PLUS 椛編


「助けて、誰かぁ!」

妖怪の山の麓。秋に染め上げられた紅の森の中で、一人の少女が悲鳴を上げる。

彼女は里の子供だった。仲間内で里の外れまで歩いてこの地に寄り、かくれんぼ等の遊戯を行なっていた。この幻想郷は里の外には妖怪達が蔓延っており、里の大人は自らの子供に対して決まって言う事がある。

『里から離れすぎないように。上白沢先生の言葉や稗田様の縁起にも示されている様に、妖怪は危険なんだ』

里の子供は里を行きかう妖怪たちを目にすることに慣れている。そこから妖怪を軽視するようになるのは当然ともいえるだろう。近頃は妖怪側も人間達に友好的な態度を示すことが多くなり、異形の者がいたとしても暴れさえしなければ、他の人間と同じように里は対応する。

しかし、それは里の中でしか通用しない常識だったことを少女は知る。

まだ齢を十重ねたばかりの彼女は、森の中で一人の妖怪に追われていた。仲間ともはぐれてしまったのか、悲鳴を上げた所で返る応えは無く、木の根が這ってある走り慣れない地面の上を全力で駆け抜ける。

振り向かずに、限界まで視線を横に逸らして背後を見やる。

無数の目だった。ざっと数えた所で十匹は軽い。人間の目玉そのものに瞼を兼ねた黒い膜が覆う外見、その目の反対側には蝙蝠の様な羽が生えている。それはまさしく生理的に嫌悪感を抱ける代物だ。人間は見慣れないものを一方的に嫌悪を抱く習性がある。少女は寺子屋に通っており、妖怪に対する最低限の知識は得ているが、それは主に人間の姿を象った知性の高い妖怪だけだ。

幻想郷の妖怪の中には、未だ野性のまま、本能のままに活動する種もいる。そういった妖怪は、多くが人間を模した人型の姿をしておらず、不気味ともいえる異形の姿のまま今日を生きている。

少女を追うこの目玉の塊は、“邪視”と呼ばれる類のもので、最近では滅多に見られなくなった妖怪だ。一部の説では絶滅に追い込まれたのではないだろうかとも言われていたが、現にこの場にいるという事はまだこの世界から姿を消した訳では無い。

だが、彼らに対して確かに伝わる習性がある。それは、彼ら“邪視”はとても狂暴である事だ。取り分け、女子供の様な格下に取れる存在に対しては執拗に追い掛け回し、その身を食らうとされている。少女は妖怪の中でも最も厄介な存在に出会ってしまったのだ。

「あっ――――!」

助けのこないまま草木を掻き分ける中、少女の声から短い悲鳴が漏れる。そのまま少女は土の上に倒れてしまった。理由は簡単だ、逃げる事に身体を行使させ、疲労さえも無視してひたすらに森を駆けた結果、足下にあった木の根につま先をひっかけてしまったのだ。すぐに立ち上がって“邪視”から逃れようとするが、絡まった根が生んだ膝のケガが少女の痛覚を刺激する。転んだ際に擦り傷を負ったのだ。

「ひぃっ!」

恐怖の根源が、今どれくらい自分と距離があるかを確かめようと、少女は今まで走ってきた背後に視線を向けた途端、更なる恐怖を得てしまった。走り続けていれば、いつかは妖怪から逃れられる。そう思って距離を稼いでいた筈なのだが、巨大な目玉は既に少女の目と鼻の先でなめる様な視線をこちらに向けていたのだ。

その人間の一部を切り取ったグロテスクな外見のインパクトもあれば、妖怪に対する未知の恐怖も相まる。早朝からかくれんぼの鬼に抜擢され、すばしっこい皆を中々見つけられず、運が無いとは思っていたが、まさか妖怪に襲われるなんて。その幼さが表れている表情は、既に涙と洟【はな】で濡れ、いう事を聞かない身体は震えが止まらないが、それでも失禁しそうになるのを必死で堪えていた。

口も震えと過呼吸を繰り返し、もはや助けを叫ぶこともかなわない。人間、真の恐怖に見舞われた時は叫ぶ事も抵抗する事も出来ないものなのだ。それは、最早神経が一つの事柄以外に対して仕事を裂く事が出来ないことが原因だ。

“邪視”の目が光る。この妖怪が自分に対してどのような卑劣な真似を犯すかは少女には想像できなかったが、恐怖から様々な想像が背筋を冷やした。

こ、殺される―――――――!

少女が声にならない掠れた悲鳴を上げて、身体を守る様に腕と手で頭を包んでその場にしゃがみ込む。

それと同時に、周りを浮遊していた無数の妖怪が、一斉にその眼を妖しく光らせる。

「はああああああッ!」

その直後、果敢な勇叫が少女の耳に届いた。

それまで周りにいた目玉が一瞬で真一文字に切り裂かれ、その内部に詰まっているワタと鮮血をその場にぶちまける。自分が被害を被っていない事は安心できる現実ではあるが、妖怪が命を落とす―――即ち死亡し、その骸と血液が目の前を躍ったことに対して少女は眼を見開いて迎える。

何が起こったのか、そう言葉にするしかなかった。自分は生きている。無傷だ。対してあの目玉の群生は血塗れになってその鮮血をこちらの着物に振りまいた。だが、妖怪が死ぬ様子など微塵も見られなかった。一体何故このような事に?

その疑問はこの場に加えられた新たな存在によって解決した。白い髪、獣の尾。そして銀の煌めきを輝かせる巨大な刃。およそ人間には持ち得ようのないその反った刀は、妖怪の血肉を切り裂いたというのに一片も輝きを失わせていない。元から斬っていないと言われても、違和感がないほどだ。

その外見に少女の知恵が答えを導かせる。上白沢慧音先生が教えてくれた、妖怪の山を警備する存在。人間以上に厳戒な社会体制に籍を置いた彼らの種族は、名を“天狗”と聞く。その中でも少女の目の前にいる妖怪に見られる外見的特徴は、千里眼を持つとされる“白狼天狗”だった。

冷静に考えてみれば、千里眼と称される程の視覚と嗅覚を持つのならば、麓で大声を出す少女等、直ぐに察知できても不思議ではない。

「君、怪我は?」

白狼天狗がこちらに初めて顔を向けてきた。対して筋骨隆々とはしていないが、その纏まった身体と短い髪、手に収める巨刀から男とばかり思っていたが、紛れもなく相手は女だった。その声も高く、注意深く眺めると特有の身体の線が出ている。実年齢は人間と比べ物にならないが、外見だけを人間に換算すると精々十代半ばと言った所だろう。

「……はあっ…はあっ」

走っていた時の疲労が漸く現れたのか、少女は荒い息を吐いてばかりだった。それでも無反応を貫く訳にはいかなかったので、辛うじて首を縦に振る。身体上の異常が無い事を天狗に示すと、彼女は仏頂面のまま更なる言葉を紡ぐ。

「なら安心しました。随分と酷い有様だが、君が言うのなら間違いないでしょう」

敬語を交えた言葉に対して、少女は何も返せなかった。この天狗も里にいる妖怪と同じ人側であるが、ここは里の外で彼女は妖怪に違いないのだ。相手が妖怪を殺して安全を作った所で自分に一切の危害を加えない保証は何処にもない。先程の恐怖から過度の不振に陥っているが故の思考だ。

「……私は貴方に何も危害は加えません。ですが、何時までもここにいるとまた先程のような輩が現れても不思議じゃありません。君、私の腕を掴んで下さい」

千里眼が読心能力を持っているかどうかは判別できないが、天狗はこちらの心を言い当てながら腕を伸ばして来た。その手を振り払って、この場を再び駆ける事は容易い。が、走り続けたせいでもう仲間と再び合流できる場所の方角が何処か少女には分からなかった。少女は涙をこらえながら、天狗の言葉に耳を貸すことを選択する。

「きゃああっ!」

次の瞬間。天狗の身体が急激に上昇した。天狗は少女の身体を抱え、その身を空へと飛翔させたのだ。

「君を里近くまで運びます。それまでしっかり捕まってて!」

「きゃああああああっ!」

天狗はそう言うが、初体験が生み出す恐怖から少女はまたもや叫び声を響かせる。その声を遮るものが何もない空では、遠くまでその響きを届かせた。それはつまり、直下にいた少女の仲間達にも聞こえる事となる。

天狗が里に向かって飛び去ると同時に、少女の仲間も空から聞こえる声の方―――里の方へ足取りを向ける。彼らも見かけなくなった少女を探していたが、結局見つける術が無かったのだ。そんな彼らに上空の声は天からの幸運と例えてもいい。

銀髪の天狗は広がる青空の下、その手に泣き叫ぶ子供を抱えながら、里の景色が広がる地を見据えて風の様に空を駆け去っていった。

 

 

数分後。徒歩では長時間を要する道のりも、天狗にかかればほんの一時で終わる。

里の外に広がる、里と外を遮る壁面の傍で、天狗は少女の身体を優しく降ろした。

「里までくればもう大丈夫、ここからは一人で帰れますね。もう二度とあのような場所に子供一人で居てはいけませんよ」

白狼天狗は不変の表情のまま、少女の頭を一撫でして忠告する。その硬い態度から苛烈な人物とも想像していたが、その考えは却下の一途を辿った。

「それでは私は山に戻ります」

「あ、あのっ!」

少女は背中を向ける天狗を呼び止める。自らを助けてくれたこの天狗には感謝をしてもしきれない。けれども名前も知る事も、礼を告げることも出来ないまま別れるのは少女としては許しがたい。

「あ、ありがとう。天狗のおねえちゃん!名前、おしえてくれませんか?」

少女は頭を下げて感謝を示す。それに対して天狗は頬を微かに緩めて、名前を告げた。

「私の名前は犬走椛。ご覧の通りの天狗です」

そして再び天狗の椛は、少女に背中を向けて遥か上空に飛び去る。認識が遅れるぐらいの疾【はや】さだ。瞬間移動とも思えるそれは、先程まで自分もあのような移動をしていたのかと改めて思い知らされる。

「おーい!大丈夫ー!?」

その声は少女の仲間の声だった。必死にこちらへ向かってきたのか、誰もが例外なく荒い息だ。天狗が去ってからしばしの間佇んでいた事に、声をかけられて少女は気付いた。

「よかった…血とか服についてるけど、怪我は無いみたいだな。いきなり空からお前の声が聞こえたもんだから山の天狗に連れ去られたかと思ったよ」

「……ううん、天狗様はそんなんじゃないよ。たしかに怖い妖怪はいたけれど…」

少女はそう答えて、椛が去った空の方角を眺める。あの山で、彼女は住んでいるのだ。妖怪は危険と常日頃から言われていて抱いていた認識が、彼女のおかげで薄れていく。

「天狗様はね、優しい妖怪さんだったよ!」

少女は、満面の笑みで仲間に天狗の事を語った。自らを襲った不運、天狗の強さ、そして椛の優しさ。他の者が聞き飽きる程の熱弁を、少女は一心不乱に仲間達に語り続けていた。

 

 

「妖怪、白狼が天狗。犬走椛!」

「行くぞ、椛!」

「いざ、尋常に……!」

「「勝負!」」

 

 

双方の前口上が終わると共に、二人の大剣が生み出す金属音が河原で大きく響く。

人間、シン・アスカのその手にあるのは、河城にとりが復元した携帯対人直刀、“エクスカリバー”。白狼天狗、犬走椛には肉厚の鉄の塊である、柳葉刀が握られており、正面からの鍔迫り合いに持ち込まれる。

「うおおおおおっ!!」

溢れる高揚感と共にシンの叫びが辺りにこだまする。それを耳にするのは目の前の椛だけではない。シンの背後にはその大剣を製造した河城にとり、同じく椛には射命丸文が存在していた。彼女らは二人の戦いを目にしてにとりはシンを案じ、文はさも珍しいものを見る目で目の前の光景を一心に自前の手帳にメモを施している。

「せあッ!」

本来シン個人の腕力は椛達白狼天狗の一割分に到底値するか、しないかの瀬戸際なのであるが、にとりの作った剣によって不利なハンデをカバーしている。これは剣自体ににとりの霊力が注ぎ込まれており、妖怪特有の身体能力向上の効果を必要に応じて部分的に使用することにより、使用者の身体能力を引き出せるからこそである。

その仕組みを応用して“エクスカリバー”自体の重量軽減にも繋がっており、連結状態ではシンの身長をも軽く越す“アンビデクストラスフォーム”を彼が難なく扱っているのもにとりの技術あればこそだ。非情に興味深いエピソードではありそこにはにとりとシンの努力が発揮されているが、幻想郷で使われている一部の技術は現代科学とは明らかにかけ離れたオーバーテクノロジーの一節であることは間違いなく、説明した所でとても困惑しかねないのでこの場での詳しい解説は割愛しよう。

対する椛もその細い肢体に似合わず、幅広の刀を軽々と振り回す。三度、四度、搦め手が一切含まれていない正面からのぶつかり合いに、椛は愚直に対応する。

それは、彼とのこの戦いを心から待ちわびていたからだ。普遍の表情が常の椛は、同僚にもつまらない奴と揶揄されることは少なくないが、感受性は他の妖怪とも人間とも何一つ変わらない。

あの夜―――

シンが幻想郷に来て間もない頃。

文とはたてと共ににとりの作業場を襲撃した日、椛はシンとの再戦を誓った。

それから命蓮寺での再会、シンがこの世界に残ることを決めた日を経て、漸く心置きなく剣を交えるこの日がやって来た。

この事に心躍らぬ者がいるだろうか?妖怪の持つ永い時の中でも、嘗てここまでの心の昂ぶりを椛は感じたことがない。文字に表すのならば、今椛が得ている感情は、興奮、喜び、期待、そんな言葉だけではとても言い表せないもっと野性的な―――妖怪が理性すら持たない時代、即ち獣の時に戻ったかのような芯からの高揚感が今の彼女を包んでいる。

「そうだ―――貴方とこれがやりたかった!」

尻尾を振るい、獣耳を立たせて、ごくごく自然と口元をニヤリとさせた。重厚な鋼のもたらす金属音がシンを襲う。

正面からの唐竹割り。だが“エクスカリバー”は刀身で受け止めた。ならば己の左腕をシンに伸ばす。

「それなら!」

脊髄反射だけでシンは反応した。椛の拳をシンは右手で止めた。が、加減しているとはいえ今度は刀身ではなく肉体で妖怪の力を受け止めたことになる。すぐにシンはくぐもった声を上げて体制を崩し、転倒。それはこの世界では当然の光景。人と妖に立ちはだかる絶対的な差。

今のこのチャンスを、椛が逃すなどあり得なかった。

「一刀……両断!」

一切の曲がりが無い、彼女の性根をそのまま表したかのような唐竹割り。受け身を取っていない左手に得物を持ち替えて、シンは剣線に“エクスカリバー”を構える。

「―――ぐっ!」

しかし無理だった。構造的に十分な耐久を保証されているにとりの武器でも限界がある。見事なまでの一撃に、淀みない断面を外界に露呈させながら、“エクスカリバー”はその刀身を真っ二つにされる。その直後に椛の刀がシンの目先に添えられた。

「……………王手です」

その声は落ち着いたトーンではあったが、従来の戦いには決してなかったものが秘められている。

それは荒い吐息だ。シンとの戦いは久々になるが彼女の真面目な性分からして、日々の鍛錬を怠っていることはまずあり得ない。シンが疲弊しているのは当然だが、彼女もここまで消耗しているのはそれだけ二人の戦いが激しいものであった事に他ならないだろう。これまで椛は相手が人間だという理由で多少なりとも加減することを心がけていたが、彼だけにはその箍【たが】を外すことに決めていた。

この真剣勝負のきっかけも、元はといえば椛の意思なのだ。

「はーい、そこまで~!」

「あ、ああ……ああもう!」

雌雄が決し、後方で見物していた天狗の射命丸文が明るすぎるくらいの快活な声を満面の笑みとともに周囲に撒く。

それに対して彼女の隣にいる河城にとりは、眉間にシワを寄せて悔しげに喚いた。一様に眺めれば二人は対極の態度をとっていた。

「お疲れ様、椛。打倒シン・アスカさんについに終止符を打てましたね!」

「……別に文、貴方の記事のネタになるつもりで剣を振るったつもりは微塵もないのですが」

「あ、バレてましたか。さすがは白狼。その嗅覚は伊達ではないようですね」

二眼レフカメラを片手に持ち、日本晴れのうっとおしいぐらいに照りつける太陽のような営業スマイルを椛にむけながら労う文。それを椛は無愛想に対応することで流す。

「おい、大丈夫かシン!?怪我とかしてないか?」

「いつつ……ああ、直接切りつけられたりとかはしてないから大丈夫だよ。にしても……」

あくまでこの戦いは真剣勝負と称しつつも、スポーツと同じように健全な運動と同義だ。この世界では“弾幕ごっこ”と呼ばれる遊びが流行ってはいるが、この世界の住民でなく、弾幕のもととなる霊力を自力で生成できないシンには彼女たちと同じ土俵で戦うことが出来ない。

しかし、幻想郷が“幻想郷”として元の世界と別れる前の大元の国、日本ならば人間の四肢を用いた神聖な戦いが存在する。

剣戟である。

シンの世界でも未だ人間は剣や槍などの原始的武器のイメージを捨てきれていない。銃が人間同士の殺し合いに台頭していてもだ。モビルスーツの武器として人間の古来から伝わる武器を模したり、スポーツや競技と称して人は飽く事無く戦い続ける。

その認識は恐らくどこの世界でも人間がいる限り変わることがない。椛とシンは共通する真剣勝負の方法を探した結果、互いの獲物を用いての勝負を選んだのだ。多少のハンデは個人の個性としても、補助があるとはいえこの世界で妖怪とこれだけ肉薄できるのは後にも先にもシン・アスカだけと博麗の巫女、博麗霊夢は言う。

実際この戦いではシンは負けているが、それでも白狼天狗の上位に当たる腕前を持つ彼女に匹敵する人間は彼ぐらいだろう。

「さてにとりさん?この戦いの条件……忘れたわけじゃありませんよね……!」

文は嫌味たっぷりに目と、口と、顔全体が物語る凶悪な笑みを浮かべてにとりに対して言い放つ。その身長差のある二人の様子は、小さい子供を虐める年上の女という構図にも例えれる。

「うっ…!わかってるよ、そんなにしたければ、好きにすればいいんじゃないか!」

腹を決めたのか、にとりはその場で不貞腐れたように座り込み不機嫌な顔を表す。

その戦いには当人たちの知らない所で決められた口約束が存在していた。二人が知らないのも当然だ。シンと椛が剣を交わせていた途中で文が唐突に持ちかけたのだから。

その内容とは―――

「それじゃシンさんは頂いていきますねーーー!」

「ええっ!?どういうことだよいったい―――って、おわあああ!!!」

シンが勝てば文の知るコネクションを用いての作業場の支援。椛が勝てばシンそのものを頂いていくという条件だったのだ。

にとりは以前のようにシンが勝つと信じて疑わなかった。その代償がこれだと現にシンが空の彼方に攫われている様子を、にとりは慌てふためいて眺める。

いや、眺めている場合ではない。条件通りとはいえ有用な彼を自らの手元から離す訳にはいかない。にとりは歯がゆい気分になりながらも、シンの後を追うように飛翔しようと跳ぶが。

「そうには行きません。河城にとり」

「…っ、なんで!」

自分と文のやり取りは、椛とシンには聞こえていないはずだ。二人は目の前に集中していて、文は小声で話していたのだから。いや、それは自分たちのように凡庸な聴覚しか持たない自分たちの感覚であって―――

「私は白狼天狗です。私の聴覚はあなた達からすれば地獄耳の様なモノ。約束は守って頂きます」

「知っていながらお前はアイツの算段に乗っていたのか!?」

「ええ、左様です。彼とは今回だけで終わる気はないですから」

そう言い、椛はにとりの浮いた身体を軽く踏んで地面に戻す。そのまま反動で飛んだ椛は、妖怪の山へと向かう文とシンの後を追った。

「シーーーーン!!」

地面からの虚しい声が山の麓の森をつんざく。だが、風の疾さで空へと飛ばされたシンには、既にその声が届くことはなかった。

 

 

「ふう!今日も風が気持ちいいですね!」

手に連れていたシンごと山のなだらかな土地に翼を降ろして、文は一言言う。

後から付いてきた椛も、文の追いつけないスピードから数分のラグを生みつつも彼女の近くに足を着けた。

「さあシンさん着きましたよ!ようこそ私達の山へ!今日からはたっぷり私達に付き合ってもらって、最速の世界を堪能してもらいます……って、アレ?」

文が口早に捲し立てる中、対する彼は無反応だった。あれほど飛び初めは喚き散らしていたというのに。

「文、シンは気を失っています」

「おおっと、これは失敬」

急上昇、急降下。航空力学に基づくこれほどの機動をモビルスーツパイロットは当然のように経験する。

だが生身で。しかもモビルスーツに搭載されているショックアブゾーバーの一切ない環境でそれを受ければ、不慣れな人間は気を失うことも珍しくない。中には気分を悪くして吐瀉物を撒き散らすケースもあるが、あいにく文の速さは尋常ではなく、シンが気を失うスピードも並ではなかった。

幸いにも息はしており、彼の身体のどこにも異常は見られなかったことに椛はその膨らんだ胸をなでおろした。

「起きてください…よっ!」

近くの滝から冷たい水をいつの間にか組み終えた文が無抵抗のシンにぶっかける。季節はこれから北風が吹き込む時期であり、池の水もそれ相応だったのだろう。シンは即座に目を覚まし、土の上で喚いた。

「うっぷ、ゲホッゲホッ…!な、何なんだよこれは!って、ここどこだよ!?」

「はーい、ようこそ私達の山へ!お相手は最速の新聞記者娘こと射命丸文と、可愛い!無敵!クール!の白狼天狗、犬走椛でーす!」

「うるさいな!!」

「そんな肩書きいりません……」

文の媚びた紹介に苛立ちながら、シンは呆れる他にない。椛の方も相変わらずのふざけた先輩の天狗に対して右に同じだった。

「俺をこんな所に連れ出して、一体何をする気だよっ!」

「無論、ナニをするに決まっている」

どこぞのブシ仮面のような口調と声色を出しながら、椛は上半身を起こしたままでいるシンの身体に這い寄った。

「ほれほれ~こういうことをされると嬉しいんでしょ?」

水で濡れて冷えた身体に、文の身体が密着してきた。人と変わらぬその体温に、一抹の落ち着きを得ながらも、その自らを襲う異常に対してシンの心拍数は急上昇を免れない。

「や、やめろ!なにするんだよはなせ!」

「ふふん。ここをこんなかんじにほぐしてあげると……ほらほらシンさん?ボディが甘いぜ!」

「へ、変なとこ触るな!服の中に手を入れてくすぐるな!」

「ホントは嬉しいんでしょ、この色男!きっと外の世界でもこの可愛らしいお顔で沢山の女の子をたぶらかしたんでしょ~?」

「俺はやってない!変なやつなんかと一緒にするな!」

「ならば、私と椛さんとイケナイ太陽のもとで危ないことしちゃいましょう!」

「いいではないか~いいではないか~」

「よくない!」

「ふっふっふ。辺りに誰もいませんし、これから三人で盛り上がっていくのも悪くないですね~あ、盛り上がるのは私達じゃなくてシンさんの…」

「それ以上言うな!」

「さあ!情熱と快楽の思い出を、私達でつくっちゃいましょー!」

「や、やめろおおおおお!」

文はカメラを投げ捨て、両手でズボンを剥ぎ取ろうとする。シンの絶叫が辺りにこだました刹那―――

シンの下腹部に馬乗りをし、ハイテンションの渦中にあった文の身体が唐突に前かがみに倒れた。

その背後には頬を膨らませた椛の姿がある。その手に携えられていたのは、シンとの戦いに用いられた柳葉刀だ。

「いい加減にしてください、文。それ以上の不埒な真似をするなら、貴方を後ろから斬る」

「椛、既に斬ってるよ…」

「安心してください、シン。峰打ちです」

確かに文の頭に直撃した刀には血が付いておらず、傷も精々打撲によるたんこぶぐらいのものだが。

「そんな刀で叩かれたら普通の人間は死ぬぞ…」

「大丈夫です、彼女は妖怪ですから」

「その通りです」

椛の言葉に同意するタイミングを見計らったの如く、文は平然と立ち上がった。その評定には一片の曇りがない。

「確かに人間じゃないな……うん」

「まま、過ぎた冗談はこれぐらいにして」

「あれ冗談かよ!?悪質すぎるよ!」

「シンさんには、私達にしばし付き合って頂きます」

「お前たちと?」

「ええ、偶然にも私と椛はちょっとした休暇中なので」

シンの手を取り、文は崖の上に踊り出る。そしてシンの方へ顔だけで振り向き、作業場の時と変わらない満面の子供の様な笑みで言い切った。

「私達の世界、幻想郷の住民のみんなに突撃取材と洒落こみましょう!」

次の瞬間、シンと文と椛は再び飛んだ。

 

 

「ということで、貴方も手を貸しなさい、はたて」

「なんで勤務中の私がそんなことに付き合わなくちゃいけない!?」

妖怪の山の周囲を飛んで、文らは姫海棠はたてが務めている警備空域へと踏み寄る。

本来シンの存在は厳戒態勢にある山の警備状況からは好ましくないのだが、文の存在はそれだけで確かな身分証明になるらしく、ここまででシンに対しては椛いわく不問となっている。

『見て見ぬふりってやつですよ、面倒事は誰だって避けたいものです』

曰く、文の言う通りらしい。

山の斜面を浮遊していた今のはたては常日頃の記者活動を行う時のブラウス&チェックスカート姿ではない。

椛ほどではないが細身の刀を携え、紫の山伏帽子、飛行するときのデッドウエイトにならないためなのか軽量化加工が施された白の和服。辺りを飛ぶ他の天狗達も、はたてと同じ服装をしていることから制服の類であるのだろう。天狗はその

“個”より“群”であることを何よりも優先する社会体制である以上、各々の天狗はある程度の勤務を必要とされる。

射命丸文のように破格の実力者ならばそれが免除される場合も存在するが、天狗全体に比べればやや力の劣りがある椛や、つい近日まで閉じこもり気味だったはたては一番の下っ端等に比べれば待遇は良いものの、山のパトロールを命じられる。今日に限っては偶然にも彼女の勤務時間中に遭遇したらしく、はたては刺々しく文の訪問に吠え出した。

「いやだから、せっかくだからあんたも誘って幻想郷を飛ぼうと言ってるんですよ。今日から彼も華々しく記者デビューしようというのに、貴方は彼の門出を祝ってあげないのですかい?」

「なんで俺が記者だよ!?お前が勝手に決めただけだろ……!」

「ま、まあまあシン、落ち着いてください。いざという時は私が抗議しますから」

人間と同じ赤い舌を出して「てへっ♪」と言う文。その謝る気がさらさらないことを隠しもしないその態度にシンの頭は煮えたぎりそうになるが、胴に腕を回して椛がシンを説得する。

「……わかったよ。椛がそう言うんなら。ったく」

「ご理解いただき、感謝します。射命丸文にはこの一連の顛末の後で釘を差しておきますので」

「いいよ、そこまでしてくれなくっても。どうせアイツは聞きもしないだろうからさ」

「ムッ、そこはかとなく私の評価がダダさがりな気がしますね。それは聞き捨てなりませんって!」

「いいからさっさと失せなさいよ、このパパラッチ予備軍!」

「……この仕事をしているとやたらひんしゅくを買いますね。慣れてはいますが、ちょっと残念かも」

本人以外の全員から痛烈な非難を浴びていれば、さすがの営業スマイルが大得意な文でも顔色を悪くした。

「いーですよ、いーですよ。そこまで私のことを最低野郎呼ばわりするなら好きにすればいいじゃないですか。そのかわり……」

「…?なによ文、そんなに今にも笑い出しそうな顔して」

にんまりした彼女の怪しい表情に不吉を感じたはたてが怪訝な顔で返す。シンも椛も彼女ら二人の表情を見て確信した。

ああ、はたての悪い予感はあたっているな―――と。

「これ、おとといの取材勝負の時に見つけたモノですが」

「あ!」

文のブラウスにある胸ポケットの奥から取り出された代物を見て、それまで嫌悪感という言葉を形にしていたはたては一瞬にして目を見開き、戸惑いを露わにした。

文の手に握られていたのはチェック柄のデコレーションが派手なカメラ付き携帯電話だった。それにシンは見覚えがある。嘗てこの天狗三人と敵対した時にはたてが肌身離さず持ち合わせていた物だ。シンの元の世界の携帯端末の性能と比べればその性能の差に雲泥の差があるが、この前時代的な世界ではこの程度の精密機械を製作することも困難だろう。しかし、運用ができるのは麓の河童たちが持つ技術の賜でありはたてもそれを知っての上で定期的なメンテナンスを彼女たちに頼んでいると聞く。

「最近失くしたかなと思って焦ってたら、結局アンタの仕業だったのね文!」

「おやおや聞き捨てなりませんね~私はただ親切から困っている人を想って拾ってあげただけです」

「白々しい!」

ライバル記者の道具に対して全くの無関心などあり得ない。記者として自身の行動力が武器になるのは当然の理であるが、その成果を表すカメラは不可欠な相棒だ。言い換えれば記者としての力の内、カメラはその半分以上を占めていることとなる。

その記者人生の命にも等しいカメラを紛失するはたてにも非があるが、それをよりによって商売敵の文の手にあるとは。性根は決して腐った妖怪ではないが、子供の悪戯じみた悪巧みを考えるのが好きな彼女の性格からして全くの無条件で返してくれることなどあり得ない。

「いいですよ別に、返しても。でもせっかくだから私達三人と行動を共にして欲しいですね~せめてもの礼のとして」

「文が言うセリフ!?それ!」

「じゃあこの話はなかったことに……このカメラは適当に麓の河童さんにでもプレゼントしておきましょうかね」

「それは絶対ダメ!河童に預けっぱなしにしてたら絶対分解される!」

「お……鬼だ……」

「残念ながらシンさん?私は天狗です。それ以上でもそれ以下でもない」

最早交渉ではなく脅迫ではないだろうか。

「ええい、分かった!分かったわよ!いいです、行きます、アンタ達の後ろについてるだけで私の商売道具返してくれるなら安いもんだわ!」

「理解が早くて助かります」

文ははたての同意に対して、首を縦に振りながら笑みを零した。

「でもいいのか?天狗の仕事を放っておいて?」

「今度天魔様にお叱りを受けるかもしれないけど、生憎私は普段から真面目にこなしている方よ、心配ないわ。…多分」

シンの疑問にはたてが冷や汗を掻く。文の言葉に当然難色を示しているシン。当然椛もこういう卑怯な真似を好むことはないだろう。だが、シンは彼女に対して抵抗できるすべを持っておらず、椛は文に否定もしなければ肯定もしなかった。それこそがシンにとってまた疑問ではあるのだが、この場で問うたとしても文がいる前で椛は答えてくれるかどうか。

「さあ、このパーティーで新たなニュースを探しに行きまっしょー!射命丸文、姫海棠はたて、目標へ飛翔しまっす!」

「そんなノリノリで飛ばなくていい!ああもう、今日は厄日だわ!!」

はたての腕を握って文が先導し、椛がシンと共に空へ飛んで後を追う。今までに例のない集団でのお騒がせ取材の一日が幕を開けた。

 

 

「さあ、始まりました!我ら新生突撃取材チームによる初の実践、初の男性新メンバーとなるシン・アスカさんを連れて、新しいニュースを求めていきたいと思います」

「こんなところに無理矢理連れてきてよく言うよ……ったく」

光が殆ど届かない洞窟の中で、小声を保ちつつ文がマイク(の形をした外の世界のおもちゃである。本人曰く香霖堂で見つけたらしい)に声を吹き込みながら実況さながらに現状を口にしていく。それに強制的に連れられたシンは頬をふくらませて不平を隠しもせずに言い放つ。

シンがこの洞窟に来るのはその実、初めてではなかった。この幻想郷に訪れて間もない頃、愛機“デスティニー”の動力源の修復の為に地底界へと機体ごと足を運んだことがある。既にシンの機体は失っているが、この場に足を踏み入れるのはその時以来だった。

「素人目から言わせてもらうけど、こんな所にスクープだのなんだのあるのかよ?」

シンは軍人だ。マスメディアからシンの戦場が話題になることは少なくなかれど、彼自身はどちらかと言うと話題の中心にされる方であり、話題を探す立場になったことはない。プラントを中心に行われるはずだった嘗ての政策における中心的人物の立場であったシンは自分も知らないまま人類の守り手となる偶像にされていたが、その周りを飛び交う者、つまりジャーナリストの立場など知ったことではなかった。

「ふふん、シンさんはこの世界の住民としてまだまだなっていませんね。ここは妖怪の世界ですよ?人間なら到底住みそうにない環境でも、妖怪となると話は別です。どんなに過酷なところでも、どんなに孤独なところでも、当人が気に入っていたらそこに躊躇いなく住むのが妖怪というものです。今から私達が向かおうとしている場所も、その場所を気に入っている者に取材したいからこそなのですよ」

自信たっぷりに文はふんぞり返りながらシンに言い切る。

「けど文?巫女の地底の一件以降、私達も地上と地底をある程度行き来することは自由になったけど、こんな辺境の場所まで来て一体誰を取材するっていうのよ?サトリとか鬼なんてゴメンだわ。前者は話が通じないし、後者は私達の上司より立場が上だもの」

後を付いてきていた、普段着に着替え直しているはたてが文に刺々しい物言いで釘を刺す。

「その点は心配ありませんよ皆の衆」

その非難に対しても、文は顔色一つ変えずに自分以外の三人に向き直り雄山たる笑みのまま言う。

「これから私達の取材を受ける御仁は、そのどれでもありませんから」

 

 

地獄の深道。

幻想郷と地底界を繋ぐ大穴には、そう呼ばれる空間が存在する。

名の一部に地獄と称されるのは、嘗て地底界の旧都が地獄の一部から由来しているからである。罪人の行き着く地とされている地底界は当然、生者からは見向きもされない負の世界。その場所に本来無関係の者が侵入することは世界における禁忌とされており、無意識に恐怖を呼び込んで侵入者を作らないためにこのような仰々しい名前にされているのだと、文は皆に説明した。

穴に入り始めた頃は、洞窟然とした景色ばかりが並び湿気が充満した暗闇の世界が続くばかりであるが、地底界の深部に近づくに連れ、その世界は一変する。前回はモビルスーツの推力に任せて突破していた為にその道中を頭に入れる暇はとてもなかった。だが、彼女たちと一緒に身長に地下に降りていくと共にその移り変わりにシンと彼の身体を抱える椛は息を呑んだ。

「綺麗……」

決して狭くはない空洞を抜けると、そこには夜空が広がる世界が視界を埋めた。それに椛は感嘆から一言言葉を漏らした。星ではない光が満点の空を形作り、木々が地上の至るところで揺れている。あの柔らかな薄いピンクが目立つ種類の木は桜だ。主に日本を中心に分布している伝統ある植物。しかし今は秋だ。地底では季節さえも地上と違うというのだろうか。核融合によるエネルギーを利用して光を得ているこの条理が覆っている地底では、シンは勿論地上の住民の持つ一切の常識が通用しないことは、既に明白だった。しかし初見でこの景色に心を奪われない者はまずいないだろう。

「さあさ、景色に見とれるのはよろしいですが一旦地面に降りますよ皆さん」

対して、椛とはたてはこの景色に無関心だった。理由は簡単。彼女達はこの景色を飽きるほど見たからと言う。一般的な天狗たちと異なり、山に縛られない存在である記者のこの二人は、幻想郷から向かうことの出来る景色を見尽くしたと自称する。多種多様な人物に足を運ぶ必要性がある以上、人間と比べて長い時間を生きている二人は既にありとあらゆる景色をその目に焼き付かせているのだろう。それこそ、飽きるほどに。

黄色い土が広がる地面に、彼らは足を下ろす。その目の前に広がるのは地上から垂れている水が流れていく巨大な運河だった。さらなる地底に水を送り込むための水路。その対面側へ渡れるように木造の橋がポツンと掛かっている。

「なんでこんな所に橋が……?」

自分たち以外には誰もこの場に存在している様子がない。更にはこの場に来れる筈の者は、文達のように飛翔を有している者だけであろう。これより先の地底にはこの橋の対面にある穴に再び降下していく必要があり、この橋を渡る必要性は決してない。

「さて、ここからは新人のシンさんに取材をお願いしましょうかね。はい、私のカメラ」

「なんで俺なんだよ!?」

「にとりさんから預かったその身といえど、私の下についたからには有効な働きをしてもらいます。天狗の上下関係は絶対なんですよ?」

「俺は天狗じゃないだろ!?」

「だったらいいんですよ、ここに置いてけぼりでも。どうせ下にも上にも行く事ができずにここのお姫様に狙われることになりそうですが」

文は無責任なことばかりを口に出すが、その合間にある聞きなれないワードにシンは反応した。

「……姫?こんな所に姫がいるのか?」

カッとなっていた感情を冷やし、怪訝な表情でシンは文に問う。

「おっ、いいところに気が付きましたね。そうです、今回私達のターゲットはここに住んでいる“橋姫”の妖怪です」

「橋姫?」

「まあ昔話の一つになるんですがね、シンさん。古来より橋姫は橋を伝って向かってくる外敵を追い払う守護神的な存在なのです。この橋に近づきさえしなければそのお方に狙われることはないのですが、生憎今回はその橋姫様に御用があるのですよ」

「姫って言うには、身分が高かったりするのか?」

「いえいえ、そんなイメージを抱いていたら大間違いです。橋姫は怨念とも鬼の生まれ変わりとも言われていて、あらゆる者に嫉妬を抱いて敵視すると聞いています。世界に存在する嫉妬を糧として生きているとも言われおり、そこから得ている力は妖怪の中でも群を抜いているんだとか」

「そんなヤツの中に俺を放り込むつもりかよ!?」

只者でないことはよく分かった。が、聞いていて分かったことは橋姫なるものが危険人物であることだろう。これではそのものに近付くことは自殺行為と変わらないではないか。

「なあに、マズくなったら全力で貴方を拾って逃げますし、ボディーガードに椛さんをつけますから問題ありません。私達も後ろから見張っていますので、何かあったらすぐどうにかしますよ」

いけしゃあしゃあと満面の笑みで返された。こんな男がいたら自分は一発殴っていたかもしれないなと、シンは痛感した。残念ながらこの少女は人間の何倍もの力を持っており、感情のままに拳を繰り出したとしても真を捉えることは叶いそうにないが。

 

逃げ場もなく、断ることも出来ないシンは文から予備の手帳を受け取って椛とともに橋の上に立つ。椛の実力は信頼できるが、それでも身の回りを付き纏う不安を晴らす材料には成り得ない。その橋姫がどれほどの異形な人物なのか、はたまた既に人の形をしていないのか。橋姫にまつわる情報は文しか持っていないために、これ以上の情報は得ることが出来なかった。

いや、もしかしたら文はわざと情報を絞って自分たちが焦る所を見物したいのかもしれない。もしそうだとしたら怒鳴り散らしてやりたい思いだったが―――

『シン、安心してください。貴方だけは私が命をかけて守ります……絶対に』

橋に向かう直前に椛からの頼もしい言葉を耳にして、彼は大人しく彼女とともに取材に向かう決意をしたのだ。

どこの輩かしら?誰もが足を踏み入れたがらないこの場所にいる愚かな者は―――

頭に響く声が橋の上に立つ二人を貫いた。

鳥肌が服の下で立ち、それまで抱いていた不安が恐怖を生む。今いる空間の全ての方向から声が聞こえてきた気がして、声の主のいる場所を特定できない。

落ち着け。シンは自分にそう言い聞かせて冷静を装おうと務める。手に汗を握り、歯を強く噛む。まるで空間そのものが妖怪になったかのような不気味な雰囲気の中で、シンは自身の無力を橋姫とやらに悟られないように全力を注ぐ。

この場で一番頼りになるのは椛ただ一人だけだった。絶大な信頼を寄せてシンは彼女を横目で見やる。彼女は既に頭の両耳を立て、その右手は既に柳葉刀の柄を握りしめていた。シンには理解できない相手の位置を彼女は探ろうとしているのか。

今のこの橋に残ったのは、絶望と言う名の嫉妬。その橋の上に二人足並み揃えている様を見せられているのは我慢ならないわね―――

「……!シン、橋の下です!」

言われてすぐに橋の柵に寄って河をみやる。水の底がとても深い事を表しているそのほの暗さに、シンの背筋は凍る。この水面に落ちてしまったが最後、通常の人間ならばどうなってしまうかは用意に想像できる。例えいくら泳ぎが得意な者でもこの河に入ってはならないと直感が告げている。おそらくは一般的な水とここの水は異なるのではないのかと推測した。

その水面の上に一人の女が立っている。

水面の上に人型が立っている時点であり得ないはずの光景だが、現に起こっていることは受け入れる他にない。鋭く尖った耳、短く揃えられた淡い金髪。茶色のペルシアンドレスを纏ったその背中は次第にこちらへと向きを変えてその顔をこちらに露わにした。

声からも分かっていたが、女だ。磨き上げられたエメラルドのような大きな瞳がこの薄闇の中で光り輝き、まっすぐにこちらを見据えている。妖しい瞳だった。見ていればその輝きに手を伸ばしてしまいそうな程。それにふさわしいだけの美貌を彼女は持ちあわせていたが、その顔は決して明るいものではなかった。むしろ鬱屈しており、見ているだけで引け目を負えるぐらいの代物だった。

「何奴!?」

橋の上で椛が相手に向けて刀の切っ先を向ける。その顔は既に敵意を孕んでいた。推測だが、あの声は彼女がもたらしたものだろう。そして、この鬱陶しい不安は椛に対しても有効だったようだ。だからこそ心の中を悟られまいと敵意を向けているのか。この場に勝手に踏み込んだのは自分達だが、相手が向かってくるのならば椛も対応せねばならない。既に武器を抜いているのはあるまじき行為だが、先程の相手の行為で既に椛の汗腺も雫を許している。彼女も恐怖を抱いた以上、それほど敵視に値する程の相手ということか。

「そこまで警戒しなくてもいいわよ。まだ何もしないから」

再び女の声が二人を襲った。が、今度は空間から発せられたものではない。

声の発生源はすぐ近くだった。

二人が同時に橋の中心に目を向ける。水面にいたはずの女は瞬間的に姿を移し、こちらを見据えていた。既に姿が割れた以上、その口で声を伝えようと判断したのか。

「アンタが橋姫なのか?」

「いきなりアンタ呼ばわりとは随分な言い方ね人間。そのとおり私は橋姫。けど、それが私の名前ではない。私の名前は水橋パルスィ。この橋にとどまっている妖怪に過ぎないわ」

口調は女らしくも普通だが、トーンが明るくない。そのつまらなそうにしている相手を見下した視線は、どこか怒りを孕んでいる。文のいう言葉が本当ならば、相手の神経は自分達とまるで違うらしい。常に嫉妬を持って相手を見ていると聞いたが、この女は一体どういった人物なのか。

「面白いわね、この地に私以外の者が現れるなんて。けど、一人ならばともかく誰かと揃って孤独な私の前に現れるなんて……嫉妬してしまうわ」

吊り上がった瞳はこちらへと変わらぬまま、パルスィと名乗る橋姫は言った。

確かに文字通り嫉妬深い性格のようだが、自分達は不本意でこの場に来たのだ。彼女に襲われる筋合いなどない。シンは早々に弁解しようと一歩歩み寄る。

「ああ…いきなり不躾に聞いたのは悪かったよ、ゴメン。けど、俺達はアンタに話を聞きたくてここに来たんだ。よければ少し時間をくれないか?」

「時間なんていくらでもくれてやるわ、私の退屈を満たしてくれればそれで」

「…シン、下がって!」

椛の注意と同時に橋姫の手から光が奔った。瞬時にシンの目の前に椛が立ち、シンに放たれた光の奔流を弾き返す。

何が起こったのかよく分からない。けれども、橋姫が自分達に友好的ではないことはよく理解できた。

「そうやって他人に想いやられる存在……妬ましいわね。わざわざ私を小馬鹿にしにここに来たの?ならば私の退屈しのぎに付き合う必要が有るわね!」

話が通じない相手とはこのような者を指すのではないか。シンは内心でそう判断した。文に言われるままにこの場に来たが、流石に相手が悪すぎるとしか言いようがない。元よりこの世界の住民は喧嘩っ早い気があるが、話の一つも聞いてもらえないとは。これでは取材どころではない。

「男女揃って私の目の前に立つなんて気に入らない……その行為、万死に値するわよ」

「なにを勝手に!」

橋姫の光を用いた攻撃に椛は辛苦する。これ以上の長居は橋姫を刺激することに変わりない。

「文、はたて、地上に戻るぞ!椛も!」

後方に控えている彼女達に呼びかけて橋から遠ざかる。すぐに天狗二人が現れ、文は橋姫に対して風を起こして牽制する。

「シンさん、私に捕まってください。はたては椛を連れて空に」

「ったく、橋姫なんかをターゲットにするからよ……」

天狗の力ならば橋姫に対抗するに足りるのか、文らは焦りもせずに冷静に対処する。が、椛はそうにも行かない。橋姫の攻撃を既に受けており、痛みから刀を手放した彼女は力なく橋の上に横たわっていた。

「椛!」

シンは文のお陰で生まれた橋姫の隙を突いて、椛の元へ駆けよる。すぐに体制を崩して倒れていた椛の身体を抱いて、橋の外へと全力で走った。

「待ちなさい、人間!誰の許しを得て!」

文の風を払って怒りのままに橋姫がシンを追う。足の速さは軍の所属時に鍛えていた分決して遅くはない筈なのだが、妖怪一人抱えていては飛翔できる妖怪には到底勝らないのか、徐々に距離を詰められる。文とはたての元へ向かおうにも彼女達との距離も離れすぎており、それまで無傷でいられる保証はどこにもない。

「くそう!なんだこいつ…速い!」

「ならば私が、水橋さんを撃退して見せますよ!」

シンの舌打ちに答えて葉団扇を取り出しつつ橋姫の方へ飛ぶ文。その表情には絶えず含んでいる天狗特有の自信を秘めており、瞬く間にシンと橋姫の間に立ちふさがった。

「ここから先は通行止めです、水橋さん。足手纏いを分かってるとは言え、同行者をお遊びで連れてきたのは流石に迂闊すぎました。…ですが、その分彼らを痛めつけた分のお返しはさせてもらいますよ!」

「減らず口を…“シロの灰”!」

橋姫は右手を横一文字に一閃させて粉末状の何かを空中にばら撒く。すると突然、目を疑う光景が広がった。

灰が撒かれた範囲に一面の桜の花びらが舞い散り、文の身体に接触する手前で連鎖爆発を起こしたのだ。

粉塵爆破の類かと勘繰ったが、そうではない。これも彼女達妖怪の特異な技の一つだろう。光る花弁が機雷さながら触れるものに対して破裂し、敵対者に深手を負わせる。先程の光と比べても一目瞭然の威力だ。これを食らえば幾ら強靭な力を持つ天狗でも―――

「まだっ!」

いや。文の言う通り、まだ彼女は健在だった。葉団扇は持ち主の霊力を風に換える力を持つ。文は持ち前の風起こしをさらに団扇で増幅させ、爆発から身を守る風の障壁を形作ったのだ。

「今度はこちらの番ですよ!“幻想風靡”……アヤンザム!」

AYANS-AM。天狗の持つ力を一時的に際限なく開放し、通常の三倍以上の動きが出来る彼女は、その宣言と共に赤熱化を起こす動きで突風を橋姫に浴びせる。吹き付ける風の強さはまともに目を開く事が出来ない程で、シンと椛の体躯を大きく揺らす。それでも懸命に橋姫から目を話すわけにはいかないと見やる中、橋姫の身体が空中で姿勢を崩していた。

「この歪みを吹き飛ばす!」

風の強さで体勢を乱されたのかと考えたが、次々と鈍い打撃音が橋姫の全身から響いているのが分かった。目では断片的にしか捉えられないが、これは文の仕業だ。目を凝らしてみると僅かにだが真紅に光る文の姿が橋姫の表面を通り過ぎているのが分かる。すれ違いざまに文が圧倒的な速さで橋姫に団扇を叩きつけていたのだ。

「記者による突撃取材!」

文の下駄を履いた両足が橋姫の顎を打ち上げる。そのままサマーソルトで背後に回り、団扇を相手の背中に叩きつけた。その動きに橋姫は防御する事はおろか、反応すらままならなかった。衝撃を受け止められないまま、橋姫の体躯は洞窟の岩肌へと吹き飛ばされ、すかさず文が距離を詰める。

「私達がそれを成す!はたてやシンさん達と共に!」

団扇の一閃で刃と変わらない鋭さを持った風圧が橋姫の身体を断つ。橋姫のドレスは傷み、その内側に在る肌から人間と変わらない紅い血が滴る。

「そうだ……!私が!」

文の普段露わにすることの無い、本気の一撃が放たれる。葉団扇に渾身の霊力を注ぎ、二度と追い打ちが出来ないまでに確実な一撃で相手を仕留める。少なくともこの時ばかりの文の顔は真剣さと戦慄を秘めた引き締まったものだった。

「私達が!新聞記者です!」

思いきり振りかぶった鋭い唐竹割りが、橋姫に叩きつけられる。その強さは今までの比ではない、岩肌が崩れ、その余波で天井からも滴石が降りかかった。

「やった……!」

「文、まだだ!」

確信から息をつく文に対して緑色の光が襲いかかる。シンの警告で文は軽やかに回避運動を起こすが、シン達にむけられたそれを回避する事は難しかった。

「っ!!」

舌打ちをしつつも、悲鳴を上げる身体を必死に使役して逃れる。あれ程の怪我を負ったかと思えば、橋姫は既に傷を身体に残しておらず、文に行った同様の攻撃をシンらにも放ち始めた。シンには椛、文の様に神速で相手の攻撃を見切るほどの芸当はできない。ましてや両手がふさがっている以上、まともな回避運動は不可能だ。

この状況で抱えている椛がこれ以上の被害を受けずに済むにはどうすれば良いのか。たった一つだけだが、シンには確かな心積りを得ていた。それは―――

「ぐあああっ!」

「…シン!?」

橋姫の攻撃を自らの身体で受けて、椛を守ることだった。

幸い彼女の攻撃で身体を貫通することはないが、悲鳴を上げるには十分な痛みが襲いかかった。喉が唸り、苦悶の表情が現れるが、足に攻撃は受けていない。まだ走ることは可能だ。

橋の向こうには文達がいる。彼女のもとへ着ければすぐにでもこの場から離脱することは可能だろう。自分が負った傷はどうやら光による火傷らしく、意識を向ければ響くような痛みが次々と広がるのがわかる。

だが今は椛を守ることが最優先だ。痛みになど構っていられない。

「文!」

「分かってます!はたても!」

「ええ!」

シンは息を荒くしながらも橋姫の攻撃に怯まず駆けた。文とはたてもシンの方に向かって飛翔し、その距離はすぐに縮まった。

文の伸ばした右腕をしっかりと掴み、シンの身体はすぐに地面と離れる。抱えていた椛の身体ははたてが代わりに背負い、直ぐに地上へと進路を向けた。

シンは痛みに勝る疲れから襲いかかる脱力感に堪えながら橋に残る橋姫を見やる。自分達に嫉妬を向けて襲いかかった彼女はこちらを真っ直ぐに見上げていたが、決して追おうとはしなかった。その判断が何を想ってなのかは知る由もないが、その彼女の姿はどこか寂しそうにも見えた。

 

 

正に命からがらというべきか。

文とはたての力を借りて脱出した一行は、地底に続く洞窟から離れて妖怪の山の麓まで一目散に逃げ帰ってきた。

その全員には焦りによる大量の汗が顔の周りに鬱陶しく垂れ、疲れからの荒い呼吸が現れており、自分達の抱いた軽んじた動機に後悔をしていた。ただ、文一人を除いて。

「いやー危機一髪って感じでしたね!」

「お・ま・え・が!あそこに行こうって言い出したんだろ!」

自分の頭を小さく小突いてわざとらしく媚びた表情で誤魔化す文に、シンはフラフラの状態で怒鳴り散らした。

「いやーやっぱり人間にあの程度の妖怪を任せても突撃取材は無理だと、よーくよーく分かりました。私一人だったらあの程度の妖怪、最初から本気を出せば倒す事も簡単なのですが……」

「だったら文一人でやればいいでしょうが!あんたのせいで私までも取材しにくくなったじゃない!」

無責任。今の文にはその言葉がよく似合う。はたてもシンと同じ想いらしく、肩で息をしながら怒りを爆発させる。シンは当然だが、妖怪の中でも上位の存在である天狗のはたてと椛までもが疲弊しているところを見ると、決して橋姫の力は矮小なものではないのだろう。文はああいうが、下手をすれば自分達の誰かが命を落としても可笑しくはない。そして、そのリスクが一番高かったのはこの一行の中で一番橋姫に接触し、それでいて無力でしかないシンだ。

「とにかく、今日は完全に私のミスだったことは謝ります。その代わり今日はお詫びに私が最近見つけた秘境へとお連れしますから勘弁して下さいよ…!」

「うん?秘境…ですと?」

頭を下げて両手を前に合わせながら必死の謝罪をする――それが本意からどうかは疑わしい思いが三人にはあったが――文の言葉に椛が反応する。

「また変なところに連れていくつもりじゃないよな?」

「いいえ、そんな事はありません!でも……」

「……なんだよ、そんなに気持ち悪い顔して」

ニッシッシ、と文は右手を口の前に被せて絵に描いたような悪い笑みをつくる。それが何を意味しているのかはこの時点での彼には全く想像がつかなかった。

「きっとシンさんも気に入ると思いますよ?貴方にとっては最高のパラダイスだと思いますから」

その言葉を聞いて鳥肌が立ったのは、きっと正しい反応だろうとシンは思った。

 

 

森の中を文が先導して数分後。

幸いにも逃げてきた場所と例の秘境とやらは地理的に近い位置らしく、徒歩でその場所に辿り着くことが出来ると文は主張した。

こんな現在地も分からない森である以上、どの道逃げ場のないシンは文の言葉に従う他に無く、はたての方は、

『こうまでひどい目にあったんだからそれ相応のリターンがなければ帰ろうにも帰れないわよッ!!』

と主張し、

『私はシンが心配です。これ以上文がシンに危害を加える可能性も無きに非ず。よって同行させていただく』

椛も同行の意を示して結局のところ、誰一人欠けることもなく文の言葉に従うことになったのだ。

「うわっ!」

「危ない…!」

草むらを踏み分け、疲れから不意に木の根が産んだ天然の段差に躓【つまづ】きそうになりながらも、椛が手を引いて止めてくれたことにシンは感謝する。

「ありがと…っ」

「今の季節は秋ですし、木の葉が積もって歩きづらいかもしれませんがどうかお気をつけて」

「そういう椛だって、頭に葉っぱが落ちてるぞ」

椛の注意を受けて歯がゆく思ったシンは、お返しとばかりに椛の頭に降っていたイチョウの葉を指してお返しをする。

それに気づいた椛は僅かに赤くなり、慌てたように細い手で頭を払った。

「あ………すみません。けどシン、貴方も」

「えっ?」

椛の指摘まで気づかなかった。自分達が通っている森の中では絶えず落葉が降ってきていたが、己の方も同じような締まらない様を彼女達に見せていたとは。すぐさま、気づいた椛がシンの頭を撫でるように右手でササッと払って葉を払い除けた。

「最近落ち葉多いもんな。頭の上に乗っかってたなんて気付かなかった」

「おおう、ラブラブっぷりを見せてくれますね御二人方。ですがそういうのはこの先の方でやっていただけると個人的には嬉しいですね」

「「?」」

「なんか、嫌な予感がしてきたわ……」

椛とシンは文の言っている意味がまだわからなかったが、はたての方は読み取れたのだろうか怪訝な顔をした。この中で文との付き合いが長い分、彼女の言わんとしている事が直感で分かるのだろう。

そのまま歩き進んでいくと、次第に周囲の空気が変わって来たことにシンは気づいた。自分もなのだから、五感に優れた椛の方もおそらくは気づいているだろう。

目的地に近付くに比例して空気が湿り気を帯びている。涼しい季節であるというのに体感温度も蒸し暑いとさえいえるほどぐらいに上昇し、長袖の軍服を着ていたシンも思わず脱いでしまうほどだ。さらには鼻につく匂いが漂ってきた。化学薬品の匂いならばアカデミーの一般教養で一通り習っていたシンにはこの異香にわずかに記憶があった。

恐らくは硫黄の香りだ。そしてその原因がなんなのかを悟らせるがごとく、進む先から湯気が立ち込めてくる。

そう、文が向かっている先は―――!

「着きました、ここが私の見つけた秘密の境地!天然の温泉です!」

 

「「「温泉!?」」」

 

木々を抜けた先にある、文曰く秘密の境地。

それは、森の中にできた自然の露天風呂の事だったのだ。

「さあ皆の衆、我ら四人で裸のお付き合いと洒落込もうじゃないですか~!」

「断る!」

手もみしながら怪しく誘ってくる文の言葉に、はたてはいの一番に却下して飛翔する。

この中で一番年頃の少女らしい性格をした彼女は当然、羞恥心も人並みに持っているのか憤怒の二文字を言い渡して高速で飛び去っていった。

―――あれが普通の反応だよな……

電光石火の速さで空へ逃げたはたての姿を遠くから眺めて、静かに頷くシン。

自分も異性と同じ湯に浸かるわけにも行かないと思い、河原へ帰ろうと提案しようとするが―――

「おっと、貴方は逃がしません」

「へ?」

「貴方は私達と一緒にこれから楽しむんですよ、じゃないとここまでお膳立てした意味が無いじゃないですかぁ……!」

「なんだよ!それ!?」

突然の事態に理解できない。シンの身体は既に、見えないほどの速さで接触を許した文によって羽交い締めを余儀なくされ、椛は温泉の方を眺めながら両手を口に当てて赤面している。

「お、おい椛!文を止めてくれ!」

「無駄無駄ですよ、既に椛さんはすべてを悟ってます。後は貴方をここから逃げられなくすればいい、その為には……!」

シンの身体をいとも簡単に両の腕で持ち上げて文は温泉に向かってオーバースローの体勢を取る。情けない姿ではあるが、彼女が妖怪だからこそなせる事だ。幾らもがいても文の力は予想以上に強くて振り払うことが出来ない。椛の方に目配せをするが、彼女は既に温泉に釘付けになっているらしく、助けを乞うことは最早無意味だということを知らされた。

「えーいっ!」

文の少女らしい陽気な声と共に、温泉の中心から波紋が広がる。温かい湯に叩きつけられたシンは口や鼻に入った湯にむせながら、重い服に手足を取られながらもがいていた。

 

 

「随分暗いお顔してますね。何か悩み事でもあるのですか?」

「だれが原因なんだよ」

濡れた衣服を近くの木の枝に吊り下げてからすぐ、結局全裸になって温泉に身を付けることにした。両隣にはあっさりと脱いだ文と心ここにあらずの状態で呆然としたままでいる椛がいるが、幸運なことかこの温泉はにごり湯の為にその白い肢体の全てを一気に露わにすることはない。元より温泉に向かうことを念頭に入れていないから都合よく身を包むバスタオルがある訳もなく、シンとしてはこの白い水面のお陰で余計な気を回さずに済んだことが何よりも救いだった。

ただ、文はわざとらしく身体を近づけてきて、シンの精神を絶えず刺激してきていたが。

 

 

文の性格はお世辞にも良いものとはいえないが、その健康的な肢体は抜群の色香を持っていた。外見上はシンと大差はないはずなのだが、長年培ってきた女性としての魅力は人妖共に別け隔てなく刺激する一品なのだろう。その膨らんだ胸、腰のくびれ、そしてお湯の下に埋もれている下半身。スカートから見えていた彼女の両足も細く綺麗なものであり、その衣服の下にある女性の象徴は確実に直視した途端に彼の理性を破壊するだろう。

それを望んでいるのか、それとも単に面白がっているのか。文は見せつけんばかりにシンの目の前に身体を移したり、胸や腰を人差し指でなぞってきたりする。最早視界から外そうと目を瞑ってみたら、今度は柔らかい感触が二の腕に回ってくる。薄目を開けて正体を掴んでみると、やはりというか文の溢れんばかりの乳房だったことにシンは喚いた。

「や、やめろっ!ふざけてこんなことなんかすんなバカッ!」

「ふざけてなんかいませんよ~幻想郷特有の裸の突き合い…もとい、裸の付き合いじゃないですか!ほら、シンさんもそんなに力入れてたら変なところが元気になっちゃいますよ~?」

「うるさい!」

文の指していることはすぐに察しがついていた。既に白い水面の下で彼の分身は愚かにも血を蓄えており、膨張したそれが起立しかかっている。それを悟られまいと決して腰を上げずに文から逃れてようとするが、彼女の素肌を掴んで突き放そうにも彼の理性がそれを阻害する。彼女のどこを掴もうにも、照れと興奮が余計な考えを提案してくるのだ。

今この場には他の誰にもいない。そのまま原初の行動を本能のままに行うことは出来るが、それこそ文の思う壺だろう。ましてや、好きでもない者に身体を許す程彼女達も馬鹿ではないだろう。

「む…このままではいささか面白みが無いですね。ちょっと椛さん?こっちに来ていただけませんか~?」

「私が…?」

「一緒にシンさんを押さえてくださいよ、私達で彼に楽しいことしちゃいましょう!」

嬉々るんるんと文はシンの身体を抑えながら椛に言う。その言葉を聞いて危機感を抱きつつ、シンの視線は椛の方に移った。

椛の身体は鍛えぬかれたアスリートを想起させる。妖怪と言えどもあれほどの刀を振るう腕力、他の追随の許さない瞬発力を維持するには人間と同じように身体を鍛える事が一番なのだろう。たしかに筋肉質な人間と比べれば椛の身体は決して太くはないが、それを感じさせるだけの纏まったスタイルが目の前にある。胸は文よりは僅かに劣るサイズかもしれないが、身体の大きさは文の方に分があるために相対的なサイズは大きい方だろう。同じく湯の下に浸かっている身体も、力強さを表すかのような肉付きのいいものだと推測できる。

その椛は未だに赤らめた表情を保ちながら、文の誘いに対して呆然とした表情をする。

「その…なんていえばよいのでしょうか。私、裸になる時に今までこんな気持ちになったことなくって……今までは同僚と湯に浸かるときにも特になんとも思わなかったのですが、今日はちょっと……」

「…!ほうほう、なるほどね…」

文は椛の言葉に対して何かを確信した様な強気な表情をする。

「じゃあ、椛さん。私はシンを抑えておきますので思いっきり抱きついちゃってください。そしたらその気持ちの正体も分かりますって」

「ハア!?いい加減しないと怒るぞ文!」

「もう怒ってるじゃないですか」

再び羽交い締めにされて憤る。腕を解こうと体を動かすが、その度に背中に押し付けられた文の胸の柔らかさに身体が緊張する。その後ろにある筈の裸体を想像すればするほど、シンのそれは燃え上がるように怒張した。

「わ、わかりました…では」

「いいっ!?」

覆いかぶさるように椛の身体が密着し、サンドイッチのように両方から挟まれることとなる。前からも後ろからも女性の香りと柔らかさと色香が彼を襲い、理性は既に擦り切れる寸前だった。更に直前、この浅い温泉で椛は直立した姿を彼の目の前に晒してしまったことが彼の男としてのさらなる興奮を呼び覚ます。

彼としては何れかの手を下半身に伸ばしてこの興奮を解消したくもあったが女性の前で到底やる気は起きない。やろうとおもえば彼女達の熱い身体を自らが貫くことは容易なのだ。ならばいっそ彼女らが望むような方へ走ろうかと思ったが、それこそ文の罠なのではないかと勘ぐってしまう。

「そんなにおかたくならずに…楽になって良いのですよ……いまなら誰も見ていませんし、ね?」

「文だけでなく……私の方もよく見てください。私は貴方に助けられた、だからせめて貴方の疲れを癒すことぐらいは…っ」

「――――――!」

両方の耳に行為を誘う声を囁かれ、何かが彼の頭の中でプツンと切れた。

余計な考えを捨て、頭の中が空っぽになった彼を二人は拒もうとしなかった。それに自分の抱いていた『罠かもしれない』という考え自体が間違いだったことに気づく。

彼女がどのような真意を持って誘ったのかはわからない。女が好意を持って求めてきたのか、それとも単なる好奇心で弄ばれているだけなのか。そこに椛を巻き込んだことは許されないことだ。

だが、快楽の波に浸かっている内に椛はむしろ彼に求められる事に喜びを感じていることが彼には分かった。

文が二人を野生的な行為に走らせ、椛は自分から彼に求めた。それ以上、文は二人から一歩引いて位置から二人の様子を眺めているに留まっていた。

体が揺れるたびに白狼の少女の口から嬌声が漏れる。それが興奮を絶えず呼び込み、次第に理性を持った筈の人と妖怪は原初の行為がもたらす悦に溺れていく。

奥手な彼女を後押しするために文は自らの身体と共に誑かしてきたのか?それを推測することも今の彼には出来ない。ただ、今この時は今まで感じたことのない嵐のような快楽に溺れるしかなかった。

次第に火山のマグマのような感覚が登り上がり、それが外界に解き放たれた瞬間脳が停止するような錯覚に陥り、猛烈な達成感とともに彼は力なく果てる。

人肌の重みとぬくもりを感じ、ふと夕焼けなはずの空をみあげてみれば、既に木々が囲む空は暗くなっており、代わりに丸い月が地面を照らしていた。

 

 

気がつくと、文の姿は消えていた。

温泉の横の広がるなだらかな天然の石畳の上で、シンは目を覚ました。

快と悦に浸っている内に、湯あたりでもしたのか。ぼんやりとした意識の中、小さく頭を振って気を引き締める。幻想郷に来てから今までで一番冷静で、理性的でいられるような気がした。流されてとはいえ、女と肌を合わせたことがよほど自分に溜まっていた鬱憤を晴らしてくれたのだろうか。最も、あの行為に対しては強いて文の介入さえなければとシンは酷く後悔しているが。

文が脱いでいた服も既に消えていたということから、彼女はどこかに飛び去ってしまったのだろうか?そう想像していたら自分の隣に紙切れが石を重しにして置かれている。それを読んでみればどうやら彼女は急用で妖怪の山の方へと言ったらしいことが分かった。最後まで自由で好き勝手な彼女に対して、怒りさえ湧き上がらなくなったことに対し、シンはただ溜息を付くことしか出来なかった。

生乾きだが服を身に着けてシンは再び座り込む。隣には文の分のバスタオルも掛けられて寝ている椛が横になっていた。あれほど普段から警戒という単語と切っても切り離せない彼女がこうもあられもない姿を見せているなどと、にわかには信じられない光景だ。しかし、彼女の寝顔は極めで柔和で穏やかだ。彼女も普段から張り詰めていた分、今回で気が楽にでもなったのか。

ひょっとすると、文は自分達の踏み込めない気持ちを後押しするために自らの知る場所まで使ったのではないのか?

今の彼は確かに椛に好意を抱いている。だが自らが異世界の住民、重ねて出生率が低いコーディネイターであることに引け目を感じていた事は、椛に以前から向けられていた好意の眼差しを流していたことは自覚している。

さらには、妖怪と人間が結ばれた所で寿命の違いがいつか二人を死で分かつのだ。ならば初めから自然解消してしまえばお互い不幸にならずに済む。少なくともシンはその考えを貫こうとしていた。

だがそれも出来なくなった。精神的にも肉体的にも近づきすぎてしまった以上、芽生えたこの気持ちを止めることは出来ない。彼女の方も自分と変わらない気持ちであるならば―――この世界を二人で過ごしていくのも悪くないのではないのか。

「っ……シン」

「椛…」

未だ殆ど裸のままでいる椛が身体を起こしてこちらに視線を投げてきた。起こした上半身に掛けられていたタオルがはだけ、その内側の白い肌が露わになるが、既に欲を発散している今では特に後ろめたい思いは起こらない。人間の、とりわけ男性が持つ人体のメカニズムが今の彼を平静で至らしめているのだ。

彼女の服は温泉のすぐ近くにたたまれている。椛が入浴する直前にあらかじめその場所に置いておいたのだろう。それを拾い上げて椛の方へ渡しておく。直ぐにタオルを払いのけて無言で、だが未だに照れた可愛らしい顔でいながら着替える椛。シンが明後日の方に向いていたとはいえ容赦なくタオルを除ける様は、ある意味男らしいとも思えた。彼女は女だが。

やはり以前にも聞いた通り、犬や狼からの野性的な本能を根強く受け継ぐ白狼天狗は裸体をなんとも思わないのだろうか。だがそれだと彼女と一緒に入った時のあの恥じらった顔は説明がつかない。

「お待たせしました」

ふりむけば、そこにはいつもの椛がいた。無表情で、ノースリーブの白い上着に黒い袴。腰に履いた刀を据えた彼女は、すぐにでも敵対するものが現れれば文字通り牙を向けるだけの危うさを示している。

この分なら、帰り道も彼女がしっかりと守ってくれるだろう。安心して、彼女の手をしっかりと握る。そして二人の身体は夜闇の空へと舞い上がる。

向かう先は、山にある椛の住処だった。

 

 

「どうしてあの時照れてたんだ?」

自分でも唐突すぎたと質問してから悔やんだが、温泉で目にした乱れた彼女の姿を想起して彼は問う。

山に着き、椛の家に入って直後、和室の一角で二人は向かい合う。たった一つの淡い光が照らす静寂の中で、余計な存在がいない今でしか聞けないことだからだ。

「自分でもわかりません…ただあの時、私が私でなくなっているようで……私達みたいに人間社会と離れている妖怪はよほど情に飢えた時でもない限りは、性など特に意識はしないのですが……」

人間が知性を得た時、同時に手に入れたものがある。それは理性だ。動物のように本能のままに生きることを恥とした人は、理性によって自らの本能を押さえつけ、人目を忍んで営みを行うようになった。

同じく知性を得た妖怪が、理性を得ることは容易いのだろう。だが、彼の者達は人間のように肉体に精神が帰属するのではなく、存在そのものが精神に左右されやすい存在だ。よって自分達の本能や理性の振れ幅が人間よりも激しく、コントロールが難しいのだろう。

「貴方に見られたときはとても胸の中が熱くなるような気がして……それに連られるように頭の中が真っ赤になりました。あとはもう………貴方に見せた姿のままです」

「そ、それ以上言わなくていいよ。ごめん」

彼女の羞恥を呼び込んだことに対して謝罪し、目をそらす。

「けど、私はずっと前からあなたとしたかったのかもしれません……あんなことを」

一語一句口を開くたびに、椛が照れくさいのか手で口を抑える仕草をする。気がつけば、彼女の後ろから生えている銀の尻尾はゆっくりではあるが左右にフリフリと揺れている。あれが彼女の本音とするならば、あながち満更ではないのだろう。

何もかもが新鮮すぎた。女とここまで接したことの無い彼には、これほどの繋がりと嬉しさを感じたことのない。愛しあい始めた男女は例外なくこのような気持ちにほだされるものなのか。

「責任……取らないとな」

しばらく言葉が思いつかなかったが、シンの方から言葉を切り出す。既に元の世界を捨てた以上彼には決心があった。それは一生をこの世界で、彼女と共に過ごすことへの。

「シン……」

「椛、俺は――――――」

送るべき言葉を椛に言い渡した途端、彼女の軽やかな身体がしっかりと自らを抱きしめてきた。勿論、妖怪としての力を抑えた求愛の抱擁。そのまま二人の身体は横たわって、勢いのままに唇は塞がれる。

長い―――二人の時が始まった。

 

 

「さあ、今度はスクープをとりに行きますよ!!今度失敗すれば、次回のネタづくりが難しくなりますからね!」

先陣を飛ぶ射命丸文が晴天の下で大っぴらに宣言する。手には文花帖と呼ばれるメモ帳をしっかりと握り、これから向かう先に向けて空いた方の手で指差す。

その背後には、二人手をつないで空を飛ぶ椛とシンの姿がある。勿論椛にぶら下がる形での飛行になるがこの飛行にも既に慣れてしまった。彼女と飛ぶ時間も今日までにかなりの時を重ねたからだ。

幻想郷に来たばかりの時より少しばかり背が伸びたが、椛も文も何も変わっていない。やはり、時を重ねれば自分は老いていくだろう、そのうち死を迎えることも。だが彼女、犬走椛を選んだシンに後悔はない。今は彼女の家に住みながら彼女の天狗の業務の手助けをしている。こうして文の誘いを受けて幻想郷を飛び回るのも、新しい世界の生き方だ。

「今日は新しくこの世界にやって来た妖怪に取材を仕掛けますよ!シンさんは私のバックアップ、椛さんは道中にいる雑魚達の撹乱にまわってください!」

文が前を見たまま二人に指示を下す。彼女がいい加減な指示を言うのはいつもの事だ。それまで単独でこなしていたことを、面白半分で協力者を募っただけにすぎない。今回も取材と称しておきながら、ただ目標の相手をからかいたいだけに違いない。

だが、退屈な山の警備よりも気持ちよく空を飛ぶ口実ができる。シンと椛が彼女に便乗しているのも結局はそれだけの理由だった。

「さあ、取材の場所まで競争ですよ椛さん!アヤンザム!」

空気摩擦による赤熱化が発生するほどの高速移動を駆使して、文の姿が瞬く間に遠のく。椛とシンも彼女を追うために、互いの顔をあわせてアイコンタクトをする。

「行きましょうシン、これからも……私たちは一緒です」

「当たり前だろ、椛」

スピードを上げる。向かい風に物ともせず、二人はどこまでも無限の空を切り裂いていく。

シンはこの世界で生きていくと決めた。これからも愛しあっていく彼女、犬走椛と共に。

死が―――二人を分かつまで。