行き成りの叫びに驚いているアリスが振り向く。咲夜も早苗の方を見やる。二人共、自分と同じように水上近くを飛んでシンを探していたようだった。
「早苗、貴方確かパチュリーに運ばれて寝ていたんじゃ?もう大丈夫なの?」
「休んでなんかいられませんアリスさん。それよりも、彼女が私を助けてくれたのですか?」
「そうよ、私は咲夜が来るまでずっとこの近くを見回っていたわ。パチュリーは水も操れるから飛び込むくらいなんてことなかったのよ。あとでお礼、言っときなさいよ」
一般的に霊力の飛翔には自分の体重一つを支えるのが限界とされている。神の力を用いる事の出来る自分は例外だが、水を吸った重い服で飛ぶのは難しいとされているし、水中を飛ぶ鳥と称されるペンギンの様に、霊力を用いて水中間の高速移動もできない。だがパチュリーなら。その水を操ることで己の周りに大きい泡を作ることが出来、水中に飛び込みながらも行動が可能だ。
「はぁっ……!」
アリスの言葉の後で水面が盛り上がり、その感謝の対象となるべきパチュリーが水中から勢いよく飛び立つ。その身体とネグリジェは一切水で濡れていなかったが、パチュリーの顔は青ざめ、息は肩でしている。あのパチュリーが体力的に乏しいのは周知の事実だが、ここまで疲れた顔を晒すのは珍しかった。普段走りもしない人物だから、疲れる場面に遭遇すること自体が稀なのかもしれないが。
「お疲れ様です、パチュリー様。出て早々僭越だという事をを予めお詫びしますが、シンとあの河童の姿をお見かけすることは叶いましたでしょうか?」
「はぁっ……はぁっ……いいえ、まだよ。水の中を見通してみたけど、あの機械の残骸ばかりよ。胸の部分は見当たらなかった……っ」
咲夜がエプロンから取り出したハンカチで顔の汗を拭かれつつか細い声でパチュリーは答えた。その様子からも、彼女も必死になって探してくれている事が嬉しかった。
「随分重労働だったみたいねパチュリー。どう、久々に外で動いてみた感想は?」
「全くもって御免ね……幾ら水を操れるからって水中を動けはしても、新鮮な空気まで確保できるわけじゃないの。一度底近くまで潜れば暗いし息苦しくってとんでもなく体力を使うわよ。こんなことはこれっきりにしたいわね……肉体労働は私の管轄外だもの……美鈴の方は?」
「美鈴さんもこちらへ?」
パチュリーの問いに早苗が質問で返した。
「妖精メイドや里の人間たちじゃ湖の畔近くしか探せないわ。この辺りの水中は潜れる私と美鈴が探しているのだけれど………」
咲夜が腕を軽く組んで説明を続ける中。直ぐ近くの水面から息を思いっきり吸い込む音が四人の耳を貫いた。
「ぷはぁっ!!」
「美鈴!」
今度はしっかりと濡れている。緑の中国民族衣装を水面に漂わせながら、水底から上ってきた紅美鈴が、新鮮な空気を取り込むべく大きく息を吸い込んだ。美鈴は拳法の達人でもあり、呼吸法の達人でもある。水中の長時間潜水時間は、単に空気に包まれて潜るだけのパチュリーの何倍もあった。
彼女の事だ、例え息が限界に来ても水中にある空気を吸ってでさえも行動に移せそうな想像ができるのは、過去に早苗がよんだ漫画による影響か。
「美鈴さん、シンは!?」
見かけるなり、威勢のままに問い詰める早苗。美鈴は長い赤毛を後ろへと流しながら、立ち泳ぎのまま答えた。
「シン君の姿は見かけませんでしたが、ずっと潜っていたらあの翼の機体の胸部を見つけることが出来ました。ですが……」
「ですが?どうしたのよ、美鈴…!」
「あっ、いえ、咲夜さん……実は、その胸の部分の扉の部分が開けっ放しになっていたのです。座席の所も水浸し。あれだけの爆発の中、例え生きていたとしても水中に出た瞬間、爆発の衝撃に巻き込まれて流されたんじゃ……河童のあの子がいるから分からないけど、多分今は水流で叩きつけられて、どうなっているのかも……」
「シンが死んでしまったとでもいうのですか!!??」
声が裏返りながら叫んだ。もう一度涙が出てくる。そんな現実など、誰の口からも聞きたくない!聞きたくないから拒絶するしか抵抗の術がない。
「こんな時に貴方達のレミリアさんは何をやっているのですか!?」
勢いからとはいえそれを口にした瞬間、咲夜に胸倉を行き成り掴まれた。ものすごい力だった。その細腕からはおよそ想像できないほどの。足掻いてみたが、鍛えられた重い鋼の様に咲夜の腕は固く動かなかった。
「お嬢様を侮辱することは許さない」
背筋が凍る声だった。絶対零度の怒りを向けられたが、早苗こそ及び腰になる事は無かった。
「何を!ここに来るまでにレミリアさんもフランさんも見かけませんでした!二人とも立場がいい事に今は紅魔館でゆっくりしているんじゃあないのですか!?私と、貴方達が動いているというのに!」
早苗の剣幕が突如途切れたと思ったら、辺りに乾いた音が響いた。弾幕とは違ってたった一つだけ迫るそれを、受ける事も躱す事も出来なかった。早苗が孕んだ紅蓮の怒気を覚ましたのは、冷静な咲夜による平手打ちだった。その様子に周りの少女達も息を呑む。
痛くは無かった。その平手打ちは音の割に力が籠ってなかった。けど、涙がもっと出たのは悔しさなのか、混乱からくるのか、分からなかった。
そこまで、今の早苗は普通とかけ離れていた。
「馬鹿!お嬢様はそこまで薄情な方ではないわ!」
「………」
咲夜の怒った顔を向けられるのは多分初めてになると思う。早苗の反感を秘めた睨みに、熱情が籠った彼女の双眸が合った。
「今こうしている間だって、お嬢様はメイド達や皆に命じながらシン達を探しているわよ!本当に探しに行きたいのは、あの方だって同じなのよ!妹様も!けど貴方も縁起とかで知っているでしょう!?吸血鬼はそこいらの水に近づくことが出来ないの!だからと言って力で湖を吹き飛ばすわけにもいかないでしょ!何もわかってない外の小娘が、偉そうな言葉を軽々しく口にしないで!!」
そうまで言い終えた後で早苗のドレスを離した。掴み自体に相当な力は籠っていたはずだが、流石メイドというべきか、早苗のドレスにはシワ一つ残っていなかった。
だが、対して早苗の心はもはやズタズタだ。無気力に近かったが、同じように水面へと倒れる事がなかったのは二の舞をしまいとする意地だけが最後の綱だったからだ。
「………今は休んだら、早苗。あなた一人が騒いだところで、頑張った所で、シン君とにとりが見つかるとは限らないわ。だから……」
早苗は沈んだ前髪の奥で目を瞑って震えるしかなかった。アリスの言う通り、ここで自分が暴れた所でどうなるのか。けど、彼は自分で見つけたい。見つけたいのだが―――!
「シ……ン…………くっ…あああぁぁっ………!」
何も出来ない自分が腹立たしい。怒りと悲しみの今、捜索に参加することも出来ない事に涙を流すことしか、早苗は出来なかった。今泣いておかないと、次に何時また咲夜やパチュリーに噛みついてしまいそうで。でも、早く元の自分に戻らないとと思うから、泣きたい今で思い切り泣いた。子供の時に散々経験した悔し涙と同じ味が肌を伝って口に広がった。
「美鈴、早苗を館に連れて行って……と言いたいけど、貴方その様子じゃ駄目ね…ここは……」
空中で不安定になりながら泣き続ける早苗の細い体に、咲夜が肩を貸す。そしてそのまま、ゆったりとした速度で覚えている紅魔館の方向へと進む。
「貴方達は引き続いて捜索をお願いします。私はこの子を部屋にまで戻しますから」
「引き受けたわ、咲夜。こっちの指示は私が執る」
「ありがとうございます、パチュリー様」
咲夜に連れられている間、早苗の世界は真っ暗だった。目を開けば涙で歪んだ世界しか見えず、口から出るのは八つ当たりばかり。
でも、今だけはこれを許してほしいと願った。折れてしまった早苗の心を治すには、しばらくの時間が絶対的に必要だった。いなくなってしまった者への悲しみを埋める為にも………


「着いたぁ!」
幾ら“迷いの竹林”というたいそうな名前がついていようが、空から侵入すればその中にある建物の一つぐらい丸裸で眺めることが出来る。だから、全速全開流星のように翔べる彼女にとって、永遠亭に入る手立ては悪巧みにも使える頭を行使すれば数えるだけでも三ケタをも方法があった。その中から最短の方法を選択した結果、今の彼女は永遠亭を目と鼻の先に捉えていた。
愛用の箒から飛び降りて、早苗から渡された古ぼけた本を両手にしながら玄関へ力任せに突進する。開けるのもめんどくさい。身体全体で木造の引き戸を突き破った。
薄い磨りガラスが玄関の石畳に叩き付けられて、その破片が散乱する。永遠亭の診療所側には永琳と鈴仙ぐらいしかいないのだが、騒ぎを聞きつけて反対側の本殿から兎達が駆け寄ってきた。
『何事なの?』だの、『侵入者?』だの、侵入を許した時点で今更な言葉ばかりが魔理沙に降りかかる。だが、それらの有象無象に応える言葉は初めから持っていない。
ゆっくりと息を吸い込み、腹の底から力を入れて喉を震わせる。
「えい…りいいいいいいいんんんん!」
続けて、
「薬!もってきたぜええええええ!」
呼びかけるにはこれが一番いい。
「何とつぜん!?来客?…魔理沙!」
「よう、永琳。本人じゃなくて悪いが、シンよりこいつ、預かってきたぜ!」
「それ……もしかしてお願いしてた遺伝子の医療書!?でも、なんで貴方が?」
「んなこた、なんでもいいだろう!急いでるんだろ、早く患者の相手しろよ!」
必死の戦いに身を投じたシンからの預かりものだ。人の命に関わる以上、余計な説明をしている暇は無い事は明白だ。
なのだが、永琳はすぐに魔理沙の手に有る本を受け取ろうとしなかった。
「そ、それが…」
「『それが?』って!?」
永琳は視線だけ俯かせて片手を口に当てて考え込むそぶりを見せる。
「山々だけど、今は患者が飛び出していて、鈴仙すらいないから人手が圧倒的に足りないのよ。ここまで持ってきてくれたのは大いに助かるけど、今から同行できるものじゃ――――――!」
その時だった。立ち合い問答をしている最中に襲ってきた轟音に二人は会話を止め、一斉に顔が外を向く。周りの兎妖怪達もだ。「なんだ?」と口に出したはずが、外から伝わる音と風によってかき消され、後ろで永琳も口を大きく動かしているのに全く聞こえない。
何の音だ、とまず考えた。これほどの音を発するの物の正体を魔理沙の生涯で得てきたものから特定してみる。
まず弾幕かと考えてはみるが、これほどの音を出すのであればそれは弾幕というものでは無い。まず耳障りで美しくないものだからだ。とは思いつつも、自らの代名詞である“マスタースパーク”も相当な光と音をもたらすが、こっちはまだ美しき光を持っている事から例外にする。自分の努力の結晶は例外だ。何より、自分はいまこうしてここにいる。
じゃあ対抗馬を考えてみるが、記憶の中に当てはまるのは風見幽香という名の妖怪がまず浮かんだ。だが彼女は能ある者だ。やたらむやみにこれほどの音を発する攻撃はしないだろう。だから、弾幕は発想から却下だ。
この暴風からして天狗の仕業か?いや、これもあり得ない。厳粛な世界の住人がわざわざここで暴れる事などまずあり得ない。他にも可能性だけならば様々な解がこの刹那の内に思い付くが、どれも最終的に自分で否定する。
―――もう、まだるっこしい!
魔理沙は玄関の外に躍り出て、迫りくる音の正体を掴もうと思いっきり見上げる。
その、瞳の中に入ったのは。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――え?
「おい………冗談だろ?な、永琳…」
この音をよく聞いてみればすぐ分かったことだった。この轟音も、肌に伝わる風も、つい最近覚えたものだった。
無縁塚で、紅魔館で、にとりの作業場で聞いた音とほとんど同じだった。
「コイツが、その患者ってのか?」
違うのは、それの形が違うだけ。スラスターと呼ばれる噴出孔からは、プラズマと化した推進剤の青白い炎が吹き付けられ、音と風を生む。
そのシルエットは、ここに来るまでに湖の上で暴れていたものだった。弟分の彼が相手をしていた、突如強襲してきた自分達の敵。
「お前が、そうだっていうのかよ!」
闇の様に暗い灰色の巨人。“レジェンド”の姿の影が天から降りて、地面にある永遠亭と魔理沙達を丸ごと包む。急に夜になったかのように周りが暗くなる様子は、まるで空そのものが落ちてくるようにも見える。
だが今抱く感情は、相手に対する恐怖よりも底知れない疑惑ばかりが魔理沙を駆り立てた。


―――光が、遠ざかっていく… 
守りたいものも守れずに、無二の友を取り戻す為に戦って………負けてしまった。
最後に覚えているのは迫るレーザーの刃、動かす操縦桿、背後にいたにとりの叫び。そして………にとりが自分の身体を抱いて天へ腕を伸ばした姿。
迫る水面が自分達を叩き付けたと思えば、二度と明ける事の無い暗闇が後に残るだけ。
―――俺は、死んだのか?
これが、死ぬという事なのだろうか?全身が冷たくて仕方がない。血が通ってないのか冷え切った体はシンの意思に反して動いてくれない。言う事を聞かない。
やるべきことはまだまだ沢山あるのに!この世界からの脱出、元の世界での平和に向けての戦い、なによりも折角会えた友に再び会えずに、ここで命を落としてしまうなんて!
誰よりも傍にいて、見守ってくれた生きていた友に、たどり着けないなんて―――
無念と哀切が混ざり合う感情が、まだ残っているシンの想いで渦巻く。
不意に、暖かい何かに触れた気がした。
己は涙を流していない。流すべき身体ももうない。けれども何故?既に斃れた筈の自分を、暖かい何かが包んでくる。
信じられない思いと、どこかで信じていた諦念がせめぎ合う。
闇が、晴れていく。確かな明瞭が、自分を包む熱と共に広がっていく。
そうだ、まだ死ねない。自分はまだなすべきことがある。
止まっていた自らの呼吸が吹き返す。暖かい一点―――唇から送り込まれる空気の塊を受けて、それまで止まっていた自らの生気が蘇る。
「シン……シン!」
照りつける太陽の様に。柔らかく、暖かい声が聞こえる。それは全身の凍えを全て振り払い、広がる光の向こうへと誘う。
暗闇を―――瞳を、開いた。
焦点が合う。自らの唇を再度塞ぐ河城にとりが、自らを蘇らせてくれる。胸を圧迫し、知らずの内に飲み込んでしまった奥底の水が喉の奥からせり上がって来る。身体を反射的に横にして打ち上げられていた岩肌へと吐き出し、しばしむせる。
「シン………!」
目を完全に見開くと、自分と同じように全身が濡れきったにとりが涙でぐしゃぐしゃの顔になりながら笑っていた。涙で濡れきった瞳は宝石のように輝き、自らの胸に押し付けて一しきり泣き続けた。シンは自分が生きている事を確かめると、彼女の解けた長い髪を優しく軽く、撫でてあげた。
「無事だったのか…よかった…!ホントによかったよ」
「誰と付き合ってこんな目にあったと思ってるんだよ………バカ」
―――俺はまだ生きている。明日は、まだ終わっていない。
この手に抱くにとりの身体をしっかりと包み、泣き続ける彼女を慰め続ける。
―――レイ…俺はまだ、お前に会えてない。だから…!
これが奇跡だとしても、気の遠くなるような天文学的確率で起こった結果でも、何でもいい。確かに生きれて、彼に会えるのならば…どんな現実だって乗り越えてみせる。
例え、戦う力を失ったとしても―――!
シンはにとりの心臓の鼓動を感じて、間違いない生の実感を繰り返し覚える。彼女もまた、そうしているのだと思う。
あったかい世界に生きている限り、望みはあるさ。シンは自分に何度もそう言い聞かせて空を見る。同じ空の下にいる筈の友へと、再開の誓いを結ぶ。
度重なる戦いで傷きながらも、シンの足は立ち上がることを諦めはしなかった。
そして、互いに抱く身体を眺める一人の小さな影。岩場の奥に広がる木々の間から、光の化身の少女が覗き見る。
彼女の名はサニーミルク。幼い子供同然の姿で、無邪気な心のままに、傷だらけの二人に向けて太陽のように眩しい笑顔をその顔に浮かべていた。


PHASE- 44 覚悟への道


「がっ!つつ……包帯ぐらい、もっと優しく巻けっ…て」
「お前みたいな無茶ばかりの馬鹿野郎にはそれぐらいの痛みがちょうどいいんだ、全く!」
霧ばかりの湖の畔に打ち上げられて、もう何時間が経過したのだろうか。直前まで意識を失っていたシンは全身を襲う刺激で鮮明となった痛みに耐えながら、万が一を想定して“デスティニー”から“フリーダム”に移し備えていたメディカルボックスを用いた、にとりの治療に呻いていた。
彼女に勧められるままにスーツを開いてみると中は撃墜時に起きた衝撃の際の打撲で黒い痣が至る所に浮かび、広がっていた。その様子を見て一瞬ではあるがにとりの顔も引きつるが、決して悲鳴を上げたり、弱音を吐いたりはしなかった。彼女は真剣な表情を崩さず、シンの世界から持ち込まれた薬品の使い方を痛みに耐えるシンから聞き出しながら手を動かしていく。
「こいつはどうやって使うんだ?」
「……そのスプレーなら、上のピンを抜いて軽く振るんだ。中の薬が混ざって使えるようになる…その後は、箱の中にあるテープとガーゼを取り出して………ぐっ…!」
「わ、わかった、もういい!後で聞くから目を瞑ってろ!」
苦痛に耐え忍ぶシンの強張った表情を受けて、にとりの心境も逸【はや】る。手が震えて思うように動かなくなる。傷口に道具を介して触れるたびにシンの声が耳を着く。
だがそれでもやるしかないのだから。にとりは耳を塞いだりせずに、目の前の少年から目を背けたりせずに、歯を食いしばって堪え忍ぶ。
治療に用いられる道具でも、元々この世界とはかけ離れている最先端の技術の塊。生憎破片や銃創による負傷では無い為怪我の治療に特化したスプレーや湿布、鎮痛剤程度で応急処置をこなすことが出来るがどれもこれもシンの返答を待ってから行っていた結果少々の時間が経過する。
「にとり……!お前の方は、だい…じょうぶ、なのか…?」
「ああ、当然だよ!お前があの時かばってくれたおかげで……!」
自らの痛みを気にするより、自分の事を気にかけてくれる想いににとりは涙を思わず流してしまいそうになる。
あの時、“フリーダム”が炎を吹きあげながら湖に墜落する時だ。低空飛行からの墜落と言えど約百メートルの高さから
の墜落が生む衝撃は余りあるものがある。
優秀なショックアブソーバーと耐G装置が充実している“フリーダム”と言えど、ビルの高さから落ちるに等しい衝撃を完全にゼロにすることは叶わなかったようだった。
けれども生身の人間であるシンの身体がバラバラになる事は無かったし、さらににとりの身体をかばったおかげでにとりがシンを連れてコクピットから抜け出すことが出来るぐらいの余裕が出来た。もしあの時、にとりさえも気絶していたら河童である彼女はともかく、息も出来ないシンはそのまま無力に溺れ死んでいた事だろう。にとりの人工呼吸は正に命の綱に等しかったのだ。
さらに時が経ち。日は西の方へ進み、にとりも荒い息を吐きながら岩場に倒れる。周りが赤くなり始めた頃にはシンの苦痛にゆがんでいた顔も和らぎ、にとりを襲う緊張も解ける。どちらも既に満身創痍で、動ける気力すらも起きてこなかった。
ただ聞こえてくるのは波打ちの音と、発せられるのは二人の吐息。それ以外は静かな世界だった。
「なあ……にとり…」
それから最初に喋ったのはシンだった。にとりが聞きたくなかった痛々しい響きは籠っていない。それを聞いてにとりは張り裂けそうな程高鳴っていた心臓を落ち着かせて安堵した。
「なに?シン………」
にとりはシンの声を聴き、仰向けになっていた身体を彼に背にした。目を合わさずにポツリと返す。
「思い出さないか?俺と……にとりが、最初に出会った時のことを」
「………ああ…」
未だ見えぬ星空を眺めつつ、大きく呼吸をしながらシンが問う。シンが思い出していたのは、今の様に彼女に助けられた時の事だった。
にとりの作業場のすぐ近くに不時着し、中破した“デスティニー”から引きずり出された時の記憶。
あの時は全身を酷く怪我をして、見知らぬ場所で死を覚悟していた。その矢先に、この蒼の少女と出会ったのだ。
『混乱しているの?随分と状況が分かっていないようだね』
困り顔でそう言いながら怪我を治し、倒れる己を解放してくれたにとりの姿をよく覚えている。あの時は単なる現地人としか思うほかなかったが、今では自分と共に戦うまでの存在になるとは。
「よく、覚えてるよ、シン。あの時から私と、お前はこの世界で生きるようになったんだよな………」
朱色の霧空を眺めていたシンが、視線を彼女に移す。見えているのは横になっているにとりの背中だけだった。少しだけ身体を縮こませて力無く倒れているにとりを見て、ぎこちなくはあるが安堵から微笑む。
「俺だってこの世界に来てから今まで、こんなことが起きるなんて思わなかったよ。皆がいて、飛び回って……けど、最近は作業場に留まる事もなかったから、君と話すこともあまり出来なくって………驚いたよ、にとりがまさか“フリーダム”に乗って来るなんて」
「動かすことぐらいは出来たし、前に教えてくれたろ。借りのきゅうりの代わりにモビルスーツの動かし方。お前のおかげで、ここまで飛んでこれたんだよ………けど、あのモビルスーツに私とシンの“フリーダム”が負けてしまうなんてっ…!」
微かに、にとりの身体が震えているように見えた。それの根源は悔しさからくるものかとシンは思う。
「い…いや、そんな事はない。俺がもっと気をつけていれば、こんな事にはならなかったんじゃないかって…」
せめてもの慰めになるよう、暗い顔のままでシンが言う。
「それに……ゴメン。幾ら俺を助けるためだといっても、君にあんなことさせてしまうなんて………女の子なのに」
負い目があった。危機に瀕していたとはいえ、にとりから唇を奪った事に。直接、行為を口に出して指せないのもシンの持つ責任感と、行為その物の恥ずかしさから来るものだった。
「あれは………っ!そのままにしておけるわけないだろう!お前は死んでしまうかもしれなかったんだぞッ!私の唇くらい、気にしていれる訳ないだろ!」
「けど、俺が負けたから君に…!」
「そんなこと気にしなくていいんだよ、シンは!死にかけているお前を見ていたら、私の初めてなんかどうでもいいんだよ!お前は、盟友とか、世界の間柄なんて関係なく私の大切な奴なんだからっ……!」
「にとり…」
背を向けられたままにとりからの叱責を受ける。命の危機となれば些細な恥など気にしてられない。それは元の世界でもそうだ。海で一人の泳げない少女と出会ったとき、互いに濡れた服を乾かしながら過ごした記憶がある。それと同じだ。自分の様に助けたものに対して「助けてくれなくてもよかった」と言うのはどれ程残酷な仕打ちなのか。感謝こそすれ、非難する立場ではない。にとりの言う通りだ。
だけど。それでも、シンはこの世界の住民と情が入り込みすぎる事は避けたかった。にとりはシンの事を大切な存在と示してくれたが、自分がこの世界から去ればどれ程の無責任な悲しみを押し付けてしまうのか怖かった。彼女だけじゃなく、早苗や小傘、それ以外の者達にもそうだ。シンは、自分が一人でこの世界から抜け出せない事に酷く苛立っていたのだ。
だが、レイの存在によって脱出は二の次になる。
何としても彼と出会わなければ。もう一度話をしなければ。生きていたはずの友に会うためには、今少しこの世界での行動が必要になる。
それを潰えなくしたにとりには、感謝という二文字では表わせきれなかった。
「ありがとう」
にとりを後ろから優しく抱く。情が残るとしても、悲しみが待っているとしても、今あるこの気持ちを止めずにはいられなかった。痛みが引いた身体を使って、華奢な女の子の体躯を包み込む。自分が今日まで生きていられたのは、にとりのおかげなのだ。
「馬鹿……」
触ってみると、にとりは震えているのが分かった。少し離れていたら見えないくらいの、微かな震え。
「馬鹿でいいさ…俺は、どうしようもなく馬鹿だ」
「ああ、馬鹿だよ…大馬鹿だ…私に、涙なんかみせやがって……っ!」
にとりが身体を向けて胸の中に飛びつく。動きの速さに顔を見る事が出来なかったが、開いているシャツの胸元が暖かくなる。彼女の涙だ。嗚咽を漏らしながら、ずぶ濡れの涙がシンを満たす。
―――いつも女の子を泣かせる俺は……最低な奴だ……
口にせず、心中で吐いて俯くシン。にとりの身体を一心に受け止めたまま顔を上げてみると、赤かった空の向こうにはいつの間にか一番星が輝き始めていた。


目の前には銀の星々。
暗黒の宇宙【そら】で広がるのは無限の光。夥しい数の光源が果ての見えない暗闇の中を彩り、集まった星の群れは先の見えない天の川となって、途方もない距離から途方もない時間の中にある一瞬の光を届けてくる。
俺が見ているのはそんな光景。
幻想郷の上、天界の向こう側。そこは即ち闇の世界だ。見える物全ては星の光と地上と月だけ。
何故、俺はここにいる?
覚えていたのは怨敵を討ち、断続的な全身の痛みと薄れゆく意識の中で機体を操り、永遠亭の開けた地面に降ろす自分。その直前の記憶から今につながる経緯が推理出来ない。
身体を動かしてみる。………駄目だ。四肢は当然、どの指一本も標本にされた虫の如く縫い付けられたように動かない。それどころか、自分が呼吸の為に胸を上下させているのかも、この光景を知り得るために瞼が開いているかもあいまいだった。身体そのものが、この空間の中で浮かんでいるのかも分からないぐらいの。
それとも、今の俺はれっきとした身体を有しているのか?身体が動かないのではなくて、遺伝子の限界に陥っていた身体自体が既に朽ちてしまっているのなら、俺がこの無の世界に漂っているのも、身体が無いのも、一つの結論に収着する。それはつまり―――
「俺は………死んだか?」
「いいえ、貴方は死んでいない」
声を発したつもりの呟きに答えが返る。その言葉通りまだ身体が健在ならば、俺は今頃息を呑んで聞こえてきた方へ最速で振り向いていた事だろう。動かすべき身体も力も無かったが、見えている視界を動かすことだけは出来た。いや、むしろ俺の視界が自然と声の方向に正されたと評した方が正解か。
そこに在るのは傘の女。
間違いない。俺に敵の場所を教え、戦いに誘い、振り向きざまに嘲りを含んだ笑みを遺したあの『通りすがり』と自らを称した妖怪の女、八雲紫だった。彼女は俺の前であの時と同じ薄紫の絹で縫われた幽雅な傘を携え、あの時と変わらない薄い笑みを俺に向けている。白い肌は、人間のそれと同じ色をしていて女特有の持てる妖艶さを持っていたが、漂ってくる女の雰囲気は決して安心できる材料は何もなかった。過去にも同じ、俺の感覚が告げているのだ。『彼女は危険な存在だ』と。
「…ラウ、いや、レイ・ザ・バレル。貴方はいい道化を演じてくれましたね。そしてよくぞあの雌雄を決し、今に生き残ることを出来た」
「………やはり、それが俺の名なのか」
半ば確信へと変わっていた可能性を確かにしたところで、俺は“もう一人の俺”の顔を思い出してすぐに頭から消し去る。もうあの男を演じる必要は、二度とないのだ。
「それで?お前は俺に何の用がある?お前の誘いに乗って俺は俺の討つべき敵を消し去った。お前の目的も、俺の目的も既に果たされたはずだ。その上でまだ俺に用があるというのか?こんな場所にまで連れ込んで?」
この異空間の正体は掴めない。だが、俺の思惑を一瞬で言い当てるこの女だ。俺を見知らぬこの異空間に連れ込むことも容易い筈―――!
「いいえ、この空間は私が用意した覚えはないわ」
「何?」
「この世界は今の貴方の中にあった世界。失った意識の中で、貴方が見ていた心の中の世界。朧げな記憶の中から形どられた、心象空間。私はそこに境界を引いて足を踏み入れたに過ぎない」
言葉通りに解釈するとなると今の俺は意識を失っている間で、紫の言う心の深層に広がるビジョン―――つまり、夢のようなものだろうか―――に浸っていたという事か。この宇宙の様な空間は俺が生み出した世界で、俺がこの世界の宇宙で見たものしか存在していないのも、俺がまだ完全に記憶を取り戻していないとするならば一応の合点がいく。
「盗み聞きの次は他人の夢を覗き見ると来るか。つくづく趣味が悪いようだな、八雲紫」
「趣味とするほど、暇な生き方を送っていてはありませんわ。最も、人間の何倍も夢に浸かって生を送る事はあれど、人の様に多様な夢を見た覚えもありませんけれどね」
「どういう意味だ?」
「妖怪は貴方たち人間の様に、価値ある夢を見る事は出来ないという事よ」
顔色を変えず、さらりと言い放つ紫。が、そこは議論すべき論点ではない。俺が問いたいのは別にある。
「俺はお前に誘われた通り、確かに“フリーダム”を墜とした。これで俺の戦いは終わりだ。それなのに何故、お前は俺の前に姿を現した?わざわざこのように手の込んだ現れ方をしてまで」
「というと?」
「お前は、まだ俺に用があるのかと、聞いているんだ」
「……………」
「お前は俺に人を殺させた。記憶の無い俺に、覚えのない俺に、敵を用意し、討たせた。だが、俺はお前の人形をただ演じる為にお前の口に乗ったわけじゃない」
そう、俺が唯自分のケジメを付ける為だけにこの女の言葉を鵜呑みにしたのではない。俺にはもう、思い出しかけている元の世界に帰るという理由を持っていない。今の俺が過去の俺と違う事が決定的なのだろうが、天子と出会い、衣玖と飛び、もう一つの生き方をこの世界の住人から教わった。
そして、俺の友は……俺の手で殺した。もう俺には何も残っていないのだ。あるのは改修した“レジェンド”と死に近づいている俺の身体のみ。これ以上他に何をする必要がある?俺に静かな生き方は無縁だとしても、俺の力がどれだけ戦いに有意義なものだとしても、これ以上戦う必要はきっと無い。無くて欲しい。
一つの不確定要素を除いて。
「だが、お前は消えなくてはならない」
俺は奴の妖しく光る双眸を捉える。
「八雲紫、お前は俺の敵だ。お前の野望は俺の友を殺した。俺がこの世界に根付くにしろ、記憶を完全に取り戻して万一元の世界に戻るにしろ、お前の存在は俺の妨げになる」
戦いを扇動させる存在は、どの世界においても最悪の存在だ。俺の元の世界で、“ロゴス”という泥沼の戦争を形作っていた組織があるように、この女個人の存在は俺だけでなく、必ず次の不和を招く。この俺の独りよがりな断定は私怨から来るものだとしても、俺が天子達と過ごしていく中で必ず邪魔となる存在。
この女を討たなければ、俺の様に個人の事情で他者を傷つける者が再び現れてしまう!
「敵は………俺が討つ!」
「ふふっ、面白いわ。面白いわねレイ・ザ・バレル、全くもって。いいわ、貴方とはもう一度直に顔を会わせたいと思っていた所よ。いい機会ね。この世界を次なるステージに移行させるには、貴方のような存在が必ず必要となるのだから」
「ステージ?」
どういう意味だろうか。その言葉の裏に隠れている奴の思惑は。俺の遺伝子に受け継がれている非常識なまでに鋭い感という名の琴線に、奴の真意が一切垣間見えない。
八雲紫は何も考えてなく、出鱈目な事を俺に告げているのか?いや、そんな筈がない。そんな事を俺に告げたとしても、わざわざこんな回りくどい事をしてまで俺の前に現れるほどの利点が奴にはない。
俺に人殺しという異常な行動を誘発させた存在なのだ。もっと深く、もっと一般的な常識とはかけ離れた考えを、紫は持っているに違いない。そしてそう考えた通り、次に紫は俺へ一聴するとまるで意味の取れない言葉を告げた。
「冥界に聳えし天帝の楼閣」
「?」
「全ては次に逢う時に。今度の時には今よりもっと強く、そしてもっと昔の事を思い出せるようになることを願うわね」
――――待て!
その言葉の後に俺と紫の距離が離される。必死になって手を伸ばしてみたが、伸ばすべき手も、空間で足掻いて見せる身体もない俺には、彼女の動きを害することが叶わない。手を伸ばしたという、意識が俺を満たしているだけだ。
紫の姿が星の果てへ消えていく。その姿を少しでも掴もうと、指の一つ一つの先にまで力を入れて右手を開いて足掻く直後―――
意識を取り戻した俺は既に両目を開き、荒い息と共に倒れていた上半身を全力で起こしていた。
「く―――っ」
木目が目立つ格子状に敷かれた木造の天井、身体は白く清潔な布団に包まれている。初めての景色じゃない。庭と外廊下が一目出来る程開放された障子に包まれた大部屋の中心で、俺は目覚めた。心地よいそよ風と、丁度いい気温は上に身に着ける物がない裸体の俺に不快感をもたらさない。
俺は意識を失ってから、何故ここにいるのか。冷静に考えれば、永遠亭の直前から覚えがないのだから駆けつけてきた永琳たちに機体から運ばれて、治療を施されて寝かされていたのだろう。むしろこれ以外空白の期間を埋める想像がつかない。
隣には着ていたパイロットスーツと、朝起きた時に近くへ置き去りにしていた俺の軍服が畳んで置かれていた。鈴仙がまだ戻ってきていないのならば、これも永琳が行なってくれたものなのか。世話を掛けさせてしまった。
兎にも角にも、まずは永遠亭内を出歩くために服を着ようと俺は腕を伸ばす。その時だった。
「待てよ、お前」
反応と同時に行動。咄嗟から横目で一瞥の先には女の声。やや低いオクターブは包み隠さない敵意を示し、つり上がった大きい瞳の向こうに俺の姿が映される。まるで地方の伝統的カーニバルで披露されそうな、白と黒のツートンが目立つ古典的な魔法装束に俺は些かの疑問符を浮かべつつ、金髪の少女の小躯に対して視線を合わせた。
「私は霧雨魔理沙。病み上がり中悪いが、ちょいと私の質問に答えてもらうぜ?あの灰色のモビルスーツの操り主さんよ」
俺は彼女の言葉に従うほかないようだった。


「この分だと、捜索は期待できないな」
晴れる筈だと聞いていた霧に対して、悪態をつく事しか出来ない二人。この霧のおかげで視界が殆ど確保できないとなれば、当然紅魔館側の救助隊も自分達を見つけられないわけで。シンの処置に用いた怪我を治す道具こそ一応あれど、これだけの視界の中でも目立つ発炎筒などの視覚的な救難信号を持ち合わせていない彼らにとっては劣悪な状況に陥っていた。
命を落とさずには済んだが、シンを助けるために人間一人抱えて来たにとりも体力の消費が非常に激しく、飛ぶことも、妖怪でしかも河童と言えども広い湖を泳いで渡ることもままならなかった。重ねて機体から水中で脱出する際、コクピットに備えていた非常食等が入っているサバイバルキットを持ち出すことが出来なかった。そんな中で下す決断は一つしかない。
「晩は、この近くでやり過ごすしかないのかもな………」
選択の余地など無かったが、こういう厳しい状況に置かれてもサバイバル術を叩きこまれているのが軍人だ。どれだけ最先端の技術がはびこる世界でも、戦時中はいつ何時原始的な状況に置かれるかは分からない。あのアスランでさえも、前々大戦の際には地球の孤島にてMIAを受けたと聞いている。どのように生還したかとかの詳しい状況は耳にしていなかったが、ルナマリアからの噂によるとカガリ・ユラ・アスハとの運命の出会いはその一件が発端らしい。
「こんな場所でか?けど、向こうに渡ろうにも霧があるからな…」
「君の持っていた通信機は水中で失くしたみたいだし、食料も無ければこの場から夜中の森を無事に抜けれるだけの保証もない。なら、せいぜい火をおこして妖怪や動物が来ないようにしながらやり過ごすのが一番だろ。早苗やレミリア達だって、俺達がいないのを放っておくわけにはいかないだろうしな」
「私は別に、いざとなれば動物達に弾幕でもぶつけて追い返すぐらいやれるけど。お前はどうなんだ?朝まで何も食わずで大丈夫なのか?」
「たった数時間、何も口にしなくても人間は死にはしないって。勿論、普段は勘弁してほしいものだけどさ。それこそ、にとりはどうなんだ?とべないし、泳げない状態で大丈夫なのか?」
「私は多分、少し休めば大丈夫だよ。でも、こんな岩肌の上で心地よく寝れはしないだろうな」
「だったら」
シンは痛む身体を無理矢理行使し、膝を立てて立ち上がる。未だ力が入らずふらついている身体に渇を入れながら、おぼつかない足取りで木々の近くにまで近づいた。
「何のつもりだよ、シン!」
「布団や毛布がなかったら、その代わりだよ。枝でも葉っぱでも、とにかく身体が少しでも休めるような環境を作るんだ。特に君は、女の子なんだからさ」
「よせって!」
にとりは僅かに焦った顔つきで、すぐにシンの動かしていた両手を己の両手で止めに入った。
「お前がそうまでして動く必要ないだろ!?私よりお前の方が怪我してるんだ、私が女だからってそこまで無理すんな!」
にとりの言葉は的確だった。あまり態度に示していないだけで、シンの身体には痛みが未だ残っている。身体が動かせるぐらいには無事だがシンにとって今の身体は鉛の様に重く、パイロットスーツの下は止血する前に自身の流した血でぐちゃぐちゃに濡れていた。
「けど、俺より…君の方が心配で―――」
「それはこっちのセリフだ馬鹿!見張りだって看病だって、なんだって私がしてやるから!見返りにきゅうりとかそんなの要らないから!お前は寝てろよ!」
両手でシンの動きを止めていたはずのにとりは、いつの間にか身体全体でシンの身体を抱き留めていた。シンも身体へ満足に力を込められず、話している間になし崩しにこのような流れになったのだ。
「どんな奴が来たって、私が…守ってやるから……!」
「に、とり…」
ああ、そうだな。と、シンは思った。この世界に来てからずっと自分を助けてくれたのは最初から今までにとりがいた。彼女がいなければとうの昔に自分は死に逝き、こうして生きるための努力も行えなかっただろう。
彼女の言う通りにして再び岩肌で横になろうと、抱き着く彼女の身体を離そうとする。その時。
「誰だ!?」
背後に影。ほんのわずかな茂みの揺れと音を、今この時でさえシンは神経を張り巡らしていた。すかさず威嚇と警告の一声を飛ばし、にとりの身体を己の身体の後ろへ退ける。唯一の武器であるサバイバルナイフに手を添えて、来るべき敵への対応を備える。全てがアカデミーの訓練で叩きつけられた動作だ。
獣の類であれば向かって来た時に一刺しで殺し、妖怪の類ならば今の二人には満足な抵抗の術がない。どちらにしても、まともな動きが出来ない二人にとってこれ以上の敵は現れて欲しくないに尽きた。
「「「ひゃあああっ!?」」」
「はあ?」
声が三つ。いずれも高く、覇気の一欠けらも無い女の子のもの。
「あの声は…」
それを耳にして張りつめていたシンは拍子抜けする。直感的にナイフへと伸ばしていた手を引いて、草むらの中へと身体を進めてみる。しかし、震える三つの子供の声が聞こえても肝心の姿が見当たらない。木の上かと思えば声は極めてすぐ近くでしかも下から聞こえてくる。揺れた草むらに向けて手を伸ばしてみれば、まるでほっぺたにでも触れたかのような柔らかいマシュマロの様な弾力がシンの指を返した。
「もしかして……私のと同じ、光学迷彩?」
「まさか。ガス散布の“ミラージュコロイド”は論外として、にとりの光学迷彩なんか他の河童でも持っていないんだろ?以前聞いたぞ」
作業場で過ごしていた時の会話を思い出して言った後に、シンは声が聞こえる目の前の空間を凝視する。触った感覚は確かな人型のものだった。もっとよく確認してみようと、ポケットから携帯用ライトをそこへ照らしつけてみる。すると、光の何割かが自分達の方に反射されるのが分かった。それは見えないのではく、隠れていただけなのだ。そういう意味では、にとりの言う光学迷彩と理屈は同じになる。
「だ、だれもいませんよー光のベールの中にだれもいませんよー」
「わ、わすれてくださいー私達なんて最初からいなかったんだって、そう、思ってくださいー 」
「み、見なかったことにしましょう。見られなかったことにしましょう。オーケー?」
「見るなという方がムリだろ…」
聞こえてくる三つの声は、いずれも白々しく抑揚のない声を上げながら訴える。対して緊張に見合わない相手を感じて、シンは額に手を当てて呆れかえす。
「おい、いいから出てこいよ!」
「ああもう、お前ら!姿を現せ!」
見かねたにとりがその手から少量の水弾を放つ。霊力の塊であるそれは少しでも受ければ痛い。声の持ち主三人娘は、直撃を受けて間の抜けた悲鳴を上げながら、薄暗い地面の上にその姿を現した。
想像通りの、三人の子供達だった。正確には、背中から虫の様な薄い羽根を有している、子供の姿をした人ならざるものだったが。
外見を人間でたとえるならば、十にも満たない齢だろうか。発達しきってない小柄な体は、軽い体重のままに地面にうつ伏せ、三人とも頭を両手で抱えながら身体を震わせている。赤と白と青のそれぞれ纏っているドレスは、地面の土に汚れ、その奥から除くドロワーズが無様にシンとにとりへ露わになっていた。
「こいつら、妖精じゃないか」
「妖精!?妖精ってあの、絵本とかの物語に出てくるちっさい奴?」
「シンの所の世界じゃそうなのかもしれないが………妖精は人間、妖怪の様に異なる種の分類を指していて、こいつらは多分、この湖に住んでいる妖精なんだよ。元々この湖はいろんな所からの霊力が流れ込んでいる場所で、住み着いている妖怪や妖精にはいろんな奴らがいるんだ」
一通りの説明を聞き終えた所で、お尻を突き出していた妖精たちが目を離したすきにこちらへと向き直している。相も変わらず頭を下げた状態で震えていたので、シンは腰を下ろして三人の先頭にいる女の子、金髪で赤いドレスの妖精の頭を小さく小突いた。
「ゆ、ゆるしてくださいできごころだったんですなにもわるくなかったんですおねがいしますなんでもしますからそこのみずうみにでもいけといわれたらいってどざえもんごっこでもしますしひがしにたおれたひといたらかんびょうしますしにしにつかれたひとあればいっていねのたばをいただきますしほめられなくてもやっかいにおもわれてもいいのでかんべんしてくださいおねがいします」
涙を蓄えて物凄い早口を震え声で発しながら未だに怯える赤の妖精。シンは彼女の身体をすくって地面に座らせると、痛みにこらえつつ出来る限りの笑顔を取り繕って優しく話しかけた。
「ゴメンな、驚かせて。俺達もびっくりしたからつい手を出しちゃったんだ」
彼女の真正面に自分の顔を置く。元より、幼い時に妹と接してきた身だ。小さい女の子の相手ならば苦手ではないし、異性だからと言って遠慮する態度も必要ない。ただ当時いた近所の子供にいじめられて泣いていた時のマユを慰める時の様に、シンは柔和な笑顔と言葉で接した。
「へっ………私達を捕まえて標本とかいたずらするんじゃないの?」
「そ、そんな事をする気はないよ………ただ、出来ればこの近くで俺達は休める場所を探していたんだけど、君たちはどこかいいとこ知らない?」
「「えっと………」」
シンの言葉に、赤の妖精も、白も青も首を傾げて考え込む。そのまま結論を出さずに「分からない」と答えればすぐに森の奥に返そうとしていたシンだったが、小さい声で恐る恐るといった提案を耳にして、シンの目的は変わった。
「あの………だったら来てみませんか…?湖にある私達の“別荘”」
シンはその言葉に耳を疑いそうになった。その外見から到底想像できない言葉を正面から投げかけられて。


月日が差し込む森の夜。
先導する三人の妖精達に連れられて、藪の中をかき分けながら細々と進む。彼女達妖精はその小さな身体で道と言えない道を難なく進むことが出来るが、人並みのシンとにとりにとっては苦労が絶えない道のりだった。進むたびに木々の枝や小さい虫たちが纏わりつき、鬱屈とした不快感と逃げ場のない閉塞感で一杯になる。顔や口に蜘蛛の巣が入りそうになった時は顔色を変えずにはいられなかった。
妖精達もそんな二人を見て指を差しつつ笑い出してもいたが、彼らの必死な様子を受けて急くように先を歩く。にとりの処置で身体の痛みは和らいだがそれでもにとりの肩無しでは満足に動く事すらも今のシンには出来なかった。
「大丈夫か、シン?………とか言ったら、お前はいつでも大丈夫というんだろうな」
「はあっ、はあっ………じゃあにとり…他に何てことを返せばいいんだよ?」
「いろいろあるだろ?『俺を助けてくれ』とか、『そばにいてくれ』とか、もっと他人に頼るような事を言ってくれていいんだぞ」
「ははっ。そっか、ありがと。じゃあ…もっとしっかり俺を支えててくれないか?」
「もちろん!」
相槌と共にシンの身体を抱くにとりの両腕にさらに力が籠った。にとりは妖怪だから、全力など出してしまえばシンの身体など簡単に持ち上がる。木の根で出来た天然の段差があれば、シンを持ち上げる事さえもお手の物だった。だが、にとりの消耗も決して軽くない事はシンにも分かっていたから、なるべくにとりの厄介にならないよう努力した。
「ついたよ、みんな!」
そうして歩き続けていく内に、開けた場所に彼らは出た。
森の奥の中にある、一本の大木。それを中心とした周りにはそれまで乱雑に生い茂っていた木々の姿は無く、夜空から差し込む光は遮る枝葉がない事でさらに明るみを高めていた。そこは自然の広場ともいうべき場所で、明らかに今まで通ってきていた森とは一線を画した所だった。
「ここが私達の別荘、湖の大木です。流石に博麗神社の木ほどの大きさはありませんが、ここの風はなかなか気持ちの良いものよ」
「ここから見える月はとてもきれい。コーヒーを飲むのにも適した場所だわ」
青の妖精と白の妖精も、ここの住み心地を雄弁に語る。どうやら、人間にとっては単なる『大きい木』という認識でも、彼女達にとっては至上の住処の一つのようだ。そして、青の妖精の発した一言にシンが応える。
「神社って……君らは霊夢さんの神社の近くに住んでいるのか?」
「はい!霊夢さんの所の木って凄く快適なんですよー!広いし、空気はいいし!時々参拝に来る人間をおどろかしたときにはもう爽快ってもんです!」
「このまえそれで怒りを買って、霊夢さんにひっぱたかれたのはどこのどいつ?」
「う、うるさいわねルナ!私の能力ったって、ときどき失敗することあるわよ!大体アレはルナもボーっとしてこけたから音が出ちゃったわけだし、スターだって周りをよく警戒していなかったからよ!」
「なによ私にまで、サニーもルナも人間を驚かすことに喜びすぎたから霊夢さんに感づかれてしまったのよ。私は後ろから眺めていただけなのに、私までお札を受けるのは理不尽よ!」
「ルナが!」
「サニーが!」
「二人が!」
そのまま三人は口喧嘩でお互いに怒りをぶつける。人間の子供そのままの、甲高い声を出しながら手足で叩きあうその様子は、稚拙で滑稽なものだった。しかし、本人達にとっては大変真剣な問題なのだろう。シンもにとりも呆れる目で三人を眺める。
「あーやめだやめだ!喧嘩は後にしろ、お前ら!」
にとりが割って入り、手を振って妖精達を無理矢理引きはがす。細い腕から繰り出されるパンチやキックがにとりに当たるが、ものともせずに喧嘩を止めさせた。
「とりあえず落ち着く場所に案内してくれ、喧嘩は後でも何でもできるだろ?」
「あっ、はい………ごめんなさい…」
「あららっ、サニーったら怒られたわね」
「もう、うるさいよスター!」
「全く、二人とも静かな夜なのに騒々しいわね。このままじゃキリない」
「何だって!?いっつもルナはこけているだけのどんくさいクセに!」
「なによ、サニーの考えた作戦の多くがいっつも失敗して痛い目ばかり遭うのに」
「いくら私の能力を使って周りを警戒しても、失敗が多いのはどう考えてもどちらかが悪いからでしょ!」
「ルナやスターが!」
「サニーとスターが!」
「サニーとルナが!」
「うあああっ!お前らうっとおしい!少しは落ち着けえええ!!」
繰り返される争いに、遂ににとりも堪忍袋の緒が切れた。息も荒げに怒鳴るにとりの背中を眺めながら、シンは頭を抱えているしかなかった。


「じゃ、遅れたけど自己紹介ね」
にとりが妖精たちをたしなめて、夜の落ち着きを取り戻した所で、赤のドレスの妖精が自らを親指で指しながら率先して名乗りに入る。
「私はサニー、サニーミルクといいます。そこの白いのはルナチャイルドで、青いのはスターサファイア。私達は太陽、月、星の、三人揃って光の三妖精!」
「月の妖精、ルナチャイルドよ。よろしくお願いします、シンさん、にとりさん」
「星の妖精、スターと申します。さっきは見苦しいところ大変失礼しましたわ」
自称した通り、暗い中でも分かる太陽のような眩しい笑顔を振りまきながら赤いドレスの妖精サニーは元気よく言う。その背後に控えたルナチャイルド、スターサファイアも会釈をシンとにとりに送った。
「俺はシン、シン・アスカ。こっちの河童の女の子は河城にとりだ。改めてよろしく」
シンの差し出す右手に、サニーは何の迷いなく同じ右手で交わす。生きとし生けるものには体温が必ず存在するが、サニーの右手から伝わる暖かさは人間のそれよりもほんの少し高く感じた。
「そしてここはサニーも言ったけど私達の別荘。妖精に合わせた間取りだから人間や河童にはちょっと狭いかもしれないけど、木の下なら休めることぐらいは出来ると思います。ここには動物や他の妖怪もめったに来ませんし、安全に朝まで過ごせます」
スターが右手で指しながら、大木を指す。よく観察してみれば、木の上部辺りに手作り感が見受けられる家のようなスペースが設けられているのが分かる。それと別にスターが指したのは、木の根元にある大きな空洞だ。そこを覗くと人が四人は入れるほどのスペースがあるのが分かる。
「なんでここには妖怪たちが来ないって分かるんだ?」
「えっへへ~知りたいですか、シンさん?」
もったいぶるように聞きながら、自慢げに笑顔満面のサニーが両の腕を腰に当てている。それをよそに横から出てきたルナがカールのかかった髪を手遊びしながらトリックを明かした。
「それは私とサニーの能力です」
「君たちも何かしらの能力を?」
「ええ、私の“周りの音を消す程度の能力”、サニーの“光を屈折させる程度の能力”。この二つの力で私達が故意に明かしさえしない限りこの場所は見つからないし、この場所からの音も聞こえない。広い森の中でここを探し出すのはまず無理です」
「そして私の“生き物の気配を探る程度の能力”。これで万が一偶然この近くに入った生き物も、私が事前にキャッチすることが出来る。この前も黒い服にリボンを付けた妖怪が迷い込んできたけど、不意打ちを仕掛けたら難なく逃げて行ったわ」
「それというのも、私達三人の力ね!」
「へえ、よくわからないけど、すごいんだな」
意気揚々と武勇伝を語るサニー達に、首をかしげつつシンが称賛を送る。それさえもサニーには喜びの種なのか、両腕を力強く組んで、自慢げに笑っている。
「な、妖精って単純だろ?」
小声で耳打ちするにとり。彼女の言う通り、目の前の妖精達はこれまでのケースから考えても人間よりも明らかに超常の存在だろう。だが、目の前の妖精三人はどこからどう見ても人間の子供の様に単純な物わかりをしている。褒めれば喜び、咎めれば包み隠さず怒る。感情の起伏が激しい反面、とても扱いやすい存在だと内心で思った。
「まま、私達の凄さも分かった所で、今日はここで休んでってよ。私達は上にいるからさ、何か頼りたいことがあったら遠慮なく私達に申し出てくださいね、シンさん!」
「あ、ああ。ありがと、サニー」
「ちょっと、いつまでも私達がここにいたら二人の邪魔よ。ルナ、サニー、私達は退散するわよ」
「ちょ、ちょっと、スター!ひっぱらないで!」
「そうね、スター。二人もゆっくりしたいだろうし」
「ルナまで!?いったいなんだっていうのよ~!」
スターが行き成りサニーのドレスを引き、ルナもそれに連られる。小さい身体が妖精の翼で運ばれ、頭上の小屋に引き込まれるのをシンとにとりはただ眺めるしかない。
扉が閉まって再び無音が周囲を支配したところで、シンはその場の地面に力無く腰を下ろした。彼女たちの相手をしていた時は気づかなかったが、相当な疲れが一度に押し寄せてきたのが分かる。その場にそのまま倒れてしまいそうなのを抑えて、にとりに話しかけた。
「はは……元気な女の子たちだな、全く」
「あんなの、ここいら近くにはそれこそゴマンといる。あんな風に礼儀が出来るだけ、まだマシな妖精だよ」
振り返れば、にとりは腰を下ろすどころかその場で仰向けに横たわっていた。彼女も言葉交じりに肩で息をしており、まだまだ疲れが抜けきっていないようだった。それを見習ってシンもゆっくりと同じように仰向けになる。目の前には白く輝く丸い月と宝石の煌めきの様な満点の星々が広がるばかりだった。
「綺麗だ……」
「お前は聞いた話だと、よく宇宙に出てたんだろ?珍しいものでもないじゃないか…」
「それでも、綺麗なものは綺麗だよ。何度見てもさ」
宇宙から見えるのは星や月だけじゃない。青く輝く命の星、地球。自分はそことコロニーに住む人々の為に戦っていたのだ。二度と戦争の毒牙が人間達に向かないように。
「そういや、なんでにとりは紅魔館に“フリーダム”で飛んできたんだ?“レジェンド”が来てたとはいっても俺は一度も連絡を飛ばしてなかったのに」
星を見続けていたらふと思い出したものがある。紅魔館の先で現れた“レジェンド”、そしてにとりの“フリーダム”。全てが驚くに値する事であり、二つのタイミングはあまりにも神がかりすぎている。なぜにとりが自分の機体を危険を冒してまで持ち出してきたのも、どうしても知っておきたかった。
「…………私達の作業場が襲撃されたんだ」
「ええっ…!?」
その言葉が突き刺さると同時に目を丸くすることしか出来なかった。思わずにとりの方に首を向けると彼女も自分の方に顔を向ける。
「どういうことだよ!?作業場が、襲撃…!?霊夢さんは、小傘は、無事なのか!?」
「……催眠の類か、靄状の薬物が入った玉を放り込まれたんだ。私と小傘は霊夢に言われて奥に隠れて、私に協力してくれていた河童達は倒れていただけで無事だったが、お前の“デスティニー”が奪われた」
「“デスティニー”が奪われただって!?」
反射的に上半身を起こして声を張り上げるシン。わけが分からない、その一言に尽きる。愛機を奪われた怒りよりも、驚きと戸惑いが心を満たし、張り裂けそうな思いになる。にとりと小傘が無事なのは嬉しいが―――!
「じゃあ霊夢さんは!?まさか、その襲ってきたやつに…………」
機体の修理よりも、自身の戦う力が無くなったことよりも、重要なものは別にある。肝心なのは自身の友であり、掛け替えのない彼女たちの存在。その中でも、最初から自分を助けてくれた少女の事をシンは聞かずにはいられない。
「霊夢は…………分からない」
「!?」
「姿が見当たらなかったんだ。私が泣きついている小傘と出てきたときには、飛び去っていく“デスティニー”と晴れていく靄、大量に倒れてた河童の友人達……その何処にも、霊夢の姿は見当たらなかった」
「さらわれた、ってことか!?」
「その可能性は薄いと思う……あくまで推測だけど、奴らが巫女であっても人間の霊夢をさらっていく意図が読めないし、ただの人間や妖怪が霊夢をさらったところで、あいつなら例え縄で巻かれても無理矢理抜け出していくだろう、そんな奴だ、霊夢は」
聞けば聞くほど彼女が如何に只者ではない事が良く分かるが、その霊夢が大人しく敵の手に落ちる事自体がまず想像できない。シンの見てきた霊夢はいつでも気丈で、それに見合った強さと芯を持っていて、負ける姿などあり得ない。シンはいつでもその彼女の後姿を慕っていたのだ。
その彼女が敵の手に落ちる、もしくは負けるという事はあってはならない事だ。
「初耳だ…そんな事あったんだ……!」
「わたしは何もできなかった……だからシンにこの事を伝えたくて、満足に動かせもしないモビルスーツをお前たちの所に飛ばそうとしたんだ。無線の位置はレーダーで何時でも拾えたのが幸いだった…」
「俺が通信送った時にノイズがひどかったのは、飛行のスピードで回線が弱かったからか」
そう考えれば納得もできる。直接通信機同士を遠赤外線レーザーで繋ぐこの最新鋭の軍用通信機でも、分厚い装甲で覆われた受信機を猛スピードで捉えるのは優れた技術士の賜物だ。元の世界ではNジャマー圏内のも相まって距離が開いていれば音声どころか、テキストデータ程度の微量な情報しか送れないのだ。
「いま焦りたい気持ち、酷いほどよくわかるよシン。けど今は休まなきゃ。機体を取り戻すにも、あの灰色の機体にリベンジするにしても……霊夢を取り戻すにしても。休める時に休まないとお前の身体が危ないんだ。辛い気持ちでもなんでも分かるから……」
「……ああ」
上半身を再び寝かせて、夜空の輝きを瞳に移す。空はこんなにも美しく、澄んでいるというのに己の心は迷いに淀んでいる。先が見えないとはこの事だ。自分がどうしていいかもわからず、問題ばかりが山積みになる。
だけども力無き自分が、誰かの力を借りない事には何もできない事は当の前に分かり切っていたから、シンはにとりの言葉に従うでしかなかった。満点の光が薄れゆくまで。シンは夜空を眺めて身体から力を抜く事しか出来なかった。


何度目になるだろうか、この見慣れていなかったはずの赤い天井を見る事になるのも。
周りに怒鳴り散らしてばかりで、無責任なことばかりばら撒いて。そんな自分に出来る事は傷ついた心を他人に諭されて慰めと言う名のかさぶたで埋め尽くすことだった。
自分がまだ泣いているのかも分からないぐらい、長い時間を泣き続けた。窓の外は既に月夜に照らされ。明かりをつけていない借り部屋は隅が見えないぐらいに暗い。
只々無言で、早苗はベッドを降りてくずおれる。自分は未だに紅魔館から借りたドレス姿のままだった。客人用のこのドレスは、自分の瞳の色にも似た薄い若葉色で、とても華やかで優雅なものだった。これだけ華美な衣装を纏う事は人生でそう何度も経験できるものでは無いだろう。
だが今の早苗は満身創痍の心だった。身体が煌びやかな花の様に眩しい佇まいでありながら、その実心の内側は愛する者の死という絶望の闇で埋め尽くされている。
彼、シン・アスカがもういないという事が、怖くて悔しい。出会って幾十日が経ち、心を通わせた相手がいなくなる事がこんなにも苦しいものとは思いもしなかった。愛する者の死というのは誰もが経験する。だがそれは、十分に身体も精神も熟して涙を流して受け止める時が来てからにしてほしいと思わずにはいられなかった。彼は自分と変わらない歳でありながら、加えて他者に殺められて命を落とすなんて事は万が一にもあり得て欲しくない現実だった。
心の弱さを拭えない事が、こんなにも痛くて悲しい事だとは。涙なら沢山流した。幼い時、両親が居なくなり親代わりの二柱と共に生きてきてから、早苗はとにかく笑顔がいつでも出せる少女としての自分を取り繕って来た。
元の世界にも友人はいて、彼、彼女達とも出来るだけ楽しい関係になれるよう努力した。けれども、自分は神の力を宿す風祝だ。彼らに比べて特別すぎるがあまり、心の底から元の世界の人間を信じ切る事は出来なかった。例えるならば、何時も顔を合わせて自然に挨拶が出来る、近所付き合いな物でしかなかったのだ。
だから自分と同じように特別な力を持ち、神や妖怪という異種との関わりを受け入れ、幼い頃から漫画やアニメで憧れていた巨大ロボットを駆る少年の姿は、正しく東風谷早苗にとっては英雄で理想その物だった。
好意を包み隠さずいつでも彼の傍にいて、彼の苦難を助けてあげれたことが早苗にとっては唯一無二の誇りであり、自己を満たす至上の行為だった。
そんな自分の大半を満たしてくれる少年がいなくなったのだ。
とっくに止まっていたはずだと思い込んでいた涙を流しながら、早苗は震える手足に鞭打って身体を起こす。ベッドの横には水で濡れていた、風祝の象徴でもある蒼色の巫女服が綺麗に折りたたまれていた。外は霧が濃かったが、紅魔館のベランダは燦々と日が降り注いでいた。そこに咲夜が干していたのだろうか。柔らかい暖かさと、風に乗って届けられる木々の匂い―――小さな子供に言うこれらを俗に、お日様の匂いとでもいうのだろうか―――が鼻腔をくすぐる。
ドレスを脱いで、下着の上からそれらを羽織り、馴染んだ肌触りを全身に感じながら巫女服を纏う。やはり、洋風溢れて華美で広がるばかりのドレスより、こちらの方が自分にはとても相応しいと感じた。日本の原風景で目に入る資源から採れた材料で作ったこの服が、和の国に生まれし己の肌に何違和感なく着こなせるのだ。
窓を開けると、昼間にあれ程濃かった霧も最初からなかったように姿を消している。涼しい夜風が服の切れ間から入り、頬を伝っていた涙を乾かせる。既に早苗の両の瞳は、悲しみに濡れたか弱き少女のものでは無い。
シンは言っていた。運命は自分の手で切り拓くものだと。
このまま泣いていたって始まらない。俯いてばかりじゃ、シンの死から立ち直れないどころか、彼を討った者に対しても顔を合わせることが出来ない。
シンが宿していた、炎の様に燃え上がった戦士としての雄々しき瞳。早苗の目にはそれと同じものが宿りつつあった。悲劇のヒロインではなく、異世界に渡った一人の戦士としての面構え。女としての幸せを得る以前に、早苗はこの世界の人妖と渡り合える力の持ち主だ。
女は、助けられるだけの存在じゃない。
自らの答えを求める為、早苗は窓の桟から勢いよく両足を蹴った。神の力が起こす風が全身を包み込み、重力のしがらみから己を解き放つ。
月が照らす闇夜の中。早苗はかつて二つのモビルスーツが収まっていた河城にとりの作業場を目指して、空を駆けた。


「動けるのは、後数分って感じ……!?」
眼前のモニターを鋭く睨みつけながら、うっとおしく耳朶を打つ警告音に苛まれる。あらゆる角度から伸びる閃光が目の前を過ぎていき、ビームという名の糸の縫い目の間をルナマリア・ホークとその愛機“インパルス”が飛翔する。
宇宙という無重力の空間の中では上下や重力という概念は無意味だ。だからこそ独立機動砲塔というモビルスーツが繰り広げる白兵戦の常識を覆す武装、変幻自在のオールレンジ攻撃を行える環境と化す。
パイロットの技量に大きく左右されるという点では未だ制御に難を残す“ドラグーン・システム”だが、最高のパイロットされる人物がその課題をものともしないのならば尋常ならない脅威を生み出せる。今ルナマリアの前に立ちはだかる敵は、それを可能にしていた。
「このまま終わってたまるものですか!」CCC_J629
計器類の数々が機体の状況を知らせる。“インパルス”の右腕と右太ももより下を損失。シールドを掲げる左腕のアクチュエータも負担がかかり、そう何度も激しい動きを行使する事は出来ない。損傷の少ない左足と背部にあるフォースシルエットのスラスターのおかげでAMBAC起動には問題ないが、総合的な機能低下は否めない。
残った武装は20mmCIWSとビームサーベルのみ。これだけで相手を―――“奴”を斃すことなんてできるのだろうか。焦燥感に駆られずにはいられなかった。
「!」
来る!白い奴が。自身の敵となりしモビルスーツの姿が来る。推進剤を散らし、閃光と共にルナは飛ぶ。最早防御は捨てる。シールドを投げ捨て、代わりに自由となった腕でサーベルを握り、完全の敵を薙ぎ払う。
外した。渾身の一撃だと信じていたビームサーベルは、星々が瞬く闇を切り裂き、絶大な隙を相手に与える。
しまったと思った時にはもう遅い。せめて反抗の態度を示すが如く、ルナは敵である相手の機体を目に据えた。悔しさの滲んだ瞳に映るものは、太古の大天使を模したかのような二対の翼を掲げる双翼の巨体。前大戦の英雄が駆る最高のモビルスーツ“ストライクフリーダム”が巨大な銃を構え、そしてその銃口から一筋の光条を放った。
「あーあ、また負けちゃったわ………」
「ドンマイ、お姉ちゃん。しょうがないよ、キラさんのデータを基にしたシミュレーションデータ、未だ誰も勝ったことがないってもっぱらの噂だから」
プラント首基、アプリリウス。そのモビルスーツ格納庫の一角。アップデートして間もないMSシミュレーターの筐体から力無く身体を起こし、露骨に不機嫌な顔を示していたルナは、近くに控えていた妹メイリン・ホークが自動販売機で買ってきた栄養ドリンクを渡されると、長い溜息を吐いた後に攻略不可能な敵機について愚痴をこぼしていた。
「なによあの機体!ロックして明らかに動きが止まった時を狙ったというのに、まるで死角がないかのようにこちらの動きを先読みしてくるのよ!こちらの攻撃が当たらないなんてまるでインチキみたいじゃないの!?」
「そんなこといったって……あの筐体、ザフトに入ったキラさんと暇を持て余していた技術班が共同で作り上げたソフトをインストールしてる物だよ?キラさん本人の性格からして自分を模したデータを入れるって事はしないだろうけど、事実入ってるってことはきっと技術班の人達がキラさんに何か言ったのかな?『貴方のデータを取らせてください』とか、『貴方のデータでテストがしたい』とか」
「歌姫の扱いに長けて、MSでは負け知らずで…おまけにハッキングや情報処理は勿論、高度なプログラミングにも長けているって、キラはどれだけ完璧なんですか~っての。私だって、あれからどんどん腕は上がっているはずなのに、全く掠りもしないってことはどういうことなのよ…全く」
ルナのしかめっ面にメイリンは苦笑いをするでしかない。ここ数日、プラントは一時の平和を享受していた。各地で出没していたテロリストによる暴動も一通りは沈黙し、軍もスクランブルの指令あらばいつでも出せる警戒状態に置かれているものの、ルナらパイロットの多くはゆっくりと日々を過ごすだけの余暇は与えられていた。
だが、ルナには他のパイロットの様にゆっくりのんびりと怠惰の時間を過ごしている程の心の余裕はなかった。
自信の親友、シン・アスカがMissing In Action―――戦闘中行方不明―――と認定されて数日、ルナマリアの心が落ち着いたことは一度としてなかった。多額の資金を積んで建造されたワンオフ機とザフト最強とされるモビルスーツパイロットを一度に失うこの損失は、ザフトにとって甚大な被害を被ることは明白だ。だがあまりにも唐突な出来事と多数の不確定要素が混在したこの出来事は未だ公式な発表は伏せられていた。有名なエースパイロットのMIA報告は全体の士気を低下させる原因にもなれば、無用の混乱と作為的な誤情報によって軍そのものが翻弄される恐れもある。
これらの経緯を知っているのは、“デスティニー”のロストを確認したトロヤステーション職員と、その場に居合わせた人物達だけ。ルナマリアの知る範囲だとキラ達ということになる。そもそもこのように情報が公になっていないのは今やザフト軍の白服を飾る、キラの計らいでもあった。
『こんなことあまりにも不自然だよ。なんて言うか……何かがおかしいんだ、きっと。皆に教えるより、もっと詳しい情報がとれてから調べなくちゃ。そうでしょ、アスラン』
『俺も同意見だ、キラ。この事は他言無用にしていた方がいい』
ステーションの管制室で告げられた時から、ルナの世界は暗くなったような気がした。アカデミーの同期であるシンもレイもいなくなってしまった事で、あの前大戦を共に戦ったミネルバのエースパイロットは自分だけ。それがまるで、自分が置き去りにされたような孤独感にルナマリアは苛まれていた。ヘブンズベース戦で前議長から二人がFAITHに任命され、機密事項と評して会話から仲間外れにされた時と同じように。
「“インパルス”………」
ルナマリアは愛機を灰色の装甲を見つめ上げた。嘗てシンの愛機であり、あのキラの“フリーダム”を墜とす戦禍を上げた、『衝撃』の名を冠した最新鋭の機体。“デスティニー”や“レジェンド”というセカンドステージシリーズを超えたハイステージに分類される機体が建造されてからも、この機体のスペックは日々改良を加えられた量産機体と比較しても高位を維持している。制御に必要な複雑な操作はパイロットに負担をかけるが、ユニウス戦役を終えてからこの一年、自機の独特な癖や底知れないポテンシャルはものにしてきた筈だった。
―――それでも勝てない相手がいるのよね………
シミュレーターとはいえ、キラの強さに遠くおよばないことが自らを弱い女だと認識させられる。女の戦士だろうと守れるものは在るはずなのに。でないと自分は、いずれを子を宿すだけの存在にしかなり得ないのかもしれないと思わないほうが無理だ。
「よっ。そんなに自分の機体を見つめてどうしたんだよ、後輩」
「その声はっ……」
ハンガーから伸びる連絡通路の影から、自らを気さくに呼ぶ青年の声が鼓膜を柔らかく叩いた。直ぐに暗い顔を形作っていた気分を振り払って声の方へ振り向く。そこには、
「そんなに機体を見つめていたって、直ぐに出撃とは限らないぜ」
「エルスマン副長……!」
慌てて背筋を伸ばし、メイリンと共にザフトの流儀である肘を縮めて掌を見せない角度で敬礼する。目の前に現れた、褐色肌とまばゆい金髪が目立つこの青年は、前々大戦ヤキン・ドゥーエ戦役から第一線を張り続け、今はジュール隊副長を務めるディアッカ・エルスマンだった。
「そう肩肘張んなって、大した用で通りかかったわけじゃないんだからな」
「馬鹿者。部下には毅然とした態度を取り続けることが上官の役割だ。貴様みたいな態度ばかりではいずれつけ上がる者が出てくるぞ。上官らしい振る舞いをしろ」
「ジュール隊長まで!?」
メイリンも面食らった様子で続いて現れた白服を纏ったボブカットの青年に声を上げる。イザーク・ジュール、彼もまたディアッカと共に多くの戦いを経た歴戦の男だ。
「失礼しました、隊長」
メイリンの慌てた態度に詫びを入れ、ルナが二人に頭を下げる。
「しかし、ジュール隊のお二人がどうしてこのような場所に出向かれたのですか?」
しかし上官だろうと口を割るのがルナマリアである。敬語を放ちつつも上官に対するこなれた態度は自らが持つモビルスーツの実力と、男にも負けない勝気な性格から裏打ちされたものだ。
「フン、部下の様子を見ておくのも上官の勤めだからな。我がジュール隊がアプリリウスに停泊している以上、自身の機体を整備する人間の顔は覚えておくものだ」
「へ~。とかいって、キラが作ったシミュレーションを我先にとやりたがって俺を連れてきたのは何処のどいつだよ。『俺もお前もアイツには痛い目にあわされただろ!その借りを返す!』ってさ」
「う、うるさい!今が忙しくないお前達は時間がいくらでもあるだろうが、俺みたいに隊長ともなると常日頃から中々席を離れるわけにはいかないんだ!机でペンを握っていたり会議に出席するより、コクピットに座っている方が一番落ち着く!」
ああ、そういうことか。と、ルナは納得する。
要するにイザークも今のこの時期に鬱憤が溜まっているのだ、自分と同じように。敵と戦う人間、即ち闘争本能に包まれる自分達パイロットは、平常の生活がとても煩わしい。退屈すぎて死にそうなぐらいなのだ。元来人間は獣のように戦いから逃れられない存在なのだから、スポーツやゲームなどで闘争本能を満たす。しかし軍施設内にもそのような娯楽施設はあれど、戦いでないと満たされない程の鬱憤や抑鬱感ともなると、自らの腕試しも兼ねてシミュレータに撃ちこむのがうってつけだ。
「貴様、確かミネルバに所属していたザラ隊のルナマリア・ホークだったな。では聞いておく、あのMSシミュレータ、まだ誰もやり遂げてはいないだろうな!?」
「えっ、ええ…私も試しに挑戦してみましたが、中々の強敵で手も足も出ませんでした……」
「フッ、なら丁度いい。俺のグフはOSアップデートとパーツの整備中でもうしばらく動かせん。それまでにこれまで受けてきた奴への屈辱!シミュレーターという仮想ではあるが、ここで返してやる!」
「悪いな、後輩達。イザークの奴、ここ数日中ずっと沢山の書類を相手にしてきたからイライラしてるんだ、気にしないでやってくれ」
怒り心頭、とまでは行かないものの眉間にシワを寄せて怒りの炎を宿した瞳でシミュレータを睨みつけているイザーク。その様子に呆れながら、ルナの方へディアッカはスマイルで小声で囁く。
「でも隊長?すでにシミュレータの前に誰か座ってますよ?」
「なんだと!?」
指さして指摘するメイリンの言葉を受けて、クールな外見とは裏腹に処理できない感情むき出しの怒声を上げて叫ぶイザーク。その様子に周りの整備班も生暖かい視線をイザークの方へ向ける。きっと彼らもイザークの人となりは知っているのだろう。少なくともここ最近でうろつく自分達よりも。
「あれ、あの人って」
「キラ!!」
褐色の髪に柔らかい双眸。自分と然程変わらない年配のその少年はイザークと同じ白服を纏い、シミュレータのメンテナンス用のキーボードを叩いて、入念にモニターと睨めっこしている。オーブ軍からザフト軍に移った、前大戦の英雄で最強のパイロットの一人とされる、キラ・ヤマトだ。
「貴様~!どうしてこんな場所にいるんだ!?」
「あ、君も来てたんだ。イザーク、それに皆。けど、何でこんな所に集まってるの?」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿者!!」
イザークの叱咤を受けて申し訳なさそうに僅かに顔をうつむかせるキラ。本当に、こんな優男があの“フリーダム”のパイロットで英雄ともされる腕の持ち主だとは、未だに信じられない。
「ソフトアップデートの確認に来たんだよ。僕は元々ヘリオポリスのガレッジでモビルスーツ工学の勉強をやっていたからさ、プログラミングならかじっていたし、アスランとラクスが忙しい間で開発チームの人にねだられて手を貸したんだ。どう、僕が携わったシミュレーションの具合?」
口を上げて控えめの笑みを浮かべながら感想を問うキラ。その彼にルナは心底ガッカリした態度で応えることにした。
「最高で最悪って感じでした……MSの動きの感覚はほぼ変わらない感じに上がっていましたけど、最後のアレはなんですか“フリーダム”って!あんなの倒せるわけ無いでしょう!?」
「あ、やっぱり…僕もあんな設定じゃ、絶対に倒せないかもって思ってたんだ」
「は?」
「あの“フリーダム”のデータ、僕が作った物じゃなくて、元々の開発の人達が作ったのなんだよ。その…チームの中に僕のファン?みたいなのがいるらしくてさ。その人が『ヤマト隊長ならこんな感じです!』って、滅茶苦茶な反応速度にしたらしくてね。あんな動きを実際にMSでやると、コクピットがミンチになっちゃうよ」
―――それだけの動きを実際に行う男は、何処のどいつだって言うのよ……
素で答えているのか、つくりで答えているか。恐らくは前者だと判断しながら、半目で呆れるルナは頭に手を当てて溜息をもう一度吐いた。
「じゃあキラが提供した部分って?」
「MSの動作再現に用いる入力遅延の調整と、モーションにかかる演算の再設定かな。各アクチュエータのフィードバックをタイムラグとして再現。モーションと攻撃判定の発生をよりリアルに忠実にして、メタ運動野パラメータを最新のOSのものに更新。仮想フィールドで想定されるコリオリ力の演算を調整して、大気圏内のビームの減衰数値もより明確なデータに変えてそれから………」
「ああ、もう十分です。キラが凄い事をしたってのはなんとなく分かりますからそれぐらいに」
モビルスーツを扱う以上、キラの並べた単語の大半は頭に入るが、どことなくキラが得意気に語るアップデートの内容はこれだけに留まりそうになかったので、ルナは両手を振ってキラの口をつぐませた。
「えーい!御託はもういい!!キラ、お前はどいてろっ!ディアッカ、貴様は隣の筐体に座って俺の僚機をやれ!」
「へいへい、分かってるよ」V17_190C
首を鳴らし、肩をかしげてディアッカがイザークの隣にある予備の筐体に座り込む。このシミュレータ筐体は連動式で、複数人による仮想演習をも想定している為、ここでは最大同時十二人用に同じ数の筐体が連なって配置されている。演習ラインを二人用に設定しながらイザークが自身の愛機、パーソナルカラーである純白のグフを搭乗機にする。
軍用のシミュレーションであるこの筐体に、実際の専用機を持つ者が自身の登録情報を撃ち込む事で、デフォルトで使える機体群に加えシミュレーション内でも専用のモビルスーツが使える様に設定されているのだ。
「ディアッカ、貴様も早くしろ!」
「OK、分かってるよ……ん、この機体は…?」
その途中でディアッカの方は画面を暫く注視した後に、口笛を軽く吹いて称賛の言葉を筐体に浴びせた。
「~♪こいつはまた懐かしいぜ!」
「あ、あの機体…!?まさか!」
画面の中に姿を現したモスグリーンの巨体を見て、ルナマリアが驚愕する。仮想空間の中でイザークのグフの隣に立つそれは、Xナンバーと呼ばれる機体の一つの砲撃機だった。
「ディアッカ・エルスマン、“バスター”行くぜ!」
「チームの人達が出来る限りのMSを収録したいって言うからさ、開示されているMSのデータからポリゴンモデルを作って、ザフトで採集された兵装データを元にして作ったんだ。あんまり兵器の事に関する協力はしたくないけど、シミュレータということなら話は別だよ。機体自体も古いし、これ以上どうしようもないしね」
ルナの疑問にキラが問われもせずに解説する。普段物静かなキラにしては饒舌で、笑顔を浮かべている事からやはり目の前のシミュレータは彼にとっての自信作なのかとルナは認識した。
「グゥレイト!言う事なしだぜこりゃあ!」
「行くぞ!俺達の力、思い知らせてやれ!」
実戦と変わらない掛け合いと操縦桿そのままの操作用スティックを本機で巡らせながら意気揚々とのめり込むイザークと呆れながらもしっかりと援護をこなしているディアッカを目にして、ルナマリアは妹のメイリンと一緒に『男って単純よね』と言い合い、苦笑した。


「とぅ!へあああっ!もうやめるんだッ!!」
ビームサーベルからのビームライフルへと繋ぐ華麗な連撃を受けて、爆散する自機の姿と同時に画面全体に大きく『LOSE』の文字が出る。ボイスサンプルの妙に気合の籠った叫びを浴びせられながら、肩を震わせるイザークは叫んだ。
「アスラン貴様ァッ!!!!」
シミュレーションを終えてまずイザークが行ったのは、両腕で力の限りに筐体を叩き付ける事からだった。怒声を張り上げて針の様に鋭い目をねじ込むかのように睨みながら、イザークは悔しそうに頭を抱えていた。
「くっそう………この俺がっ…!」
「まさかラストでアスランもついて来るとはね……」
ルナマリアにない情報だった。後ろから二人の様子を感心しながら眺め続けて、シミュレータ最終面。そこでなんと、ルナマリアが苦戦していた“ストライクフリーダム”に加えて、アスランの駆る“インフィニットジャスティス”が姿を現したのだ。
「さっきまでの“フリーダム”は強すぎたからさ、ついでに追加しておいたんだよ。と言っても、僕の知る限りの動きを入れたから本物には及ばないかもしれないけど……」
「これは無茶振りというものだ馬鹿者ォッ!二対二とはいえ、機体性能でも実力でも高い奴が相手となればそう簡単に勝ちを取れるわけがなかろう!」
キラは謙遜しているが、それでもシミュレータ内の“ジャスティス”はその飽くなき強さで二人を圧倒していた。マイルドに行動アルゴリズムを設定したという“フリーダム”も未だにキレのいい動きのまま遠くからイザーク達を狙い、彼らはまんまと二機の連携に押されて負けたのだ。
「何が何でも墜とすぞォ!」
「おいおい、まだやる気?」
「うるさいっ!」
最早誰の制止も気にせずイザークは筐体に血走った形相で相対する。それに対し何も言わずに付き合うディアッカの姿を見て、ルナは二人を内心で『いいコンビね』と吐露した。
「ああそうだ、忘れるところだったよ。僕がこっちに来た理由は、別にこのシミュレータの調整だけじゃないんだ」
「えっ…?」
ほほえましく上官二人を眺めていた途中、突然キラがルナとメイリンへ言い出す。
「何かあったのですか、キラさん」
「そうなんだよ、メイリン。アプリリウス【こっち】に着いてから、シンの事について調べようといろんな所から情報を引っ張り出して調べてたんだけど……気になっていた事があるんだ」
キラは格納庫にある端末に持ち込んでいた記憶媒体を接続して、二人にとあるテキストを見せる。そこには聞きなれない計画名を冠した部隊編成の記述があった。
「コンクルーダーズ……部隊編成計画?」
「conclude……終わりにするって意味ですよね、コレ」
その文書をルナとメイリンは背後にいる他の整備兵に見えない様、ディスプレイの前で身体を寄せ合う。そこに記されていたのは今まで考えもしなかった荒唐無稽ともいえる突飛した内容だった。
「“デスティニー”を大量生産、及びにそれらを用いて単一化した機体による部隊のプラン………!?」
計画にしては余りにも出鱈目な内容だった。建造、維持、専用パイロット。その他全てがハイコストな“デスティニー”を大量生産し、最終決戦に向けて最強の部隊を編成しようなど。仮に機体生産が出来たとしても、シンに相当するだけの実力と練度を宿したパイロットの頭数はザフト全てを探してもそう何人もいない。さらには専用機そのものを量産化しているのだから、機体の操作の慣れを熟す期間も、整備を行き届かせる物資ルート等も、何もかもが足りない。乗り越えるべき課題があまりにも多すぎるのだ。
その部隊のリーダーを務めるのは、シンではない。代わりに部隊長の欄に刻まれていたのは―――!
「ハイネ・ヴェステンフルス………ハイネですって!?」
「うん。その人の事はアスランに聞いたよ。気さくで面倒見のいい人だって。これ、ユニウス戦役最終局面に向けて編成が計画されていた時の文書を、ラクスが見つけてくれたんだ。ただ内容よりもこれの出何処が僕は気になってね……調べるために僕はラクスに頼んでとあるコンピューターにハッキングしたんだ」
「とある…って、どこにです?」
一呼吸間を置いた所で、キラが事静かに答える。
「前議長の使ってたといわれる端末……デュランダル議長のパーソナルコンピュータだよ」
「!!」
「プランの立案にデュランダル議長が密接に関わっていたんだ。先を見据えた行動を常にとるあの人の事だから、この計画もどこまで進んでいたか、僕は調査していたんだ。そしたら……」
キラが端末のキーを叩き、一つの画像を表示した。そこに映し出されていたのは見知ったシルエットでありながら、異様なカラーリングに包まれたモビルスーツの姿だった。
「“デスティニー”?けど、色が違う…シンのじゃない?」
「そう、このオレンジ色の“デスティニー”はハイネっていう人が乗る筈だった、試作二番機。試作機とされるシンの“デスティニー”とは別に先行量産機の“デスティニー”がたった一機、このプラントで建造されていたんだ」
「嘘でしょ…!?」
初耳の連続だった。最前線の自分達の裏で、デュランダルがそんな現実になり得ない計画を夢想していたとは。
遺伝子による徹底主義だった彼の性格からはとても考えられない。勿論、ルナの知る範囲での話だが。
「その、ハイネの“デスティニー”は一体どこにいったの、キラ!」
「それについても、気になっていたんだ」
キラは真剣な眼差しで、ルナを据える。少年のあどけなさを残した彼の顔も、この時ばかりは歴戦の戦士を彷彿とさせる陰りのあるものへと変わっていた。
「シンがMIAになったあの事件…あれは、奪取されたもう一つの“デスティニー”を取り返す極秘任務だったんだ」
「ええっ!?」
「勿論、その任務の真相はシンには知らされてない。凍結されたといっても、コンクルーダーズ計画そのものが極秘だったからね。『存在するはずの無い機体』と言ってもいい。テロリスト達は、パイロットを無くしたあの機体を、自分達の反旗にしようとしていたらしいんだ。そして、シンの反応がロストした時には、奪取された筈の機体がある筈のテロリストの艦も無くなっていた……もう分かるでしょ?」
そこから導き出される答えは一つしかない。
「二つの“デスティニー”は、全く同じ時に、一緒に消えてしまったんだ。トロヤステーションでソルが言った、空間転移で」
「そして、シンが飛ばされた先にテロリストが……ううん、もう一つの“デスティニー”も存在するって事…ですか…」
偶然が重なるにはあまりにも都合が良すぎる。
最強のモビルスーツが、それも全くの同形機が一度のイレギュラーに巻き込まれるなど。そして、極秘とはいえわざわざシン一人しかその場に居合わせる者がいなかった件についても。
「急いだ方がいいかもしれない。上手く言葉に出来ないけれど、嫌な予感がするんだ。シンが危ないんじゃないかって。僕は軍に掛け合ってみるから、ルナマリアたちは何時でも出れるように考えておいて。僕も皆も、出来る限りのことはするから」
キラとの話を終えて格納庫から自室に戻ったルナは、アカデミーで撮影した時の自分達が移っているフォトフレームに目を通した。
そこには不機嫌そうな顔でいるシンと、笑顔でピースを掲げる自分、そして無表情の様で微かに笑顔をつくっているレイを中心としたアカデミー卒業生の瞬間が映し出されていた。
あの時の笑いあっていた自分達の世界は、もう戻ってこない。それでも、彼には。シンにはこの辛く苦しい世界でも共に生きていて欲しい。ルナはそう強く願った。
―――シン。貴方は今、どこにいるの………?