PLUS 小傘編


その朝は、やけに体が重かった。

“デスティニー”が格納されている作業場のハンガー。そこには何時でも作業の合間に仮眠をとれる様に設けられた簡易ベッドが備えられている。

そこで緑のチェック模様の布団を被って寝ている少年の姿がある。この世界に迷い込んだ異世界の少年。シン・アスカだ。

―――つーか、いつ寝たの…?俺…

先程まで寝ていた自らに自問する。

シンは日付が変わるまで“デスティニー”の点検を行なっていた。毎日では無いが自分の機体の調子は自分で見るのがパイロットの務めだ。しかし、整備班では無くにとりの様に卓越した整備のセンスを持ち合わせていない彼は、全てが終わるまで夜中まで時間がかかってしまったという訳だ。

「……ん…」

外の河原に徐々に陽が昇り、自然が朝をシンに告げてくる。柔らかで温かい風がシンの肌に当たり、眠気を少しずつ覚ましてくる。それは天然の目覚まし時計だ。

しかし、辺りはまだ薄暗い。時計は近くにないが、恐らく早朝程度だろう。ならば二度寝しても誰から文句を言われそうにない。

シンは静かに目を開いて、寝がえりを打とうと身体を少しだけ起こす。

少しだけ風が外から流れ込むが、今は十分温かい季節だ。外で寝ても問題ないくらいの。このまま寝ても最悪にとりに起こされるぐらいだろう。

この世界には軍務も無ければ、規律も無い。せめてもの手伝いとしてにとりに料理を振舞っているぐらいだ、ちょっとした休暇だと思えばいい。

シンは身体を反対側に向けて、ずれた布団を戻そうと目を瞑ったまま手を伸ばす。すると。

「…?」

何か温かい物がシンの伸ばした手に当たった。

それは驚くほど柔らかくて、ベッドの布団の中でシンと密着している。

―――ん、何だこれ…

自分より少し小さい程度のそれは、シンの両腕に収まっている。

手の位置を自らの胸の所まで下げると、そこには豊かな双丘が柔らかくシンの指を包み込む。まるでマシュマロの様な―――そういった表現が似合うほど柔らかい。

これは抱き枕の類か?そう思い、自らの両腕にさらに力を込める。相手は抱き枕なのだ。ならば一人で寝ている時くらい付き合ってくれるものがあってもいいだろう。

「ぁん……」

いや、待て。

そもそも抱き枕なんて、にとりも自分も持っていただろうか?

艶のある小声がシンの耳に届いた途端にシンは急激に覚醒を促され、心臓の音が高鳴る。

瞑っていた両目を少しだけ開き、目前にある筈の正体を掴もうとする。

眼を開くと、水色の影が見えた。髪も、来ている上着も水色で固められたそれからは、甘い香りがシンの鼻孔を擽って来る。

これは―――女の子の匂いだ。

両の目を全開し、まどろみを振り払う。そこには。

―――なっ!?

そこには。夜の里で初めて出会い、今尚にとりとシンと共に作業場で暮らしている少女。

「小傘…ちゃん」

眠っている多々良小傘が、規則正しい吐息を出しながら、シンの腕の中に収まっていた。

その事実にシンの脳は凍りつく。

「やべーじゃん、俺…」

あまりのショックに口が勝手に動いた。酔いしいれてしまうほど自らが触れていた柔らかい物は彼女の胸だった。

人肌が恋しい―――と言う訳ではないが、相手が抱き枕だと思っていたから強く抱いた。

しかしそれが、実は小傘だったとは思いもしなかった。

これはもう、スケベと言う言葉では片づけられない。にとりに見つかったら誤解どころでは済まされない。

この場から静かに退散する為にシンは彼女の背後に回していた腕を解【ほど】こうと、静かに寝息を立てている小傘から離そうとした。

「!?」

その直後に、何かが自分の背中を圧迫し、両脚に何かが絡みついた。突然の事態に思考が追い付かない。

油が切れた機械の様に、震えつつ背後へと視線を移す。するとそこには、小傘の細腕が退路を塞いでいた。

―――ええっ!?

ベッドの下で抱きあい、足を絡ませあっている二人。外は早朝。身体は密着し、外では小鳥が朝の囀りを響かせている。

このシチュエーション、健全な少年ならば誰もが憧れる物かもしれない。だが、シンにとっては危機以外の何物でもなかった。

このような事に敏感で、不快を隠さないにとりならば、この様子を目にした途端軽蔑するかもしれない。小傘が嫌いと言う訳ではない、寧ろ好意に値する存在ではあるが、この場は離れた方が自らの保全を保てる。

でも無理だった。小傘は仮にも妖怪だ。彼女の込めた力は幾ら軍で鍛えたシンでも振り解くのは容易ではない。外見上の特徴は殆ど人間の少女と大差ないのに、理不尽なほどの力の差でシンは苦い表情になる。

「無理か…」

振りほどこうとしても頑なに解けなかったが、自らを抱く細腕は、シンに痛みを与えるほど締めつけていない。柔らかな抱擁は離れる事に寧ろ名残惜しさを感じるほどに心地よい物だ。

このまま抱かれていたら、自分は再び眠気を呼ばれて女の子の腕の中で過ごしてしまうかもしれない。けれどもそれを黙認する様なにとりじゃない事はシンにも分かっていた。

「起きて…起きてよ、小傘ちゃん!」

焦りに囚われながら小声で、出来る限り体を離して彼女に叫ぶ。早く目覚めてもらわないと、にとりに誤解を招かれるかもしれない。

「ん…」

ゆっくりと、極めてゆっくりと―――小傘の目が開いた。

大きく、綺麗で澄んだ瞳。早朝の薄闇の中で、シンにそれは向けられる。しかし、双眸の内一つの目、小傘の左目は妖しく光る赤色だ。

シンの世界では、これをオッドアイと呼ぶ。稀に人間や動物に見られる稀有な症状であり、シンも知識だけなら有している。小傘の片目は暗闇でも明確に見え、一つ目だと錯覚さえしてしまいそうになる異質な瞳は一種の官能的な美しささえ誇っていた。

あまりの麗しさに、シンは心を奪われそうになる。このまま彼女に力づくで押し倒して滅茶苦茶にしてもいいかもしれない―――そんな邪な考えさえ頭の中に湧き上がる。

「あ…シン…起きた?」

「小傘…ちゃん…なんで…」

俺のベッドに入ってるの?と、シンは問う。

「えーとね…夜中、人間を驚かそうとして里に行ってたんだけどね。誰もいなくて帰ってきちゃった」

「うん」

「そこでなんだか寂しそうにしているシンの姿が見えたから……抱き締めてみちゃった」

女の子に抱かれる事はシンも嬉しい。しかし、男という生物は欲望に忠実なものだ。

一歩間違えていたら、頭の中にある線が切れて欲望のままに身体を貪っていたかもしれない。

「でも…ダメだよ…そんな簡単に男と一緒にいたら…」

「じゃあ、私がシンを襲えばいいの…?」

小傘が発した一言に返すよりも先に、シンを抱いていた両腕が離れる。

そのまま、小傘は布団の外に躍り出て、シンの身体の上に跨【またが】った。

「ばあ。驚いた?」

子供をあやす様な文句で、シンに聞いてくる小傘。

「そう、だね…」

頬を赤らめて布団の中に顔をうずめながら答える。

―――なんで俺が恥ずかしがってんの!

そう叫びたくなるが、叫んだらにとりに殺られる。

「シン…可愛い」

そのまま小傘が抱きついてきて、布団を挟んで密着する。

小傘が飛び込んできたせいで、シンの目の前に彼女の胸が押し付けられた。

「む…ムグッー!っぱぁ…」

少年なら、一度はこんな事に遭遇してみたいと思うだろう。だが現実には苦しいとしか言いようがない。呼吸をしようにも服を押し付けられている為に困難だ。

せめて気にする様なものがなければ―――今以上の事を小傘としているかもしれない。

「馬鹿っ!離せ!ああっ、そんな所触るな!」

「シ~ン~!最近人間が驚かなくてさびしかったよぅ!」

「やめろよ、このバカ!」

「そんなこといってぇ…シンのここはかなり正直なのに…」

小傘が布団の奥にある下半身に視線を移す。しかしそれは朝である故の不可抗力だ。相手の意図を理解した途端、シンは顔を真っ赤にして叫んだ。

「なに言ってんだよ!?」

その大声が、失敗の原因だったのかもしれない。

二人で揉めている最中、作業場の奥から足音が響く。が、当の二人は争っている為すぐには気付かない。

それでも直ぐ近くまでそれが接近したら気付くより他なかった。そこには、いつもの髪型であるツインテールを解いた寝間着姿の少女がいた。認識に間が出来るが間違い無い、この作業場の持ち主で二人の居候を許す少女、河城にとりだ。

恐れていた事が起きてしまった事に、シンは内心で涙した。俺は悪くない―――そう叫ぼうとしたが状況が誤解を拭えるものではない。ただ、彼女に手を出すつもりはない事は本当だった。

「お前…お前……!」

「あ、にとりも混ざる?」

小傘が無神経ににとりへ聞く。そんな浮ついた事に便乗するにとりではない事は、シンもここ数カ月でよく知っていた。

ああ、もう命は無いな―――

シンは諦めて全身の力を抜き、迫りくる一撃に覚悟した。

「このっ!大馬鹿野郎!!!!」

流れる水音と小鳥の囀りが響く空間に、新たな響きが加えられる。全身全霊のビンタを喰らったシンは倒れる様にして再びベッドの上で眠りに―――もとい、気絶した。

 

「ねえ、シン。驚いた?」

「驚いたにきまってるだろ…」

彼女、小傘が聞いてくるのは、勿論今朝の出来事である。

にとりからは軽蔑されて会話どころか、目も合わせてくれない。

本気で自分の事を嫌いなったのかもしれない―――

そう考えてしまうほど心配するも、シンは作業場の居心地の悪さから河原で佇んでいた。

『小傘と幸せになってりゃいいんじゃないか!この馬鹿!しばらく外に出てけ!っていうか、二度と帰ってくんな!』

気を失う前のにとりの言葉が心に突き刺さる。まさかあそこまでの怒りをむき出しにして怒られてしまうとは思いもしなかった。結果シンは追い出されて、小傘も自らの分身である唐傘を持ち出して外に飛び出したのだ

「シン…大丈夫?」

―――誰のせいでこうなったと思ってるんだよ……君は。

「ああ、別に気にしてないよ…」

内心とは真逆の言葉を小傘に言う。

そもそも自分に罪は無い筈だ。いつの間にか小傘がベッドの中に居ただけで自らは―――欲情こそしかけたものの手出しまでには至っていない。そういう事に興味がない訳ではないが、相手や状況と言うものがある。

多々良小傘は、妖怪だ。

嘗て昔、人間に捨てられた忘れ傘だった小傘は、長い時と共に“物”から“妖怪”へと生まれ変わった存在だ。

長らく、人間から得る事の出来るエネルギー―――小傘はこれを“心”を食べる、と例えている―――が見つからず、人間の里に出没していた頃、偶然が重なってシンと出会って以降共に過ごす仲となった。

周りに女がいる事に対して、特に抵抗は感じない。しかし、男と女には生活の感覚の差異があり、特ににとりはその点に関して厳しい。

普段から気にしているのはそれだけなのだが、頭を抱えるほど大きな問題でもある。

さて、これからどうしようか。シンは一言呟いて、河原に座り込んでいた身体を起こす。

暫くはにとりも怒っているだろうから、作業場に戻る事は無理だ。

となると、自分の知っている範囲でこの異世界を歩く事になる。

「ねぇ、シン。何処行くの?」

そう問われた所で、行きたい所など特に思い浮かばない。しかし、にとりに追いだされてから自分が何も口にしていない事に気付く。小傘は朝にシンの“心”を食したから困る事は無いだろうが、シンは小傘の真似は出来ない。もし出来たらお互いにいる限り、二人は何もしなくても生きて行けるだろう。

「そうだな…里にでもいこう。金は以前作業の手伝いで少し貰っているからな…」

「シンも私の“心”を食べればいいのに」

「だから、俺は人間なんだって…小傘ちゃん」

つくづく、妖怪は人間より優っている点があって羨ましく思う。人間は平均して八十年程度しか生きられないのに、妖怪は例外なく生の尺度が違い過ぎる。長寿の妖怪なら千年も軽く生きられると以前、にとりから耳にした事もあった。

それに、飲まず食わずでも暫くは生きていられるという。妖怪は人間とは異なり、食に関しては物質、非物質様々なものはあれど、少ない食事で得られるエネルギーは凄まじいようだ。

挙句の果てには人間を軽々と越える身体能力を有し、一般論として戦闘面でも妖怪の方が有利と聞く。

妖怪にも人間並みの知識を持つ者は多い為、単純な比較で人間が勝るものは何もない。敢えて妖怪が劣る点と言えば、身体的老化が殆ど無い程度だろう。しかしながら、言いかえれば自分の理想の姿を半永久に保てると思えば、それもまたプラスになるのかもしれない。

「シンと一緒に入れたらなぁ……ねえ、一緒にいる事を結婚っていうんだっけ?」

「明確には違うと思うけど…まあ、そんなもんじゃないか」

適当に小傘の言葉をはぐらかす。

結婚。シンと小傘の間にあり得ない二文字がシンに突き刺さる。

―――俺が小傘と結婚したら、どうなるんだろうな。

そもそも小傘が家事を行なう様子が想像できない。

料理を作っているのは自分で、小傘の食事はシン自身。

…ダメだ、全く頭に浮かびあがらない。

ただ唯一ぼんやりと浮かび上がったのは、彼女のウエディングドレス姿。

華やかな白い布を全身に纏い、こちらに色の異なる両目を向けて静かに「驚いた?」と聞いてくる小傘。

―――まさかね。

そんな事をシンは想像しながら、共に河原をくだっていった。

 

 

「ねぇねぇシン、また驚いて?」

「お前さ……当分喰わなくても大丈夫だろ?っていうか俺と初めて会った時、自分が驚いて助かったじゃないか」

「えぇ?でもシンの心は美味しいし。確かに自分が驚いたから助かったけど、他人の“心”とは違って全くまともな味なんかしないんだから」

「食糧扱いされてる俺の身にもなってくれよ…」

暇があれば、彼女は間髪入れずに驚愕を要求してくる。

物陰から飛び出してきたり、行き成り後ろから叩いてきたり。その方法は多種多彩だ。

その結果は主に二種類。不意を突かれて驚くか、常套化した手段に呆れるしかない。

今二人がいる場所は、人里の広場にあるベンチに座っている。幻想郷は文明がそこまで発展してはいないが、河童や人間の持つ技術によって一定の工作技術を有している。このベンチや、里の石畳もその一つだ。

「何時までも俺に頼れると思わないでよ。俺は人間なんだから……」

何時の日か惜別の時が訪れ、小傘と離れ離れになる。それはどんな人生を送っていても避けられない運命だ。元の世界に帰る事になっても、この世界に残る事になっても。

小傘がシンに依存しきってしまったら、小傘は一人でいられなくなる。故の言葉だ。

「小傘ちゃんだって長生きしたいだろ?だったら俺がいなくなったら、俺以外の奴を驚かさなきゃいけないじゃないか」

シンがやや刺々しい態度で言い放つ。朝の事で怒っている訳ではなく、小傘の自立を促す為だ。

人間だろうと、妖怪だろうと、たった一人で生きる事は出来ないのかもしれない。

でも、一つだけに固執していては何時か破滅してしまう。

突き放した態度を時にとることも、心の成長を促す為には大切なのだ。

「え…でも…いざという時は、シンが何とかしてくれるでしょ……?」

「俺は、小傘ちゃんが思うほど一緒にいれない」

妖怪と人間の差。そこには絶対的な壁がある。見えなくて、壊す事の出来ない壁が。

「そんなこと、いわないでよ」

「嘘じゃない。…っていうか、いつか言おうと思ってた」

広場の方へ向けていた身体を、彼女の方に向ける。そして小傘の瞳を見つめて、自らの想いと願いを真正面から突き付けた。

「小傘ちゃんは…いつまでも俺といるべきじゃないんだ」

「あ…」

あれ程にこやかで、お気楽だった彼女の表情が凍りつき、口から失望が漏れる。

「今からでも“心”が得られる練習を他の奴にした方が―――」

その態度が失敗だったのかもしれない。

小傘は顔を俯かせて、泣いているとも笑っているとも捉える事の出来ない、半端な顔を震わせた。

まるで、自分がどうすればいいのかも分からない様に。

「…小傘……ちゃん」

「え…?あ……うそ、だよね……?そんな事シンは…言わないよね」

「嘘じゃない。でも、一緒にいられなくなるよ…きっと。それがもしかしたら、明日になるか、もっと後になるのか。でも離れ離れになる事は確実だと、思う」

「やだ、やだ。やだよ…シンは私と一緒にいてよ…じゃないと」

幼い子供の我儘の様に、小傘がシンの言葉を拒絶する。

しかし、理解【わか】って貰わなければ、小傘は前に進めない。自分との枠の中でしか、生きてゆけない。

「じゃないと、どうするんだよ。俺だって、いつまでもこのままじゃない…君と違って」

成長しない―――老いがないと言う事は、時が静止しているのと同じ事なのかもしれない。

常に同じ時に囚われて、ただ太陽のゆく末を見守るだけ。世代の遷移も変化する世界とも無関係になりながら。

小傘は子供の妖怪だ。しかし一言に子供と評しても、自分と大差ない程度の精神の持ち主だろう。

でも、妖怪である事に変わりは無い。命の差が、シンと小傘には大きすぎる。

「もういい……」

突然、小傘が静かに囁く。あまりの小ささに一瞬聞き逃してしまうほどの声量だった。

「シンなんかにいわれなくたって、一人でも“心”が得られるのを証明してあげるわ!」

小傘は声を震わせながら、ベンチから飛び出してシンを睨みつけた。

涙は流していない。けれども、溢れてしまいそうな想いが瞳に溜められていたのは一目で悟った。

「シンのバカ!」

その悲痛な一言を最後に、広場の外へと走り去る。朝にも言われた罵倒を再び耳にして、シンもいたたまれない心境と化す。

―――今日は……厄日だな。

自分の想いは伝わっている筈だ。けれども、罵倒されていい気分になる奴はまずいる筈がない。その様な特殊な性癖を生憎彼は持ち合わせていない。

もっといい言い方はなかったのか。思わずとってしまった自分の態度を憎らしく思いながら、ベンチに体重を預けて空を仰ぎ見る。

先程まで口論し合っていた自分達に感知する事も無く、眩しく輝き蒼々しかった空は、徐々に陰りが差し込み―――暗雲と言う名の灰の絨毯が敷かれ始めていた。

 

 

「なんで…シンは行き成りあんなこと言ってきたのかな……」

広場から逃げる様に駆けてきて、数十分が経過しただろうか。

小傘は人が行き来する里の往来に紛れながら、小傘はシンの言葉を頭の中で何度も再生しながら落胆していた。彼の言葉を思い出す度、より一層悲しさが深まっていく。

『小傘ちゃんは…いつまでも俺といるべきじゃないんだ』

『今からでも“心”が得られる練習を他の奴にした方が―――』

聞きたくなかった、そんな言葉。

彼といられると、とても充実していて。自分が喰い物とする彼の“心”はとても温かくて、美味しくて。

いまさら離れろだの、他の奴に目を向けろだの、そのような言葉で彼から突き離された事が小傘にとって大きな衝撃だった。

「シンは私の事……嫌い?」

周りの人間達に聞き取れない程度の小声で囁いた。想えば、今まで彼に対しての好意を質問した事は多々あれ、彼が自らに対する好意を明確に形にした事は今までにない。

「私は…嫌いとか、好きとかで…なのかな……?」

小傘自身はシンに対して自分がどう思っているかは分からなかった。ただ、自分にとってとことん都合がいい外来人の人間。それがシンだ。密着すれば彼の体温が温かくて、驚かせば飽きがこないほどの美味しい“心”が得られる。

それに別段驚かさなくても、彼といれば―――心地よい。

小傘は彼に文字通りやみつきだった。いや、一種の中毒みたいなものなのかもしれない。

彼といれば、生きる上で全てが手に入る。だから、シンの発言が小傘にとって絶望以外の何物でもない。

「死んじゃえ…ってことなのかな……」

茫洋とした眼差しで灰色の空を眺める。

きっと、あと数刻もすれば雨でも降るのかもしれない。でも自分は生きた妖怪の身になったとはいえ本質は人間に使われる道具、傘だ。雨程度なら気にもとめない。

むしろ濡れているからこそ、自らの存在が実感できる。世界に雨が存在しなければ傘なんて作られない、生まれない。

だから、自分は雨が好きなのだろう。

でも人間は雨を好む人間が多く無い。その原因は濡れてしまうからだと小傘は思った。体温を冷やせば体調を崩す。だから人間は雨風を凌ぐ為に屋根を持つ住居を作り、外に出る時は雨具を用いる。

雨に濡れる事が役目だった小傘にとっては、自分だけがいい思いをしている“人”が嫌いだった。しかし、シンに対してはその様な想いを抱く事は無かった。何故なら、小傘はシンを今まで利用していたことになるからだ。

自らの糧となるものに、嫌悪は抱かない。人間は自然や他人を利用して生き、妖怪は人間を利用して生きる。この幻想郷にでは当たり前の光景だ。

そこに憎悪は入るか?答えはイエスでもノーでもある。妖怪は大多数が人間に対し友好的であり、人間もまた妖怪に対し友好的である。一部の例外はあれ、お互いに利用し利用されながら共存している。

支えとなるものを失えば、自分は何物にも頼れず、確実に利用できるものが得られなくなる。それこそ頼れるものは己の身と言う事だ。

「なら、私…」

シンが発した言葉。それは小傘一人でも生きる力を得て欲しいというものだ。

なら、自らの力を彼に誇示すればいい。そうすれば、彼の存在の有無にかかわらず自らは生きる事が出来る。さらには彼の側に居ても言い訳が立つ。

「やらなくちゃ」

小さく両手を胸元に構え、ギュッと力を込めた。

やる気は十分だ。今ならば自分は全力で事に当たる事は出来る。

シンを見返したい気持ちが、小傘の原動力となっていた。

「私一人でも、見ず知らずの人間を脅かせる事なんてできるんだから!」

 

 

そして、試練は始まった。

人里の路地に入り込み、小傘は物陰に隠れる。

流石に往来で事を行なっては、人の不安を招き退治される事は明白だろう。

ならば路地裏で一人二人になった住民達を驚かせるほうがなにかと都合がいい。

そもそも、シンと遭うより以前はこのスタンスが小傘の通常だった。

勝利の美酒を味わう事ぐらい、朝飯前だ。

―――さあ、誰かきてよ…

内心で呟きつつ、路地の角越しに往来を覗き見る。

小傘が陣取っているこの往来は、民家を挟んだ大通りの真中だ。

前後から行き来する者は数多く、路地自体も少々入り組んである為隠れる場所なら沢山ある。まさに自分の様な目的を持つ妖怪にはうってつけの場所だった。

「来た!」

足音が聞こえる。靴の硬い底が、路地の石畳を叩く音。

間違いない、路地裏を通って反対側の位置に出ようとする住民だろう。

ここは幻想郷で唯一の人里だ。平和の中心で生きる人間にとって、不意を突かれた驚愕は絶大な効果をもたらす。そこから溢れる“心”も美味の一言に尽きる。

「あかんべ~!お・ど・ろ・け~!」

大きな声を発して、近づいて来た住民に躍り出る。

これで驚きは免れないだろう。そう確信し、小傘は自信たっぷりに足音の持ち主の前に姿を表した―――

「おおっとぉ、失敬失敬」

全身全霊を込めて脅かしたつもりなのだが、目の前の人間は動じていない。

人間はパーマがかかった長髪の男性だ。腰に帯刀し、見た目の野蛮さに見合った野太く猛々しい声の持ち主だった。

「な、なんで驚かないのこいつ!?」

逆に、驚かした小傘の方が相手に対して動じてしまった。

長髪の男性は豪快に胸元を開き、両目に隈取を施している。一目で恐怖さえ感じてしまうほど、豪胆な男だ。

「お嬢さん…その程度かな?」

完全に馬鹿にされている。

こうなれば実力行使で無理矢理驚かそうと、小傘は男に傘を構えた。

「喰らえーっ!」

傘を全力で叩きつける。

「それで本気だったのでありますかぁ?」

しかし男は片手で受け流し、小傘の身体は石畳に転倒してしまった。

「フハハハハッ!結構結構!」

小傘の拙い攻撃に、男は大声で嘲笑した。

「小生が眠っている間に!地球は面白い事になっているではないかぁ!」

突然訳のわからない事を男は叫び、倒れた小傘を睨みつける。

完全に竦み上がり、腰が、足が、言う事を聞かない。

「な、なんなの。このおじさん…」

「なにかいったかぁ!?小娘!」

「ご、ごめんなさい!」

「謝った所で、何のエクスキューズにもならんぞ」

「えくす…どういう意味?」

「ふざけるんじゃない!」

男は完全に立腹の様子だ。今の小傘は怯みこんでしまって、思う様に身体が言う事を聞いてくれない。

「なんで……あんたみたいな人間、今まで里で見たことない!っていうかホントにこの世界の人間!?」

「フハハハハッ!タブーは破る為にあるとなぁ!」

ふざけているのかと思わず問いたくなる態度は、こちらの問答に本気で答えているかも疑わしい。これ以上の言葉は無意味だ、小傘は滲み出る涙を流しながら必死に身体を立ち上がらせ、路地裏から逃れる。

「フハハハハ!わが世の春がきたぁ!」

「ひっ!」

「絶好調であるッ!死ねぇ!」

問答無用で男は刀を抜き、後を追ってくる。

あまりにも相手が悪すぎた。小傘は滅茶苦茶にさせながら、必死で里の往来を駆けこむ。

灰色の雲は既に陰りで満ち、辺りは薄闇に包まれていた。

 

 

光り輝く太陽は山の背後に隠れ、自然音に烏が混じり始める。

日に赤みが増し、全てが一色に彩られた頃。

一人になったシンは、広場のベンチで空を仰ぎ見る。

特に何かをしようとは思わない。何かをする気にもなれない。

きっと未だににとりは怒りを露にしているだろう。最悪何処かで一夜を明かすというのは避けられないかもしれない。

広場にいた人々も夕方に近づけばまばらになり、次第に人一人見つからなくなるだろう。

「あれ…?」

口から声が出た。空を見上げていた顔に一つの冷たい物が当たる。

そこに指を当てて、拭った。

―――雨、か。

やはり、といった様子でシンは落ちて来た水滴を払った。

曇り空から予想はしていたが、とうとう雨が降り始めて来たらしい。

何処かで雨宿りをしないと。しかし、何処へ向かえばいいのか。幻想郷に来て知り合いは数あれど、いずれも里から離れて暮らす妖怪の類だ。寧ろ自分と同じ人間の知り合いの方が少数だ。里の中で済む住民の民家に至っては殆ど知らないも同然だ。

とりあえず近くの店にでも入ろうかと、シンはベンチから腰を上げた。

「あ、貴方は」

その瞬間、耳に声が入った。

それは何時か里で聞き覚えがある。澄んでいて高く、幼い少女の声。

声の持ち主は遠くにいる様だった。

広場は円状であり、シンが座っていたベンチは端の方に位置する。そこから遠くにいる人間の声がはっきり耳に届いたという事は、声の持ち主がシンに向かって発言した事に他ならない。

重ねて、今の広場は人が少ない。というより、シンの周りにはもう誰もいないと形容した方が正しい。故に自分以外の人間を呼んだと判断するにはあまりにも判断材料が乏しかった。

シンはその方向へと顔を動かし、視線を投げた。

そこには傘をもつ、着物を着た少女の姿が在る。

「奇遇ですね、シン・アスカさん」

「稗田…阿求」

幼い身体で歴史書、“幻想郷縁起”を執筆し、小傘とシンの出会いのきっかけを作った人物。稗田阿求が傘を差して頬笑みを浮かべながら、目の前に佇んでいた。

 

 

「ありがとう、雨宿りさせてもらって」

「いえいえ、そうお礼をされるものでもありません」

広場から足を離して暫く。

雨宿りに困っていたシンは阿求の誘いで稗田邸で身体を休めている。偶然にも彼女が通りかかってくれたおかげで、身体を冷やさずに済んだ事に安堵する。

「でも、なんで広場に?阿求はそんなに外出するタイプにはみえないんだけど…」

阿求は幼い身でありながら、一日の殆どの時間を歴史書の執筆に費やす勉強家だ。

精神面は兎も角身体が弱い阿求には、付き人の一人や二人向かわせれる程の立場である事は以前に知っている。

「お恥ずかしい話ですが、私の好みである紅茶が切れていまして……あれがないと執筆に集中できない事があるのです。使いを店に向かわせて買ってきて欲しかったのですが、今は家屋の雨漏りの修理で忙しいようでしたので……折角だから気分転換に自力で歩いて茶葉を買ってきました」

「そっか。御苦労さん、阿求」

外に出ていた理由をしって、シンは納得する。稗田邸に入ったというのに阿求以外の人物が全く見当たらない。階層の無い平屋ではあるが、流石に名家である稗田の住居は広い。

恐らくは裏手の方に人は集中しているのだろうが、特にシンがいた所で問題はないと聞く。実質的に阿求が稗田家の皆を仕切る為、特に異論を唱える者はいないと聞く。

「特に大したおもてなしは出来ないかもしれませんが、ごゆるりとくつろいで下さいね」

「そんな、いいって。君だって時間がおしてるんだろ?」

「流石の私でも客人の前で背を向けるという、失礼な事は出来ませんよ……それよりも」

阿求は先程まで手にしていた買い物袋に手を入れて、中を探りだす。

目当てのものが手に触れたのか、顔を明るくさせて取り出したものをシンに差し出した。

「紅茶の淹れ方とは、どうやるのでしょうか?」

首をかしげて、阿求は袋に包まれた茶葉を突き付けてくる。シンは苦笑しつつも茶葉を受け取り、共に台所へと向かった。

 

 

「ああ~美味しかったです♪」

「あはは、そりゃどうも」

とても満足げに感想を口にした後で、阿求が湯呑を置いて一息つく。

「アスカさんって、お茶も入れれたのですね。いつも使いに任せていた私としては恥ずかしいです……」

「まあ、お湯を沸かすのに火を使うから阿求には危ないからね……別にどうってことないさ」

背が低く、台所の上に手が届かない阿求に任せる事は出来ない。その点は使いの人間も理解していたから阿求に教えなかったのだろう。シンの世界の様に電気ポット等の電化製品が無い為に、火を使ったクラシックな方法でしかお湯は沸かせない。

それ以降は対して苦労が無かったのが救いだ。ティーパックの様な便利なものは無いが、料理にある程度の腕と知識があるシンには造作も無かった。

「この“だーじりん”というのが私の好きなお茶なのですよ。この飲んだ時の控えめな甘さ…口の中に澄み渡る風味……抹茶や緑茶とは違う赤みを帯びた色といい……これが無いと幻想郷縁起は書けませんとも」

「そりゃまた……」

「私ももう少し大きければ一人でも淹れれるのですがね……アスカさんにもお返しをしたい所ですよ」

「気持ちだけ受け取っておくよ。流石にしょっちゅうここに寄る事は控えた方がいいしね」

「…それもそうですね。うふふ……」

茶の淹れた後の阿求は笑顔が絶えず、口調も先程より明るく柔らかい。

激務もあるのだろう、籠ってばかりの彼女にはささやかな楽しみが効果覿面のようだ。

「ところで、今日はお一人ですか?いつもの連れの方々はどうされたのですか?」

「あ…いや…」

「もしかして、お付き合いに問題でも?」

「だ、誰と誰が恋人同士だ!」

「私はお付き合いと言っただけなのですがね……フフフ」

要らぬ動揺を露呈してしまい、シンは頬を赤らめる。

その様子に阿求はさも満足そうに笑みを輝かせていた。

「小傘さんとはあれ以降どうされてます?やはり、お付き合いとは別なので?」

「付き合ってなんかないよ…朝だってたまたま一緒になっただけで―――」

「あ、朝?」

失言だった。誤解を招く発言をしてしまった事に激しく後悔するが、もう遅い。

「あぁ~成程…そこまでの仲に……うふふふっ」

「な、何その笑い?どういう意味?」

「さあ?どういう意味なのでしょう……ね?」

含み笑いを返されて、シンは冷や汗をかいてしまう。

ただの少女ではない事は既に理解しているが、年下と感じさせない彼女の見透かしたような物言いは少々好【この】めるものではない。

それでも、信用できる人間と知っているからこうして共に茶を飲む事が出来るのだが。

「雨、降ってきましたね」

外を見ると小雨だった外は夜と見紛うほど暗くなり、雨音が鳴り響いている。

雷はまだ出ていないが、落ちてもおかしくないほどだ。土砂降りの様に雨が際限なく降ってきている。

「この分だと雨漏りの修理は長引きそうですね…買いに行っててよかった」

阿求は再び湯呑を口に付けた後、心底幸せそうにそう零した。

自分達はこうして身体を温めている。しかし、阿求と出会う事がなければ温かい飲み物を口にする事は無かったであろう。

「あっ……」

そして漸く思い出した。

自分と共に里へ赴き、今尚自らとは別れた少女の存在を。

「…どうされたのです?」

「ゴメン、阿求。俺、そろそろいかないと」

目的がシンの中で呼び覚まされ、使命感から身体が立ちあがる。

「どちらへ、ですか?」

「外に……ちょっと探し“者”があるんだ」

「外は大雨ですよ……やんでからでもいいのでは?」

「うん…わかってる」

―――けど。

「今度こそ、ちゃんと話しあわなきゃ」

外を眺めたまま、シンはそう阿求に告げる。

「ごめん。今日は邪魔しちゃって…」

「では、お気をつけて。またいらしてくださいね」

「ありがと」

最後にそう言って、シンは外に出て雨の中を駆け始める。

残された阿求は湯呑を啜ったあとで、一つ吐露した。

「御若いですね……」

誰よりも幼い身である彼女は静寂とした部屋の中で、静かに喉を潤わせていた。

 

 

―――どこだ?どこに小傘はいる?

天からの水滴が地面にたたきつけられ、雨音が鳴り響く里の中でシンは走っていた。

纏っている赤服はすっかり雨の餌食となり、濡れ切ってしまい重くなっている。

いっそ脱いでしまった方がいいのかもしれない。そう思ってしまうが、わざわざ重い服を手持ちにするのも億劫なので控える。

無我夢中で何処かに落としても面倒だ。

「小傘ちゃん!どこだ!」

大声を発して彼女の返事を待つ。しかし返事は無い。

大雨はシャツを貫通して肌に染み込み始める。長い前髪が両目にかかり、視界の邪魔となる。鬱陶しい。

だが、自らの健康など気にしていられない。それよりも人間と同じ感覚をもつ小傘の方が心配だった。この里で体を冷やして困っていないか。自分が紅茶で身体を温めていた間に

芯まで冷えそうな雨で身体を、服を、濡らしていないか。

しかし彼の願いとは逆に、あの水色の少女は見当たらない。

「無理か…」

諦めが心に巣食い始める。幾ら唯一の里といっても、唯一だから広いのだ。

たった一人きりでは、一人の少女を見つける事も難しい。

「風邪、ひいてないかな」

妖怪も病気になると聞く。人間とは違って生半可な環境では体調を崩さないらしいが、疲れや身体へのダメージが蓄積すると分からない。

それだけは防ぎたい想いがある。しかし、辺りを見渡しても夜と見紛う程の暗闇が映るばかり。

それから数十分も走りまわっただろうか。

息も切れ、呼吸の音が変わり始めたシンは休憩の為に民家の屋根の影で座り込む。

いつの間にか路地裏に入り込んでしまった様だ。少ない光源が申し訳ない程度に地面を照らし、シンの身体も照らしつける。

―――あれ、ここは…

シンはこの場所に見覚えがあった。

あれは最初に阿求と会った後の頃だろうか、里に出没したから傘お化けを追っている時にこの景色を目にした記憶がある。

―――ああ、そっか。

そうだ。ここは小傘と初めて出会った場所だ。

シンは周りの違和感の正体に気付いて、薄っすらと口元を緩ませる。息も絶え絶えの中で走り続けた先に、ここへ辿りつくとは。偶然の巡りあわせにシンは感嘆する。

「…………」

そこで座り込んでいたら、雨音に混じって何かが聞こえた。

雨の激しく不規則な音とは異なる、一定のリズム。空気が流れては、雲散していく、微かな響き。

「……はぁっ…はぁっ…」

間違いない。近くに誰かがいる。

シンにはそれが目当ての存在かを確認する術は無い。しかし同様に雨宿りをしている者ならば可能性はある。一縷の望みにかけ、シンは音に接近した。

「はぁっ…はぁっ…………え…?」

「小傘ちゃん…」

音の源は、雨宿りなどしていなかった。

暗い空の下で手に収まる傘を掲げもせずに、ただ全身を雨に浸らせていた。

水色のベストとその下のシャツは肌に纏わりつき、髪とスカートからは水が滴っている。

シンの存在に気付いたのか彼女が静かに振り向いた時、翻【ひるがえ】る筈のスカートは翻らなかった。例外なく雨に濡れたせいで重くなっているからだ。

露になった表情は雨に叩きつけられ、水が小傘の表面を走り抜けている。

笑顔を絶やさず、眩しかった表情はほんのり上気して、肩で呼吸を繰り返していた。

反射的にシンは小傘に駆けより、すぐに手近の屋根下へ引きよせる。

雨宿りもせずに、自らを粗末にするなんて。

爆発するような想いが喉元まで湧き上がり、声と化して彼女に降りかかった。

「バカじゃないのか!?雨の中、あんな所にずっといたなんて…!」

「あ………でも…」

小傘はシンの胸を掴みながら俯く。

しかし、シンは彼女の答えが聞きたかった。

「風邪でもひいたらどうするんだよ!」

もはや頼みではなく願望をぶつける。

小傘が今どんな考えをしようがしていまいが、シンには分からない。分かる筈も無い。

だから、小傘には自分の言葉を聞いて欲しかった。

「シン………怖い…」

小傘は濡れた前髪の奥から、シンの顔を上目で覗く。

まるで、怯えきった子供の様な眼だ。

自分の態度がこの様な態度を抱かせてしまったのか。

シンは自分の突発的な行動を後悔して、短い深呼吸の後に小傘に諭す。

「おこってなんか、ないよ…」

シンはぶら下がっていた紫色の傘を持ち上げて、持ち主である彼女に問う。

「使っても…いいかな」

虚ろだった彼女の目に光が宿った様な気がした。

小傘は言葉を発さなかったものの、ゆっくりと首を縦に振る。肯定を表しているのだろう。

右手を柄に添えて、傘を開く。

すると、いつか見た紫の傘布が二人の上部に展開した。

傘布には化け傘の装飾が施されてあり、人間の該当部分を模した長い“舌”が垂れさがっている。この傘一番の特徴ではあるが、特に使用に問題は無い。

「使って…くれたね……」

小傘のか細い言葉が囁かれ、シンが振り向く。

シンが持つ取所には、いつの間にか小傘の細い手が添えられていて。

「シンは……私の事…嫌い?」

と、声を震わせて質問して来た。

「どうして、そう思うんだ」

思わず、質問に質問で返してしまう。

適当な返答が即座に思いつかなかったからだ。

「シン…怒ってたから」

あれほど笑顔が似合う彼女が、自分のせいで追い詰められてしまったのか。

そう考えると、心臓が握りつぶされそうな錯覚に陥る。首だって誰かに締められているみたいだ。

「私ね、一人でがんばったんだよ」

何が、とは聞かない。

“心”を得る為に一人で飛びだした後の事を示しているのだろうと察する。

「でも……ダメだった。だめ……だっ……た…」

今でさえ聞き取りづらい声が更に縮小される。傘の下で密着していなければ、全て聞きとる事は無理だ。小傘の言葉だけに全神経を集中し、そのほかの自然音を全て頭から閉め出す。

「わたし……色んな人に試したけどできなかった。驚かなくて、逆に驚かされて。“心”なんてこれっぽっちも手に入らなかった…」

濡れた掌に堪った微かな雨水を、シンの前に差し出してくる。

視覚的な例えだろう。

「わたしね……一つだけわかったんだ…」

「…なにを」

小傘の言葉を遮って、今すぐにでも様々な言葉を吐きだしたい。

でもシンには今の彼女に耐えられない言葉しか、自らの口から出てこない事は分かりきっていた。

だから、ただ聞く事だけに徹する。

小傘に言うのはまた後だ。

「私は妖怪だけど……シンと一緒に生きたいってはっきり分かったの」

「えっ……!?」

「一人で長生き出来ないのなら……私、シンと生きたいな…」

向けられた言葉と表情は、今までに目にした覚えがない程に柔らかく、輝いていた。

先が見えないほど暗く光が殆ど無い空間で、静かに形取られた少女の笑顔は儚く、可憐だった。

「そんなこと、言うなよ」

シンの心は揺れ動いていた。

異世界の存在である自分に、その様な思いを抱かれる事が苦しい。けれども、嬉しい。

大きな衝撃が身体に圧し掛かり、息が乱れ始める。

どうしようもなく目の前の少女を抱き締めたい想いが身体の中で暴れる。

―――何ともなかったのに、何で今日はこんなドックンドックン心臓うるさいんだよ。

今初めて、自らが小傘を一人の女として意識した事に気付いてしまった。

彼女の顔を直視することが出来なくなり、思わず顔を背けてしまう。雨で身体は冷え切っているというのに、身体の芯からは燃え盛りそうな想いがシンを焦がし尽くしてくる。

これが、恋をするという事なのだろうか。

「ダメ…なのかな」

笑顔が消え、再び消え入りそうな表情に戻る。

それを目にした途端、シンの中で哀情が雪崩れこんだ。

「あっ……ああ…」小傘

気付いていた時には、シンの両腕は小傘を包み込んでいた。

掲げていた傘は地面に落ち、遮る物が無くなった二人の顔に再び大量の雨が流れ落ちる。

「……これ、って……!」

小傘は状況を読みこめていなかった。突然の抱擁を受け、小傘の顔にも朱が彩り始める。

しかし、既に小傘の横を通り過ぎている彼の表情は、染まりきっていた。

だからこそ、彼女に悟られない為に強く抱きしめている訳だが。

「もう、何もいわないで…」

それだけを口に出した。

もう、小傘の愛らしい一語一句に彼自身が耐えきれなくなりそうだからだ。

でないと、今抱く力の加減も出来そうに無くなる。

「……うん」

その一言だけで、彼女も察した様だった。

シンと小傘の顔は互いに擦れ違っている為、表情を窺う事は出来ないが、お互いの言葉と態度だけで全てを理解し合う事が出来た。

「帰ろう、小傘」

「うん」

その言葉を最後に抱擁を解き、落ちた傘を拾い上げる。

一本しかない為に、二人は相傘で扱う他にない。

そこから先は、二人の間に言葉は無かった。

ただ、互いの心を満たしてくれる幸せで十分だった。

これ以上は、溢れる想いが沸き過ぎて再び密着しなければ収まらない。

それだと、帰る事が出来なくなってしまう。

水溜まりの上を、“五”つの足が通り抜ける。

今の二人を包むものは濡れた衣服の類では無く、互いを愛する強い想いだった。

 

 

「雨、やんだね」

「…そうだね」

傘の外へ手を伸ばす。

もう、傘を叩くものは無くなっていた。

暗雲の隙間から赤の光が差し込み、綺麗な夕焼けが二人を染め上げる。

冷えた後だからなのか、今感じるこの光はとてつもなく温かい。

「ねぇ」

「なに?」

「傘、そろそろしまおう?」

惚けていたのか、小傘にいわれるまで傘を二人で差しっ放しだった様だ。

彼女の指摘で初めて我に帰り、シンは傘を畳み込む。

「傘、返して?」

言われるままに、シンは小傘の傘を返す。

彼女の手に渡った途端、畳まれていた傘は再び彼女の手によって開かれた。

 

太陽を背にして、小傘の姿が目に入る。

差しこんだ光が髪に、服に、肌に反射して、シンの瞳に届けられる。

「可愛い…」

その時初めて、シンは素直に口から言葉が漏れた。

「ありがと、シン…大好き」

きっと、これから先。様々な苦難が二人に襲いかかるだろう。

人間と妖怪の壁。異世界の存在である自身の壁。男と女の壁。

それだけではない、まだまだ数える事も憚られる量の問題が未来を遮る筈だ。

でも、もう逃げない。

どんなに苦しくても、自分達なら望む未来へ進む事が出来る。

人と妖、混じり合う事の無い二つを乗り越える事も。

二つの想いは一つに重なり、溶け合う。

そして、二度と離れ離れになる事はなかった。