PHASE- 47 僕たちの行方


疲れた。
もう、誰にも死んで欲しくない。もう、誰かを殺したくない。
もう、誰も―――
残骸から黒い煙が辺りに立ち込め、静かになった灰色の空間の中心で、乗機デスティニーの駆動をOSを含めた全てをシャットダウンさせてシンは独り、俯いた。
人を殺めたのは何時ぶりになるだろうか。ここにきてそれなりに時は経つが、まだ、季節の変わり目になった程度なのだから、未だ記憶は鮮明である。平和な日々にほんの少し触れた程度では、元の世界で大義の下に行って来た己の戦いを忘れることはできない。
暑い。先程まで燃え上がるように高揚していた分、身体から汗が吹き出して、軍服の下のシャツを濡らす。思わずボタンを外し、力なくコックピットのコンソールを操作して緩慢と外に出た。
間隔が空いていたからこそ、敵機を墜として―――人を殺したことに、なおさら後味が悪い思いになる。最早、彼等がどのような手段でこの世界に来たか等二の次だ。それよりも、再び己の手を返り血に浸す時が来た事が重要だ。しかも、一人で守るべき背後には早苗達がいる。
戦いを知らない少女達の目の前で、戦いをして彼女たちを守る。戦う自分の背中を見せることなど避けたい。だが戦わなければ結局、誰一人、何一つ、自分達すら守れはしない。過去にデュランダルに示した己の覚悟だ。
だが、今は―――身体が重い。もう、意識を保っていられない。猛烈な睡魔と倦怠感がシンを襲う。徐々にそれはシンの視界を狭めて行き、開くまぶたを緩やかに細めさせる。
「―――シ………ン!……シン、シン!起きて、シンっ!!」
河原の石を蹴り、足音が近づいたと思えば柔らかい長髪と温かな水がシンの顔に触れる。早苗だった。彼女は傷だらけの自分を厭わず重いシンの身体を抱きかかえ、両目に涙をたくさん溜めていた。
鼻腔をくすぐる彼女の香りに包まれながら、シンが思うのはただ一つ。
―――ああ、良かった。俺はちゃんと、早苗を、みんなを護れた――――――
それを最後に、シンの意識は遠くなる。暗闇に誘われる視界の直前にこちらへと覗き込むにとりや、その背後にいる小町の心配そうな顔、彼女達の必死な響きが聞こえてくるが―――
それらは今のシンにはすべて届かず、意識は遠のいていった。


レジェンドで訪れた瘴気にあふれる紫色の世界。木々に囲まれ薄暗き階段の上で二振りの剣閃が辺りに鳴く。比那名居天子の持つ緋想の剣、魂魄妖夢の持つ楼観剣。携えられたそれらは幾度と無くぶつかり合い、また幾度と無く激しい鍔迫り合いを披露する。
天子は焦る。
勢いのままに啖呵を切って、俺達の見る先で敵に踊り出た所までは良いものの。手短に済ませて先に進もうと考えていたのはつかの間。思った以上にこの少女―――魂魄妖夢はやり手だ。いや、隣の衣玖曰く腕をあげていた。以前に天界で遭った時よりも、その剣にブレがない。迷いがない。覚悟がある。楼観剣から突き出される切っ先が、天子の喉をかすめる。そのお返しとばかり、緋想の剣を胸へと目掛けて繰り出すが、妖夢の正に刃と等しい眼光がそれを捉え、その小柄な体でひらりと躱す。
天子はそれに舌打ちをして、来たる妖夢の刀を受ける。近すぎたのだ。天子は意識を眼前に集中させて、霊力で要石を顕現させた。その石から発せられる緋色の光条は妖夢が直前までいた階段を焼き、当の本人は瞬く間に大きく跳躍。数段先への上に身体を下ろす。双方共に人を象っていながら、人には到底出来ない動きをこうもやってのける。
これが人外の存在。これが妖怪同士の織りなす華麗なる決闘。幻想郷の戦いだ。
「すばしっこい……!ちょっとだけど、軽く見すぎていたわね」
「その評価、すぐに覆してみせましょう。私の刀は見上げた貴方の傲慢も、その見下ろすような不遜な面持ちも、全て切り捌く!」
口上とともに妖夢が楼観剣をその場で構える。それは人型の持てる刀にしては明らかに長く、また、普通の人間と比較しても小柄に見える妖夢が持つにはあまりにも不相応な得物だ。
「それが楼観剣。妖夢の持つ得物は妖怪が鍛えた一品だ、タダものじゃないぜ」
隣の魔理沙が見据えて言う。魂魄家に伝わる宝具の一つであり、その刀を振るうことが出来るのは、人でありながら人ならざる力をその身に宿すことが出来る半人半霊の中でも、由緒正しき血統を受け継ぐ魂魄家の人間のみ。
その刃を両の腕で天上へと構え、天子に向けて双眸を固める。しかし、そこは明らかに天子へと届かない間合いだ。防御すらする様子もないその構えは、一見演舞の挙動かと疑える。
だが妖夢のその構えは見せかけでも冗談でもなかった。無言で縦へと振り下ろした刀の先からは翠色の霊力が迸り、銀の刀身に薄く彩る。そのまま振り切った刀の先に描かれた弧が、形を留め空気を切り裂きながら天子へと繰り出される。
楼観剣の斬撃を霊力で圧縮固定させ、大気中に刃の切れ味を留めたまま相手へと飛ばす妖夢の得意技。その名を結跏趺斬【けっかふざん】。十八番であり、手に乏しい遠距離戦に対応した妖夢の一撃。
それは召喚した要石を両断し、なお形を保ったまま天子へと襲いかかる。
だがその手は読めていたようだ。天界で対峙した際に最も使用頻度の高かった妖夢の得意技。その一撃はたしかに目をみはる代物だが、その軌道すらも愚直なまでに一直線だということも知り得ている。
天子は身を躍らせ、階段から両側に広がる木々の傍へと跳ぶ。その斬撃は相手を失い、階段に傷跡を残しながら下方へと飛び―――
「しまっ―――」
そう発したのは天子で、同じく自身も内心で吐き捨てた。妖夢の放った先はレジェンドの前に立つ自分達。その刃が届く寸前で、その一撃は天子によってかき消される。
「くっ!」
咄嗟に“守りの要”と名を持つ硬さに長けた要石を二人の直前に召喚、地面に固定させたのだ。斬撃はそこで止まったが、石は砕け、刹那の遅れでその刃は俺達に届いていた。思わず天子は妖夢を恨むように睨み、歯を食いしばっていた。
「アンタ!わかってて今の技、私に!」
「ここは通さないと私は宣言したはずです。貴方達は貴方達の勝手と慢心から一対一を挑んできましたが、私にとってはこの場にいる相手全てが私の敵。それらを退けるのに刃を向けない道理など在りはしない」
「無防備な相手に対してもなの!?」
「体を動かして勝敗を決めるだけの遊びならば別ですが、今は、西行寺家に仕え、西行寺幽々子様から申し付けられた今だけは違う――――――この身とこの刀を血で汚すことだって、今は厭わない」
「その都合の勝手に付き合う道理こそこっちにはないわよ!レイ、そっちは!?」
「こちらは問題ない。二人もだ、気にするな!」
天子は振り向かず俺の名を呼び、こちらは無事を示す。それを受けて彼女は安堵するが、顔はもちろん、意識を妖夢から外すことは許されない。背を向ければ直後、あの長刀で切り裂かれる。
悔しいが、刀剣の扱いに関しては妖夢が数段上手だということは天子は理解していた。それは全てが自分を至上とするほど高い天子自身のプライドに反することだが、父の持っていた剣を盗み出し、剣術に対してまともな手ほどきも受けていない天子にとっては、剣なんて長物は闇雲に振り回すことしか出来ない。
妖夢は違う。剣術に精通しているということはその得物で出来る事があまりにも多彩だということに繋がる。構え方、最良の力の込め方、攻める、受ける、自らの技量と相手の技量から比較して最善の手を打てる判断力。それら全ての技術は素人の天子を上回っている。
「けれども、総領娘様は前の時にはあの方に白星をあげています」
しかし、衣玖が言うには以前妖夢に勝っている。それは何故か?単純に天子の持つ天人としての力と、緋想の剣の持つ神秘の能力は、以前の妖夢を軽くあしらう程だったのだ。文字通り天にそびえる彼女の力は、曲がりなりにも人としての力の延長線上にある妖夢など、敵ですらなかったということだ。
だが、それも所詮過去の話か。
続く妖夢の結跏趺斬が二度三度俺達へと繰り出される。守る壁を出しても、今の威力を知った以上“守りの要”でも一撃しか耐えられない。ならば。
俺の前に立ち、巧みに緋想の剣をバトンのように回転させて斬撃を弾く。緋想の剣はその刀身に触れた全ての物質に対して弱点を突く能力を持つ。妖夢の斬撃の根源は霊力そのものだ。剣は霊力に触れればその霊力を、無効化、霧散させる。斬撃が霊力そのものなのだから、天子の反応が追いつく限り切り払って無に帰すことが出来た。
「妖夢!お前、そっちがその気なら私達だって動くぜ!あいにくお一人様除いても三対一だ。売った喧嘩なら恨みっこなしだろ!!」
「あまり荒い手段は用いたくないことが主義なのですが……魔理沙さんはともかくただの人間であるレイさんまで巻き込むなど、見過ごせません」
隣に立つ衣玖と魔理沙が踏み出し、妖夢へと敵意を露にする。その考えは最もだ。やられたらやり返すことなど、子供でもそこ覚える単純な感情明快な解決方法の一つだ。だが―――
「やめろ、魔理沙、衣玖」
行く手を塞ぎ、俺は彼女達を静止する。
「なんでだ。何故止めるんだよ、レイ!」
「こればかりは魔理沙さんの言う通りです。貴方とて、あの手の手合いは理解できているはずです」
「駄目だ」
反論する怒り目の二人に対し、俺はただ諫める。けれどもそれだけでは衣玖も魔理沙も納得しない。だから二人に対して続けて言う。
「俺は受けたんだ。天子の覚悟を。あいつはあいつ一人で、相手に勝つと豪語した」
「だから、それを信じて待てってか?だけど、私らのやること成すことは急ぎの用なんだよ。私なら、不意打ちでもなんでも容赦なく奴に向けてやるぜ」
「それで天子を逆撫でして、次にお前と戦いでもすれば余計な手間と時間が結局増えていくばかりだろう?」
その言葉に対し、魔理沙は言葉を紡ぎだすことを止める。
俺は勝利を託し、天子はそれを託された。そこに介入するものなど何一つ無い。あるのは勝利を信じてただ彼女を信じるのみ。
「お前達も一度は納得して天子を一人で送り出したんだ」
俺に対して、衣玖も魔理沙も身構えた身体の緊張を解く。そこには全員がひとつにした信頼がある。天子に向けた信頼を自分達で破るのは、彼女を裏切ることにほかならない。魔理沙も、衣玖も、飛び出したい気持ちは分かるのだが、ここは俺の言葉で堪えてもらう。
「なら、俺達は何をされようが天子の言葉を信じるだけだ……天子!」
「なによ、レイ!」
再度俺が眺める先には、既に斬り結んでいる二人の姿があった。そこへレイは耳に届くよう声量をあげつつ、普段と変わらない落ち着いた声色で天子へと告げる。彼女にとって最良のアドバイスを。
「慌てるとミスをする!いつも通りやればいい!」
焦ったって無駄だ。俺達の事など気にするな。
そう付け足すと、天子は力任せに妖夢を突き放し、要石を向かわせて無理やり間合いを作る。そうだ。相手の手合いに付き合う必要はない。天子には剣もあれば石もある。なにも相手の独壇場にわざわざ踏み入らなくていいのだ。技術で接近戦に競り負けるのならば、元来天子が得意としているからめ手を用いればいい。それだけのことだ。
「石がッ………邪魔ね!」
妖夢が楼観剣で迫る要石を切り払う事に夢中になり、そこを天子は見逃さなかった。地面を蹴り、一気に最高速へと加速した天子は隙を見せた妖夢へと飛び蹴りを見舞う。しかし、妖夢もただでは転ばない。妖夢が半人半霊であるのは、人の身体と幽霊としての身体を同時に有していることからも証明している。そして、妖夢は当然もう一つの身体を使わないはずがなかった。
「きゃあぁッ!!」  
「う…ぐぅ…ッ!」
交錯―――
蹴りと半霊の体当たりが互いに躱せず直撃する。空中でバランスを崩した二人は悲鳴を上げ、地上へぶつかる直前で体勢を戻すが、打ち込まれた衝撃は殺せず地を転がる。双方共に傷を受け、軽く息を切らしていたがその眼光に淀みも迷いもない。揺らめく真紅の刃が映る天子の目にはまるで、炎の如き闘志が宿っていた。
互いに譲れぬ戦い。一歩も引けないその背の先に背負うのは、片方は仲間。片方は使命感。だがその根源は他者からの期待だ。
天子には相手の後ろにあるものなど、知った覚えはない。振りかかる火の粉は、この緋想の剣で打ち払うのみなのだから。
剣閃は続く。同時に跳躍しては剣を結び、互いの刃が危うく掠める。だが拮抗した戦いには決定打がなかった。要石を打ち出しては只の石ころへと切り刻まれ、飛ばす斬撃には緋想の剣で対応できる。互いの特技が打ち消しあう形となり、体力と霊力を消耗しあうだけだ。
「おいおい………このままじゃ拉致があかないぜ」
その様子に辟易とした様子で魔理沙が零した。天人と言えども疲れれば息を荒げる。妖夢も同じだ。その刃の如き瞳はいまだキレを残しているがそれでも集中力を切らしてきているのだろう。動きに遅れが現れ始めている。汗は吹き出て、四肢はやがて痺れて産まれ出たばかりの子鹿のように震え出す。手にもつ得物は軽かったはずが、鉛の塊のように感じられ構えているだけでも意識が飛びそうになる。
今、二人はそんな状態にまで陥った。既に天子も妖夢も限界だ、繰り出せるのは次の一撃のみ。それを過ぎればお互いにもう動くことすらも出来なくなっている。天子の絹の衣服は細かく切り裂かれ、至るところから陶磁のような白い肌が見えている。妖夢とて無傷でない。最早手に持つ刀以外は見る者までも錯覚させるほど痛々しい生傷が至る所に刻まれていた。
「次で終わりにします…お覚悟を…!」
冷声を広げゆっくりと、確かに気迫が詰まった刀を鞘へ納め、低い姿勢から右手を柄に据え、左手を背後のもう一振りの鞘へと添えて正面の天子へ低く構える妖夢。動きを止め、風もなく生物の生き声も響かないこの静寂の中にあるその雄々とした姿にあるのは、あらん限りの殺意。その手の刃の切っ先は、敵対者を狩るための最大の一撃。妖夢の持つ剣術奥義、“未来永劫斬”。
それを破るには、やはり全力だ。
天子も消耗している。ここで油断も慢心も有り得ない。自分達だって引けない物がある。それは、自分の為でもあり、信頼する彼のためでもある。
だからその手に光る緋色の剣を、更に燃え上がらせる。相手の一撃に応えるべく、そして打ち砕くべく。
「天の道を征くは全てを司りしこの力!応えなさい………!緋想の剣ッ!!」
高らかにあげた一喝と手に握る剣をかざし天子は階段を全力で蹴りつけ、勢いのついた初速のままに身体全体で突撃する必殺の一撃。“天道是非の剣”が妖夢へと向けられる。
真っ直ぐに跳躍して天子は霊力と気力を込めた剣を突き出す。正面からの一撃、対するは同じく眼下の天子へと飛翔し、足と同時に刀を鞘走らせる妖夢。その影に誰もがどちらに軍配が上がるのかと固唾を飲んだ。
風を切り、妖夢の刀が次第に抜かれる。ほんの一瞬の間なのに、さらに妖夢が加速した。距離は一瞬にして詰められ、お互いの得物の間合いに入る。速度なら、妖夢のほうが早い。後手に回る天子だが、その突き出した剣は同じくして妖夢の身体を捉える。その二振りがお互いの喉元を捉える刹那―――
その光景の中に混じった強烈な違和感が見えた途端、身体に電流のような感覚が走り、目の前が白く瞬いた。この殺気に浸された戦いに異物が混じったかのような何か。それは、色とりどりの淡い光を纏った蝶だった。気がつけば紫色しかなかったこの世界に、色浅いが妖しく光る羽が無数に空間を埋め尽くしている。それは妖夢が地を蹴った段よりも上から流れてきている。咄嗟に見上げると階段の両側に咲く妖怪桜の影の下に、一つの人影が見えた。
「おやめなさい、妖夢」
そして、間もなくして口を開いた。
その一声は決して大きなものでない筈。だが確かに誰の耳にも届くほど澄み渡ったもので。迷いなく淀みもないその発音はそれまでの殺気をかき消す清涼剤だ。その響きの中に含まれる凛とした意思は、直前まで自らを刀を振るうことだけに専念していた妖夢の動きを完全に静止させるものとなり、その異変に天子も剣閃を妖夢から思わず逸らす。
二人の動きが止まり、身体をお互いに向けたまま横目で声へと見やる。二人も同じ方へと直視する。
そこには華やかな白縹【しろきはなだ】色の浴衣に身を包んだ女性の姿があり、慈愛に溢れたたおやかな眼差しで見つめる先を包み込む。その華奢な線はこの世界に留まってないかのような儚げがあり、ふと彼女が行なった胸の前までゆったりと両手を上げる仕草に、辺りの光る蝶が集う。その蝶を穏やかに撫で上げる様子は、まるで母親が赤子を可愛がるようだ。少女の幼さを残す若い顔つきに似合わないその柔和は人と何一つ変わらない顔形であっても、人がその若さで有せるものではない。それほどの佇まいを形成する永い時間を生きられるのは結論として唯一つ―――
「妖怪の………女か」
「ああ。そうさ」
俺の言葉に魔理沙が即座に同意する。霊界と言う名のこの世界に、そもそも生きた人間などまず存在しない。異形の存在の総称である“妖怪”は、生と死を踏み越えたものに対しても範疇にある。彼らの眼の前に立つ着物の彼女も、妖怪の一種であり生の代わりに死を宿した身体なき生ける屍、“亡霊”の一人。
「あいつの………あの亡霊の女の名は西行寺幽々子。代々半人半霊の魂魄家を従わす主人で、これから私達が向かう白玉楼の主。その人さ」
その姿をもう一度見やる。彼女、幽々子から感じられるのは不思議なほどの存在への違和感だった。たしかにそこにいるのに、まるで最初からそこにいないような気配の矛盾がある。俺は色とりどりに光る蝶をこの目で見るまで新たな第三者の存在に気づくことは出来なかった。もしかすればだが、戦う前より彼女が自分達を見ていても不思議でない。事実敵側の妖夢も、幽々子の存在に気づくことは出来なかったのか、意外そうな顔を晒している。
「文人が行き着く先の館の主………二百由旬とも呼ばれる途方も無い敷地の中で暮らしている、唯一人の亡霊です」
「亡、霊………か」
その二文字を聞いて一人の男の背中を思い出す。人以下の不完全な命として生み出され、早すぎる死を運命づけられた彼は世界を呪い、皮肉にも最高の命の結晶とも呼べる存在に討たれ、その野望は絶たれた。
そしてその男を討った男も、亡霊かと言わんばかりに何度も俺達の行く先に阻んできた。乗機を落とされてもなお新しき剣とともに勝利した彼は、俺を退けて遺伝子の創る世界を否定し、新しき世界への旗を担う者となった。
一度死んだ命は帰ってこない。すべての命は生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、唯一無二の存在だ。それが世界の常だというのに、目の前のそれはそれをいとも容易く覆して見せている。それがこの世界の理なのだろうが、そうまで平然と目の前にいられると失われた命というものが馬鹿馬鹿しくなる。
「その死者が……とりわけ、俺達が目指している館の主がわざわざ俺達の前に現れたのはそれ相応の理由があるから、だろう?」
「ええ、察しが早くて助かるわ少年君。あまりうちの庭師をいじめてくれちゃっても後でケアに困るし、こんな入口の下で賑やかしちゃやあよ。ついつい私まで混じりたくなっちゃうもの。後二人、そっちには控えているんだしね」
「西行寺幽々子…ッ、あいつなんのつもりで……!」
「幽々子様……!私はあの程度の輩など…ッ」
その言葉に心外そうにいきり立つ妖夢。
穏やかな口調とは裏腹に、俺も二人もその後ろにある不信感が先立ってならない。彼女は突然の俺達の来訪――襲撃ともいうべきか――に、決して好意を示すはずがない、普通の感性ならば。あの扇を掲げている物腰に控えているのは、どのような腹づもりか。
「だけれど、今の私はお腹が減っちゃったわ。ここに来たのも、兼料理人である妖夢を呼び戻すため。今は貴方達とやりあう気なんて微塵もないの。妖夢、戻ってきてくれるわよね?」
「っ―――!幽々子様………畏まりました」
その応えでやっと妖夢が楼観剣を収め、もう一振りを抜き放とうと背中に伸ばしていた手も離す。見えていた敵対意思が無くなることを見届け、天子も燃え上がっていた緋想の剣の刀身を霧散させた。
「しかし幽々子様っ!戦の途中で剣を収めるということも不本意ではありますが、侵入者の勝手をこのまま見過ごせというのも、白玉楼の防人として、許せるはずもございません!」
妖夢は必死に、それでいて悔しそうに幽々子に懇願していた。あのまま戦えば、どうなっていたか。天子の力は確かに強大だが、妖夢に押されていた点も見受けられた。
相打ちならいいが、最悪負けの可能性もなかったわけではない。妖夢としては以前のリベンジも兼ねていた一戦だったのだ。宿敵を手かげずして、悔しい思いは俺も嫌というぐらいに経験している。嘗てのキラとの戦いのように。
「何を言っているのよ妖夢。私がいつ、あの子たちに出て行けといったの?私がいつ、貴方に彼らを追い払えって命じたの?」
「ですが、白玉楼の露払いが、私の責務でありまして―――」
「話を聞きなさい妖夢。今の時から、彼らは私の客人よ?追い払うなんてもってのほか。彼らには今から私の開く食事会に付き合ってもらうわ。…といっても、相席するのは今ここにいる人達ぐらいだけどね」
妖夢は信じられないといった具合で面食らっていた。顔に手を当て、悩ましそうに眉間にシワを寄せる。その言葉に天子にいたっては「ハア?何言ってんのよあの亡霊女、意味分かんないわ!?」と苛立ち、魔理沙と衣玖にいたってはあっけにとられたようにしている。この殺伐とした状況下で言ってのけた幽々子に対し、信じられないのだろう。
「……ですが、これは僥倖。何のつもりかは知るよしは在りませんが、目的地に向かえる最善の手。ここは乗らないことなどあり得ません」
当の俺も困惑しているが、衣玖の言うとおりだ。戦いあうよりかは余程平和的で合理的で問題ない手段だ。正式に館の主にお墨を付けてもらって先に進むことを許された今。俺は“レジェンド”を再び動かそうと幽々子達に背を向ける直前だ。
「さて、此度の来訪。運命に誘われて訪れた貴方達を待つのは、いかなる未来かしら―――ねえ、見ない顔の少年君?」
聞こえてきた可憐な声は、扇子の影から真っ直ぐに見つめる俺を見透かすかのように心へ澄み渡り、さらには疑念の思惑を増幅させ、思考を宵闇のように曇らせる。この女、死人であって口なしではなく、その言葉一語一句に読み知れない何かを感じさせてくれる。
告げてくる俺の感覚も相まって。やはり確かなのは、あの亡霊の女、西行寺幽々子が印象通りの優女ではないことだった。


あの時、一瞬でも私はきっとシンのことを恐れてしまった。
そう思うようになったのは早苗が本当の暴力と本当の殺し合いを間近で見てしまったが故だろう。無縁塚でシンが倒れ、皆が血相を変えて永遠亭まで担ぎ込み、早苗はずっと目を閉じるシンの横にいる。
誰もが心を乱さずにいられるものか。誰よりも早く、誰よりも真っ直ぐに、早苗はシンを抱きしめた。そうせずにはいられなかった。大地を蹴り、地面と同じ灰色の空へと出て、まずどこに向かえばいいのかと頭が滅茶苦茶だった。その大きな若葉色の瞳からは涙が自然にあふれていた。
一瞬で思いつこうとして、焦りでたった数秒立っただけでもとても歯がゆかった。そんな自分に苛立ちが積もる。そしてやっとの思いで永遠亭に転がり込んだ早苗は永琳に叫んだのだ。「シンを助けて」、と。
当の永琳も困惑していたが、シンを預かり屋敷で待っている中、後から追ってきたアリスや小町も早苗とともにシンの診察を待つ。にとりは戦闘機動の後でもぬけの殻となったオレンジの“デスティニー”を四苦八苦しながらやっとの思いで姿勢を安定させて、永遠亭の近くの森にまで着陸させた。あまりの難儀に登っていた太陽が朱に染まりきった頃になるまでだ。その頃には永琳も診察を終えて、永遠亭の妖怪兎達が運ぶシンを患者室の広間に寝かせていた。
早苗はそれからずっとシンの手を、祈るように両手で包み込んでいる。
―――早く目を覚ましてほしい。どれだけの苦難を終えても、貴方はずっと私に微笑んでくれていた。異変の後でも、天空から墜ちても、紅魔館で無茶をしても、最後には必ず私達の元へ帰ってきてくれていた。
だけど―――
それらは全て、シンがその場にいた“全ての命”を救った行動だから早苗は純粋に彼の勝利を喜んでいた。聖輦船の墜落も、天子の起こした地震も、大きな災害には違いないのだが、女子供老人の命一つすら、失わせてはいない。危うかったのは緋想の剣で小傘が怪我をした時ぐらいだが、それも幸い傷が浅く妖怪の命を脅かすものでもなかった。
今回は、違うのだ。
シンは早苗達を守るために、見知らぬ誰かの命を奪ったのだ。
平和な世界の中で、本当の争いを行なってしまったのだ。
シンの身の上話を聞いて、目を背けてきたことを、早苗は突きつけられてしまったのだ。
それが平和な世界でしか生きてこなかった少女のエゴだってことはわかっている。仕方ないことをしているのだとも。理解しているつもりなのだ。
だけど、受け入れきれない。
自分と同じ歳の少年が、いとも簡単に相手を灼熱の炎の中に滅したのだ。悪とはいえ、命という名の花を無残にも刈り取ってしまった。あの自らが憧れていた、シンの力によって。
―――野放しにしていたら、シンが戦っていなかったら、小町さんも自分達も逆に焼かれていたかも知れなかったし、もしかしたらもっとひどい目にあっていたかも知れなかった。けれど……
早苗は覚悟を決めていたはずだった。だから「戦って」と願ったのだ。けれどもそれは上辺だけで物事の本質を簡単に理解出来るほど耐えられる自分ではなかったということだ。
悔いたのは、こんな脆く崩れる中途半端な自分がシンを後押ししてしまったということ。
人を殺める覚悟など微塵も知らない生娘である自分が他者にその手を汚せと訴えた事に変わりがないのだ。
この手は血に塗れずとも、早苗には自分の手が今までよりずっと穢れているような気がした。
―――今まで、私達が血に穢れることを知らなかったのは、誰かがずっと私達の代わりに血に塗れていたから。
元の世界ならば軍隊や自衛隊が戦地に赴き、時に双方血を流すことも厭わず争いの種が芽吹ききる前に始末をしていたこと。彼らの力によって早苗の知る『世界』にまで争いの炎で燃え盛ることも誰かの血が突然散らされることもなかった。
だけども、シンの守る『世界』は何時だって血を流し続けている世界だ。
いや、シンだけであるものか。シンの元の世界の住人、平和を望むコズミック・イラの住人全てが明日を生きるために毎日戦っているのだ。望まない戦争と。
やはり、自分はシンに能【あた】わずの存在なのか?どれだけの他者よりも奇跡という名の力を持ってしても、計り知れないものを背負って戦う少年にはつりあわないのか?
そう思ってしまうのは、河城にとりがシンとともに出撃したいうこと。
今、早苗はシンと共に戦ったにとりに対して羨望を抱き、そして激しい劣等感をもって唇を噛んだ。
湖上での灰色のモビルスーツの戦いの時も自分は祈ることしか出来ず、それもかなわずしてシンらは負けた。シンが帰ってくるまでシンとにとりどちらも見つけることさえ出来なかった。その上、湖の中は己では探すことは出来ないで、他のものが捜索を続けているというのに精神のショックというささいな問題で結局、彼のことを思っているはずの自分が捜索に役立てなかった。
出会って間も無いとはいえ、レミリアら紅魔館の住人も頑張ってくれてたというのに。わざわざ地底より来た古明地姉妹も、さとりの擬似“ストライクフリーダム”で捜索範囲の絞り込みに貢献した。
あの時の自分はまともな集中さえ出来ず、霊力で湖の端から水面を割ろうとして探そうとしても湖は波紋すら起こさなかった。
せいぜい翔ぶだけしか能がない、女に過ぎなかった。それが悔しい。
今ですら治療は全て終わってシンに何も出来る事がない。こうして側にいるのは自己満足の範疇を超えていなかった。それでも、それだけが自分の無力から目を辛うじて逸らせる唯一の行動だった。
『御姫様は、王子様のキスで目が覚めるのですよ』
何時だったか、過去に抱いたシンに対する行動がふと蘇る。そうだ、アレは地底界で地霊殿のロビーのソファで伏せる彼に対して
行ったこと。それはシンをおとぎ話の眠れる姫に例えたちょっとした悪戯。好奇心と好意が暴走した自分の破廉恥にも捉えられない行為。
あの時は古明地こいしに塞がれたが、ただ寝ていたあの時じゃなく満身創痍の彼に対して行なえば夢が現実になるのではないのか?なんて馬鹿げた考えを浮かべながらも、火照る身体を纏う巫女服を着崩して、零れそうな胸が服の間から露わになる。熱のこもったを吐息を吐きながら早苗は少しずつ顔を伏せさせる。
夕日に当たるシンの白い肌が早苗の目を焼く。戦場では一騎当千の戦士でも、戦いに疲れて瞳を閉じているだけの彼は只の17の少年だ。そんな彼をとても愛おしく、とても自分のものにしたかった。
自分と彼がこの世界にずっといれば、あの争いの絶えない世界に戻ることもないからだ。
分かっている、分かっていた。これは自分の願望だ。それをこんないびつな形と建前を自分に言い聞かせながら自分はあり得ないことをしようとしている。彼を思っている人だって、いると分かっているのに。
何で自分は、こんなことをしているのかと。改めて思った。
水蜜の笑顔が脳裏に浮かび、近づく唇が止まる。早苗は、堪え切れない涙が頬を伝うのを感じた。自分は今、彼女を大きく裏切ることをしようとした。寝ている無防備な隙を突くなどと、正々堂々とはかけ離れているではないか。こんなの、シンだって望んでいないことなんだって、当の前に気づいているはずなのに。
早苗は濡れた頬と濡れた瞳を袖で吹く。そして身体をシンから離そうと畳につけた両手に力を入れた途端―――
「おまえ………なに……してんだ…………?」
パサリ、と。何かが落ちる音がした。
自分の背後から黄昏色の光が差し込む障子の間に立っていたのは。
振り向く―――
いつもと同じ、可愛らしいデザインの水色の作業服を身にまとっていて、
自分のしようとしていたことを思い出す―――
薬入りの薬包紙と、恐らくは彼のために持ってきたタオルを載せた盆を力なく落とす、
陽を背にした彼女は、信じられない物を見てしまったかのような見開いた目で―――
持つべきものを失くした両手を代わりに胸に抱き、肩を震わせる、
「さな……え……っっ!」
涙を流しながら、泣いていた―――
河城にとりが、そこにいた。


思った以上に、白玉楼に入ることは容易かった。これは正に好機であり、結果的に妖夢と天子の決着はお流れになったもののどちらも大した怪我を負わずに終えたのは思わず溜飲が下がる。俺は幽々子の許可を得てから“レジェンド”を敷地内の広大な中庭に着地させて天子達と合流し、妖夢の先導で屋敷内の廊下を進んでいく。
この屋敷は広い。廊下を歩いてすぐに気付いたことだが、木々がそびえる中庭は向かい側が冥界特有の靄で霞むほどの広さを抱えている。俺達が妖夢に連れられて歩いているも、目的の部屋まで数十分も要するぐらいに。
幽々子は先回りして待っているそうだが、この距離を歩くのは妖怪ならば苦でもないのだろうか。亡霊という死者ならば生者の抱える疲労とは無縁なのかもしれない。この広さも人間の身ならばまるで障害同然だが、幽霊や妖夢のような存在ならば問題ないのだろう。
「この屋敷には私と幽々子様以外に、既に幽霊となった者らが部屋に住まっています。あまりご迷惑にならぬように」
「部屋でも貸して商売でもやってんのか?妖夢」
「そんな低俗な目的で私達が部屋を貸したりなどしません。『幽霊といえど、その本質は人。生きてきた人間は生まれては死に、その総数を保っていますが、死者は冥界に積もりに積もっていく一方。ならば家に困る幽霊もいてはおかしくない―――』というのが幽々子様の見解です。……とはいっても、さすがに全くのタダでは私達も生活に使う賃金に支障が出るので少額程度で頂いていますが」
「要は増える宿なしを泊めてやろうってか。へえ、幽々子もやるじゃないか。これだけ客がいたら私の魔法店も一儲け出来そうだな」
「一応告げておきますが、うちの中庭が広いからって移動売店や露天は一切禁止です。例え幽々子様がいつものように流れで許可しても絶対認めません。妙な気を起こさない方がお互いのためよ、魔理沙」
「ちぇっ、バレてたか」
「それと比那名居天子さん、無闇に緋想の剣を振るうのも禁止。幽霊はその剣で容易く存在を霧散させてしまうんです」
妖夢曰く、白玉楼に住まう幽霊はその存在自体が気質。既に確固とした身体を失った命の塊は儚く脆い。気質を吸い取り、または放出が自在に行える緋想の剣は、幽霊に触れた途端その泡沫の存在を吸い取り、消滅させてしまう。それを危惧した彼女の言葉だ。
「総領娘様の剣は気質である幽霊の天敵とも言える存在……閻魔の裁判を終え、既に成仏を待つだけの幽霊に態々剣を振るう理由など、こちらにはありません」
「口酸っぱいご教授どうも、冥界の武士道さん。まあ、今ここで余計なトラブルを起こすのは私としても不本意だわ。今日の私は異変起こそうとか云々じゃなくて、別の大切な用で来たんだしね」
「理解が早くて助かります………さあ、そろそろ目的の部屋が見えてきました」
外廊下を歩き続けているうちに、妖夢が部屋の一角を見据えて俺達へ告げる。あれが俺達との会談を執り行う一室なのか。妖夢は手で塞ぎ俺達を部屋の前で止めると帯刀していた二振りを腰から解き、そっとした手つきで障子の取っ手に手を触れて言う。
「さあ貴方達も余計な武具は取り外していただきます。此処から先は無礼なきよう………幽々子様の御前で少しでも害になるような事や妙な真似を考えても見なさい。その瞬間、貴方達の誰もがタダで帰れるとは思わないでください」
妖夢は口調こそ穏やかだが、その瞳は剣のように鋭利で冷徹。刀を解いてはいるが、奴はハッタリではないだろう。その気になれば素手でも俺達を捉えかねない。それぐらいの凄味と覚悟が感じられる。その言葉に俺を含む誰もが言葉を返そうとは思わなかったらしく、しばし辺りは静かになる。飄々としている魔理沙でさえもだ。彼女は俺達の誰よりもこの女のことを知っているはず。
故に、こうとなった彼女を焚きつけるのは魔理沙とて事態を収められない可能性があるのだ。
「………では、開きます。既に座布団は用意していますので皆様、どうぞお入りください」
障子の奥は若干薄暗い。それもそのはず明かりがないのだ。和室は何十とした畳が広がり、この場に訪れた人数をに不釣り合いなほど広く、それでいて閑散としていた。幽々子や妖夢のように強い霊力の持ち主でなく、持つべき身体のない有象無象の幽霊は足音を発するだけの実体がなく。風もなく中庭に虫も鳥もいないこの屋敷は、自分達の息遣い、声、身体の鼓動以外に何も聞こえてこない。
冥界だからある意味当たり前とも言えるが、この世界にいては生きた心地がまるでしないのだ。死んだ先に行き着くのは『無』というが、ここは人間の屋敷を真似ているだけの別物なんだと、今更にして思う。
そしてその静寂の空間の中に、幽々子はいた。
薄く閉じた瞳はこちらを焦らすかのごとく酷く緩慢として開かれ、奥にある華やかな輝きがこちらを捉える。微笑を浮かべ、血の気の薄い肌が薄闇の中で光る様はまるで死に化粧を施された遺体のようだ。それは確かに美しいのだが、幽々子の顔を見る度に心の何処かで嫌悪感が抱かれる。それは自分達生者が、死者を目の当たりにしていることに本能的に恐怖を覚えているのではないのかと俺は思った。俺達は血が流れる生きた人間で、この冥界に住む住人は既に時が止まった亡者なのだから。その差異はあまりにも絶大で、絶対的なもの。互いに相容れない二色なのだ。
「ようこそ。私達の白玉楼へ。そしてようこそ。太古より幾億の命が皆等しく行き着く先である、この冥界へ」
幽々子は正座したまま柔和に微笑む。両手を広げてこの世界を慈しむかのように語るその仕草は、亡霊としてこの世界に留まる彼女の愛着か。最も、俺自身からすればこの世界の居心地はあまりよろしくやっていけそうにない。まるでこの世界が俺を拒むかのように、この世界に入った時から身体に妙な違和感が拭えない。
ハッキリするようなものではないのだが、身体を動かそうとする度に必要以上に体力を奪われていくような―――けれども、この世界に来たばかりはなんともないように感じれたのに、機体から降りて身体を動かし始めてから違和感は徐々に増大しているのが分かる。
横に座る天子や衣玖を眺めるが、彼女達は特に自分のように消耗している様子はなかった。魔理沙も平然としているが、恐らくだが幻想郷の住人である以上この冥界に渡る為の手段や対処を知っていてもおかしくはない。
だが、この程度の問題など問題にならない。俺は気を引き締めて、幽々子の方へと意識を集中させる。幽々子の隣には刀を置いて正座する妖夢があり、俺達は互いに向き合う形となる。
俺はまだ自分がまともな自己紹介をしていないことに気付き、それを前置きとしてここに来た理由を彼女らに説明する。
俺が友と戦う原因を作った女が八雲紫だと言う事。激戦の後俺が永遠亭で倒れている間に夢という形で八雲紫がこの場所を示した事。この場所を訪れるのに魔理沙の案内を借りて幽明結界から“レジェンド”で侵入した事。出会い頭に魂魄妖夢からの襲撃を受けて、天子がそれに応じたこと。
順を追って俺は話した。が、俺の身体に関する事と俺の友に関することは必要以上に口にはしなかった。
今はただ、無粋にも人の中にズケズケと入って来た八雲紫を直接前にして、問い詰めたいだけだ。何故彼女は俺にこうまでモビルスーツの戦いを焚き付けさせたのか。そして、何故記憶のないとはいえ俺を友と争わせたのか。
妖夢の襲撃は、まるで俺達がここに来るかを予めわかっていたかのような完璧なタイミングだ。幽々子の口ぶりにしろ、この白玉楼の背後には、間違いなく奴が絡んでいる。
それらを語り終えたところで妖夢が小さく頷いて言う。
「貴方がここに訪れた理由は分かりました。貴方の話す八雲紫様がこの場所を示したのも、恐らくは紫様が一堂に会する場を白玉楼にする必要があったのでしょう」
「どういう意味よ?なんで態々こんな辺鄙な場所に私達が招かれなきゃいけないのよ」
「恐らく単純な答えです。総領娘様」
天子の疑問に衣玖が答える形で口を挟み、さらに魔理沙が添える。
「紫はどこにでもフラって現れるが、あいつが自分の土俵に招くときは必ず自分に縁がある場所にする。それは春雪異変の時から分かりきってたことだ。式神の居着く“迷い家”、二度目に冥界に行った時にもこの白玉楼に赴いてあいつと私達は対峙した。暇になったら私はよく知っている奴の家を聞き出してお邪魔に突撃するが、紫の家だけは全く知らないし、誰かが招かれたという噂も聞いたことがないんだ」
「ええ、察し通り。流石、霊夢と咲夜とここへ初めて乗り込んだだけはあるわね」
幽々子は笑みと共に、懐から取り出した扇を広げる。扇越しにこちらを見やるその妖しい面持ちは、裏にどんな思惑を潜ませているのか。真意は未だ読み取れない。その優雅なる佇まいにあるのは既に死んだ身とは思えない確固たる存在感、自分と同じ程度の年代の外見に反して不釣り合いな落ち着き払った冷静さ、そして静かに舞い散る桜のように淡く繊細で、けれども見ているものの中で一際映える仄かな美しさだけだった。
「私と紫は昔からの付き合いなの。………それはもう、私が気がつけば亡霊になっていた頃、妖夢の祖父で先代庭師である魂魄妖忌が屋敷についていた頃からの間柄。私にとって紫はとても大切な縁【よすが】なのよ」
一語一句を慈しむかのように静かに目を閉じ、胸のうちに秘めている思い出を抱きかかえるかのように柔らかく自身の胸に手を置く幽々子。彼女がいつから亡霊なのかは知る由もないが寿命がない存在のことだ、彼女の言う時代は今から数十年単位、下手をすれば数百年単位前ということもあり得る。
「その友人が、わざわざ苛立たせた男を自分の友達の家に押し付けたってわけなの?前々からわけわかんないと思っていたけど、アンタから直に聞いて、ますます理解できない奴ね。八雲紫ってのは!」
憤りから拳を固めて突っかかる天子。天子は俺の話を聞いて一番に怒りを示していた。それほど俺に対して同情してくれているのだろうが、今この場では彼女が怒るだけ体力の無駄であり、周囲を困惑させる不和の素。知れる情報も聞き出せなくなりかねない。
「言葉に気をつけろ、天子」
直ぐに俺は天子へ口を挟む。
「だってレイ!アンタは悔しくないの!?アンタは弄ばれているのよ、せっかく辿り着いた場所はアイツの根城なんかじゃなくて、別の場所……紫は影から私達を嘲笑ってるの!衣玖が例え無関係と言っても―――」
「今は堪えろッ!」
激情に駆られて立ち上がった天子の肩を掴み、その身体を引き止める。天子が怒っているのは俺の為だ。その気持ちは既に伝わりきっている。俺だけじゃない、衣玖も魔理沙も分かるだろう。それぐらい天子は分かりやすい女だ。相手の不鮮明な態度に急かされる気持ちは当然かもしれないが、今は天子が刺激したところで先程の一戦の延長になるだけだ。刀こそ抜いていなくても、妖夢は天子の動きと同時に右手が静かに背中へと潜めていたのを俺は見逃していない。
叱責をかけると天子はバツの悪そうに唇を噛み、再び俺の隣へ座り込む。その姿は帽子を伏せ、怒り肩で皺も気にせずスカートを掴み込み、悔しげな物だった。
「済まなかった」
「気にしてなんかいないわ。生憎こちらとしても紫が妖夢にあなた達のことを吹き込んだばかりにいきなり襲わせることになったんだもの。お互いに詫びなんてみっともないだけよ」
幽々子は気にかけないで、と首を小さく振る。だが、幽々子はこうも言っていた。『自分も混じりたくなる』と。
「だって、ここは幻想郷であれは大人気のお遊びよ?私だって好きだもの。あんなに激しく昂ぶり合うなんて、そこいらの茶地な遊びじゃ到底あじわえない。そこの天子だけが戦っていなかったら、私も飛び入り参加させてもらうところだったの」
「へえ、じゃあ今からでも遅くはないな?紫をさっさとここへ呼び出すって条件で私がお前と戦わないか?外に出れば幾らでも私の魔法がお前を包み込んでやるぜ」
「その必要はないわね」
魔理沙が懐から八角形の道具―――八卦炉を掌にかざす。が、幽々子はその誘いを振り、穏やかな雰囲気のまま俺達にこう告げた。
「だって、紫はもう来ているもの。そう、いまそこにね」
直後、雷が俺の中で奔った。鋭い感覚に誘われて背後を見やると、開かれた障子から見える中庭の景色の中心に西洋傘を差した細身のシルエットが佇んでいる。紫色のドレスの女。ナイトキャップの下に深紅のリボンを幾十も巻いた流れるような金の長髪。完成されたスタイルを覆う服の合間から見せる透き通るような白肌はこの薄靄の中でも輝きを放ち、目に入るもの全てを圧倒させる存在。その輝く貌にあるのは、利発さを秘めた菫色の瞳と、薄く横に伸ばされた気品のある唇。そして底知れない宇宙【そら】の闇のように薄っすらと浮かばせる奇々怪々な微笑みだ。
俺が夢の中で見たあの姿と同じ――――――八雲紫。
俺達の誰もが警戒した。俺は驚きの後に如何なる行動にも移せるようすぐに身構え、後の三人も奴を睨みつけながら相対する。幽々子は相変わらず悠長と座るままでいながら、紫を眺めている。隣に立つ妖夢は幽々子とともにいるが、特に変わらない様子で居続けている。
気配を消されていたのか。俺の感覚は第三者の意思でさえも読み取り、その存在を逸早く伝えてくれる。だが紫は明らかに先程そこにいたようには思えなかったのだ。となれば、例の妖怪としての力に違いない。
「樹海の中で遭ったとき以来ね………こうして直に顔を眺めるのは」
「八雲………紫、さん」
涼やかに紡がれた口ぶりに、夢の中での朧気な記憶が色を付けて蘇ってくる。道化を演じてみせた自分に掛けたあらたなる挑戦。死闘を終えた白玉楼へと招き入れた、自分達の戦いを生み出した根源。それが今こうして目の前に立ってみせている。
惑いの権化。その全てを見透かすかのような瞳は、俺の瞳と正面から合う。だが彼女が見つめているのは俺であって俺じゃない。そんな気がした。
しばしの間があった後、紫は口を開き粛々と俺達へ向けて告げた。
「私の招きに応じてくれて嬉しく思うわ、レイ・ザ・バレル。改めて、私の名前は八雲紫。この幻想郷の行く末を見届ける賢者であり、この世界を最も愛する、妖怪よ」
紫の囁くような言葉は、耳に心地よく響きながら俺の中の不審を募らせていくだけだった。


外に連れだされた早苗は、月夜の光る宵の中でにとりと向き合う。
にとりの顔は濡れていた。あふれる涙が頬を伝い、袖で拭った跡が月の光を受けて淡く光る。過呼吸で肩と胸は小刻みに震え、その澄んだ瞳は確かな激情を宿らせながら真っ直ぐに早苗を見つめる。
早苗はその様子に息を呑むしかなかった。自分の見られた行為にやりきれない思いを抱きながら、只々嗚咽を漏らしながら連れられる自分が取り返しの付かない事をしてしまったのではないかと思うしかなかった。
「何しようとしてたんだよ…っ、早苗」
数分睨まれ、やっと掛けられたのがその言葉だった。その剣幕に早苗も上手く空気を吸えないぐらい息が詰まりそうになりながらも、必死に落ち着く自分を取り繕って応える。
「何って、私は………っ!」
やっていたことは至極単純だ。シンが好きだ。シンを離したくない。けれども次に目を覚ました時にはどこか届かない遠くへ行ってしまいそうだったから。静かに寝ている彼の唇が欲しかった。そう言いたいのに、うまく言葉に出来ない。それどころか、にとりがこちらを向いている限り一語足りとも言えそうに無かった。気恥ずかしさというそんな小さな理由からではない。それをにとりに告げようとすれば、今まで暮らしてきた思い出が全て崩れる予感が早苗の胸をさしてくるのだ。
背筋が固まり、悪寒と汗が止まらない。にとりが怒っている理由がだんだんと分かるようになってくる。でもそれは今でなくとも当の前から薄々と勘付いていたことだ。だけど改めて自分の前に突き出して欲しくない。
なぜなら。なぜならにとりが怒る理由は―――
「私だって、シンが好きなんだよッ!!」
そんなこと、気づいていた。自分と同じような雰囲気を、にとりが出していたことはシンと、小傘と、にとりと四人で作業場で過ごすようになって気付くのに難しいわけがない。けれどそれを認めたら、シンが自分の人じゃなくなる。自分の想いをぶつけると悲しむ人がいると認めてしまうと、好きと言えなくなるから。
見て見ぬふりを重ねて、心のなかでも言葉にしないよう務めてきたのに。今この瞬間それが全て崩れ去った。
「…………あっ……」
にとりが自分を見てたじろぐ。気づけば頬が温かい。目尻が濡れて視界が歪む。にとりとおなじように自分も涙を流していた。それまでシンを好きということに嘘はつかなかった。だが、堂々と宣言してきた水蜜は清々しいぐらいに恋愛で競う気になれても、にとりは自分にとっても大切な友人の一人で、共に戦う仲間だ。機体を直し、まともに操縦も出来ない“フリーダム”に乗ってまでシンを助けたにとりは、自分達のかけがえの無い存在。
その彼女が恋敵だと知ると、シンへの好意が彼女を傷つける。その現実から早苗はずっと目をそらし続けていたのだ。だからこそ、こうして彼女の涙に、自分も涙を流してしまう。
「私はシンを……助けた時からずっとあいつの側にいた!訳わかんない場所に落ちて戸惑っているあいつとずっと過ごしていく内に、私はあいつを好きになった!そりゃ、最初は見たこともない機械からの興味だったさ!けれど、あいつの優しさと強さを見ていると胸が締め付けられるんだよ!抱きしめたくなったり、抱きつきたくなるんだよ!あいつのそばにいると心が落ち着いて、身体が暖かくなるんだ!水の冷たさから得られる気持ちよさとはまた違う、別の気持ちよさがあるんだよ!降る雨の粒と同じ数だけ心が揺れ動いて、どうしようもないくらいいてもたってもいられなくなるんだっ!!」
にとりが次々と捲し立てて鉄砲水のような勢いでシンへの想いを叫ぶ。その全てがにとりの想いの結晶だ。沸騰するような思い出、熱い涙を流しながら訴えるそれは、女として共感できないわけがなくそれでいて聞いているだけで早苗の胸を締め付けるには十分すぎる。
だがそれを、黙って聞いているだけで終われない。早苗にも意地があった。
「私だって………シンは私にとって、最愛の人です!山で初めて会った時から、ずっとあの人の戦いを傍で見てた!地底で一緒に戦った時も、聖輦船で白蓮さんを助けようとしたそのひたむきさも、優しさも、全部大好き!ボロボロになりながらシンはずっと皆を守るために戦って、それで彼の事を想う人もいるって分かってた!だけどっ!シンが湖に落ちてからもうシンがどこかに行ってしまうって怖いの!辛いの!苦しくて苦しくて彼を引き止めたくてもそれは出来ないからっ、私はもうじっとしていられなくて!もう彼が戦って傷つく姿なんて私の前であって欲しくない!だから私はシンを――――――!」
「やめろよッ!!」
想いも、涙も、溢れて止まらない。
お互いにお互いが想い人に対する気持ちが強すぎた。今やっていることはそれのぶつけ合いで、ずっと積もっていた気持ちが、シンに打ち明けたかった好意が、感情の波となって襲いかかり普段の自分でなくなる。
だから二人共に勢いのままに気持ちを言葉にしてぶつけていくことしか出来なかった。
「だからシンを自分だけのものにしようとあんなことをするのか!?あいつが倒れている隙に!そんなの卑怯じゃないか!!私だってシンともっと居たいのに、ずっと側に居続けたのはいつだってお前じゃないか!!それなのにあんなことをしようってことはずっとお前は自分の気持ちに臆病になっていたってことなんだろっ!!!!」
「そっ、それは―――」
「違うと思っているのは早苗だけなんだよ、私には分かるんだ!私だって最初はシンへの気持ちはそんな簡単に受け止められなかったし、少しでも口にすれば文にさんざんイジられた!恥ずかしかったッ!けどそのおかげで私はもう隠してたってしかたないんだって気付くことも出来た!でもそんなこと小傘やお前の前でなんて言えない!シンに好きって言えない!抱きしめてなんて!!」
にとりの想いが心に突き刺さる。人を好きになると心は苦しい。当然だ。だがこの苦しみは今まで得たどんなものよりも重く、辛く、締め付けられるものだった。荒い息しか出来なくて、涙が苦しくて止まらない。泣き続けることしか出来ない。自分も、にとりも。
「お前は言ったのか!?一言でも『好き』とか、『愛してる』とか!どんな言葉でもいいんだ、お前の想いなら!けどないだろう!?好きだとわかっていても、自分の気持ちを打ち明けるのにどれほどの覚悟がいるのか、分かってたから怖かったんだろう!?何も知らずにいれば楽なのに、中途半端な覚悟を持っていたから怖くてたまらないんだ!!」
「ど、どうしてそんなこと―――」
「分かるさ!だって私は、今さっき言ったこと全て経験したんだっ。私はお前より遥かに長く生きてきた、妖怪だからな!人間は盟友、それ以上でもそれ以下でもなかったんだ、シンが現れるまで。あいつを介抱して一緒に住んで、時には肌を見られたり他の奴といちゃついてるとこをみてものすごく嫌だし悔しかった!どうして私はそんなに魅力がないんだろうって何度も何度も悩んだ!なんで私は人間じゃなくて、河童なんだろって思った!どうしてシンと一緒に飛べないんだろって、考える度に夜泣きたくなった!でもそんなことだって、シンと一緒にいたらどうでも良くなるぐらい好きな気持ちがあった。一人用のスペースで一緒に寝て、あいつの暖かさは何よりも気持ちよかった。今まで一人で生きてきた中で感じられなかった不思議な気分だった。だから、好きって言いたかったんだ、けど、妖怪は人間の寿命なんて超えるし、いろんな壁もあるんだ!人間が老いて死んでいくところを見る度に、私はいつしか里近くの川から山奥に住むようになった!シンがそんなふうになっていくのを見たくないんだ!私だけが取り残されちゃうから!」
人間と妖怪の差―――異種である妖怪は姿こそ人間に近くなろうともその存在を強い霊力に作用されており、人の何倍もの寿命を持つ。
にとりが自分と変わらない精神でいられるわけがない。人との別れを見て、時代の変遷を見て、自分が周りから取り残される。思えば、妖怪が人気のない場所や何十年も景色が殆ど変わらない山奥にいるのも、そういった時代の移り変わりを直に目にしたくないという想いから来ているのだとすれば、にとりの言う言葉はもっともだ。
ずっと、にとりは悲しみに耐えてきたのか?たった一人で、同じ河童にもその心の内を開かず、一人で黙々とエンジニアを生業として人との別れを極力避けていたのか?だとすれば、にとりにとってシンの存在はどれほど大きいものか。自分がシンを思っている気持ちよりもずっとひたむきで、強いものなのだろうか?
だとすれば、自分がにとりを差し置いてシンを好きになって良いものか、悩まずにいられない。
「お前がシンにキスしようとしてたことなんか、何もわからないわけじゃない!好きだもの、そうしたくなるよな!けど黙ってみてなんかいられないんだ!シンは………渡せないんだ!私のシンなんだ!!」
「なんでっ……貴方がそんなこと言うんです!?だってシンはまだ、貴方のことを好きだって言ってなんか―――」
「………違う…そうじゃ、ない!そうじゃないんだ!」
早苗の反論ににとりは一層涙を浮かべて首を激しく振る。
「だって………だって、私は…もう………!」
震える口を食いしばって、それでも目だけは早苗だけを見て、でももう逃れる所なんかないと訴えんばかりに嗚咽とともに何かを言おうと口を必死に動かそうとしている。
きっと、それを言ってしまえば元に戻れないから。早苗もそんな気持ちがあったから言いたいことを言い出せなかった。にとりはそれを押し殺してでもシンへの好意を表したいとしているのだ。
やめて―――
早苗は心のなかで叫んだ。
私達は仲間。私達は今までシンとずっと過ごしてきた。でもにとりがそれを言ってしまうと、もう後には引けなくなる。
手を伸ばし、その口をふさごうとする。けど、震えで満足に足が動かなくて早苗はその場に伏せてしまう。引き止める腕が、届かない。認めたくない過ちを、止められない。
やめて、やめて―――!
早苗はその手でにとりを掴み寄せた。自分でも信じられないくらいの力が出て、苦悶の声が耳朶を打つ。しかしそんなものでにとりの想いは止められない。早苗の懇願ににとりは聞く余裕すらない。もう、立ち止まれないのだから。全てを失ってでも、手に入れたいものがにとりにはある。早苗には、その覚悟がまだない。それだけの差で、それほどの差があった。
「シンと、シンと………シンとキスしたんだからぁっ!!」
壊れていく。早苗の中で、何かが壊れて、喪失していく。それが何なのか、今の自分にはわからない。
失うものは友だけじゃない。もっと大事な、何かが、根本から折れてしまうかのような気持ちが広がっていく。
私はどうしてこんなところにまで来てしまったんだ、と。悔やむような後ろめたい思いが増幅して心を満たす。二人の涙が落ちる地面を、夜空にきらめく銀の月が静かに照らしていた。


「気がついたかしら?」
木目の天井も、この世界に来てからもう慣れた。
疲れからか重い身体に苛まれながら、シンは瞼を擦りつつ身体を起こす。
目覚めたばかりの意識は酷く緩慢で、視界が狭い。既に日が沈み、夜空からの淡い月光が辺りに降り注がれている。自分がいる部屋は暗いが障子の間から照らす光は明るく、暗闇に慣れた目には十分すぎる程だ。そして自分が既に白の病衣を着せられて何故こうして寝かされているのかを考えたところで、聞こえてきた声の方へと顔を向ける。
「アリスさん………」
「おはよう、シン君。身体の調子はどうなの?あっ、動かないで。今医者の方を呼んでくるから、ここで大人しくしてて」
優しい声の持ち主は無縁塚まで同行してくれたアリス・マーガトロイドだった。彼女は隣に座り込んでいて、シンの様子を見て外の廊下へと足を向け出した。
「まってください!」
足早と部屋を出ようとしたアリスが廊下へ身体を移しかけた所で引き止める。彼女は金の髪を揺らして振り向き、「なに?」と問い返す。目覚めたばかりで頭がうまく働かないが、とりあえず今置かれた状況についての確認がしたい。
「俺が気絶した後、どうなった?」
次々と聞き出したいことが頭から浮かび上がり、質問だらけで捲し立ててしまう。覚えているのは敵機を撃墜して、地面に倒れた自分に早苗が駈け出して来る姿。戦闘に気を取られて、他の皆はどうなったのか。焦るシンの様子に対し、アリスは。
「まだ、寝てていなさい。シン君」
上体を起こしたシンの肩に手をおき、柔らかく押しながら言う。細い手に力は込められていない。アリスの言葉に反して抵抗しようともするが、真剣な表情で語りかけてくる彼女を見てすぐにその考えを払う。
「けど……!」
「けど、じゃない。シン君が心配するようなことは起きていない。小町も早苗も無事。にとりやわたしだって誰も怪我なんかしていないわ。………いろいろあって混乱しているでしょうけど、今はもう大丈夫、ゆっくりしてて。貴方の機械人形も、にとりが近くまで動かしておいたわ。だから私に人を呼ばせて、ね?」
シンの考えはアリスに通りそうになかった。多少の無理をしてでも早苗達の姿が今直ぐに見たかったが、却下される。
アリスは柔らかい笑みを浮かべ、シンを再び布団へ寝かせる。そしてすぐに戻るわ、と言い廊下へ早歩きする彼女の後ろ姿を目で見送った。
混乱していると言われ、一人となったシンは大きく息を吸って深呼吸をした。彼女の言葉通り今焦っていたって仕方がないのは確かなのだ。心のなかで反省をして、頭の中を整理する。
静かになった空間の中、耳を澄ますと虫のさざめきが外から聞こえて来た。涼しい夜風が肌を心地良く撫でて、疲れた身体を癒してくれる。
シンは布団に寝て天井を見つめ続けたまま、無縁塚で起きた事を頭のなかで反芻させた。
突如とした霊夢との決別。
傷付いた早苗。
この世界に存在しない筈の兵器と、それらがもたらした光景。
そのどれもが驚愕に値し、どれもが信じられない。
特に霊夢とは、共に過ごしてきた時間が長いために未だに事実を飲み込むことが出来ない。あれだけ冷徹な振る舞いで、早苗に針を差したその姿が今も脳裏にフラッシュバックする。
その直後に現れた闊歩するモビルスーツ。新たなる“デスティニー”。新たなる敵。めまぐるしい流れの中、早苗達の言葉を受けて撃墜したものの、シンに狼狽し、狂ったように暴れるあれに乗っていたのは紛れも無く人間だ。世界に等しく生を与えられた同じ命。
彼らは自分と同じように世界を隔てて幻想郷に迷い込んだのだろうか。あの“デスティニー”と共に。内部に記されていたのはハイネのパーソナルデータ………あんな機体の情報は今まで得ていない。強いて気にかかった点があるとすれば、自分がこの世界に迷う直前のことだ。第二次プラント大戦の終結後、シンは単独で任務に着かされることも珍しくなかった。それは前議長ギルバート・デュランダルに認められた特務隊の実力を買われて、新生ザフトのパワーシンボルとして多くの任務をこなしてきた。
愛機、“デスティニー”もシン、世間共に只の最新鋭機の扱いではない。シンにとってこの機体は軍で最も信頼を寄せられたデュランダルに未来を託された唯一の剣で、シンにとっても誇りと愛着が込められている。なおかつ、プラントを中心にデュランダルが行おうとしていた政策、“デスティニープラン”の象徴であり、言わば“デスティニー”はプラントの人々の希望を一心に背負った守護神なのだ。
しかし、プランはオーブ軍の勝利によってザフトの基幹となるプラント最高評議会議員の大改革によって白紙と化したものの、急に新しく生まれ変わった体制を受け入れられない者達もいた。それも当然だ。“オーブ”と“プラント”は停戦協定を結んだその後、新たに両方の軍を“オーブ・プラント連合”として再編する過程で、消耗したザフトの復興に際してオーブ軍から幾人もの人員を参入させる形をとった。
その最もたる例がオーブ軍、キラ・ヤマト准将をザフトの白服として迎えたことである。ザフトは前大戦以降、多くの任務をオーブを代表とした地球上にある数々の軍と提携して作戦を行うことが多くなった為に、今まで階級制度を設けていなかったザフトでも便宜的に各隊員に用いられるようになったのだが、キラは准将として突発的に軍上方部の最重要任官として着隊したことは多くの隊員の不評を受けることとなった。それもその筈であり、キラの愛機“ストライクフリーダム”はその圧倒的な性能とキラの実力で一騎当千を果たしており、例え乗っていたパイロットを知らずとも機体登録情報は内部で開示されており、瞬く間に軍の内部でキラの噂は広まった。
中には人々を翻弄させる捏造された情報や、同じく公となったラクス・クラインとの恋仲に対して様々な憶測が飛び交ったが、敵だったキラに対する不満は拡大し、戦後一時期は軍で本来禁止されているストライキや抗議活動が絶えることはなかった。
現在はキラのザフトとしての活躍やラクスをはじめとした評議会の懸命な活動によって真摯な態度が人々や軍に正当に評価された結果、以前のような問題はほとんど発生しなくなった。ラクスは過去の活動から世界に顔が知れており、様々な軍から編成された混成大隊はその指揮系統の複雑さから統率は困難なのだが、ラクスの存在によってそれが可能となってしまう。正確にはラクスは再編成された評議会に召喚されて間が無いこともあり、構成する評議員の一人にすぎなく全ての支持や決定権を持つわけではないのだが、周りを納得させるだけのひたむきな態度と、世界の安定を説いた演説を日々各地へ伝えていった結果、世間に『アイドルのラクス』ではなく、『世界のラクス』として認めさせることとなった。
これらの活躍をたった一年間で行なうことが出来たのは、結局の所ラクスが単なる歌姫に収まりきらなかった天性のカリスマと、キラの“フリーダム”がザフトにもたらす桁外れの戦果によるのが全てだ。正に、己自身の力と努力によってラクスらは身の潔白と信頼を勝ち得たのだ。
けれども、反対派が全くのゼロとなったわけではない。ラクスを支持せず、大改革の後にもザフトの基幹員として残った彼らはラクスやキラを始めとした所謂“クライン派”の力を一切借りず、密かに活動を行なっていた。それは俗に“前体制派”とされ元よりザフトに所属していた隊員達で構成されていて“クライン派”を否定し、それとは別の新しい代表を選定しようと少しずつ力を蓄えていた。
その彼らに目をつけられたのがシンであり、“デスティニー”だ。彼らは秘密裏に残ったパイプを用いてシンを密かにキラに並ぶ英雄に仕立てようと数々の任務を与えた。当然、故意にシンが英雄視されるように単騎戦闘、もしくはシン率いる急ごしらえの小隊によるものが殆どだった。それらの作戦は比較的小規模のものが多く、“デスティニー”の性能と練成されたシンの力で難なく成功を収め続け、シンの立場もキラやアスランに並ぶほどの実力と信頼を確固たるものとされた。時にはキラ達と肩を並べることもあり、オーブ・プラント連合のフラグシップ機体として“フリーダム”、“ジャスティス”、“デスティニー”の三つの翼の勇名が世界に轟いたのだ。
そして、幻想郷の直前にシンが受けた極秘任務。任務の目的は『強奪された試作機の奪還』であったが、その対象となる機体の情報は一切公開されておらずシンも疑問に思いながら出撃した。
敵機の情報と作戦ポイントとなる宙域の情報だけは十分だった為、シンは“デスティニー”と共に向かい、戦いの末にこの世界に迷い込んだ。
そして今改めて思い返す。あの任務の情報でテロリストの機体は様々な軍から鹵獲、強奪、或いは違法な取引による製造ロットも機体特性もバラバラな旧式のモビルスーツを中心に構成されていることが分かっていた。そして無縁塚で交戦した機体もまた、統一性のない旧式にモビルスーツが大半だった。
任務にあった謎の『試作機』、敵機の不統一なモビルスーツの構成………そこから導き出されるのは、あの時自分が追うはずだったテロリストは“デスティニー”から少し離れた宙域で同じ世界に迷いこんでしまい、今日までこの世界にいたのではないのか。そして試作機の正体がハイネの“デスティニー”だとすれば、見たことのない存在にも一応の納得がいく。あのテロリスト達がこちらに来て活動の形跡が殆ど無い事等、気になる点は多いが、シンの頭の中でパズルのピースは次々と組み合わさった。
ならば、この世界に来たテロリストはあれで全てなのだろうか?
そこまで考えたところで、障子の外から一つの影がこちらへと被さっていることに気付き、シンは天井を向いていた上体を起こした。
「誰だ…?」
流れるような艶やかな長髪、華奢なその身を覆い隠すように広がる薄桃色の和服は、月夜をわずかに透かしてシンの眼の前に広がる。この、自然の多く日本の文化が色濃い世界で意外にもあまり目にすることがなかった純和風なその姿は斬新で、早苗や霊夢とはまた別のベクトルの美しさが光る。
シンの問いへ答えた彼女は、月夜を背にし嫋【たお】やかにその名を告げた。
「私は蓬莱山輝夜。今宵の月が隠れる前に少し、お話をしましょう。


PHASE- 48 命のある限り


「ちっ……くしょう…!何て…何てことを私はっ………!」
永遠亭を照らす月下もやがて、明け方の頃。広大な庭の端でにとりは一人地面にうつ伏せて自己嫌悪のさなかに陥っていた。
激情にかられる彼女は溢れる涙を流し、痛みをも厭わず両手で地面を叩く。こんなもの、八つ当たりだ。頭の中で分かっていても逃げられない悲しみは胸の中に広がり、どうしようもなくなる。黒々とした感情を友に向けてしまったことが嫌で嫌で仕方なく、こんな自分は大嫌いだと思わずにいられない。
「うっ……ああああっ!私はッ!私は自分に嘘なんて、ついていないだけなのに!なんでっ…何でこんな気持ちになるんだよぉッ!」
思いのままを発し、小さい手は苔むした地面を抉る。手の先の石が割れ、その欠片が肌に刺さる。元より機械の整備で何度も汚れたものだ。人間の少女とは違ってそんな綺麗な手じゃない。力だって、妖怪故に大人の人間と比較しても有り余るものだ。だから本気で殴りさえすれば、拳の先にある小石もこうまで砕けてしまう。
だけど、肌自体は人間とさほど大差ある代物ではない。盟友と同じ赤い血が流れ、白い手に朱色が滴り落ちる。興奮しきっているせいか不思議と痛みはない。だが、それと比べられないほどの痛みがある。心の痛み、胸の痛みだ。過呼吸で苦しく、無様な顔で泣いてばかりいる自分。自分の言葉でここまで自分が苦しい思いをするなんて予想できなかった。
―――こんな自分は、最低だ。
『ずっとお前は自分の気持ちに臆病になっていたってことなんだろっ!!!!』
『シンと、シンと………シンとキスしたんだからぁっ!!』
「ずるいのはどっちだッ!私のほうがよっぽど臆病でずるくて、アイツに言いたいこともいままで言えなかったじゃないか!早苗と同じように!なのに私は早苗のことばかり責めるような言葉を…!なんで!なんで私はああもあんな!!」
早苗に言ったことは、自らにも跳ね返るものだった。
自分もまた、彼女と同じようにシンに胸の内を伝えていない。むしろ好意を言葉にしたのは今日が初めてだ。今まではずっと、自分の気持ちを隠し続けて、自分自身をひた隠しにしてきた。
その理由は自分が人間とは異なる異種の存在、妖怪であることと、同じ作業場を共にしていた早苗や小傘に知られることが怖かったからだ。
太古の昔、妖怪の間では人間への恋慕は禁忌とされていた。それは単純明快な理由だ。根源となる生命に差がありすぎるからだ。それは妖怪が獣の姿を象り、人を襲い、喰らってきた時代から変わらない。変わったのは互いに時代を経て、知性と理性を熟し、特に妖怪は姿形と精神が人間に極めて近くなったことから争い合う道とは別の道を辿った。
それが人間と妖怪の共存の始まりだった。それまで人間は地上に住みよい場所を見つけては彼方此方に集落を作り暮らしていった。妖怪はどこにでも住む。元が獣や虫だったり人に忌み嫌われる幻想の存在なのだから、人が到底住めない場所にはそういった彼らがいつだっていた。もちろん生きていく術も違うのだから妖怪にとって問題はなかった。むしろ、人間の里や村の中に妖怪が住むことは余計な不和と警戒を招くだけで、避けるべきだった。
妖怪は文字通り人をとって食べる。だがそれも、時が経つにつれ出来なくなった。人が妖怪に関する伝説を子孫に伝えていった結果、人はただ妖怪の餌となる存在で無くなってしまったのだ。それどころか、抵抗する力まで持ってしまった。その最もたるものが“巫女”となる存在だった。
退魔の力を宿す巫女は妖怪を退け、それまでの人妖の関係は瞬く間に崩れ去った。その頃から妖怪の方にも変化があった。それまで動物同然の姿をしていた妖怪の多くが、どういうわけか一部の体組織や身体的・霊力的特性を除いて人と同じ容姿へと変化していったのだ。それに合わせて本能や生理的欲求も人間に酷似するようになった。だから、半人半妖の種族もその頃から少しずつではあるが生まれ始めていた。森近霖之助もその一人である。言語も通じるから会話もできる。同じ姿をしているから手も繋げるし、抱きあうことも出来る。太古の禁忌も、人も妖怪も変わったことによって形骸化し、薄れていく。少しずつではあるが、人と妖怪は分かりあえ始めたのだ。
だが妖怪は人間を襲わずにはいられない。それは人間が持つ欲求―――本能と何も変わらなかった。これだけはどれだけ芽生えた理性が抑えようとも、全ての個体が誤魔化しきれるものではなかった。
そこで先人は妖怪の本能を満たす様々な取り決めを作った。なかでも妖怪の『人間を襲う』という欲求を満たす為のルールを現代版に改良したのが博麗霊夢が制定した幻想郷の決闘法、スペルカードルールだ。妖怪は本来己の高い霊力によって自身の存在を確立する存在であって、人間を襲うことは妖怪の生命維持にとって必要なことではない。どちらかと言えば依存性の高い嗜好のようなものだった。だから欲求さえ満たすことができれば人が血を流すことも、妖怪を退治する必要もないのである。
今では妖怪が人間を襲う事例は殆ど起きなくなっていて、人間もまた妖怪を恐れることが無くなった。人は変わった。妖怪も変わった。しかし、変革の波にとらわれない不変のものは確かにある。
人と、妖怪の、寿命の差だ。
「私がシンを好きでも、私は人間じゃない……!同じ時を過ごすことは出来ないし、アイツの苦しみをこの身体でわかってあげられない!そんな私が、早苗に勝てるわけないんだぁっ!」
にとりは外見こそシンと左程変わらない少女のそれであるが、生きた年数はシンの何倍以上である。河童は元来人間の味方である、妖怪全体から見ても珍しい種族だった。住処は川の水底だが、時折地上に出ては互いに持ちつ持たれつの関係を築いてきた存在だ。
にとりも、これまで多くの人間と触れ合った。最初は、齢4、5ぐらいの小さな少年だった。彼が川に溺れ掛けたところをにとりが助けたのだ。あのころのにとりも、その少年と同じくらい幼い身だった。
その少年を返して幾年が過ぎた。少年は成長していた。背丈も高く、声も低くなった。だが自分は一向にして変わらなかった。あの頃の幼い自分のままだった。だから人間の少年少女に次々と芽生える感情があの時のにとりはわからなかった。
幾つもの時が過ぎ、少年は姿を見せなくなった。自分が見てきた人間の中には、あの頃の少年は既にいなかった。ある日とある人間の青年に聞いてみると、とうの昔に死んでいることがわかった。それも老衰でだ。自分が気づかない内に、少年は天寿を全うし、子孫を残して命を落としたのだという。それは人間の目線で見れば、とても平凡で、とても幸せなものだった。
幼いにとりは、そこで初めて他人がいなくなるという事を覚えた。
生きる年数が違えば、時の感覚も酷く違った。自分にとっては少しの時間でも、人間にとってはかけがえの無い大切な長い時間。ちょっと目を薄めたかと思えば、辺りは既に暗くなっていることもあった。長い年数を生きればそれだけ時代の変遷に感覚が慣れてしまうものなのだ。その意識の違いも、自分が大好きな人間と一緒に入れないという戒めに拍車をかけていた。
だけど、シンと出会ってから世界は変わった。
新しいことばかりだった。見たこともない感じたこともない経験ばかり。それまであまり興味のなかった幻想郷の異変にも、彼を助ける形で積極的に関わった。山の上にいる新参という認識でしかなかった守矢神社の三人とも、より多く関わることになった。シンと過ごす日々は毎日が楽しくて、毎日が辛くて、しかしそれでも今までのただ日数を跨いでいくだけの生活とは比べられないほどの幸せがあった。
―――やっぱり、私はシンのこと、大好きなんだ。
泣き疲れて俯き続けていた顔を拭い、暁の空を見上げる。赤みが増してきた空をゆっくりと眺めるのもシンがこの世界にきてからだ。毎日が慣れないことに直面してきたおかげで、時間の感覚すら人間と同じになったと思う。だって、今はシンや早苗と共に、同じ時を生きているのだから。
「………会いたいよ…シン」
この胸の想いを伝えたい。この胸の痛みを、胸のときめきを分かって欲しい。今のにとりは人間の少女と何ら変わらない、恋する一人の女の子だった。
「うん―――俺も、会いたいと思ってた」
反射的に振り向く―――
その響きを耳にして、暗かった気持ちが途端に晴らされる。
胸の痛みが引いていき、辛い思いが無くなっていく。
背後を見やったその先には―――
「見つけられて…良かった。おはよう、にとり」
「シン…!!お前はっ!」
にとりは力強く彼にしがみついた。もう離れたくないと言わんばかりに。
愛する彼が今ここに立っている。
それだけで、いまのにとりが抱きつかない理由などなかった。


「シン……お前は、まだ寝てなきゃ…それに、どうしてここに…?」
「そんなの、どうだっていいだろ。ただ…」
目の前にいるシンに問うにとり。まだ安静にしていたと思っていたのに、わざわざこんな所にまでやってくるなんて。にとりは驚きを隠せない。紅魔館からずっと血が染み付いていた傷だらけの軍服は、シンが寝ている間にアリスが洗濯して修繕を施した物だ。その身体は決して万全でないはずなのに、どうしてそうまでして自分のためにここまでやれる……!?
「いきなり、会いたいと想っちゃ…ダメか?」
その言葉に胸の奥が熱くなる。高鳴る。抱きついている彼の身体に更に力を込める。それが答えだった。ダメなわけあるものか。
「ごめん…怒ってるよな…?」
「馬鹿!嬉しいに決まってる……!誰のせいでこうなってると思ってんだ、この大馬鹿野郎!」
シンはその小さい頭をくしゃりと撫でる。澄んだ水のようにサラサラの髪が指をすり抜ける。そしてにとりは涙を沢山蓄えたまま、真っ赤でぐしゃぐしゃの顔をシンへと見上げた。
「あはっ…やっとこっち向いた…!」
「恥ずかしくて嫌なぐらいだよ、こんなの……!お前以外に誰が見せたがるもんか!私は、シンのことを想ってこんなになっちゃったんだぞ!どう責任とってくれるんだ!」
「そう、だね…」
泣きながら強がるにとりに対し思わずシンは唇を緩めてしまった。それほど目の前の彼女は愛らしく見え、また気丈に取り繕うとする必死な態度がとてもにとりらしくて。僅かな笑みを浮かべて心配させたことを謝り、ほんの少しだけいたずらっぽくにとりをからかう。
「俺のことで、ガキみたいに拗ねちゃったりするんだ…」
「ああそうだよ!ガキだよ!私はお前より何年も生きている筈なのに!お前より私のほうが悲しいことには慣れっこの筈なのに!私は何時までたっても子供だよ!!………っ、こんな風な言い方だって、本当はしたくなかったにきまってんだろ!!」
感情に従うがままシンへ捲し立て続けた後ににとりは荒かった息を整えて胸の上下を鎮ませる。彼女の顔は真っ赤に染まり、涙が流れ続けていた。堰を切ったかのように多くの涙を流すにとりは、シンにしがみついたままひとしきり泣き続けた。シンの名を呼び続け、言葉どころかまともな声にならない訴えが情念のまま溢れる。受け止めてくれるシンの体が温かい。大きい。優しい。もう離れたくない。ずっと一緒でいたいから。
にとりは涙が止まるまでシンの身体を許される限りの力で抱きつき、離さなかった。


独りで飛び続けてもうどれくらいが経っただろうか。
呆然としたまま力無く永遠亭を後にした早苗は気がつけば見知った場所にいた。ずっとシンやにとり達と暮らした、自分達の思い出の場所。ここは河城にとりの作業場だった。
眼の前に広がるは月の薄明かりに照らされる河原。山から流れ続ける水面は静かに揺れており、反射した光が早苗を淡く照らす。河原の横に座り込み、両腕で自分を包む。今は誰の声だって聞きたくない。一人で、考えたかったからだ。
にとりの放ったあの言葉。シンが好きだというあの言葉。それは耳に焼き付き、心に残り、早苗の胸を締め付ける、苦しめる。それは、にとりが単に恋敵だけの存在ならば味わうことのなかった感情だ。だが、にとりは一人の少年を自分と同じく助けてきた最早親友の間柄なのだ。
今の自分達を一言で表すならば、トライアングラー……三角関係という半端で陳腐なこの言葉が当てはまるのかもしれない。虚構や物語ならばそれはどれだけドラマチックに思えるものでも、現実はそんな簡単なものじゃない。現実はどうしようも出来ない事が多々あるが、恋敵の張り合いに決して折り合いなど無い。エゴとエゴのぶつかり合いで、最終的に誰かが悲しい最後を迎えるのだ。
シンは誰にも譲る気はない。そう、誰にも。例えにとり以外にだって。堂々とレミリアはシンに好きと伝えたが、当の本人は困り顔で有耶無耶にしていた。シンにとってもあの流れは唐突過ぎていたのだろう。
けれどもにとりがシンに告白したのならば、シンもこれまでの付き合いから真剣に考える筈だ。シンの想いの矛先が誰に向くのかは分からないし、もしそれが自分以外だとするのは考えたくない。早苗はシンが好きだが、シンの答えを聞くのが怖いのだ。もし自分じゃなければ、と思ってしまうから。だから今までシンの目の前で面と向かって言えなかった。そこは正しく、にとりの言うとおりだった。
危機感に駆られる。このままじゃ、にとりにシンを取られそうで。自分がこうして逃げてしまっている間に、にとりがシンとより関係を深めてしまったらと思うと今すぐにでも戻りたい。だけど、今はにとりに顔を合わせるのも、シンに会うのにも辛い。この気持ち、愛の気持ちは幾ら医療に長けた八意永琳でも、簡単なものじゃない筈。簡単に分かってもらえるような単純なものでないはずなのだ。
大地を優しく照らす月へ見上げる。気づけば自分の顔は涙であふれていた。整理の付かない気持ちに頭の中が掻き回されるほど、自分はまだまだ子供で、幼い。儚い自分の青さが、この胸の痛みだった。
真実の想いをさらけ出すのにも、怖さが先んじてしまう。こんな自分は、シンに好きって言えない。
「早苗………」
背後から囁くような声。涙を拭くこともせずに、振り向きもせずに早苗は言う。
「小傘、さん」
多々良小傘が後ろに立っている。分かるのはそれだけだ。きっと自分の様子を作業ハンガーから見かけて出てきたのだろう。今の自分はどう映っているだろうか。寂しそうで壊れそうだろうか。小傘にこの辛い気持ちは伝わるだろうか。早苗は全てをぶちまけたくて、しょうがなかった。けれどもそれは、小傘にとって重すぎるのではないのだろうか………
「おかえりなさい、早苗。ね、一体どうしたのよ…やっぱり、シンはもういないの?それとも今度は早苗がひどい目にあったの?……黙ってたら、ずっとここにいた私、何もわからないよ…」
「………シンは、生きてました。にとりさんも…けど私はっ、今の私はシンの前に立って笑えません……彼の背中を見守ることなど、許されません……!」
「……そっか、よかった…シンもにとりも無事で…」
安堵の声が今の自分には救いだった。早苗は小傘にシンは死んだと伝えてしまった。それがどれだけここに残った小傘には心細かっただろうか。どれだけ辛いことだったろうか。小傘にとってもシンは大切な存在だ。だから、あの悲痛な叫びを今日まで早苗は片時も忘れることは出来なかった。
「でも、何でそんなに泣いてるの…?一体何があったの、早苗…」
小傘が無邪気に聞いてくる。その言葉は含みも何もない、純粋な問い。今の自分が小傘みたいに屈託無くなにも淀みのない考えができたのならば。シンにただ好きって伝えることが出来るならば。こんなにも愛に苦しまなくて済んだのに。
「私は、にとりさんに言われたんです。『シンが好き』って。私はシンが好きで、にとりさんも友人として好き!だからっ、にとりさんを置いてシンに好きってなんて言えることが出来ない!そうすればにとりさんと過ごしてきた楽しい時間が、全部壊れてしまいそうな気がするから!!私はシンともにとりさんともずっといたい!けれど、私の好きな人を奪うのは、にとりさんなの!!ずっと一緒に過ごしてきたにとりさんなの!!私は……にとりさんからシンを奪いそうで、奪われそうなのっ!!!!」
早苗は顔を手に埋めて泣き叫ぶ。もう、何も隠す想いなどなかった。それよりも全部ここで吐き出してしまいたい。自分のように考えて考えて、自身の想いで苦しまない小傘に全て押し付けたかった。
「そう、なんだ」
「だってにとりさんなんですよッ!!?私とは違ってガンダムを直せて、シンの力になってあげれたのは私よりもずっとにとりさんの力のほうが大きい!ずっとシンの隣にいた私でも、ただ見ていることしか出来なかった…けれど、にとりさんはシンと一緒に戦うことも出来たっ!それがどれだけ悔しくて、どれだけ羨ましくてっ!何も出来ない私より、ずっとにとりさんのほうがシンにふさわしいじゃありませんかッ!!」
「そんなこと、無いと思うよ。それに、シンは早苗やにとりに、好きって一言でも言ったの?」
「そんなことまだわかりませんよ!シンが誰のことを好きだかなんて!でも、シンは……シンはこの世界とは違う世界の方なんですよ!?彼はずっと元の世界に帰るために、私達と一緒に共にしてきたんです。なのに私が彼の帰る世界を阻んでしまったら、本末転倒じゃないですか!!シンの願いを、邪魔してしまうじゃないですか!!」
そう、シンは元の世界に帰るために幻想郷を巡ってきた。異変解決はあくまでそのついでに過ぎず。何時でもシンは元の世界に帰るための方法を自分達とともに探してきたのだ。自分とシンが仮に結ばれた所で、別れは避けられない。
「にとりさんには私にはない勇気も覚悟がある……このままじゃ、私……にとりさんにシンを取られて……!」
過呼吸で苦しむ。身体が痙攣し、目の前は歪む。そんな自分を小傘は優しく包んできた。顔を見られるのが嫌で小傘を見なかったが、きっとこのぬくもりと同じくらい、温かくて優しい顔をしているのだと早苗は思った。
「そんなに自分を追い込まないで、早苗。考え過ぎだよ今の早苗は。私だって悲しい気持ちになったけれど、だけど、シンや早苗がいたから、今の私があるんだよ…?」
「貴方に、私の辛い気持ちがどれだけ分かりますかっ!?恋などしたことのない小傘さんに!」
「確かに、早苗やにとりの言う『好き』って、私にはまだよく分かんないのかもしれない。けど、私もシンのこと大好きだよ。それって、人が好きな食べ物に抱く気持ちとかと一緒かもしれないけれど、シンといたら落ち着くってのは分かるよ。だから、私もシンは好きなんだ。早苗や、にとりほどじゃないかもしれないけどね……だから、シンが生きててくれたのはすっごく嬉しいよ、でも今は苦しんでいる早苗を見て、私も苦しいんだ………きっとこれが、人間の心ってものなんだね。すごくおいしい程、大事なものなんだ……」
小傘は優しく語りかけ、今まで過ごしてきたことから得た気持ちを述べる。シンが好き、それは小傘も一緒だったのだ。こうまで純粋な彼女の想いに早苗はただ、驚くしか無い。
「あははっ、今の早苗の心すごく美味しかったよ。驚いたでしょ?私だって、シンに出会う以前とはいろいろ違うふうに変われたんだから。……だから早苗。胸の気持ちを隠さないで。好きなら好きって、シンにもにとりにも胸を張っていいんだよ。それが早苗の変わらない大切な気持ちなんだから」
「小傘、さん……!」
「だから一緒に行こうよ。シンのところへ。早苗の想うままを、シンに伝えに行こうよ!」
早苗の前に立ち、小傘は手を差し伸べる。幼なかっただけの彼女は、一見やはり何も変わっているようには見えない。しかし、その優しげな瞳はここ暫くの間、彼女が得ることの出来たかけがえの無いものなのだ。小傘も、自分と同じぐらい哀しみに悩んで苦しんで、一つの答えを見つけることが出来たのだ。
なら、自分も決心をしなければ。酷く重くなっていた身体を起こし、力強く涙を払う。悲しむ必要なんて無い。自分を責める必要なんて無い。ただ小傘の言うとおり、嘘のない自分の心に従えばいい。その結果どんな苦しみが待っていても、今悲しむ必要なんて無いのだから。
「はい……小傘さん…行きましょう、シンの元へ…!」
涙で濡れてばかりいた暗い表情が消え、その目には決意が宿る。
本当の哀しみを知った彼女の瞳は、純粋な愛に溢れていた。


「でも、急にどうしたんだよ。お前寝てたはずだろ?」
ひとしきり泣き終えたにとりが、嗚咽をこらえつつも赤く濡らした両眼を上げてシンに問う。彼女の小柄な体躯が自分にのしかかるが、さして重いとも思わない。こんな娘を幾度も泣かせてしまったことについてシンは申し訳ない思いでいっぱいだった。この世界にきてからずっと、にとりが泣くときは全部自分が原因だ。自分がこの世界に来なければ、自分も、にとりも、…そして早苗も、悲しい思いはせずとも済んだのかもしれない。
「っ、はは……心配だったんだ。俺、にとりや早苗だけじゃなくてさ、小町にもアリスさんにも迷惑かけてばかりで……皆がいなければ俺はとっくに諦めていたと思うし、こうして誰かと一緒になることもなかったと思うんだ……あの日、君と出会わなかったら」
「シン…」
別に慰めのつもりだけでこんな言葉が浮かんだ訳ではない。湖の時も、シンはにとりに感謝した。彼女と出会えたことが、どれだけ嬉しい事かを。いつだって助けてくれた彼女を、このままなんかにはしておけない。だからシンは、あの時―――蓬莱山輝夜との対話を終えてにとりに会いに来たのだから。
「だから今度は、俺がにとりを助けに来た。にとりの俯く顔なんて似合わないしさ。笑ってるほうがよっぽどいいよ」
「このバカ…」
にとりにバカバカ言われるのも、もう慣れきってしまったのかもしれない。自分が最低だと思ったことは、いつだって自分を気遣ってくれる彼女たちを悲しませてしまった時だ。
『あの娘………あの河童の娘、貴方が思っている以上に貴方を大切に想っているわよ』
ここに来る直前―――シンは布団から起きて、直ぐ様この永遠亭の主と名乗る輝夜と出会った。
輝夜がシンと話したかったのは唯一つ。
「今まで気づかなくて、ホントにごめん」
「っえ………」
にとりに身体を預けられたまま、シンは囁いた。それは、にとりから伝わってくる本当の想い。それは、自分が今まで目をそらしてきた、少女達の想い。
「俺、やっと分かったんだ………皆が俺を助けてくれて、皆が俺を元の世界へ戻そうとしてくれたのが……」
輝夜とシンが交わした口数はそう多くはない。だが、輝夜の言葉はシンの胸に深く突き刺さり、彼女達に対する負い目でいたたまれなくなった。
『貴方はいつまで、あの河童の娘と風祝の娘を悲しませているつもり……?』
『………っ、それは…』
『私が言いたいのは別に貴方が怪我したことに対することじゃないのよ。…もう、分かっているのでしょう?聞いたわよ、貴方のこと……』
『…アリスさんと、小町からですか?』
『大方そんなところね。少なくとも、貴方よりかは私のほうが河童も風祝のこともよく知っているつもりよ。そして、彼女達が貴方に対してどんな想いを抱いているのかも』
「………ありがとう、にとり。今までこんなに俺のこと、気にしてくれて…」
軽く抱いて、そして直ぐに身を離した。朝日が濡れたにとりの顔を映す。それがシンにとってどれだけ嬉しい事か。どれだけにとりの想いが自分を守ってくれたことかを改めて実感する。
「だけど、俺は帰らなきゃ」
「シン………」
「俺の世界は、今だって苦しんでいる人がいる。何秒も立つ内に罪のない人の血が流れて、起きてほしくない争いが、命を奪い続けていく」
シンは今は離れている元の世界、コズミック・イラの事を思う。確かに自分はモビルスーツパイロットとしてキラやアスランに匹敵するほどの力を持った。こうして生きているのもにとりたちの力添えがあったとはいえ自らの力が運命を切り拓いてきたからだ。
たかだか一人が元の世界に戻ったところで、あの世界から戦争を無くせるとは思わない。それは驕りであり、自分以外を見下した考えだ。シンは前大戦時それに囚われてしまい、本当に守りたいものさえ分からなくなっていた。
ただ、シンは守りたかったのだ。戦火にさらされる前の、家族の生きていた過去を。過去を守り、過去に決着を付けたくて。
そして自分たちザフトが負け、新たなる旗が挙げられた。まだ見ぬ平和の未来へ歩むために、キラと、アスランと、共に戦ってきたのだ。
『一緒に戦おう』―――オノゴロ島でキラがその言葉とともに差し出してくれたその手。シンは掴むことが出来なかった。キラが望む世界とシンの望む世界。同じ“花々”という言葉に集約された思いは、些細な意識の差ですれ違った。
それほど悲しいことが、他にあるものか。人々がすれ違い、分かり合えない事は永遠にあの世界を日に晒し続けることとなる。シンは力のない人の代わりに得た自分の力で、咲夜が指した己に眠る“種”の力で、戦争のない世界を創り出していきたい。今度こそ、キラらと共に、想いを同じくして分かり合いたいと、シンは願う。
「だけどシン!お前が元の世界に帰れる保証なんて、どこにもないじゃないか!結局、今の今までにお前が元の世界に戻れる方法なんて見つかりはしなかった!!だから………!」
にとりは再びシンに歩み寄り、少しだけ背伸びをした。目を閉じた彼女の顔が近づき、刹那、柔らかい彼女の唇がシンのものと重なる。
それはほんの少しの間だった。次にまばたきを終えた後にはとっくに離れたにとりの顔が真っ赤に染まり、シンはその突然の行為に意識が真っ白になっていた。それと同時に輝夜の言葉が蘇る
『それは、俺にだって……!』
『「わかっている」、でしょう?貴方には成すべき使命があるらしいわね。けれど、貴方。あの二人は―――』
「私は、シンが好きだよ」
『貴方のことを、愛しているのよ…?』
それは、にとりの初めての告白だった。にとりは早苗に言った言葉で自らを悔やんでいた。そこから導き出したのがこの答えだ。早苗を責めた自分は、シンに正面から胸の気持ちを明かさなければならないと、にとりは決めていた。でないと、にとりは早苗に嘘をつき続けることになる。
『好きだとわかっていても、自分の気持ちを打ち明けるのにどれほどの覚悟がいるのか、分かってたから怖かったんだろう!?何も知らずにいれば楽なのに、中途半端な覚悟を持っていたから怖くてたまらないんだ!!』
全部、自分にも当てはまっていた事。それを知っているつもりだったのに、にとりは早苗に対して無責任なことを言ってしまった。にとりが発した言葉は、まだシンに想いを明かしていないが故に自らを責めるものとなっていたのだ。
「私は、シンが好き。お前と会って、今まで色んなコトしたよな。作業場で過ごして、異変でいろんな目にあって。私がせっかく整備した機体を、毎度メチャメチャにして持って帰ってきたよな。お前はその度に、私の作業場に帰ってきて、私を怒らせて、お前はいつだって優しい顔で謝ってきた」
にとりの剣幕を浴びせられるあの日々。早苗と共に異変を解決したその後に、にとりに怒られつつも楽しい日々を過ごしてきたあの日々。それはこの世界にきてから生まれたかけがえの無い過去で、大切な思い出だった。
「私の知らない間に小傘を連れてきたり、私達四人でよくモメたりしたし、辛いことだって悲しいことだって沢山してきた。最初の頃は、お前がガンダムと一緒に私の作業場に落ちてきて、単にお前とお前のガンダムに興味があったからお前を私の家に住まわせたんだ」
「ああ、俺も覚えてる。全身怪我だらけで、傷だらけの俺を助けてくれたのがにとりだった。怪我が治るまでの一週間、君が看病してくれたこと、今でもよく覚えてる。怪我が治った後は、俺を元の世界に戻すために博麗神社に連れて行ってくれたもんな…」
「まさかそこから今日までこんな目に合うなんて思いもしなかったんだぞ。お前がいなきゃ、私が早苗や小傘……皆と今ほどのつながりを持つことなんてなかった。だからさ、シン………」
思いを伝えてきたにとりは、いつもの自信を含んだ強気な表情を潜め、顔を仄かに染めている。それはとても可憐で、とても愛らしい。そしてにとりは、ずっと伝えたかったことをシンに告げた。
「私と一緒に、この世界で暮らそう」
「それは…………」
それは残酷な提案だった。にとりが告げたその言葉は、シンが切り拓いてきた未来を自らの手で閉じろ、ということ。
シンがこの世界に残るということは、シンが今まで重ねてきた努力も、元の世界で誓った信念も、全て否定するということなのだから。
無論、にとりもそれをわかった上でシンへ諭した。
今、シンには測れようもない天秤を突きつけてしまっている。平和な世界で生きる為に守ってきた人々の明日を手放すか、戦いのない世界を夢見て、今一度戦火の降りかかるあの争いの世界に戻るか。自分がどれだけ残酷なことをしているかと、にとりは胸が張り裂けそうな思いだった。
「………いろいろ話してくれて…ありがと…」
『………はい、輝夜さん…』
『貴方は、彼女達の思いを無下にしてまで、貴方のエゴを貫くというの?そうだとしたら、あの娘達が可哀想じゃない』
『わかってます、けど俺は…』
立ち止まるわけにはいかなかった。にとりの想いを告げられて、嬉しくないはずがなかった。自分を想ってくれる彼女のことを少しでも応えてあげられるならばと、シンはいつだって考えてきた。
けれども、その言葉に甘えるわけにはいかなかった。
『俺には、皆を守れる力がある。戦えない人達をこの手で守れる力がある。だから、俺は元の世界に帰りたい。俺の力と、俺の“デスティニー”はその為に託されたんだ。あの人から……』
今は亡き指導者、ギルバート・デュランダルの父親のような笑みを思い浮かべつつ、シンは輝夜へ覚悟を示す。
それは、飽くなき戦いへ身を投じる覚悟だった。
『例えそうだとしても、あの娘達は貴方が死ぬことを喜ぶわけがないわ。この世界に来たのなら、叶わぬ理想を捨ててあるがままの現実を受け入れることも、大切だと思うわよ。でなければ、貴方だって…』
『俺だって、本当は心の何処かでこの世界に居たいと思っているのかもしれない………』
『だったら、なおさら何故…!?』
「『俺は―――』」
シンは、あの時輝夜に示した己の言葉を、にとりにも示す。それは決してにとりにとって幸せな言葉では、無かった。
「―――色んな悲しい想いをしたけど、あの戦争で俺は自分の生き方を決めたんだ。にとりの気持ちはすごく嬉しいし、俺だって、にとりのこと好きだよ。けど、今の俺の想いが君に応えられる想いなのかは、分からない……本当に、今の俺にはわからないんだ」
「シン………」
『今度こそ、はっきり俺の意思を伝えて決着をつけてやる!』
にとりに向けた言葉に、迷いはない。シンは己の気持ちを包み隠さず、にとりに言い聞かせていった。
「昔、君みたいに俺のこと、好きって言ってくれた子がいたよ………その娘は戦争の被害者でさ、俺はその子の事を助けてあげることが出来なかった……」
ステラ。デストロイの爆発で傷だらけになり、ベルリンで命の灯火が尽きる寸前彼女はシンにただ一言、「好き」と伝えてくれた。あの時、シンはステラが生きていた一瞬にでも答えを返すことができていたのならと思うと、ずっと悔やんでも悔やみきれない想いだった。ステラを葬ったあの雪の湖の上で、ずっと赤ん坊のように泣き続けることしか出来なかった。
「今の俺には、皆を守れる力がある。俺はもう、あの子のような命を生み出させはしない…この力で今度こそ俺は、大切なすべてを守ってみせるんだ。この命が、在る限り…!」
きっとそれは、簡単には成し得ない絵空事なのかもしれない。賭していた信念でさえも曇り、いつか見失ってしまいそうな途方も無い道なのかもしれない。
それでも、そうだと知った上でシンはこの道を進むと決めた。自分で考え、自分で悩み、自分が掴んだただ一つの答だった。
「もし俺が、元の世界に帰る前にこの世界に残りたいと思ったならさ………その時は、俺もにとりの言葉に応えられるかもしれない。……だから、今は…今この時は、にとりの気持ちに応えられない」
それが、シンの全てだった。シンの言葉を聞いている中、にとりは前髪で顔を隠し肩を静かに震わせ続けている。シンの肩には、元の世界に住む何十億、何百億の命がかかっている。その生命の重みから目を背けることなど、今のシンには出来ない。
だが、もしその必要がなくなったのなら?にとりの言葉の通りに、この幻想郷で平和な日々を享受することが出来るのならば?その時は、きっと今の自分が変わる何かがある筈。これから先、元の世界に戻るための術を探し終えた後に選べる、もうひとつの未来があるのなら、その時シンは………―――


―――シン………貴方は…
夜明け方、小傘と共に永遠亭へ戻った早苗は、程なくしてにとりとシンの会話を耳にしていた。シンの元の世界へ帰る意思は本物だ。このままシンは自分たちの静止も厭わずに元の世界へ帰っていくのだろう。それを考えると、分かっていても、涙を拭った後でも思わず目頭を押さえてしまう。側で聞いている小傘も、シンの決意に対して暗い表情のままだった。
極端な話、シンがこの世界に留まるには、シンが元の世界に戻る一番の理由である戦争を無くさなければならない。しかしそれは、異世界の住民である自分達に到底成し得ない偉業だった。
「嫌だよ、シンがいなくなっちゃうなんて………ねえ早苗、こればかりはどうにも出来ないことなの?私達とシンが別れなきゃいけないなんて、一体誰がこんな悪戯したの?私は、そんなの嫌だよ」
「私だって、小傘さんと一緒です。ですけど……」
シンの決意は確固たるものだ。そして、自分のシンを好きだという思いも、にとりならずシンの信念にだって負けない想いがある。
だけど、そこを隔てる壁があまりにも高い。そこを超えれるだけの方法を、自分達は見つけることが出来るのだろうか?シンの決意は、早苗の心に新たなる影を落とし、胸を苦しめる材料となった。
だけどもう迷わない。にとりの告白は素晴らしいものだった。今日までの二人の絆を、傍から聞いているだけでも感じ取ることが出来た。
今度は…自分の番だ。早苗は意思とともに握り込めた掌を胸にかざし、自らにあるシンへのひたむきな想いと向きあうと心に誓った。
「……ーい!!おーい!、皆!大変だッ!」
遠くから呼びかけてくる女の声が聞こえる。ふと目線を上げると、竹林を抜けて直接永遠亭の庭に降りてくる女性の姿がある。
「あれはっ…小町さん!?」


「小町!?お前、怪我は大丈夫なのかよ?」
シンが小町の姿を見かけるなり、第一に出て来た言葉がそれだった。小町は無縁塚でテロリストの集団に追われていたのだ。自分があの場に介入して事なきを得たが、これまで小町の無事を確認できなかったのもシンの問いの原因だ。
「お陰様で。私はこの通りピンピンしているよ。けれど、今はそんなこと言っている場合じゃないんだ!」
「どうかされたのですか!?シン、にとりさん!!」
「早苗!それに、小傘も!」
「えへへっ、心配で早苗と一緒にこっち来ちゃった!」
永遠亭の影から出てきたのは早苗と、作業場からこっちに移って来た小傘だった。今一度、生活を共にしたこの四人が集うことにシンは感慨深いものを覚える。だが、にとりは早苗がこの場に現れた途端、目を早苗と合わせようとはしなかった。しかしそれもまくし立てる小町の言葉で気にしないほか無かった。
「一大事なんだよ、シン!いますぐお前の機械人形、出せる準備をするんだ!でないと、あいつが…!」
シンが小町に「落ち着け」と、呼びかけるが片時も小町が落ち着く様子がない。一体何があったのかと聞こうと、シンが口を割ろうとした途端、小町はパニックのまま叫んだ言葉は、耳朶を打つもの全ての心を凍らせた。
「アリスが………死んじまうんだよッ!!!!」


(時系列リセットのため、翌日になった上で回想からスタート)
夜が明けた白玉楼。闇に包まれていた世界は瘴気を透かした菫色の朝日を伴って大地に降り注ぐ。
俺は皆より一足早く起きてしまい中庭へ通ずる外廊下に立ち、異様な朝を迎えていた。
背後の寝室には、天子、衣玖、魔理沙が仕切りを隔てて根付いている。彼女らももうじき起きるだろう。それまで俺は、昨日の夕方にあった出来事を、思い返していた―――
「………!」
八雲紫。あの女が目の前にいる。俺を戦わせ、俺の友の命を奪わせた元凶。その存在に意図せずとも身構えてしまい、妖夢の言葉に素直に従ったことを悔いた。部屋に入る前に置いてきてしまった以上、今この手に銃を携えられないからだ。
天子達も険しい表情を浮かべ、紫を見据える。やはり、そうさせるだけの何かを紫は持っているのだ。俺以外の全員が紫と面識がある以上、俺以上に紫の危険性を知り得ているのは当たり前だ。あの魔理沙でさえ飄々とした態度を妖夢に向けていたというのに、真剣な表情で紫を睨んでいる。必要とあらばその手にある八卦炉を用いるつもりなのだろう。魔理沙だけだ、妖夢の言葉を無視して道具を持ち込んだのは。だが、今はむしろありがたい。この場を収める抑止力にはなりえるはずだ。
「…ようやく追いついたぞ、八雲紫」
兎にも角にも、俺は言葉を投げる。夕焼けの中で傘を差したシルエットはそのドレスの広がりも相まって仰々しく、威圧めいた雰囲気が漂ってくる。その姿は人間の女と変わらないというのにその愉快げな薄笑み、揺れる金の髪、形がよく艶のある唇の曲がり、全てが現実離れな魅力を持ち、不気味なほどの完成された美がそこにある。
それは例えるならきっと芸術作品の持つような非の打ち所のない美しさだ。不思議なことに人形めいた無機質な印象はない、しかしその神秘的な美は本来生きた人の姿にまず無いものだ。創りだした美は人間の手から生まれたもので、人の追い求めた理想の形だ。神の所業は必ずしも全ての個体が他者の目線から見て傑作とはいえない。それは個人の意見もあって万人の意思が全てそれを美しいと認めることはあり得ないからだ。俺達の世界にあるコーディネイターと呼ばれる人類が受けてきた遺伝子調整はそのリスクをゼロに近づけるための処置でしか無い。
しかし目の前の彼女は違う。夕日に輝くのは類まれなきめ細かさを誇る透き通るような白肌。触れば壊れそうな華奢な体を包むのは、薄紫色のドレス。その輝きはまるで宝石や純金のような、誰もが認めざるをえない唯一無二の長髪。そう、八雲紫はまさに人々が望む理想の女性の姿をとっている。それは異質であり、醜悪な人々の夢の結晶だ。その意味では、スーパーコーディネイター、キラ・ヤマトと同じである。
「ええ、私も嬉しいわ。貴方にこうまで熱心に求められるなんて。けど残念。生憎私は成すべきことが多くてね。貴方の想いだけを受け止める訳にはいかない身なの」
「いや、受け入れてもらう。ようやく掴んだお前をこのままみすみす逃す訳にはいかない。是非にでもここで俺の相手をしてもらおうか」
相変わらずの微笑を浮かべたミステリアスな紫は、俺と目を合わせたまま軽口を吐く。それに俺も合わせるように応えるが決して片時でも警戒を解く訳にはいかない。樹海の時と言い先程の登場と言い、紫は気配なく俺達の目を欺ける。もう逃す訳にはいかない。ここで、奴の企みを全て暴いて、俺と紫の因縁を終わらせる。そのために俺達はここまで来たのだ。
「“賢者”八雲紫!アンタ、レイにワケわかんないことばかり言って!また何か企んで私の邪魔をするってのなら、絶対許さないわ!」
天子がいきり立って紫へと感情むき出しの怒声を放つ。しかし、紫はそれに対して何の感想もないかのように表情を変えない。その現実が天子の苛立ちをさらに加速させる。だが―――今ここでの戦闘は分が悪い。俺は天子の前を腕で遮り、目だけで「落ち着け」と戒める。あいつも分かってくれたようで、固く握っていた拳を静かに下ろす。武器もなく、紫の力量も何も分からない無策な俺達では紫にあしらわれるだけだということはこれまでに経験していた。
俺に妙なビジョンを見せ、樹海では俺の心を読み、衣玖の動きを止めた。奴の力の正体が分からない以上、俺達に勝機はない。それでも俺達がここまで足を運んだのは、奴の手招きに乗る形でこの現状を打破するためだ。魔理沙の言うとおり、紫は自分が作り上げた舞台にしか他者をあげないのならば。神出鬼没な紫のことをよく知り得ていない俺にとってそれ以外の方法は限りなくゼロに等しい。
そう、この場で俺達が優勢に立てる材料は初めから無い。それは誰に言われずとも先刻承知だった。
「紫、さん…やはり貴方がこの異変の?」
「永江衣玖……地震の時と変わらずその天人くずれと共に行動しているのね」
「質問に答えなさい。貴方が…レイさんをこの世界に招き寄せた元凶だというのですか?」
わざとだ。わざと紫は冷静な思考が出来ないような口ぶりをする。それは今までもそうだった。その口に隠されているのは何時だって見落としてはいけない要素。逃してはならない決定打。この場に招いたことがどのような意味を持つのか、それを俺は考える。衣玖や天子が相手をしている内に。
「さあ、ね。私はただ、ここに来て桜でも眺めようかと考えていたところよ。この楼閣、白玉楼に招いたのは此度の客人を迎えるのには適してて、幽々子も承諾してくれたから」
「桜だと…?」
紫が眺める外に在るのは、中庭にそびえる大きな大木だ。今の季節は春が過ぎ、初夏の暑さが降り注ぐ。桜は当に花を散らして青々しく葉を広げる頃合いだ。冥界の桜も現界のそれと比べて色は薄いものの、死の瘴気の中でも立派な木々が聳えていた。
だが、紫の眺める桜はそうではない。他の桜に比べて一回り二回り、もっとそれ以上のスケールを誇る巨大な桜はまるで枯れたように花どころか葉の一つすらつけていない。腐食や傷みこそないものの幹は灰のように色を失い、ただそこに突き立っているしか無いその大樹はまるで死者を弔うかのような墓標だ。
「あれは妖怪桜……“西行妖”」
「西行妖?」
幽々子の隣にいた妖夢が、俺達と眺める方を揃えて呟く。
「嘗て幽々子様がその満開を観たいと仰った二つとない桜…太古の昔に生きていた偉人、歌聖が一目置いた由緒ある桜で、冥界に漂う死の瘴気の影響を受けて変質した妖怪桜。その身に付ける花々は冥界のどの桜よりも美しいと歌聖の残した書物には記されていますが、その栄養となるのは生者の命と、季節の均衡が崩れて他の桜が咲かなくなるほどの春の暖気。今は富士見の娘と呼ばれる少女がその身で西行妖のもたらす災いを封印しているので、季節によって開花すること無く、ずっと枯れたようにこの庭で眠っています」
「私としてはあの桜の真の姿を眺めたいところなんだけどね。けれど、花がいざ咲こうかというところで霊夢や魔理沙達に邪魔されたの………僅かだけど、開花する直前に見覚えのある姿が桜の下に見えたような気がするんだけど………もう過ぎたことだもの、どうだっていいわ」
「抜かせ、幽々子。お前と妖夢のせいであの年の春がどれだけ短くなったことか。あの霊夢だって寒がっていたし、咲夜にいたってはレミリアの世話で途中離脱だ。しかもやっと解決したかと思えばたった数日ちょいで夏だ。風邪はひくし、あの時の私は家に寝込んでばかりだったからな。衣替えも季節に慣れんのも楽じゃないんだ、もう勘弁してくれ」
肩を落とし、消沈したかのように表情を暗くする幽々子に対し、迷惑そうに魔理沙が不機嫌を露わにする。
「ええ、同じことを二度も三度も繰り返す気はないわ。覚えている限りね………さて、紫?いつまでその死の象徴を眺めているのかしら」
幽々子はなにも皮肉めいたわけでもなく、ただ疑問のままに紫に話しかけているようだ。紫はそれに対し、西行妖から目を離さず平然と返す。
「………いいえ、この墨染の桜に眠る遺体の事を考えていただけよ。自らの力に絶望して自らの力で死を選んだ哀れな少女………今も彼女はその肉体が朽ちること無く西行妖の慰め物としてこの場所で眠り続けている……なんとも愚かしく、滑稽な話だと思わない?幽々子」
「ええそうね。どんな力を持とうとも、それは生きている限り持ってしまった力。ならば折り合える道を見つけなければ身の破滅を招くのは必然だったといえるでしょうね………」
自殺、か。
この桜の封印の礎となったその少女は、何を想って自らを殺めたのだろうか。自らを呪い、世界に絶望し、死を選ぶ。悔しいが、その想いには共感できる。自分の信じるものも生きる喜びも無くしてしまった時、人は感情のままに死を選ぶ時がある。………俺も、嘗てはそんな時期があった。生きて明日を迎えるのにも限りがある。俺の場合はそれが特別短くて、死にたいと想ったことが何度もあった………
だが、そんな時ギルは俺を導いてくれたのだ。「人には成すべきこと、果たすべき役割がある」と。
だから俺は醜くも生き、数々の敵を葬り、そして。
実の親友を、利用してしまった―――
だから、俺を利用して親友を殺させたこの女だけは許せない。八雲紫、こいつだけは。
「八雲紫、俺をここに呼んだのはそんな戯言を俺に聴かせるためか?」
「戯言…随分と切り捨ててくれたわね」
「当然だ。お前の夢想する過去を聞きたくて俺はここに来たわけじゃない。そんなものが聞きたくて、俺は友の命を奪ったわけじゃない」
「レイ……」
天子が心配気に俺を伺う。今この時、俺は確かに怒りに駆られていた。
「俺はお前を許さない。それはもう変えられない事実だ。お前がどのようなことをどれだけ述べようとも、俺には関係ない。俺はお前から俺がここに来たこととシンを殺させた理由は聞かせてもらう。今の俺は……唯それだけを求めてここに来た」
「それは復讐のため?それとも、償いのためかしら?仮に私を力づくで抑えた所で、私が口を割るとは限らないし、手痛い“しっぺ返し”で貴方がこの冥界の仲間入りする可能性もあるのよ?貴方は、それを全て踏まえた上で私の前に来たというのかしら。分かっているのでしょう?只の人間にすぎない貴方が、私に正面から挑んだ所で意味が無いということをレイも分かりきっているのでしょう?」
「そうだとしても、動かない理由がない。例え“俺の力”を使ってでも、お前は敵として斃す」
この女を殺した所でシンは戻らない。それどころか、この女はこの世界の中でも良くも悪くも多くの人妖に名が知られている存在だ。殺してしまえばその仇討ちの者が現れることも分かりきっている。だが、そうだとしても俺はみすみすこの女を野放しには出来ない。その目的は俺の知る由もないことばかりだ。だがそんなことなどはっきり言ってしまえばどうでもいいことなのだ。紫の考えに俺は分かり合う気がない。それだけの理由だ。
「……っふ、ククッ、あはははっ!これはこれは面白いことをのたまうわね、レイ・ザ・バレル!私を斃す?冗談もいいところだわ、貴方の言葉には。貴方、この世界で今、本当に自分がするべきことが分からないのかしら?」
俺の本当のやるべきことだと?俺はそれを復唱し、紫はさも愉快げに口を続ける。
『いいえ、あるわ。今貴方にしか出来ない所業が。貴方の力はそのためにあるはず。貴方の力は、今この時から輝きだすのよ。この幻想郷を、次なる【セカンド】ステージに昇華させるための!』
「どういう意味だ…!?」
「ふふっ…今ここで話してもきっと無意味で、あなたが後悔するだけ。だって、今は“その時”では無いですもの。世の中にはまだ知るべきでないこともあるのよレイ、貴方たちとの対話はこれでおしまい。さあ、私は一旦この場を後にするわ。続きはまた明日。今宵はどうか、安らかな一時を」
「おフザケもいい加減にッ…!」
業を煮やした天子が、霊力で要石を召喚。“カナメファンネル”で紫の立つ方へ光状を放つ。緋想の剣はなくとも、要石の力は常に行使できるこその不意打ち。それは掛け値なしに隙を突いた、筈だった。次の瞬間、紫のいた位置に緋色の弾幕が襲いかかったが紫の姿は忽然と消えた。同時に、天子の目の前に呼び出した要石が両断されていたのだ。ヒビ一つ残らず、まるで“空間ごと”切り裂かれたかのように石の断面に淀みがない。天子はそれを見て息を呑み、歯を食いしばった。
やはり、今のままの俺達では。自分たちの無力さを知ることが、高みから見下ろす相手の強さを知ることが、どれほど屈辱な事か。俺は固く拳を握って肩を震わせる天子に目を落とした後、紫の立ち誇っていた場所に背姿を幻視して唯一つ、忌々しく「くっ…」と漏らした。
そして俺達は妖夢の手引きで一夜を過ごした後。考えているうちに朝日は上がり、大地に輝きが戻る。最も、遠くの景色は菫色の瘴気で見えず、些かさわやかなものではなかったが。
しかし、俺がこの世界で本当にやるべきことだと?お前を倒して、この一連の顛末を付けること以外に何があるというんだ。俺は名を持たなかった“ラウ”のままでいられず、“レイ”としての記憶と自我を取り戻した。こうなってしまっては、もう俺はモビルスーツともギルとシンを殺してしまった罪悪感からも決別することは出来ないのだ。
天子達とも、共に過ごすことなど出来ない。
セカンド、ステージ―――
その言葉が指す世界とは、一体………
「レイ、大変だ!!」
紫の舞台役者のような長口上を頭で反芻していた時、いつの間にか起きていたのか――あるいは、気付け無いぐらい俺が物思いにふけりすぎていたのか――後ろにいた魔理沙が取り出した小型の人形を携帯端末の様に耳に当てながら俺を呼びつけてくる。その表情は緊迫していて、酷く取り乱した様子だ。
「その人形は……」
「いつぞやの地底異変の際にアリスと作り上げた通信人形だ。ってか、そんなことどうでもいいんだよ!レイ、今すぐ全員を起こして“レジェンド”で里に戻るぞ!!」
その一変した様子も妙だが、今紫を前にして他のことに構ってなどいられるものか。魔理沙の剣幕に天子と衣玖も身を起こし、慌てて廊下で一堂に会する。そして、次に魔理沙の出した言葉で俺は考えを改めた。
「魔理沙!一体全体朝からアンタ何を吠えているってのよ!?紫のこと放っておけば、レイが……!」
「んなこと言ってる場合じゃないんだよ!天子、衣玖、一旦この場はお開きだ!ついでだ、妖夢も今すぐ連れ出す!」
「行くって……魔理沙さん、貴方らしくないですよ。一体何をそんなに慌てて貴方はどこに…」
「悠長にしていられる場合じゃないんだよ!とにかくお前ら、レイの機体に行くぞ!でないと……」
反論する彼女達を跳ね除けて魔理沙は言い放つ。その言葉はこの場にいる全員を驚愕させるに十分な一声だった。
「“人間の里”が、無くなっちまうんだ!!!!」
それは、どうあがいても絶望のサイレンだった。