PLUS さとり編


「あれが被写体の中で難易度が高いと噂のサトリね…」

幻想郷からの遥か下に位置する空間、地底界。

新聞記者の姫海棠はたては、同業者の射命丸文の記事に対抗する為に珍しい妖怪の被写体を探していた。

そこで白羽の矢が当たったのが地霊殿の主で名が知れ渡っている彼女、古明地さとり。

はたては地霊殿の廊下にある柱の影から、彼女の写真を撮る為にカメラを構えている。

何故、彼女が影から隠れて盗撮同然に撮ろうとしているのかは決まっている。“覚”の持つ能力がはたてにとって厄介だからだ。

さとりの種族の“覚”は対象の人物の心を読むことができる力を有している。

それは人間にも、“天狗”のはたてにも平等に通じる能力だ。こちらのカメラを見た途端、彼女はこちらの思惑を読んで即座に隠れてしまう。

だから、はたては柱の後ろに隠れて彼女を狙っている。友人であり、職業仲間の文に勝つために。

―――もうちょっとこちらを向きなさいよ……!

端末型カメラを最大ズームに設定して彼女に向ける。

未だこちらに気付いていないさとりは、ステンドグラスを眺めながら立っている。

余計な動きをしていない今がチャンスだった。

しかし、被写体の肝心の顔はカメラから殆ど見えない角度だった。

これでは、撮ったとしても写真の出来が悪くなってしまい、“文々。新聞”に勝つことなど不可能同然だろう。

自身の力の“念写”がこういう時に役立たずだということに腹を立てる。

はたては両手でカメラの手ぶれを無理矢理抑えながら、根気よくシャッターチャンスを狙う。

―――あと少し。あと少し。あと…

何度も同じ言葉を心の中で唱える。

柱から身を乗り出して、一回きりのチャンスを掴もうとする。

視線を一点に集中して幾分。

さとりが急に顔をグラスからこちら側に向けようと動く。

恐らく対象はまだこちらに気付いていない様だった。

はたてはシャッターを切ろうと、シャッターボタンに掛けてある指に力を加えようとする。

―――これで、今回の記事は私の勝ちね!見てなさいよ、文!

そう思った時だった。

「あらら。大きなネズミならぬ、大きな鳥さんが地霊殿に紛れ込んでいるじゃない?」

「―――ハッ!?見つかったか!」

背後から囁いてくる少女の声。

被写体のさとりとは、色以外殆ど同じ容貌の少女がそこにいた。

はたてはこの少女についての情報を少々は知っていた。

さとりと同じ種族であり、彼女の妹であるもう一人の“覚”。

不気味なほど無邪気な笑顔を浮かべながら、古明地こいしがそこにいた。

そして、はたての激しい動作から生じた物音が、さとりの耳に届く。

「―――!?どうしたの?こいし」

振り向いて、さとりはこいしの方を見る。

こいしは既にはたての服を掴み、逃がさない様にしていた。

「あ、お姉ちゃん?ここから盗撮しようとしていた記者さんがいるよ?どうしちゃおっか?」

「離せっ!話しなさいよ!」

こいしの手の先で暴れているはたて。

さとりは自らの能力、“心を読む程度の能力”ではたての思惑に探りを入れる。

―――妖怪の取材という名の盗撮。

―――私という存在が珍しいから狙って来たのか。

―――友人に勝つために。

彼女の心から、次々と深層意識が流れ込んでくる。

次々と彼女の意識が流れ込んでくる中、彼女の記憶が見える部分までたどり着く。

月夜の下で、三人の天狗と三人の人影が戦っているビジョン。

一人は直ぐに分かった。

以前この地霊殿にやって来た人間の一人。東風谷早苗だった。

もう一人の女性の人影は初見だった。

しかし、彼女の風貌からすぐに河童の少女だとさとりには判明した。

そして、もう一人の影。

薙刀の様な大きな剣を振り回して、白狼天狗の得物を叩き壊している人間。

その人間は他の人影とは違い女性に比べて丸みの少ないスマートな体、明らかに男性の姿だった。

さとりは“彼”を知っていた。

この幻想郷で無能力者でありながら、自らの“覚”の力に打ち勝った人間。

イレギュラーな出来事は多少あったものの、自分の心が初めて傾いてしまった元凶。

シン・アスカ。

それは、さとりが初めて人間に想いを馳せた人物の名だ。

―――俺とさとりさんは友達だ。

―――俺達はこうやってお互いに話すことが出来て、分かり合えるから。さとりさん。

さとりの脳裏で彼の姿がちらつく。

顔を赤くさせながら、さとりは彼と最後に話した時の事を思い出していた。

「あれれ?お姉ちゃんいきなりどうしたの?顔赤くなっているよ。そんなにこの人の考えていることがいけない事なの?」

こいしがはたてを掴みながら問いかけてくる。

強い力で握っているのだろう、はたては苦悶の表情を浮かべながら掴まれた手を引っ張っている。

さとりは我に帰り、こいしに反応する。

「え…ううん。ちょっとあの人の事を思い出したのよ。この天狗―――姫海棠さんだっけ。アスカさんを知っているみたいだったから」

「……ふぅん」

こいしがさとりの顔を注意深く観察する。

彼女はさとりの“無意識からの好意”を強く感じ取った。

そしてこいしは、はたての方に向き直す。無邪気な笑顔を崩さずに。

「貴方、下の名前は?」

「ッ…!はたてよ。姫海棠…はたて」

「じゃあ、はたて。貴方、シンを知っているかな?」

はたてはその名を聞いて、河原で交戦した外来人の姿を思い出す。

“覚”の能力で心を読まれたと思ったはたては、要領を省いた返答をした。

「知っているも何も、分かってるんでしょ?何が目的なのよ」

掴んでいるこいしに睨みを利かせる。

こいしは、はたての手を手繰り寄せて、耳元で小さく囁く。

無論、これから喋ることの内容をさとりに聞かれない様にする為だ。

こいしの能力なら、心を読まれないのもある。

「…ちょっとね、お姉ちゃんの恋の成就を手伝いたいんだよ」

「ハァ…!?何で私がそんなことを手伝わないとならない」

はたては困惑し、反抗の眼差しを送る。

目的が失敗した以上、彼女としては即座にここから離れることしか頭になかったからだ。

しかし、次のこいしの言葉で彼女の心の情勢は一変する。

「これから私の言うことに手を貸せば…お姉ちゃんの写真幾らでも撮らせてあげるよ」

「なんだって……!?」

はたてにとって異常なほど魅力的な提案だった。

あの嫌われ者の妖怪の姿を好きなだけ撮れる。

それはつまり、今までまともに記事にされていない未踏のテーマを自らの物に出来るからだ。

はたては腕に入れていた力を抜いて、暴れていた体を落ち着かせる。

彼女の眼差しの先には、顔を赤くして俯いているさとりと、口元を柔らかく曲げて笑みを浮かべているこいしの姿がある。

そして、はたてはその条件についてこいしに恐る恐る質問した。

「その条件って……一体なんなのよ」

「簡単よ」

こいしは無邪気な笑顔を崩さずに、はたてに言い放つ。

「シン・アスカをお姉ちゃんのもとに連れてきたらいいんだよ」

 

 

それは、まだ彼らが空の船に向かう前の頃。

シンは日課の機体のチェックを済ました後、河童製の椅子に座って昼寝をしていた。

昨夜、二人の少女に迫られて碌に睡眠を撮れなかった彼は、空いている時間をつぶす為に寝ていたのだ。

早苗と小傘は散歩に出かけ、にとりも今は休憩と言って作業場で寝ている。

シンは安心して心地よく惰眠を貪っていた。

そこに、空から静かに一人の烏天狗が舞い降りる。

姫海棠はたて。彼女はいち早く目的の少年の姿を捉えた。

そして、彼が寝ていることに気付き、両手で運搬を開始する。

男性の人間の体は、彼女にとっては重い部類に入らなかった。

これは、妖怪の持つ基礎体力が、どれも並の人間を大きく凌駕しているからだ。

汗一つかかず、はたてはシンを持ち上げて空を飛ぶ。

そう、全ては自らの記事の為だ。

地霊殿で提案を受けたあの後、はたては潔くそれを承諾した。

彼女にとってのメリットとデメリットが良すぎるからだ。

少年一人差し出せば、思い通りの記事が書ける。

しかも、姉だけでなく妹もだ。これ程“覚”の取材について貴重なことはない。

はたては無意識に笑みを浮かべる。

それは文に勝算が出来たことからの笑顔。嬉々とした様子で彼女はシンを地底界に連れ去っていった。

「こいし!どういうことなの!?」

「え?どうしたの、お姉ちゃん」

地霊殿の大広間。

はたてが地上に飛び立った後、さとりはこいしに声を荒げていた。

理由は勿論ある。こいしが本人の許可を得ないで撮影を条件付きで許したり、想い人のシンを勝手にこちらに呼びだしたりしたことだ。

恐らくシン自身の意志は関与していない。

天狗の事だ。間もなくすればはたてがシンを無理やりにでも連れてくることぐらい、さとりには予想できた。

「えぇ~だって、お姉ちゃんがあの人の事を気にしているぐらい心が読めない私にもわかるよ。あの人はお姉ちゃんを撮りたがっていたし、お姉ちゃんは会いたかっただろうし、私はシンと遊べるし、一石三鳥じゃない」

「それは貴方だけでしょう!?私は…その…まだ心の準備というものがあるじゃない!」

「あれ?柄にもなく緊張しているの?ここならお姉ちゃんの好きなように出来るじゃない」

「その発想が出来るのは貴方ぐらいよ…」

恐らくこいしの言っていることは的を射ている。

実際自分の心に素直になると、彼に会いたい気持ちはある。

だが、幾ら知り合いになった所でいきなりこのような羽目に遭えば、優しい彼とて多少は怒りを露にするだろう。

折角仲が良くなった初めての人間だ。これ以上誰にも嫌われたくない想いがさとりの心に芽生えていた。

「大丈夫」

「え……?」

「お姉ちゃんったら、あの一件以降表情は明るくなってきているし、とっても可愛いからシンは嫌いになったりはしないよ。お姉ちゃんも奥手なんだからこの機会に色々としちゃって惚れさせたらいいんじゃないかな?」

私も手伝うからね。と、最後に付け加えてこいしは告げる。

実際問題、さとりはこれまで他人と“まとも”な交流をした事は皆無に等しかった。

シンの言葉を受けて、より地底の住民と身近になろうと様々な努力はしているが、日が浅いのもあって成果は未だゼロ同然だ。

しかし、彼は別だ。

外来人でありながら、妖怪、人間分け隔てなく優しく接する彼の姿はさとりの網膜に焼き付いている。

―――もし再び会えるのならば、自分のこの迷いや想いを彼に伝えたい。

さとりはこいしの方を向き、今一番疑問に思っている事を彼女に問う。

「それで…今彼は何処にいるのかしら?」

こいしはその言葉を聞いた直後に、口元を柔らかく曲げて微笑む。

「その気になってきたね…素直が一番だよ、お姉ちゃん」

「な、何よ。いけないの!?」

「うふふふ~もうそろそろあの記者がこっちに連れてくると思うよ」

さとりは広間の扉の方に向く。

向いたからと言って扉が開くとは思ってはいないが、彼女の言葉を受けて無意識に体が動いたのだ。

そして、聴覚に一つの違和感。

はたてが履いている下駄の音。

耳を澄ますと、扉の向こう側から効き慣れない足音が聞こえて来た。

それは、規則正しいリズムを取っていない。

恐らく、彼を運んで慣れない飛び方をした為だろう、不規則な足音は音量もバラバラだ。

扉がゆっくりと開かれる。

外から漏れる光が差し込むとともに、疲労したはたてと、彼女の腕に抱えられているシン・アスカの姿をさとりは視認した。

シンの両目は閉じ、静かに寝息をたてている。

はたては息絶え絶えになりながら、彼女らに告げる。

「ハァッ…ハアッ…こいつを起こさずにここまで連れてくるのは苦労したわ……ほら、あんたたちの欲しかった子でしょ?」

「御苦労さま、でもその様子じゃ取材は無理でしょ?別の部屋貸してあげるからそこで休んでいたらいいよ」

返答し、はたてが抱えるシンをこいしが受け取る。はたては重い足取りで廊下の方に歩いて行った。

こいしは軽々と両手で抱えて彼を運んでいく。

足取りは重さを感じさせない様に軽やかだ。

さとりはそれを憂いの眼差しで見る。

「よし、これで邪魔物の記者は一旦いなくなったから…さっさとお姉ちゃんのお部屋に運ぼ?」

「何で私の部屋なのよ!?」

「それは、お姉ちゃんがシンと話したいからでしょ?私も付いてあげるから一緒に運ぼう」

的中はしている。だが何処か納得がいかない。

そう思いながら、彼女に促されてさとりは共に彼を部屋の方に運んでゆく。

彼は未だ眠っている。

さとりはシンの寝顔を見て、少しだけ口元を緩ませた。

瞼の向こうが暗い。

覚えている限りでは、自分は河原の近くで眠っていたはずだ。

ならば日の光が反射し、瞑った瞳から見えるものは瞼越しに見える赤い光だ。

しかし、今はそれが見えない。

ついでに言えば、空気もまるでちがう事に彼は気付いた。

森から漂う新鮮な空気ではなく、空調が効いているような涼やかな空気。

吹いてくる風も無い。外で寝たのならば真っ先に感じるのが風だからだ。

そこで彼は気付く。

―――ここは外じゃない。と。

瞼を開く。

ぼんやりとした意識で、視界に焦点が合わない。

しかし、自分がいる室内に二つの人影が見えた。

「あっ…起きた?」

片方の人影から声が囁いてくる。烏の様に黒い帽子を被った方からだ。

瞬きをして視界を鮮明にさせる。

するとそこには、以前会った人物が自分の向かい側に座っていた。

古明地さとりと古明地こいし。

二人の姉妹が、目覚めたばかりのシンに視線を向けていた。

辺りを見回す。自分の見知らぬ部屋だった。

しかし、建物の造りや雰囲気から以前訪れた建築物の名前を思い出す。

「なんで俺はここに…まさか、地霊殿か?」

「察しの通りよ、シン。私達が寝ているシンを連れて来たんだよ」

「嘘だろ?」

動揺を隠さないシン。

さとりは目覚めた彼の心を読む。

―――河原で寝ていたら、いつの間にか地霊殿にいた…か。

―――クスッ。随分と慌てているようね、アスカさん。

第三の眼から彼の心を垣間見る。

彼の慌てている姿を見ながら、彼女は苦笑していた。

「さとりさん!?どうして笑っているんですか!っていうか、デスティニー無いから帰ることも出来ないし……ああ、どうすりゃいいんだよ?」

「まあまあ、落ち着いてシン。別にここに閉じ込めるってわけじゃないから。気分を変えて少し私達と遊ぼうよ」

「これが落ち着いていられるか!?」

「そんなに焦らなくてもいいから。後で私達が責任もって送り返してあげるからね」

こいしはシンを宥めようとする。

さとりは焦った表情をしているシンの胸に手を当てて囁く。

「御免なさい、妹が勝手なことしちゃって。でも、私があなたと話がしたいという事も事実なの。出来れば私達に少し付き合ってくれないかしら。もちろん、出来る限りのお礼はするわ。だから……落ち着いてくれない?お願いよ」

「さとり……さん」

穏やかな表情でシンを見上げる。

こいしはその二人の様子を満面の笑顔で横から眺めていた。

―――お姉ちゃんったら、やるじゃない。

こいしは“無意識を操る程度の能力”を行使して、二人の意識から消える。

当然、姿や存在が無くなったわけではないので自分の位置は変わらない。しかし、今のさとりとシンには“見えていない”同然だった。

シンは彼女から深呼吸を促される。

以前のさとりからは考えられない程の穏やかな表情。

優雅で上品な印象に加えられたそれは、シンの焦燥を優しく打ち消していった。

「どう?落ち着いてくれたかしら」

「あっ……すみません、さとりさん。だけど俺も突然の事だからつい頭ん中が、絡まっちゃって…」

「こいし達には後で私の方から怒っておくわ。睡眠の途中だったのでしょう?私の事は構わずに寝ていてもいいから…」

「そんな訳には行きませんよ…ここは貴方の家ですし、さとりさんもお話があるって言っていたでしょ。なら、今からでもお相手することぐらい出来ますよ」

眠気など、当に吹き飛んでいた。

それを聞いてさとりも表情を明るくして、一つの提案をする。

「ならば、外に出ませんか?こんな味気ない私の部屋じゃつまらないでしょうし、気分転換には良いです。行きましょう」

「は、はいっ」

彼女が廊下に続く扉を開き、彼も後に続く。

完全に蚊帳の外のこいしは二人を眺めながらこっそりと、後をつけて行った。

 

 

「どうです?地底の外も悪いものじゃないでしょう?」

「はい…でも、この空はかりそめの物なんですよね?」

「そうよ、是だけ大きい世界だもの。大きい光が一つでもなければいざ地上に出た時なんか目が潰れたりするでしょう?だから、偽物の空でもこうして張り巡らせているのよ」

「凄いな……まるでコロニーみたいだ」

地霊殿から出て間もない所。

地底に噴く風を受けながら、シンとさとりは地に立っていた。二人には気付かれていないが、こいしもそこにいる。

他人の感情に敏感なこいしは、シンとさとりの様子をじっくりと観察していた。

「それで?話ってなんですか、さとりさん」

「え?あ、ああっ。それはね」

突然話題を変えられて戸惑うさとり。

“話をする”と言いだしたものの、肝心の内容はまだ決めていなかったからだ。

シンは彼女の困惑姿を見て眉を細める。

当然さとりもこのままではいけないと考える。そこで、彼にあった話題を作ろうと自身の能力を使って彼の心を読もうとする。

この能力を使えば、相手との話が成立しなくなるぐらい対象の考えていることが分かる。しかし、シンの言葉に影響されて以降、この能力は相手の気分を害さない程度、極めて限定的にさとりは使用していた。

シンの心を再度読む。

その拍子に、彼の考えていることが流れ込んできた。

さとりは彼の“心”から余計な情報を払いのけて記憶の部分だけ読もうとする。記憶を見れば、彼に会う話題が探し出せるかもしれないと考えを練ったからだ。

そして、無数の映像がさとりのなかで再生された。

戦争で失った物。

大切な人との別れ。

信じていた人物との決死の戦い。

自らの戦いが他人の手の中で踊らされていたこと。

彼の中で燻ぶっていた、様々な深層意識をさとりは理解してしまった。

「アスカ……さん」

「―――?どうしたんですか、急に暗い顔して」

「貴方は………」

彼に掛ける言葉が思いつかない。

話題の為という軽い気持ちで能力を使ったばかりに、彼女に圧し掛かったショックは絶大だった。

―――しかし、読んでしまったことだ。隠しておくわけにはいかない。

さとりは彼の返答を恐れながらも、彼の過去についての話を切り出した。

「…貴方は、過去にとても辛い経験をしたのですね」

「………」

「大切な人達を失って……自分の様な境遇の子供を作らせない為に…それで貴方は元の世界に帰ろうと努力をしているのですね」

「さとりさん……」

「でも貴方は、心のどこかで帰るべきか迷っている」

その言葉を告げた時、僅かにシンの口元が歪んだ。

さとりの言っている事は的中していた。最も、心を読んでいるのだから当然と言えるものだが。

「貴方は……少しだけ元の世界に帰りたくないと思っているのでしょう?」

シンの目が彼女から背けられる。

さとりは尚も続けた。

「アスカさんは、この世界の住民と信頼関係を築いてしまったことに後悔していますね。私には……どんなに隠していても分かりますよ」

「俺は…」

「でも、貴方はコズミック・イラの人達を助けたいと思っている。だけど、この世界の人達と過ごしていきたいという想いもある」

「……俺は…」

「それは普通の事です。ですが貴方はいずれ来る日に向けての迷いが、日々大きくなっているようですね」

さとりは読んだ心から得た彼の感情を突き付けた。

それはさとりが彼に抱く想いからだった。

いずれ彼が元の世界に戻るのなら、さとり個人の感情としては反対の意見だった。

他人の運命を、正す事の出来る特異な存在。

事実、さとりの心境がこれまでと大きく変わったのは彼のお陰だった。

出来れば彼はこの世界に残って自分と共にいて欲しい。

しかし、彼本人がこの事に迷っていてはどうしようもない。

故にさとりは、この現実をシンに突き付けたのだ。

「俺はッ……どうしたらいいのか分からないんです…」

シンが顔を俯かせる。

その輝く紅玉の瞳は、彼の前髪が邪魔をして見えない。

「この世界に来て、俺は色んな人に出会いました。信頼できる仲間、共に戦ってくれる人。そして…俺に居場所を用意してくれた方達に……」

「アスカさん……」

「だけど、俺は元の世界の人達を救いたい…少し前までは、俺はそう決心していたんです。ですけど、日々が経っていくうちに、俺が本当に帰るべきなのか迷いが生じて…にとりにも、早苗にもこんな事相談できなくて、俺は……」

「だから、私が言うまで誰にも話す事が出来なかった…と。アスカさん……」

さとりはシンの正面に立つ。そして、強い眼差しを彼に向ける。

「アスカさん」

「……ッ」

「こっちを見てください。私の眼を」

さとりはそう告げるが、シンの眼は未だ髪に隠れている。

彼女は彼の服を掴む。

「こっちを見てと言っているのです」

しかし、シンは顔を上げない。

業を煮やしたさとりは胸倉を掴み上げて、無理矢理シンの表情を直に見ようとする。

涙が彼の頬から零れおちていた。

それは、さとりが初めて見る表情。

意志の強さを表すかのような二つの紅い瞳は、涙で濡れていた。

「俺は…帰りたい…だけど、帰りたくない。だから俺はこの気持ちを今まで隠していた。だけど……さとりさんが…さとりさんがそう言ったから、俺はッ……くっ…どうすればいいのか分からないんです!」

涙声でシンが訴える。

温かい液体が、さとりの掌に落ちた。

「このままあの世界をキラさんとアスランに任せたい想いもあるんだ……そうすれば俺は楽になれるから。もうこれ以上誰かを無くさずに済むから。だけど…俺は助けられる力があるのにっ……この世界で平和に暮らしたいという思いもあるんです…!」

濡れた眼を露わにした途端、感情を隠さずにぶつけてくる。

心を読まずとも、さとりには彼の感情が激しく伝わって来た。

「俺は……今まで誰にも頼ることが出来なかった。だけど、そう言われたら俺は隠すことなんか出来なくなるんです……」

「アスカさん………私には、もう貴方の気持ちは十分伝わりました」

さとりは優しい言葉を掛けた。

その表情は母性と良く似た温かさが伝わる程、穏やかな顔。

「俺……俺…!」

「その迷いは恥ずべき事じゃありません。いけない事は貴方が自分の気持ちに嘘をつく事なのです。私は…貴方のその気持ちを受け止めてあげますから……だから今は泣いてもいいですよ」

「ああっ……」

「アスカさんは誰かを失う事に恐怖を感じている……だから、知り合ってしまった人と別れるのがとても怖いのですね」

さとりが読んだ、彼の記憶。

家族、護るべき人、気さくで頼れる上司。

彼らに対して抱いたシンの感情は心を読んだ瞬間、さとりにも疑似的に体感する事が出来た。

嗚咽を噛み殺して、眼を背ける。さとりはその彼の姿を見て、両手で抱き締めた。

「貴方は悪くない。何も悪い事じゃないんです。ですが、貴方はあまりにも辛すぎる体験をしてきた」

「はい……」

「だから今だけは私に素直になって下さい。私は何時でも貴方の相談に乗ってあげますから……」

伝わってくる温かさ。シンは涙を流しながら、抑えきれない感情を彼女にぶつけた。

その顔は、行き場所を無くして泣いている無力な子供の様だ。

自分でもどの道を選べばいいのか分からない。

だけど、今は、この気持ちの行く末を何処にぶつければいいのか。

シンは抱き締められたさとりに身を任せる。

自らの瞼が自然に落ちてくるまで、彼は泣き続けた。

 

 

瞼を開ける。

目覚めたら、地霊殿のさとりの部屋にシンは仰向けになっていた。しかし寝ている場所は床でもソファーでもない。

その部屋に備え付けられてあったベッドに寝ていた事を、シンは悟った。

―――俺は…何で。

身を起こし、辺りを見回す。

眼を覚ますまで涙が乾かなかったのか、温かいものが頬を伝っていく。

腕で擦り、跡を消そうとする。

しかし鏡を見れば、涙で濡れていた眼が兎の様に赤く腫れていた。

その瞬間、紫の髪の人物が、そっと部屋の扉を開けて入ってくる。

さとりだった。その両手にはトレイがあり、紅茶をいれたカップが二つ載っていた。

「下手だけど、私が紅茶を淹れてみたわ。これで少しは気分が良くなってくれるとうれしいのだけれど…」

「頂きます……」

シンはカップを自らの口に運ぶ。

茶の甘さが何時もより格段に体に染みる。それと同時に茶の温かさが体全体に広がっていった。

「貴方は、まだまだ時間はあるのでしょう?ならば、この地霊殿で少し休憩していってください。まだまだ私も貴方と話してみたい事がありますし、今日はここで寝て行っていいから」

「さとりさん……?」

「……もう。そんな困った様な顔はしないの。こういう道草を食っても、誰も怒りはしないわ」

意識が無くなる以前と同じ様な温かい笑顔をシンに向けてくる。

シンはその顔を見た途端、胸のあたりが温かくなる様な錯覚を感じた。

そして、その様子を見ていたもう一人の妖怪。古明地こいしも、それを気付かれない様に眺めて、笑みを浮かべていた。