PLUS 白蓮編


「お腹空いた………」

昼空の中心に燦々と光り輝く太陽が無差別に地面を焦がす頃。

シンは鬱陶しく止まない汗を私服の袖で拭いながら里を訪れていた。

里と外界を隔てる壁の向こうからは夏を表すセミの声が幾重にも重なって響き渡り、自然が生む天然のコーラスが里の道を行きかう人々の耳に届けられる。実際は相当な音量が出ているのだろうが、しかし人間は都合のいい生き物だ。本当に一つの事にしか気が入っていたり、そもそもセミのこの自己主張に気付かないほど意識が茫洋としていれば、この耳障りな音は意識の渦中にまで届かないだろう。

しかし、今の彼の様に悪循環に陥ればこのセミの声は最悪な気分へと人をいざなってしまう。

今のシンは正しくそれだった。この世界に持ち込んできていた私服。白のシャツの上にゆったりとした大きめのサイズである灰色のベスト、やや暗めの長ズボン。お世辞にも夏向けの涼しげな服とは言い難い。今も彼の服の下では自らが生んだ汗と乳酸が不快感を際限なく生み出し、体中がムズ痒くてしょうがない。しかしここで力いっぱいに爪で身体を引っ掻けば傷に汗が染みこんで更なる痛みが伴われ、さらには汗疹を生んでしまう。最善の対処法は只管に耐える事が一番だという事をシンは幼い時の経験で分かっていた。

―――そういや、この世界に来てからまだロクな買い物してないよな……

異世界の賃金を手にしてないとは言え、このまま現地調達を怠れば生活力は下がる一方だった。とはいえこの里でアルバイトの一つでも見つけられるかと言えばそうでもない。求人誌など出回っているはずもなく、そもそも最先端の技術の塊の中で暮らしていた彼にとってはまだまだ前時代の生活について分からない事が数えきれない。それでも軍人であった以上、ある程度の肉体労働はこなせるものの、見ず知らずの人間に『ここで働かせてくれ』と頼み込んでも門前払いを食らうだろう。相手が余程のお人よしでなければ。

「あ――――――っちぃ」

無気力に往来の端でポケットから財布を取出し、呆然と中身を見やる。中にはプラントで通じる金銭が幾つかと身分証明や有価証券のカードが幾つか。当然、この里では只の紙切れで無価値。給料をもらっていた身分である以上クレジットカードなども財布に収まっているが金を引き出すことは当然不可能。里のどこかに質屋でもありそうな気はするが、引き渡せるような代物は着の身着のままこの服以外に存在しない。

最大のピンチ。陳腐な言葉が今の自分には相応しすぎる。しかし河城にとりや東風谷早苗に金を集【たか】るというのも人としてどうなのか。この里に来た理由は自力で何か生活に役立ちそうなものは無いかと興味本位で探しに来たのだが、所詮何時の世界でも先立つ者は必要だという事をシンは思い知らされてしまった。

―――しょうがない、大人しく彼女達に世話になるか。

脱力しつつ汗を拭いて里の外へ続く方へ足を向けようとするシン。持っていた財布を再びポケットへしまい込もうと何気なく手を下げた瞬間、異常が襲った。

「うっ!?」

呻き声が口から漏れ、突然の勢いから前につんのめって転倒する。何かが後ろから自分にぶつかってきたのだ。

頭を軽く地面に叩きつけたが、痛みは大したこと無い。すぐに背後に振り返って視線を移すとその“何か”の正体が分かった。

和服の少年が衝撃で手放してしまったシンの財布を拾い上げる瞬間を目にした。視線があった途端、少年は慌てた様に財布を懐に仕舞い込んで背を向けて駆ける。白昼堂々とした紛れもない窃盗。俗に言うひったくりと言うものだ。

「やったな、このっ!」

すぐに立ち上がると同時に追いかけに走る。あの財布の中はシンが認めている様にさしてこの世界で役に立たない物ばかりだ。だからと言って突然身に降りかかった不幸をこのままにしておけるなどあろう筈がない。どこの誰かは知らないが、その行いを見て放っておけるほどシンは甘い人間ではなかった。

少年は息を切らしながら路地裏に回り込む。案外走るスピードは速い。直線ではシンの方に分があるが、その小さな体躯を活かした小回りで細い路地の中を鼠のように駆け巡る。時に予想も出来ないタイミングで曲り、シンが慌てて壁に身体をぶつけてしまうほどだ。割と痛いがシンは体力には自信がある。予想通りともいえるが、長丁場になれば少年の走るスピードは次第に落ちていった。路地の行き止まりでシンが彼を追いつめるのも、さして時間はかからなかった。

「まてよ、お前!」

袋小路に少年を追いつめれば、あとはこっちのものだ。シンの反射神経ならば少年がわきを抜けようとも抑え込む事が出来る。逃走劇にチェックメイトをかけた所でシンはようやく少年の姿をまじまじと見つめた。

歳はまだ二桁にも達していないぐらいだろうか。あの阿求(彼女は同年代と比べても大人びている印象だが)よりも幼く見える。来ている和服は貧相に泥がこびり付き、焼けた薄暗い肌から見てもこの子供には住む家があるのかも疑わしい。予想だが、この子供を養ってくれる親すらもいるかどうか。

それでも生きようとする意志がその両目から感じ取れる。宝石の様に光り輝いているその両目はどんなに辛い現実を直視していても失われない輝きが秘められている。今回の行為もシンから奪った金目の物を引き替えに生き延びる策だったのだろう。

「ど、どけよあんた!」

「どくかよ。お前な、いくらそんなことしたってムダだぞ。その財布には金目のものなんて入ってないし、例え金に出来たとしても一日二日と生きていくことも無理だぞ。大人しく返しなよ」

シンは相手の背丈に合わせる様に中腰になりつつ右手を差し出す。

「ヤだ!コイツは僕がひろったんだ。僕のもんだ!」

しかし頑なに両の腕【かいな】で抱いて財布を渡すまいと抵抗の姿勢を表した。相手の境遇には少なからず同情は禁じ得ないが、だからと言ってその悪行を肯定する事はシンには出来ない。幼い子供から自分の物とはいえ財布を取り上げる様は、まるで自分の方が悪役みたいだなと思いつつもシンは静かに少年に近づこうとする。

「く、来るなよ!」

「!?」

だが、一筋縄にこの問題は解決できなさそうだった。少年が代わりに自らへ向けてきたものはボロボロに錆び付いた包丁だった。驚きから硬直した同時にそのまま少年はシンに体当たりをしかけた。

相手が子供だと思って不意を突かれた。これも恐らくどこかの店から盗み出した物だろうか。そんな想像とはよそに子供は馬乗りになった自らの上で包丁を振りかぶっている。いくら切れ味が悪くともこの状況下では大怪我を生むには十分すぎる。子供の腕力でも急所に食らえばどんな大人だろうと一発だ。万事休す―――冷や汗を浮かべ迫り来る痛みに備えて目を瞑る。

「そこまでです」

しかし、降りかかって来る激痛は何時まで経とうとも襲ってこない。代わりに聞こえてきたのは少年の驚く声と慈愛を含んだ女性の声。暗闇の世界を形作っていたまぶたを静かに開いて、目の前にいる新たな存在を視界に含む。

そこに現れていたのは嘗て自らが救った人間だった。

菫と金の色が混ざり合った神秘的な長い髪。長身で華奢な体を包む、全身にリボンが巻かれた穢れ泣き白と相反する黒が織りなす特徴的なツートンのドレス。少年の手首を掴んでいる女の金色の瞳は、ただ真っ直ぐに哀情と共に少年へと向けられており、見つめ返す少年もあれだけ暴れていたのに彼女の前にはどんな行動も起こさなかった。その光景の中心にいる彼女はまるで朝焼けの静かな水面に揺蕩う、蓮のように例えられる。

「可哀そうに……欲が蔓延る世が生んだ歪み。それがこの様な子供さえ不幸に遭わせてしまう……」

女は少年を掴んだまま静かに呟いた。そのあまりにも清らかな雰囲気に近づきがたく、触れがたい彼女の存在に自分をも含めた彼女以外の誰もが口を動かすことが叶わない。少年は目を見開いて女と視線を合わせるばかりで、直前までの愚挙が嘘のようだった。

「「聖!」」

そして彼女を追ってきたのか、新たな少女が二人この場に集【つど】う。水兵服にキュロットスカートを履いた少女に、頭上の丸耳と両手に持つ鉤状のロッドが特徴的な少女が女に駆け寄る。

「突然走るものだから……聖、一体どうされたのですか?」

「大したことはありませんよ、村紗。ただ、私はこの子を誤った道に行かせたくないと思ったからです」

幽雅な響きで女は少女に応える。

「ナズーリン、先程道端で拾ったものを出しなさい」

「えっ、しかしこれは私がダウジングで手にした―――」

「いいから」

ナズーリンと呼ばれた鼠耳の少女に、女が出を伸ばす。納得は出来ないのだろうがそれでも了承するしかなかったのだろう、しぶしぶと暗い表情でナズーリンはスカートのポケットから光り輝く金貨を取り出した。盗まれた財布に比べたら誰に対しても一定の価値観を持てそうな綺麗な一品だった。それを女は少年の掌にしっかりと握らせる。

「これを以って質屋の方へ向かいなさい、そうすれば身を整えるには十分なお金になる筈です。その後は努力してお金を稼げるように励みなさい。もう二度とこんなことに手を染めてはなりません」

決して語気を荒めず、極めて静かに少年に諭しかける。言葉を聞いた彼は静かに頷いて慌てた様に路地から往来に飛び出していく。その様子をただシンは何も出来ずに眺めることしか出来なかった。

「シン、大丈夫ですか」

「聖、白蓮さん……」

差し出された手を取って、腰を上げる。聖白蓮、村紗水蜜、ナズーリン。いずれも過去の異変でシンが救った者達だった。こうして再び出会い、逆に助けられようとは。

「大丈夫アスカ君、怪我は無い?どこも刺されてなかった?」

「ああ……里で掘り当てた私のお宝が…」

水蜜がシンの身体をきょろきょろと見回し、ナズーリンは肩を落として消えたお宝に想いを馳せる。あれから時間が経っているが二人とも相変わらずのようだ。

「ありがとう皆、おかげで助かったよ」

「礼には及びませんよシン。それよりも、私はあの子がこれから先間違った方へ進まないか心配で……」

「聖はすこし優しすぎますよ!私だったらアスカ君をここまでしたら、ほんの少しでも叱りつけてやりたい気分です!」

「私の…お宝が…」

「あはは……ゴメンな、船長、ナズーリン」

「いいえ、大丈夫ですよ!私は貴方が無事でいたことが何よりも嬉しいから……」

「……聖の決定だ。いつまでも根に持つつもりはないよ。……次からは控えてくれると嬉しいがね」

水蜜は笑顔で、ナズーリンはふてくされつつも応えてくれる。

「ところで皆はなんで里に?」

「昼食の買い物をしに来たのです。ですが材料を買おうにもどんな料理にするか決めあぐねていたもので……いつも精進料理ですと寺の皆には少々受けが悪いみたいですから。その途中で貴方が襲われていたのを感じたのです」

「普段から走るタイプでもないのに聖ったら突然駆け出すんですもの、驚きましたよ。まさか妖怪の私とナズが全く追いつけないなんて……」

「法力のご加護があるとはいえ、申し訳程度には鍛えていますからね」

「正に、超人“聖白蓮”という事か。粋なもんだね、聖もまだまだ若いっていうことか」

「…もう。それ、どういう意味です?ナズーリン?」

「言葉どおりの意味さ、聖」

ナズーリンの茶化しに一同が軽く笑い、白蓮が仄かに顔を赤らめる。釣られてシンも笑いつつ、話題を戻しに入る。

「ここで会ったのも縁です、ご一緒にお昼を共にしませんか?ついては外の人間の貴重な意見として、お昼の献立にご教授を願いたいのですが…」

「あっはは、えっとね…そうだな…久しぶりにカレーが食べたいな!」

「カレー?鰈【かれい】の事ですか?」

「もう、聖ったら古い古い。魚料理に使う鰈じゃなくて外の世界から伝わってきた料理の事さ」

「し、仕方ないでしょうナズーリン。私と言えども封印されていればそこまでの知識は蓄えれませんよ」

「もうナズ、意趣返しに聖に意地悪しない!」

「コイツは失敬」

どうやら、カレーの存在自体はこの幻想郷でも広まっている様だった。

「その料理は美味なのですか、シン?」

「えっ…あはっ、もちろん!凄く美味しいですよ!」

「ならば、その材料を整えて命蓮寺にて作るとしましょう」

「えっ、ホント聖!私、カレー作るの得意ですよ!アスカ君も来るのなら、今日はよりにかけて最高のカレーを作りますよ!」

「俺も手伝うよ、船長」

「いいのですか!?アスカ君との初めての共同作業なんて……!あはっ、私困っちゃいます!」

「熱心だね……何がそこまで夢中になれるものなのか、私には分からんね」

水蜜が両手を顔に当てて悶える様を冷ややかに見つめるナズーリン。皮肉を言うのはいつもの事だが、今の彼女に秘められた情はナズーリンには理解できない物らしい。当然、その様子を見ていたシンにも何故水蜜がそこまで照れているのかは良く分かっていなかった。

「それじゃ参りましょうか、シン。私達の寺へ」

「……はい!」

明朗快活に白蓮の誘いを受け取って、彼女達と共に路地を出る。気付けばあれ程鬱陶しげに思えたセミの声も、今の彼には心地よいメロディへと成り代わっていた。

P.L.U.S.命蓮寺編  尼公の救済

「ああ…いい匂い!」

命蓮寺の台所にスパイスの効いた香ばしい香りが漂い、シンは首を軽く縦に振る。

元の世界ではたいして珍しい物でもないそれが、久しく味わっていない分、不相応に懐かしく感じるのは決して気の迷いでは無い。長らく作業場で過ごしていたが、出てくる飯に不満を持つほど自惚れた立場ではない。それでも久々に『食べたい』と思ったものを自由に食す機会が出来たのは食を糧とする生き物としてこれ以上にない幸せだろう。

水蜜が豪語した様に里でカレーの材料を探すのは容易い事だった。肉、野菜、調味料等々……流石にシンの世界にもなると単に先述の一括りでも無数の取り合わせが存在するが、それと里の流通を比べるのは幾ら何でも野暮というものだろう。カレーには多種多様なレシピが存在するが、今回はシンの希望でスタンダードなビーフカレーを作る事となった。無論その場で異を唱えるものは無く、材料をそろえた後で彼らは台所で作業に入る事となった。

『見た目はヤケに仰々しいけど…ちゃんと使えるのか、こいつ?』

しかしシンが昼食を作るうえで一番心配したのが、この世界における一般的な台所の在り様だった。

河童の台所は“外の世界”と遜色ない最先端の電磁調理器が主となっているが、この命蓮寺は里の一般家庭と変わらない古くからの伝統に沿った建築技術によって体を成していた。

前時代の工法に忠実な石造りの釜戸。それを覆う漆喰で塗られた木製の蓋。加工技術の未発達から不必要なまでに大きく汎用性の低い鉄鍋。周囲には雑多に並ぶ道具の数々。初めて彼がその光景を見た時は目的を達成できるかどうかも疑わしく思うのも無理もないだろう。実際、使い慣れた道具と不効率極まりない道具を使い分ける事は生活習慣上まず無いからだ。

『大丈夫ですよ、アスカ君だけに任せちゃったりしませんから』

『だからといって私と雲山を呼ぶのはどういうつもりなのよ、村紗』

『…………!』

シンが道具に対して不慣れな分、人数を増やそうと判断した水蜜は助っ人として雲居一輪と雲山をこの場所に招いていた。

『雲山と一緒に力仕事に励んでいたというのに、これじゃ作業は繰越よ、全く。ほら、雲山だって怒ってる』

一輪の言う通り、雲山はその両手こそ調理に役立てているが、実体のない両目を微かに光らせながら水蜜の方を睨みつけている。それに対して水蜜は微塵も臆することなく、彼女らを呼んだ理由をしぶしぶと言う。

『無茶言わないでくださいよ、一輪。アスカ君はお客様でありながらこうして手伝ってくれているし、ナズは掘っ立て小屋の掃除で忙しいと言って聞きませんし、ぬえは論外。だからと言って門下の皆を相手にしている星を動かせませんし、聖に命令なんかあり得ません。素早く仕上げるなら貴方が元人間である事と、お得意の雲山の使役術で何とかしてもらうしかないでしょうに』

『あのね、生憎雲山はペットでも都合のいい道具でもなくて、私の無二の相棒で親友なの。他人の都合で私達は利用されるほど、甘い性格じゃないつもりよ』

『そうはいうけど、じゃあなんで実際俺達を手伝っているんですか?本当に嫌なら別に俺と船長だけでもやりますけど』

しかし一輪の言葉通りならば二人(一組と言うべきなのかもしれないが、ここでは一輪と雲山をそれぞれ一人として扱う)は水蜜の頼みを断る事が出来る筈だ。今ここで行動に移しているのはどのような理由があっての事なのか、シンは問い詰めた。

『……別に、村紗が作るカレーが気に入っているからよ。美味しいし』

『…………!』

雲山は相変わらずの無口だが、何かを訴えるように一輪を睨んだ。勿論、彼の意図は組み取れていたようで。

『雲山の方は『万一、お前のような若造が失敗して飯がまずくなるのは敵わない』と言ってるわ』

『うっ……言ってくれるね、ったく。まあ何も返せないんだけどさ…』

一輪が照れくさそうに眼を逸らしながら雲山の意思と共に告げた。雲山は無口であるが、転じて彼から伝わって来る圧迫感は凄まじい。正面から睨まれているだけでもシンの服の下では僅かに鳥肌が立っていた。以前にもモビルスーツで応戦した時に雲山の拳を受けたが、実弾が機体に直撃した時と大差ない程の衝撃だった。一輪曰く、雲山は自らの意思で自由に大きさを変えられる妖怪で拳の強さも加減が効くらしいが、それでも彼の怒りを買う事は避けたいとシンは痛感していた。

『ちょっと。おしゃべりもその辺にしてそろそろ鍋に入れないと、切っておいた野菜や肉が乾いてカピカピになっちゃうよ。作業に戻った戻った!』

『おお、さっすが船長風ふかすね村紗。じゃあそろそろ作業にもどりましょっか、雲山』

 

 

シンは不慣れな道具に四苦八苦は免れなかったものの、水蜜の力添えもあって何とかビーフカレーは完成に漕ぎ付けた。鍋から溶かしたルーと煮込んだ食材から香りが漂い、彼らの鼻孔をくすぐる。

「よっし、完成だな」

「お手伝いありがとうございます、アスカ君。私の知らない味付けの方法まで教えていただいて」

「んー……まあ、俺が普段やってたやり方だからね。皆に合うかどうかはわからないけど」

水蜜の横で鍋をかき回したり火力の調整をやっていたシンだが、材料の差なのか調味料の差なのかはハッキリしていないが味に深みが無いと感じていた。そこで水蜜の許しを得て台所にあった蜂蜜を脳内に留めてあったレシピ通りに絡めて見れば、見事にとろみを含んだルーが完成したのだ。

「りんごとか牛乳とかの隠し味ならば存じていましたが……まさか蜂蜜とは予想だにしませんでした」

カレー得意な水蜜らしく、隠し味の研究は行なっていたらしいがこの方法は選択の内に入らなかったのか。エプロン姿で目を光らせる彼女に対して、シンは「あはは…」と控えめに笑って相槌を打つ。

「じゃあ船長、そろそろ盛り付けにしよっか」

「ええ!」

近くに置いてある棚から人数分。シン、水蜜、一輪、雲山、ナズーリン、ぬえ、星、白蓮で合計八枚の皿を取り出して机に並べ、白米を盛りつけた後、備え付けてあったお玉を巡らして水蜜が鍋からルーとしっかりと煮込まれた具材を取り出す。

シンが釜戸の火を消して後始末をしている中、水蜜は鼻歌を歌いつつ意気揚々と最後の仕上げに取り掛かっていた。それを微笑ましく思いながらその様子を背後から眺める。

だが、そこで妙な事にシンは気付いた。確かに八人分皿が並べられているが、何故か水蜜は一枚だけ残して具をのせない。

「船長」

疑問に思わずにいたシンは眼前の火を消し終わったことをしっかりと確認して、水蜜の傍へと寄る。何故一皿だけ自分達の作ったカレーを盛りつけないのか、聞かずにはいられなかったからだ。

「それ、なんで盛り付けないんですか。カレーが苦手な人用とか?」

「あっ…これの事?これはねアスカ君―――」

「村紗、こっちの分も出来たわよ」

水蜜が説明するよりも先に反対側の台所で作業していた一輪が呼びかけてくる。彼女は食材を切るところまでは共に行動していたが、それ以降は分かれて雲山と共に作業を行なっていたのだ。

その彼女が持ち出してきたのは、同じくカレーが出来上がった鍋だった。しかし、自分達が作っていたものに比べては若干色が薄く、具も少なめであることが一目瞭然だった。

「ああ、アスカ君は知らないんでしたっけ。仮にもここは殺生を戒める寺院ですので、食事の際も肉の類等の命を糧にする食べ物を本来食す事は禁じられているのです」

「けど、あまりにも戒律が厳しいと私達の食生活や門下を増やすのにも都合が悪かったりするからね。姐さんの許しを得てある程度食事の制限を緩める事が出来る様になったのよ。当然、姐さんはここの僧侶である立場上お酒は勿論、こういった肉の入った食べ物さえ口に含まないわ。だからこっちは私と雲山が作った特製野菜カレーね」

今はプラント首都アプリリウス市に飾られている、人類初の地球外生命体“エヴィデンス01”の発見によって、コズミック・イラでは宗教の権威が失墜している。近い時期にあった“ジョージ・グレンの告白”と人類未踏の地からもたらされた多大な影響は人類に“もし?”といった強烈なパラレル的思考を誘発し、それまで神のみが犯せる業と言われ続けてきた生物の出生に人間が介入、デザインベビー技術の発展を確立した。その延長線上から生まれた“コーディネイター”という種族は、人の手を加えられた持ち前の学習能力の早さで更なる人類の進化を促した。ありとあらゆる事が人間に成せる世界に変貌してからは、『この世界に神はいない』と、誰もが思い込むのにさほど時間は必要なかったのである。

だが、人間というものは結局群れなければ生きていけない悲しい生物だ。宗教が無くなるという事はその代替になるものが代わりに生まれる。その白羽の矢が当たったのはナチュラルとコーディネイターの隔絶から生まれる世界規模の人種差別であった。偶像を崇拝するというシステムを発明した宗教の反動は互いに無意味な争いを生んだ。人類の英知が生み出した物が、明確に欠けた事から生まれた無意識下の不安感は人間の持つ闘争本能を刺激し、最悪の終末を直前にまで招いていたのだ。

それを事前に危惧した先人が新たに生んだ宗教がオーブ近辺に伝わる“ハウメア教”だ。世界が目まぐるしく変革される中、一様に被害を受けるのが当時世界的に立場が弱かった南国の島国である。

故に地方の生活が退廃していくのは先を憂う民たちにとっては目に見えていた事だった。まだコズミック・イラと年号が付くより前、先述の“ジョージ・グレンの告白”が起きるよりもずっと過去の事。人類がそれぞれの時代を生きてきたように、戦争もまた過去に必ず存在している。

まだ“オーブ”がオーブと名の付くよりも前の時代、独立を許されていなかったその国は史上最悪の非難に見舞われていた。争いで島民の大半が死に逝き、自給率は上がらない一方。他国の状勢から輸入もままならず、もはや滅びを待つだけだった国がオーブの前身だった。

その国に転機が訪れたのは一人の少女の存在だった。伝説上に彼女の名は載っておらず、今となってはあらゆる資料を見通してもその詳細を知る事は叶わない。時代の風化が今のコズミック・イラでは激しい事も一つの原因だ。

その少女は何処からともなく現れ、何処からともなく持ってきた作物を島全ての民に分け与え、廃れていた人々の心を潤わし、生きる活力を与えたという。その様子を記したとされる書物によると、島の民にはその少女の存在が正しく黄金に例えれる程の眩さを誇っていたらしい。シンが戦後で耳にした情報によるとオーブ保有モビルスーツ“アカツキ”も、その開発の経緯で伝説の影響を色濃く受けているようだ。

いつしか少女は旧世代に信仰されていた豊穣の神の名前、ハウメアと称えられ、島民との間に彼女が生んだ子供は姓をアスハと名乗り、新しくオーブと称する国を建てて今も南国で一際技術力が高い国として君臨している……と、ハウメア教では伝えられている。

この伝説の通りならば、現国家代表カガリ・ユラ・アスハは、かのハウメアの子孫にあたる。オーブの一部ではアスハ家のトップを今を生きる神そのものとさえ崇めている運動が存在するほどだ。国を救った血筋が国の代表を務めているとは。似たような伝説をシンは学習の過程で幾つも耳にした事があった。いつの時代も国は一人の代表者から生まれてくるものなのだ。それは決してこれからも変わる事はあり得ないだろう。

以上から、こうした失われた習わしによる食事の制限をシンには理解しがたい物がある。しかし異世界の文化の差異に直面しては口出しする立場でもない。やや釈然としない思いだが、シンは静かに頷いて一輪の作ったカレーが盛りつけられる様を見届ける。

「さ、お皿を運びましょ。皆で両手で持ち運べば、丁度八枚持てるしね」

「了解、船長」

「だからアスカ君、私はもう船長じゃないですってば」

すっかり熱いくらいに温まった皿を両手に持ちながら、シン達は皆が集まる広間の方へと足を運ぶ。水蜜から言い慣れてしまった呼称について注意されつつ、互いに笑い合いながら一同は場所を移していった。

 

 

「さ、皆。手をあわせて」

白蓮のその号令によって、この場の全員が「いただきます」と発声して食事に手を付ける。外から聞こえる野鳥のさえずりをバックにしながら、彼女らはルーの絡んだ白米を口へと運び始める。

「うん、おいしい。いつも俺が作るのよりもいい感じだ!」

「私一人だけじゃここまで出来ませんでしたよ。アスカ君がいてくれたから美味しいんですよ?」

「もう、毎日食べたいくらいなんだけど!」

シンの実直な感想に隣の水蜜が微笑む。

結果、一同が命蓮寺の広間に集結することに然程時間は要さなかった。水蜜の船幽霊らしい提案で一日の三食全ては規則正しい時間に行われていることが、淀みない食事の移行を可能にしている。彼らが広間の扉を開けた時には既にナズーリンや、ぬえが部屋で待ち合わせていて、やや遅れて星、白蓮もこの場に集まった。比較的自由な立場でいるぬえとナズーリンはともかく、門下を相手にしている二人が遅れてくるのは止む無しといえるだろう。

彼女達からすれば珍しい洋食のメニューだからか、この寺にスプーンが無い事を作り始めてからシンは知った。提案者のシンとしては人数分のスプーンは是非とも揃えておきたかったので、下ごしらえの途中で抜け出して里に走り出したのもこの時を想えば大した苦労にもならない。当然不慣れな者が出るかともシンは危惧したが持ち方さえ教えれば皆呑み込みが早かった。

「か、辛い~舌がヒーヒーするよう」

「こら、舌なんて出して行儀が悪いぞ、ぬえ。黙ってお食べなさい」

「そうは言っても、こんなに辛いの今まで食ったこと無いよ~」

ぬえの文句に対して目を細めて厳しく注意する星。妖怪にとって口で咀嚼する食事というものは単なる嗜好に等しく、必ずしも生きて行くうえで必要な行為ではない。代わりにその概念的、精神的な存在を維持するために人間の驚き、恐怖から得られるエネルギーを経て暮らしていく。彼女達妖怪からすればその時に得られる快感が『美味しい』らしいのだが、カレーの辛みはぬえにとって少々強かったらしい。最も、やろうと思えば味をマイルドな方へ持っていくことも出来たのだが味付けを任されたシンが選んだスパイスの取り合わせで少々辛みが強くなってしまったようだ。ぬえは涙目になりながら置いてあった湯呑みを取り出して台所へ駆けだす。その味に耐えられず水でも汲みに行ったのだろう。その慌てた彼女の後ろ姿を見て、シンは笑いをひそかに堪える。

かといってこの場の全員がカレーに対して難色を示している訳では無い。星は説教をするだけあって一切の無駄口を叩かず、水蜜達は表情を明るくして「美味しい」と感想を述べたりしている。

「どうですか、白蓮さん?そっちのカレーは一輪さん達が作った奴ですけど…」

未知の食べ物に対して気に召すのかどうか。シンは食事の合間に向かい側にいる白蓮に対して感想を乞う。

「ええ、美味しいですよ。これほどの素晴らしい料理を提案していただいて、本当にありがとう。シン」

「いえ、そんなこと……えっへへ」

礼を言われることに気分が浮かばない筈が無い。照れくさくなって目を合わせられなくなりながら、白蓮の感謝を受けて心が躍るのを隠せない。

「アスカ君はどう?私達の作ったカレー、何か不満とかある?」

「う、うん。お世辞抜きで美味いよ、すごく美味い」

「ふふっ、そうですか。貴方から得意料理に及第点を頂けて良かったです!」

その服と言い、カレーが得意と言い、正に海兵隊の隊員そのものだな、とシンは水蜜を見てつくづく思う。白蓮が戻る前から時々水蜜はカレーを作っていたらしく、作る時にも度々自らがいかに思い入れがあるかをシンに語ってきたりもした。だがきちんとしたレシピを無しに覚えたのか、やや彼女の我流が目立つ部分はシンが指摘したりもした。シンも自分一人で生きてきた期間が短くなかった身の上である以上は、料理に関する知識を努力して得ていた。戦艦に乗っていた時は食堂で出される為に毎日の生活がやや単調になっていたが、こうして誰かと楽しく一つの作業に打ち込むことは、やはりいいものだと再確認する事となった。

「後で貴方が知っている料理を教えてくださいね、アスカ君!約束ですよ!」

水蜜としてはシンの知っているレシピに興味津々なのか、先に食べ終わった後でこのようなことまで言い出してきた。前に命を助けてもらった事がある身だ、彼女の頼みを断る気など微塵もない。首を縦に振ると水蜜は小さくガッツポーズをとり、朗らかに笑って「はい!」と答えてくれた。

 

 

「ごちそうさまでした」

食後お決まりの儀礼を行なって、しばしこの場で彼女達は寛【くつろ】ぐ。生真面目な一輪二人組は早速皆が食べ終わった食器を台所に運びだし、ぬえは相変わらず味に不満を零している。それでも全て平らげたのは星の注意故か。

ナズーリンはカレーの残りを取って外へと足を運びだす。彼女曰く、小屋にいる子鼠たちに分ける為だそうだ。白蓮も出来るならば門下の皆を加えてこの場で食事を楽しみたいと言っていたが、スペースの関係上それは出来ない。それを考えればこの場でシンが食事をともにできるのは貴重な経験ともいえる。

『貴方は私達の絆を守ってくれた恩人ですもの、無下に出来る筈が無いでしょう?』

彼女の性格なら、聞いた途端にこんな言葉が帰ってきそうだ。それを分かり切っていた上、下手に図々しく思われるのも癪だから敢えてシンも一言も口に出さない事にしておいた。

しばし各人が寛いだ後、気付けば部屋に残っているのは食事の時の半数だった。昼が過ぎたとはいえ命蓮寺の活動はまだ終わってはいない。門弟の面倒を見る為に早々と出て行った星を始め、自由奔放なぬえは外出、一輪と雲山は再び作業に戻り、

「ふむ。私達ネズミにゃ若干味が強い感じもしたが、中々の美味だった。正直水蜜の趣味で作る料理よりも上手いの一言だったね。あいつらにもこの味はいける口だろうさ。それじゃ私も失敬させてもらうよ」

ナズーリンは皮肉めいた台詞を言い捨てつつ余った昼食を持ち出して小屋の方へ向かって行った。食器の始末の後に未だ行動を起こしていないのはシン、水蜜、白蓮だけだった。

「もう、あのネズミったら可愛くない奴!」

「よしなさい、村紗。…すみません、シン。私の門弟のお見苦しいところを見せてしまって」

白蓮は擁護するが、真正面からああ揶揄されては例え彼女の立場が自分だろうと対応は変わらないだろう。至極当り前な水蜜の態度が彼の心証を微塵も害することは無い。

「そんなことないって、気にしなくていいですよ」

軽く笑って答えて、彼女達が思い込まないよう努める。こういう時は多くの言葉を語らずに態度で示した方が理解が手っ取り早い。

「それよりも、二人はこれからどうするんですか?俺はこっちに来てから昼食に混ざらせて頂いたぐらいだし……何かお礼にこの寺を手伝わせてほしいんだけど」

これから先も今日一日シンは自由な身分だ。せめて自らの危機を救ってくれた彼女達に、自分の為せるだけの行いで借りを少しでも返しておきたいというのが彼なりの礼だった。

「ご心配なく。この寺院は元々我々少数で管理してきたものですから新たな手は必要ありませんし、客人である貴方の手を煩わせるわけにはいきません」

「けど……白蓮さんだって、まだ仕事は終わってないんでしょ?」

星が早くも動いているのだ、白蓮も時期に彼女が言う門弟たちの前に出て修行の指示を下す役割に務めるのだろう。シンは出来るだけ彼女達の生活に沿った言葉を投げかける。

「ええ……準備が整い次第、私は後で本殿の方で皆様と一緒に法会【ほうえ】を開きたいと思っています」

「ほうえ…?」

聞きなれない単語だった。確認とばかりに復唱してしまう。

「簡単に言えば法を説く為の集会です。悟りの境地は色即是空、空即是色。私達が教えているのは生きている人間を苦と災厄から救う事からの、何物にも捕らわれない心の形成。それはつまり、人妖それぞれが持つ心に潜む魔を追い払う事に繋がるのです。命蓮寺では主に妖怪の方々を対象としていますが、人間の門弟も少なくありません。私は皆様に対し、分け隔てなく生きる事についてを説き続けているのです」

聖白蓮の掲げる人妖絶対平等主義。人も妖も差別されず、手を取り合いながらよりよい未来へと歩んでいくことを促す彼女の考え。しかしこの幻想郷では目に付かない所で起こっている擦れ違いがあると言う。それはコズミック・イラに存在するナチュラルとコーディネイターの関係性に似ていた。

一方が優れているから、もう一方を妬む。一方が劣っているから、もう一方が見下す。その幼稚な考えと争いの繰り返しがあの世界を腐敗した戦争へと導いていたのだ。

白蓮の言う通り誰もが平等な立場であるのなら、誰もが一定の価値観を持てるのならば、彼女の望む世界は実現するだろう。しかしそれがこの世界で叶うだろうか?生まれながらに個体差と言うものを持つ生物同士が、皆手を取り合っていけるのだろうか?白蓮の言葉は酷く絵空事に聞こえる。それはシンがあの世界の住民故だろう。

「どうかしましたか、アスカ君?お顔が暗いです…よ?」

「えっ……」

深く考え込み過ぎていたようだ。自分の世界から呼び戻されてみると、水蜜の顔がすぐ目の前に在る。その後ろからは心配そうに見つめる白蓮の姿も。

「ううん、何でもないよ。大丈夫、大丈夫」

慌てて両手を首を振って気分を振り払う。これでは彼女達に余計な心配を与える事となる。それは避けたい。

「あら、もういい時間ですね。折角ですしシン、貴方達も本殿へいらしてください。是非とも私達の考えに同調してくれる機会でもあります。村紗、私は先に向かいますので彼をこちらにお連れしてください」

「はい、聖!」

特にあわただしくする態度も無く、部屋にあった壁時計を眺めて白蓮はゆったりと廊下の先にへと向かう。その後を見届けた二人はその場で向かい合った。

「皆は行っちゃったけど、船長はこれからどうするんですか?後動いてないのは貴方だけですよ?」

先に沈黙を破り、開口したのはシンの方だった。

「私は……ええっと……ほら、アスカ君の付き添いですよ!私からすれば貴方は年下だし、ここはこんだけ広いんだもの、迷子になってもいけないでしょ!?」

「もう、いつまでもガキ扱いすんなよな」

個人の能力とは関係なしに子供扱いされたことに引っ掛かるシン。

「だったら、俺がいなかったらどうするんですか。貴方にはやる事があるんじゃないですか?」

敬意は捨てずに、あくまで意趣返しに言いかかる。自分に構うのなら自分の事を優先してほしいと願った想いだったのだが―――

「あっははは……実は無いの。私がするここでのお仕事」

水蜜は薄ら笑いの後にあっさりと言い払った。

「は?」

「ほら。私の役職、船長でしょ?船長と言うものは船の上でのみ有効な立場であって……この寺の一番は聖だから私の立つ瀬がないの。それに聖輦船は法力による自動操縦が主な運用形態だから私にできる事も少ししかないの。この場で一番お飾りなのは私なのよ」

「け、けど船長は料理を作っていたんじゃ―――」

「あれも結局手持無沙汰の私が趣味程度にやってる事よ。いろんなレシピを研究したりしているけど、味は知れたものですよ。一輪の手伝いなかったら仕上げるのにも時間かかっちゃうし、私が一番命蓮寺でお荷物なのも、分かっているつもりなんです」

「そんなことありませんよ!」

水蜜の卑下に包み隠さず反発する。彼女の口から出てくる出鱈目に今にもシンのはらわたは煮え繰り返っていた。

「空で貴方達に会ったとき、一番白蓮さんを助け出したいと言ってきたのは誰だったんですか?ぬえから全力で俺を守ってくれたのは誰だったんですか?俺を機体に送ってくれたのは誰だったんですか!?他でもないアナタでしょう!それだけの事をしている船長が、そんな弱気な事を言わないでください!」

勢いのままに語気を強めてシンは二人きりの空間で吠える。水蜜が自己を否定すればするほど、助けられた自分がみじめで馬鹿みたいではないか。まるで水蜜があの場に居なくとも、シンが助かっていたみたいで。

「船長は必要だったんですよ…この寺にも、俺にも。貴方が居てくれないと、白蓮さんの法会に間に合わなくなっちゃうでしょ。貴方の案内が、俺は欲しいんです」

「ア、スカ……君」

最もらしい理由を付けて水蜜へ手を差し出す。シンの言葉を受けるばかりであった水蜜は両手で口を軽く押さえ、軽く紅潮しながら目を見開いていた。

「だからもうさっきみたいなこと言わないでくださいよ。せんちょ…………水蜜さん」

照れくさくて死にそうな想いだったが、さんざん彼女からねだられていた呼び名を遂に使う。事あるごとに水蜜からは名前で呼ぶように勧められてはいたが、立場の区別をつけるのに呼び慣れていた便利な名前から、恥ずかしくて言い出せなかった名前で呼ぶのは酷く恥ずかしかった。それまで彼女から目を背けて、今は逸らさずにしている事から生まれるこの感情がそれまでシンを一歩踏み切らせなかったのだ。知れば、彼女を二度と正面から見つめる事が出来なくなりそうだったから。何とも未だに発展途上の心の持ち主である彼らしい理由だ。

「あ……私の名前………!」

「ほら、俺は言いましたよ。だから船長も、俺の事をわざわざ呼びにくい名前で呼ぶのを止めてくださいよっ」

水蜜の囁きを余所にシンが傍目で言う。それに応えるべき言葉は、当の前から水蜜は用意していた。

「…うんっ、シン君!」

死んだ人間、ましてや幽霊とは思えないほどの生気に満ちた顔で目頭を熱くさせて彼の名を彼女も口にする。水蜜に手を引かれながら廊下に連れ出されたシンは、先駆ける彼女の細い背中を見つめたまま白蓮のいる本殿の方へと共に足を運んだ。

 

 

幻想郷の人里の間では噂になっている行事が存在する。それは近頃里の郊外に建てられた命蓮寺と称する寺で聖白蓮が行う法会の事である。信者を募り、彼らの修行の一環として白蓮が開いた集まりが今人々と妖怪たちの間で人気を呼びこんでいた。

本殿で執り行われているこの法会と言う名の集会は、入信した、しないに関わらず誰もが自由に参加できる。これは白蓮曰く『私達の行動をより多くの人に知ってもらいたい』と言う意向のようで、寺を開いて以来その人気は好調の一途をたどっている。今日この日に行われている法会にも、信者、不信者を問わず室内の畳を埋め尽くさんとした人妖の数が白蓮の目の前に広がっている。周囲には外中問わない見張りを兼ねて星達が配置されており、彼女達の視線は鋭かった。

「觀自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 

舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不淨不增不減…………」

ドレスを広げて座り込み、手元に経典を開いて白蓮がつらつらと読み上げているのは、数ある仏教の経典の中でも最も有名とされる“般若心経”だった。何時もにも増して多くが集まった今日、これを彼女が選んだ理由は至極単純。『名の知れた物だからこそ相手方に親しみやすいのです』とは後からシンが聞いた本人の弁だ。

「文々。新聞、夏の号外特別篇でっす!この暑い季節に涼やかな気分になれると人間、妖怪達に大好評な納涼読経ライブのリポートは私、清く正しく美しくがモットーの射命丸文がお送りしていきたいと思います!」

だがこれだけ大きな催しと化すれば、そこをダシにする野次馬が出るのは当然だった。噂好きの人間が遠目に見るのは勿論、いい意味でも悪い意味でも有名な幻想郷のカメラマン、射命丸文が探りを入れるのも。

「本日は聖白蓮さんが取り仕切る法会について潜入していきたいと思います。では、ちょっと中を覗いてみましょう……!」

外の世界での常套手段を知り得た彼女は、あらかじめメモしておいた手順通りにわざとらしい囁き声を出しながらゆっくりと忍び足に本殿に入り込む。中に入るや否や、河童の技術を応用して施された消音加工のカメラで中の様子をフィルムに収めてゆく。あくまでも法会の直接的な邪魔にならない様、フラッシュは無しの方向でだ。

文が人々の背後からシャッターを切り続ける中、撮影音に混じって人間と妖怪のざわめきも響いて来る。耳を澄ませてみると、次第に混濁していた音の塊は耳へ鮮明に届けられてきた。

 

 

「見せてもらおうか聖白蓮……君に人類を導ける才があるかを」

「大佐、そこにいられると見えませんからどいて下さい。邪魔です」

 

 

「じいちゃん、父さん達と一緒に来てみたけど、なんかあの人のお話つまんない。帰って家でゲームでもしようよ!」

「ははは、そうか?じゃあ今日は家族サービスで父さんと遊ぼうか!」

「ダメだ!家を捨てたお前に孫は渡さんぞ!この子は私と遊ぶのだ。それ以上の戯言を言うのならば貴様を家庭から殲滅するぞ!」

「なんですって、父さん!俺はこの子が生まれた時を見ている身なんだ!とやかく言われる筋合いはない!」

「貴様達地球種二人にこの子は渡さん!彼は私の息子の生まれ変わりなのだ…地球圏の代表として私の下で過ごしてもらう!」

「キオ、奴に同調するんじゃない!」

「もうやめようよ……じいちゃん、父さん、イゼルカントさん。方法はあるはずなんだ!話し合えば……理解り合えるんだって事をッ!!」

「理解り合えるだとッ……!?」

「そのようなものはない!」

「父さん……正気とは思えん……」

「上の奴らは、裕福な生活を送り、下らない思想をぶつけあって戦闘に明け暮れる。俺達はそのしわ寄せでこんな生活を、強いられているんだ!!!!」

 

 

「まったくニンゲンと言うものは愚かなものだね。聴覚でしかまともなコミュニケーションが出来ないなんて」

「私らみたいに脳量子波が使えないのは不便よねー耳塞いでも目を閉じても他人の事なんかわかっちゃうし、ヨウカイって奴らも使えないんでしょ、コレ?」ヒリング

「全くだよ、これだからニンゲンは下等だ」

「余計な言葉は慎め、今は彼女の言葉を聞く時だ」

「その通りだ、黙っていろ。最も、それが人類の革新に役に立つかどうかは疑問だがな」

「勘違いしている様だけど僕らは神でもなければ万能でもないよ。ま、彼はそう思っているだろうけど」

「言うね、君は。ボクは君たちの上位種に当たる。創造主とも言える。ボクは神さ、信仰心の対象ではないがね。君たちがこうして彼女のブッキョーを聞けるのもボクのお陰なんだよ?」

「世界の歪み…!イノベイター!」

「その人を見下したような態度が気に入らねえんだよ!イノベイター!」

「世界の歪み…リボンズ・アルマーク!未来を決めるのはお前ではない!」

「バッサリ行くぜえ!」

「ところがぎっちょんてなぁ!」

「貴様はッ!」

「残念!俺もいんだよぉ!面白えじゃねえか、ソレスタルなんたらぁ!」

「次は私のターンだ!君の視線を釘付けにする!!」

「貴様達はっ…!」

「会いたかった…会いたかったぞ、少年!関節技が使えないのが残念だが!抱きしめたいな、少年!この気持ち、銃弾に乗せて君に届け!」

「ハハハッ!こりゃあスゲェッ!コイツはすごすぎて笑っちまうぜ大将!」

「何度でも口説かせて貰うッ!君を墜とす為にッ!この気持ち!正しく愛だ!」

「決めたよ、君への罰を。このしつこさ、だんだん目障りになってきたよ。楽に死ねると思わないことだね」

「何機こようと、駆逐するだけだ!」

「僕が一番うまくガンダムを扱えるんだよ。フフフフフ………ハハハハッ!アッハハハハハ!」

「荒んだ心に武器は危険なんです!!大人ってそこまでするんですか!」

「なんともうるさい連中だな……美人さんの艶めかしい声で唄う経典が台無しじゃないか」

「あ~ら?私と言うものがありながらその言葉は聞き捨てなりませんよ、貴方?」リンダ

「ぶーぶーぶー!!皆さんうるさいので退場ですぅ~!天狗さん、追い払ってだぶ~!」

「お安いご用です、遥ちゃん!逆風、人間禁制の道!」

「これはプランの大幅な修正が必要ね………」

 

 

周りにうんざりした様子であるツインテールの少女が金切り声をあげ、それに応える文。彼女の生み出した強風によって、争っていた面々は本殿の外へと追い出されてしまった。

それをあっけらかんとした表情で見ているしかなかったのは門下でもなく、経典の音読を目当てに来た訳でもないシンと水蜜二人だけだった。他の者はその騒ぎに驚きつつもあるが、直ぐに白蓮の方へと向き直す。仮にも今この時は数ある修行の一環だ。些事に気を留める暇もないのだろう。

「な……なんか皆さんの方が騒がしいですね…シン君」

「ええ……ホント。文の奴一体何してるんだよ……けど、すごいよな白蓮さん。あれだけの騒ぎがあるのに余所見もせずにずっとあの経典を読み上げてる。すごい集中力だ」

シンが見る先―――裏方から覗く彼ら二人から見える背筋の伸びた白蓮の後ろ姿は、凛々しくあり、皆から視線が集まるその毅然とした態度は神々しくもある。一目で立派な存在だと認めざるを得ない。

「こうして私達が特等席から見ているのって……なんだかドキドキしません、シン君?」

「えっ……そう?そういう、もんなの?」

白蓮の姿に釘付けにされていたシンの横で、彼の右手を握る水蜜が柔らかく囁く。吐息が耳の中に入ってとてもこそばゆく、突然の行為に鳥肌が立った。

「そういうものなんですよ、二人きりの時って。こうやって誰かと一緒にいる事って、生前の私の夢でもありましたから」

船幽霊の時になるよりも遥か前、生前の水蜜は恋に憧れる多感な少女時代を送っていた事は聖輦船の異変の時に彼は知らされた。その無念を残したまま命を落としたことは同情を禁じ得ない。だが一度その箍【たが】が外れてしまえばここまであの生真面目な彼女が、他者と深いコミュニケーションを求めるようになるものなのだろうか。その変化にシンは付いていけない。

「えっ!?あ、いや、それはそうなんだけどね…」

自らに向けられた好意は正直嬉しく思うが、今は時と場所と言うものがある。他人に口を出されても面倒極まりない。

「でも、水蜜さん。気持ちはわかるけど今は白蓮さんのお話を聞きに来たんでしょ、俺達。為になるんだったら最後まで聞こうよ」

「むぅ……シン君が言うんなら…」

彼女を落ち着かせて、再び白蓮の方へ。今まで自分と変わらない少年少女が活躍していた世界ばかりを目にしていたシンには、大人らしい活動をしている白蓮の在り様が新鮮に思えていた。仮に白蓮の教えに従ったとして、今まで宗教とは無縁だった自分の生き方にどれ程変化をもたらすかは分からない。あの世界で彼女の言葉がどこまで通用するかも。しかし―――

―――白蓮さんみたいな人が世界を導けるなら、あの世界の争いは消えていくんだろうか……

聞いている内に白蓮の言葉は興味が逸れ、幾度も平和を挫折した自分の世界に彼女の様な崇拝される存在が必要であるのかどうか、シンはそちらの方に考えを寄せていた。

 

 

「ありがとうございましたー!またきてくださいねー!」

大勢の訪問者が寺の正門をくぐり出ていく様子を、獣耳の少女が手にある箒を動かしながら見送る。日が傾き空が朱に染まる頃、白蓮の読経が終わると同時に、星率いる命蓮寺の門下生達が寺の掃除を務め始める。決して人数は多い方ではないのだが、妖怪の力を活かした掃除というものは人間が行うそれより遥かに騒がしい。例を挙げるのならば、雲山の豪快な道具の片づけに、鳴き声が絶えないナズーリンの育ちざかりの子鼠達を使った細かな塵屑の処分等だ。勿論、彼女達以外にも新たに入信した信者達の力添えもあって、今の本殿は近づくのも躊躇われる程の奔走っぷりだ。

シンは水蜜に連れられて一足早く本殿を抜けていた。今の様に騒がしくなることを彼女が予期していたからだ。大多数の人出が一気に集中しているのに対し、今彼らがいる朝まで居た拝殿ではシンと水蜜、二人以外に人影は存在しなかった。

「皆がああやってお掃除している間、私は皆の夕食に取り掛かっているのですよ」

「たった一人で?」

「妖怪の身になった分体力に余裕があるから人間の時より多くの作業はこなせますし、門下の皆さん達とは食事も別でだから、私入れてもたった十人足らずで余裕ですとも」

里で買い入れたというエプロンを着て、夕食の準備に取り掛かりながらシンに語る水蜜。目の前の事に集中しているのかその両手は絶えず動きつつ、話している最中もシンの方へ眼を泳がせない。その慌ただしい様子に見ているだけでも客人として引け目を感じてしまう。

「でもさ…俺にだって、夕飯ぐらい作らせて欲しいんだけど…」

昼食を馳走になり、ましてや命蓮寺の修行まで見せてもらった立場なのだ。ここまで厚遇されて受け身のままでいる訳にはいかない責任感がシンの中で生まれていた。だが、

「大丈夫ですよ。皆に私が出来る事は、これぐらいなんですから。私のお仕事まで取られちゃうと、一人じゃ本当に何も出来なくなっちゃいそうです」

そこで漸く初めて視線だけシンの方へ向けて小さく、だがどこか困ったような表情で微笑む。水蜜にとってこれだけは親しくなった者であろうと譲れないものなのだろうか。彼にとっては親切から口に出た言葉だが、それが必ずしも人の助けになるとはかなわない。

―――あっ、そっか……

そこで気付いた。自分の不躾な親切が水蜜の意義を奪い取ろうとしたことについて。水蜜のその小さな拒絶に対し、真意を汲み取ったシンは何も返す事が出来なかった。

「あら?シン、村紗。こちらにいらっしゃったのですね」

そこへ背後からの声が入る。白蓮の柔和な響きが耳に入った途端に水蜜は作業を止めて、シンと共に振り返る。拝殿の廊下かからこちらを覗いていた彼女は挨拶の後にゆっくりとした足取りで室内へと入り込む。

「お疲れ様、白蓮さん」

「お疲れ様です、聖!先程の読経の方、彼と一緒に聞かせて頂きました!」

「あら、それはご苦労様です。ですが所詮は自らが取り決めた規則通りに行っている事、別にそこまで大したものではありません」

「そんなことありませんよ、貴方のお陰で私達妖怪はこの世界で生きる道を選ぶ事が出来たのですから」

自らの行為を卑下する態度をとる白蓮に対し熱心に訴える水蜜。言葉遣いが常に丁寧な二人でも、その内面はまるで違う様はシンの視点から見ても明確に違うと分かる。しかし水蜜の境遇を救った白蓮はそこまでの恩を受けるにこれ以上ないふさわしい存在である事は明白だ。これほどまでに慕われているのも当然であるといえる。

「あ、私はおゆはんの支度をしている所なんでした。じゃあ聖、私はこちらで引き続き準備を進めていますね」

「で、では村紗!彼を、シンをお借りしてもよろしいですか?」

水蜜が意気揚々と台所の方へ振り向こうとした際に、白蓮が声を僅かに張り上げる。

「あっ……もちろんシンの手が空いていましたら…ですが」

「俺、ですか?」

突然に指されたシンは指を自分の方へ向けて疑問符を浮かべながら確かめる様に問う。手が空いているも何も、水蜜から作業に手出しを加えられないよう言われていたのだ。他にやるべき事も無い。

「それは構いませんけど……お急ぎなのですか、聖?」

「えっ……と。急いでいるかと言われればどっちとも言えるのですが……その、どうしても彼が必要なものですから」

「白蓮さん……」

「ははぁ………では私は食事が出来たら呼びますので、それまでお二人ともゆっくりしてってください」

「ありがとう、村紗。ではシン、来てください」

白蓮の誘いに応えて、最後に一声『じゃ、行ってくるよ』と水蜜に声をかけてから拝殿の台所を後にする。白蓮がなぜ自分を呼んだかは定かではないが少なくとも白蓮は警戒心は持てない程の善人だ。疑う余地も無く照明も無い暗い廊下の先へと、シンは彼女の後に付いて行くことにした。

 

 

夏季特有の長い日の入りもとうに過ぎ、代わりに月が大地を照らす。光が欲しい時は照明を点ける事が当然な元の世界の建築物とは訳が違い、一旦夜になればどこの住居も暗闇のままでいるしかない。河童の援助のお陰で人間の行動時間も伸びてはいると聞いたが、無用な贅沢を嫌う白蓮の意向もあって命蓮寺に高等技術で作られた光源は、夕食目当てで皆が夜に集まる拝殿以外に無いに等しい。彼女の後を追う中、シンは周りが暗い事に対して白蓮からはそう聞いた。

「だから私達の修行は日中だけなのです。夕暮れ時にはお掃除をして、後片付け。食事の後は再び朝になるまで自由な時間としています。ぬえみたいに夜に活動する妖怪もこの寺にはいますから」

「はぁ………」

「今日みたいに大多数の前で寺を開放する事もありますが、普段は門下の皆と一緒に修行に励むことが殆どです。ですがそればかりだとこの寺に新たな者を招くことは到底難しい物ですよ。時にああいった催し事をする事で私達の教えに対する理解を広め、この寺が人間と妖怪に親しみやすい存在にする事が私達の目的なのです」

部屋を移動する間無言になる事も無く彼女はこの寺の意義について次々と語る。それに対して相槌を打つことしか出来ないシンは、時に同じ相槌でもイントネーションのバリエーションを増やしてみたりもして、白蓮に対して無礼にならないように努めることしか出来なかった。

「シンの世界ではどうなのですか?私達みたいに何かを教え、広める様な集まりはあるのですか?」

「いや……嘗てはどうだったかわからないけど、俺達の世界ではこの世界の様に信仰が重要視されていないし、必要無いとまで訴えている人達ばかりでした。俺の生まれた国じゃ、ハウメアという神を信仰していたものもありましたけど……国の人全てが神を信じている訳でもありません」

「……そう…ですか。個人の信仰は自由ですが、私達の世界とは違って随分寂しそうな世の中みたいですね」

随分と落胆した様子を見せる白蓮。確かに縋るものも何もない争いばかりのあの世界は、彼女の様な者からすれば寂しい世の中なのだろう。それは世界の壁を越えた第三者からの評価であって、その世界の中でいたシン達からすれば到底思いつきそうもない考えだ。逆に白蓮達の広める教えが、シンからすればどこか踏み出せない気持ちが生まれるのも、この世界の同年代の少年ならば疑問にも思わない事なのだろうか。

「着きました、どうぞお入りください」

木造の廊下を踏み歩いて、その足音も気にならなくなるぐらいに歩いたぐらい、白蓮が立ち止ると同時にシンも止まる。吹きさらしの廊下に面した障子をゆっくりと開き、中に月の光が入り込む。目を凝らして覗き込んでみると机が部屋の中心に置かれてあり、周りには文字の入った和紙や、屏風が建てられている。特別飾り立てられている訳でもない、質素な和室だ。

「ここって?」

「私の私室です」

聞けばすぐに答を返してくれた。何の逡巡も無く淀みない口ぶりで言った後に白蓮は部屋の奥へと入り込み、部屋の奥から受け皿と一緒に蝋燭を机の上に置いた。

「どうぞ座ってください。何もありませんし、この蝋燭もお話をするに至って頼りない物かもしれませんが」

「いえ、そんな事。失礼します」

気を張りすぎて危うく言葉の後に敬礼をしそうになるが間一髪で気付いた後、ぎこちない動きで白蓮のいる机の対面側に正座する。

静かな世界だった。互いの動きから生まれる衣擦れや、床の軋み、吐息、自らの動機以外に聞こえてくる音は何もない。さらには、仮にもその生き様に敬意を評している相手から部屋へと招かれてシンは何も思わないはずが無かった。こうして蝋燭の光越しに机の向こう側から微笑んでいる彼女の柔らかい視線が自らの目に合わせられれば、照れと高揚感から少しずつ心臓が激しくなる。この空間の他に誰もいないという事実が、背徳感を呼び寄せてくる。

彼女は一体何を思ってこの部屋に呼んだのだろう?そう思っている最中、白蓮は再び腰を上げた。どこに向かうのだろうと彼女の体躯を目で追うと、次第にその身体は自らのすぐ隣へと移動し―――

――――――え?

白蓮は静かに、シンの身体を優しく抱いた。

「シン……」

唐突な彼女の行為に、戸惑いを隠せない。声にならない喚きが白蓮に向けられるが、彼女はそれに構おうともしない。電撃が駆け巡ったように全身が硬直し、小指一本にまで力が入らない。最初はその行動に警戒を覚えて身体が強張ってしまったが、それも徐々に余計な力が抜けて無くなっていく。白蓮に対する動機は止まなかったが、自らを包んでいる女性に触れているとどこか安らいだ気分が彼の中に生まれていた。

―――なんだろう、これ。いきなり抱きしめられているのに、不思議と落ち着くこの暖かい感じ。

長年味わったこと無いこの感情。最近はまるで感じなかった“これ”ではあるが、以前、それも自らが相当幼い頃。シンは確かにこの気持ちに覚えがあった。女性に包まれて得られるこの暖かな気持ちは、もう彼が味わうことは無いだろうと無意識に思っていたものだった。

今触れているそれはきっと、言葉にするのならば“母性”と言ったものだろう。ただ女性に抱きしめられて得られる心の躍動ではない。胸に抱かれて心底から落ち着けているシンは、まるで生まれるより前にいた母親の胎内にいる時の様な安息を得ていた。

―――母さん……

母の事を想いだした。自らと妹を産み、オノゴロ島の戦闘で命を落とした母。

母だけじゃない。あの日、父も妹も戦争と言う名の現実に殺されて、自分は一人になってしまった。それからだったか、自分一人の力だけを信じて生きるようになってきたのは。アカデミー時代から、少数ながらも自分には頼れる仲間がいた。だが彼らにも今一つ頼り切れなかった思いがあったのは、自分の持つ力を信条に生きてきた故だろう。

ルナマリア、メイリン、ヴィーノ、ヨウラン。それ以上に自分には恵まれた友人達はいたが、戦争と言う名の極限状態において、一番頼りにしていたのは自分の力だけだった。心を閉ざす…とまではいかないが、本当に気を許せる相手と言うのは、戦闘に置いてほぼ同格であったレイぐらいのものだった。

だからだろう、いつしか自分に付き纏っている他人に対する深い反発心が生まれたのは。同僚に、教官に、上官に幾度と反発してきたのは、いつだって自分の方が正しいと思える判断をしてきたから、正しい判断をできるだけの経験を積んできたからだ。

それを訴えても誰も自分の様に凄惨な経験をしていないから、余分に腹を立ててしまう。甘い事を言っていると決めつけて、他者と理解り合おうとしなかった自分が、嫌に思い返される。肩肘張って、無理をしていた自分が何だか馬鹿らしく思えてくる。ただ、一人の女に抱かれただけで。

「貴方を初めて見た時から……私は貴方にこうしてあげたかった」

白蓮がすれ違うシンの耳へ囁きかける。

「私を救ってくれた光……結界の向こうから来た、救いの光である貴方は私を再び自由な世界へと戻してくれました」

「…………」

「ですが、貴方の瞳に宿っているのはいつだって寂しげな輝き……戻る巣を無くしてしまったかのような小鳥の目をしていました」

「そんな…ことっ」

「私の目は誤魔化せませんよ、伊達に長く生きている訳では無いのですから。………今朝お見かけした時も、表面では明るく振舞う貴方の奥では暗い影が差しこんでいたのを私は見破っていました。すぐにそれを救いたいと思ったのも。だから私は貴方をここに呼んだのです。貴方のその闇を拭ってあげたくて」

「俺は……そんなに弱い訳じゃ…あの事だって、いつまでも気にしてばかりでいる訳じゃないんだ、俺は…」

走馬灯のように想起される戦争の悪夢。焼けついた地面、吹き飛ばされた人間の四肢、光を失った妹の瞳―――あの光景は未だに明確にフラッシュバックされる。それが戦争で幾多もの屍の上に立つ、己が持つべき業の様な気がするまでに。

シンのモビルスーツが剣を振るえば、人一人の命が消えていく。銃を撃てば、その先にいる兵士の命は散っていく。モビルスーツという道具を振るう事で簡単に人を殺せる現実を、シンはいつも見てきた。そしてその現実を、戦っている間は脳から締め出していた。

だがこの世界に来て一度戦争から解放されてみれば、その現実は容赦なくシンを襲う。

「大丈夫です」

「………!」

「貴方のその震えは間違っていません。人が恐れるという感情を持つことは、何もおかしい事ではないのです。貴方は人間なのですから」

「どうして………俺、まだ何も言っていないのに」

「言葉にせずとも、貴方の抱えている気持ちぐらいなら解るものですよ。昔、私にも恐れていたものがありましたから」

「白蓮さんが……!?」

優しく静かに響いてきたその言葉に目を見開く。

妖怪の力を身に宿し、長い時を生きてきた彼女が死を恐れるなどとシンには想像も出来ない。彼女のその告白について全く驚かないでいる事は無理に尽きた。

 

 

「もう村紗から聞いているかもしれませんが」

という前置きをした後に、白蓮が荘厳な面持ちで静かに語り始める。その真剣な態度に唾を飲み、自身が取れる最高の態度でシンは相対した。

「私はこの身に魔力を封じた存在。人であることを辞め、普通の人間ではまず扱えない超常の力を自在に扱うことのできる存在―――この世界で俗に言う、“魔法使い”と呼ばれる存在。それが私です」

初耳ではない。聖輦船時の異変で水蜜から聞いた白蓮の素性だ。

「貴方の世界では魔法使いがどのようなイメージを抱くかは存じませんが……まずその言葉を聞けば万人はまず幻想的な印象を抱くでしょう。人を超え、獣を超え、ある面では妖怪をも超えた存在だと」

「ええ……」

同意を求める声に対して相槌を打つ。科学こそが現実の魔法とまで称されているシンの世界では、魔法のなんて言葉は絵空事の物でしかありえない。子供の頃は読んだ物語の影響で妹と仲良くありもしない話に熱中していた時期も存在していたのだが、年齢が二桁になる頃にはそのような話題からも卒業していた。

「ですが、それは間違った印象だったのです。人を超えるという事は、力無きものに恐れられる存在だと、私は魔法使いになって初めて思い知らされたのです」

 

 

「今は昔の事です。私がまだ人間であった頃、私はたった一人の肉親と共に日々を過ごしていました」

白蓮が思い出していたのは、自らがまだ魔で穢れるより前の事。今はもう存在しない景色の中で、二人の少年少女が手をつないで笑い合っている様。白蓮はその少女の目線から少年を見ていた。親も無く、友も無い彼女にとってたった一つの繋がりを持つ者。その少年は自分の記憶の中でいつまでも笑顔を浮かべていた。

「彼は私の良き理解者であり、幼少の頃よりずっと面倒を見てくださいました。決して楽では無かった二人きりの生活も、彼がいたからこそ私は老いる程の長い時間を過ごしていく事が出来ました」

子供時代が過ぎて、互いに成熟した後も二人は共に過ごしていた。他者のいない青春を過ごし、幾年をも時を重ねても尚、二人を阻むものは無かった。他に焦がれる物も無かった彼女は彼に対して愛情を抱く程に信頼していた。それだけ過去の白蓮は彼の近くに何時だって居た。

「あの人は歳を重ねてからも、妻を持たず、私の事だけを心配してくれていました。私はそんな彼に甘えてばかりで、気付けば妙齢の時に私は彼の真似事をするようになったのです」

「真似って……?」

シンが問うと、白蓮はクスッと微かにほほ笑んだ。そして右手を自らの胸に這わせて確かな自信を以って告げた。

「今の私の意義である、僧侶というお仕事です。私は彼の憧れから、僧侶になる事を決意したのです」

その日からは修行の毎日が続いた。思い出の中の青年に怒声を浴びせられながら、過去の白蓮は修行に耐えてきた。極限状態に追い込まれ続ける毎日から、白蓮は確かに人知を超えた力を会得していった。

「あの人から教えていただいた物は、今の私を形作ってます。法力の会得から、強靭な精神の形成。幾十年もの長い時をかけて、私は彼に追いつこうと力を求めました」

「その力が……今の白蓮さんの力?」

「いえ、厳密には違います。今の私の力と過去の私の力似て非なるもの……私の力がこの“力”へと変貌したのは、一つの切っ掛けがあったからなのです」

それだけの切っ掛けで、白蓮の世界は大きく変わった。人としての寿命に限界が近づく頃。老いた白蓮とその彼は、気付けばこの世界で一番有名な僧侶とまで称されるようになった。人を襲う獣の如き妖怪をその法力で追い払い、怪我や病気を抱えた者を救う。確かな自信を得て成す善行を積み重ねていった結果、二人は誰からも慕われる大いな存在と化していた。

当時の白蓮はその今に満足していた。金も無く、惨めな人生を送っていた自分達二人が、誰からも頼りにされる存在となれたことに彼女は胸を張って生きて行く事が出来た。彼女自身も彼同様に、伴侶となる男を得ていなかった為、自らと彼を阻むものはその世界のどこにもなかった。

無かったはずだったのだ。その時が訪れるまでは。

思い返せば咽び泣く哀れな自分がそこにいる。床に倒れた老いた男の隣で、屈んで俯く一人の老女の姿が在る。

―――あれは、自分だ。

色褪せた過去の記憶の中で彼女は今よりも弱々しい姿で泣いていた。支えを失った物は崩れ行く運命を避けられない。人前で自信有り気に振るっていた法力の持つ癒しの力を必死に倒れた男に行使する。何時間も、何日も。

しかし無駄だった。既に病から落としてしまった命と笑顔は二度と彼女の元に戻ることは無く、彼女の力に出来た事は精々死体の鮮度を保つぐらいの事だった。

「私の支えであった彼は卓越した法力の持ち主でしたが、その身体の老いを止めるには至りませんでした。法力はあくまで人の持つ自己再生力を活発化させることによって傷や病を治す事はあれど、既に衰弱して死に近い人間を救い出す事は出来なかったのです」

「その………亡くなった、彼というのは…?」

恐る恐るといった様子で慎重にシンが問う。白蓮は陰りを含んだ暗い顔で、数瞬シンから視線を逸らして呟いた。

「私の“人”生におけるたった一つの生きる理由、そして最も信頼していた人………私の弟、聖命蓮【みょうれん】です」

今いる寺と同じ名を耳にして、シンは息を呑んだ。名残惜しそうにその名を呟く白蓮の脳内でも、霞がかった弟の笑顔が鮮明になる。その、死の直前の最後に浮かべた笑みさえも。

―――姉さん。姉さんは、長生きをするんだよ―――

「今思えば、命蓮が女をつくらなかったのも私を心配しての事だったかもしれません。こんな、ふがいない私を放っておけなかったから…」

「白蓮さん…」

しゃがれた最後の一声は今でも思い出せる。若き日は活発に外で遊びまわり、成年しても離れる事なく厳しい世の中で修行を重ねて、全てが報われたと絶頂を迎えたと思えば、頼れていた存在が目の前から消えていく。

白蓮は己の人生を呪った。何故、幸せは何時の時も自分の前から消えていくのか。何故、先に生まれた筈の自分より愛していた弟が逝く事になるのか。

死を呪い、死を意識しすぎた彼女は何時しか、死を酷く恐れるようになった。愛しき命蓮を奪って行った死という名の命の終わり。誰もに等しく訪れるその理【ことわり】に、白蓮は絶望した。

今思えば、その時の彼女は狂気の渦中にいたのだと苦笑する。それに気づくまで白蓮は随分な回り道をしてしまった。

周りが見えていない当時の白蓮は、命蓮亡き後彼の残した遺物である法力についての書物を読み漁った。全ては自らに降りかかる死を回避する為に。命蓮の遺した言葉を実現に至らせる為に。

命蓮が遺したのは言葉だけでは無い。彼女が新たな力を得るまでに十分な生活を確保する、飛倉と称される空飛ぶ寺を白蓮に譲っていた。それは今の命蓮寺の原型であり、彼女のこれから得る力によって聖輦船へと変貌してしまった建築物だった。

刻一刻と迫る自らの死に怯えつつ、答えを探し続けていた結果。彼女はついに一つの解に辿り着いてしまった。命蓮の書斎に収めていた、鎖で封印された古ぼけた巻物。それには、老いた彼女が死を回避するだけの確かな方法が記されていた。

嬉々とした彼女はそのリスクに目を殆ど通さずに実行に至らしめた。それに記されてあったのは“若返りの秘術”。老いによって摩耗した肉体と命を、自らの記憶をそのままに全てを若き当時のままに復元させる画期的な術だった。

しかし、それを実行する事にある一つのリスクがあった。

それは自身を構成する肉体と命を、常に法力の下にさらさなければならない事。即ち、力を失ってしまうという事は否応無しに死が訪れる身体になる事だった。

重ねて、今まで得てきた法力では、それを実行するまでの莫大な力には足りない事も白蓮は知った。このままでは結局若返ることも出来ずに死んでしまう。それだけは嫌だ。この身を悪魔に売ってでも、命蓮の言葉通りに生き続けたい。

そして、白蓮は更なる力を求めた。更なる修行に、妖怪の持つ力の研究。少しずつ得られた成果をもとに自らの身体を変えていく。時には妖怪の血肉を食し、身体が耐えられる以上の負担も掛けた。

…いつしか。自らを慕うのは人間ではなく、妖怪にすり替わり、法力と呼ばれていた奇跡の力も。邪悪な魔力へと変貌を遂げていた。

「だから、“魔”法使いなんですか?白蓮さんは」

「…はい。魔を従え、魔を成す者。それが今の私です。この心までは渡さずに済みましたが、若返りを得た私を待っているのはこの上ない非情な現実でした」

彼女の想起から告げられる彼女の由来を耳にして、納得しつつ白蓮に問いかけたシン。

シンの目にする彼女の表情は、決して明るい物では無かった。申し訳程度に笑うものの、その奥に秘められた真意がシンには常に見えていた。自らも深い悲しみを知っているだけに。

「先程も言った通り、魔術、妖術の類を常にその身に得なければ私の不老不死は完成しません。若返るところまでは順調な乗り出しでしたがそこからは多難でした」

「それって…理想が現実と違ったから?」

「はい。私が思うほど、世界は簡単では無かったのです」

この世界では、超常の力に必ず付き纏うリスクが存在する。それは信仰と呼ばれる人妖の意思の集いだった。神ならば人々の信仰を。邪悪とまで称される魔には妖怪の信仰を。それぞれ得なければ頂上に立つ者は力を得られない。

魔の属性をその身に秘めた彼女は常に妖怪からの信仰を得なければならない存在だった。飛倉に妖怪たちを集め、共に修行を重ねて、絶対なる象徴として崇められて初めて、白蓮の不老不死は完成した。

その流れで、今の命蓮寺の一員たる皆が集う切っ掛けにもなったのだ。

反面、里の人間達は自分達の象徴であった僧侶が魔に堕ちた事を酷く恐れた。『このまま妖怪達をみすみす放っておけば、いつしか自分達の生活を脅かすのではないか』という空想に恐れをなした。事実、白蓮の弟子にあたる修行を重ねた妖怪も力を得た事で人間に対して尊大な態度を取ってしまい、次第に両者の隔絶は決定的となった。

命蓮を失い、人も妖怪も愛する絶対平等主義者へと変わってしまった白蓮は、人間達の助けに応えて里に降りた。しかしそれは人間達の仕組んだ罠であった。魔封じの結界に閉じ込められてしまった。

結界の中からでも人間達の怨嗟の声は聞こえてきた。『彼奴は人間の面をした悪魔である』、『人間と妖怪の均衡を崩した大罪人』であると。悲しい想いに浸されていたが、人間と妖怪のパワーバランスを崩してしまった自らにも責任があると深く落胆した白蓮は、結界を破ることも出来た筈のその力を一切人間に行使する事も無く、法界の果てへとその身を封印されてしまった。遠き未来、異世界の者によって解放されるまで。

 

 

「妖怪の力に惹かれ、敬い。でも結局は、浅はかな私利私欲に走った私の愚かな末路です。それでも私が今をこうして生きる事を許されているのは、ひとえにシン、貴方と寺の皆との思いがあっての事です。そうでなければ、私はあのまま延々と孤独な時を過ごしていた事でしょう」

語りを終えて、ようやく白蓮は普段の柔和な笑みへと戻った。だがその話を聞かされてから、シンの表情が話す前の時と同じものを象る事は出来なかった。同情を秘めた鬱屈した表情を、彼女に向けることしか出来なかった。

「シン。貴方は私の愛する命蓮によく似ています。その真っ直ぐ強い意志、その在り方に……だからなんでしょうね、貴方を見かけてからずっと、貴方を気にかけてばかりでいるのは」

「えっ?」

「法界で貴方に助けられた時、貴方が甦った命蓮に見えて仕方が無かったのです。顔も姿も違うはずなのに、貴方が命蓮の生まれ変わりであるように見えて……貴方がこの世界に迷い込んだのも、私に会いに来てくれたからと思う程にまで……」

「貴方は俺をずっと…そんな目で見てたのですか?俺ではなく、昔の人を」

「だってっ…!」

初めて白蓮が声を荒げた。知る限り今までに聞いたことが無い響きだった。それと同時に彼女の身体が机を避けてシンの身体を固く抱いた。

「命蓮は私の全てだったんです!私に生きる意味をくれたかけがえのない人だったんです!」

嗚咽と共に抱かれ、ドレスの広がりに包まれる。だが白蓮の見ている先は自らと違う事に対して、シンは苦い表情でしか返せなかった。

「………それでも、俺はっ…その人、じゃない…」

「ええ分かっています!貴方に私の思い出を求めて無意味だという事を!けど……だけど私は…!」

抱きしめる腕の力を緩め、シンと白蓮の顔が至近で相する。彼女の顔には、顔がすれ違った時に流れていたのか艶やかに光る涙の跡が残っていた。

―――やっぱり、この人が魔に堕ちたなんて信じられない。

白蓮からの暗い印象を耳にしたうえで、白蓮の顔をよく観察した。流れる様な長髪。整った眉、凛とした両の瞳。ぷっくりと膨らんだ触れてしまいたいが程の唇。一切化粧を施さず穢れを知らない白い肌…これらが人間の言う間違った力で手にしたものだとしても、白蓮が悪い人間と決めつける材料には到底ならない。

只、普通の人間とは違う生き方をしてしまっただけ。それだけの理由で、沢山の非難に晒され続けてきたのだ。この、華奢な背中に妖怪の全ての希望を背負って。

力を求め続けるあまり、力に考えを捕らわれてしまったのは自分も同じだ。だが、それが人の生き方の全てでは無い。そこからの巻き返しが重要なのだ。自らの過ちを正すのには。

「貴方という人間に惹かれたのです……!弟に抱いていた、力への憧れとは全く違う。貴方の持つ、その人柄と生き方に私は好意を抱きました…!」

「白蓮……さん…」

「おかしいのかもしれません、他人を重ねて、本来生きる時が異なる方にこの想いを抱くのは、遅すぎるのかもしれません。けど、私は初めて本当の持つべき想いに気付いたんです。貴方と出会って、貴方と同じ世界で過ごしていく内に」

彼女の暖かな身体が自らに伝わって来る。トクン、トクンと、彼女の好意に触れて自らの動悸が激しくなってくる。

「だから……もうしばらくこの寺で暮らしていきませんか?貴方の人生を私にくれとは言わない。けど、せめて貴方との時間が長く欲しいんです。こんな……おばあちゃんのお願いを、貴方は聞いてくれますか…?」

到底似つかわしくない言葉を最後に発してから、再び彼女はシンを抱く。不幸の一言では片づけられない壮絶な人生を経てきた彼女には、持つべき感情をも閉ざしてきたというのだろうか。弟へのあこがれを恋という別の言葉に置き換えてまで、同じ人間との接触を避けてきたのだろうか。

そろそろ、報われてもいいのかもしれない。口で返さず、行動でシンは彼女に答えを返すことにした。抱かれた身で彼女に抱き返し、月夜の光を受けて輝く彼女の瞳を真っ直ぐと見た。過去に取り残された彼女の想いをくみ取り、ごく自然に体を預ける。今までに感じた事の無い安らぎに触れて、シンは自分の全てが暖かい物に満たされていくことを実感した。

 

 

数日の夜が明けての事だった。白蓮に誘われ、しばしの時を寺で過ごしていたシンは、いつもの様に早起きをして顔を洗っていた。

寺で過ごしてから彼女達の優しさに触れるばかりであった。少々の仕事を任されること以外の時は白蓮や水蜜は勿論、他の誰もがシンとの絡みをする。

皆に信頼されて過ごせる白蓮の気持ちを実感しつつ幸せな日々を送っていた彼は、明るい笑顔を暇あれば浮かべていた。

 

 

「あら、シン。おはよう」

「シン君!おはようございます!」

「白蓮さん、水蜜さん」

朝早い頃からここの住人は目を覚まして修行の準備を進めている。ここにいる二人だけではなく今も目の届いていない場所で他の者達も修行の準備を進めているだろう。

「どうですか、ここで過ごしてみて?もう生活にも慣れたと思いますが」

「シン君は私達のお手伝いをしてくれるから……貴方が居るだけで毎日はりきっちゃいますよ!」

「あはは……ここの方が落ち着くものだから…ありがとな」

「そんなに気をつかわなくても……私達は貴方を歓迎いたしますよ」

やはり、白蓮には見破られていた。成り行きとはいえ元居た場所を無碍にするような口は彼女には通用しない。優しく咎められて、ほんの少しだけ彼女から目を泳がせてしまう。

「今日も皆さんで修行なのですか?」

「ええ、人間も妖怪も同じ様に修行して、より良き未来の為の心をつくっていくのです。もしよければシンも私達と一緒に修行してみませんか?」

「いや……俺にはその信仰とか修行とか良く分からないし……でも、みんなが楽しくやってるんだったら見学だけでもさせて貰おっかな」

得体のしれない、とまではいかないが、今まで気にしていなかった宗教という名の集まりに消極的な態度を取らざるを得ないシン。幾ら親しい者に誘われたと言えど、己の自由な心を他に染められるのは勘弁したい。

「もう!シン君たらっ、そんなだからいつまでも優柔不断なんです。他人の心に気付けるような人にならないと、人を傷つけちゃいますよ?」

「ふふっ、いいのですよ村紗。信仰は個人の自由です。自らの信条を従うのもまた一つの信仰。教えを授からない事が悪というわけではありません」

水蜜が頬を膨らませるのに対し、白蓮は笑みをこぼしている。その二人を眺めているだけでもシンにとっては今が大事な時なのだと実感する事が出来た。

「おーい、白蓮!」

明後日の方向から、彼女を呼ぶ少女の声が三人に届けられる。声の方に向けば、寺の正門の方から黒づくめのワンピースを纏った妖怪の少女、封獣ぬえが手を振りながらこちらに駆けてきた。その後ろには見覚えのある子供の姿もある。

「……あっ、あの子…」

間違いなかった。この寺に来るよりも前に水蜜に誘われる直前に自らを襲った、あの物取りの少年だ。その顔は地面に向けて俯きつつも、確かな足取りでぬえの後ろを着いて来る。

「このちびっ子ったら、朝早くから門の前に突っ立ってたの。どうも目当ては白蓮みたいだから、ここまで連れてきたんだけど」

ぬえはちびっ子と称した子供の頭を軽く一撫でして、地面からシン達が立つ廊下に昇る。彼女がこの寺に入ってかなりの時が経つが、この楽観的な性格には変わりない。つい先日も共に夕食で楽しく話したりと、異変の時を踏まえた上での関係は固い信頼で結ばれている。最近はやけに水蜜と共に会話に迫ってくる場面が多いが。

「尼さん!」

「ええ、どうしました?君」

白蓮の事を呼んで初めて、地面を眺めていた視線を上へ上げる。その瞳に映っているのは聖白蓮ただ一人だ。

「俺、ここで修行したい!修行して、正しい人生を作っていきたい。まっとうに生きる為にもう盗みなんて汚い真似はしないんだ。だから尼さん。俺をここで修行させてください!」

少年は恥を惜しむ事も無く、夏の日差しで熱くなった地面に額を付ける。その焼け焦げた素肌の表面は汗がにじみ、坊主頭の上には蒸気が湧きだっている。この猛暑の中でそのような態度をとるとは、相当な覚悟を以った上での行動だ。これだけの態度を行なう程、少年は白蓮を師となる人物と認めているからこそだろう。

シンは彼を見た後に白蓮へ視線を移した。やはりというか、彼女の対応は既に決まっている。彼女は全てを受け入れる度胸の持ち主なのだから。

「勿論。今日から貴方は私達の仲間です。一緒にこの寺で善行を積みましょう、みんなと一緒に」

その言葉を聞いて少年は勢いよく返事をする。その場の誰もが、彼に対して優しい笑みを送って新たな仲間を迎えていた。

どんなに苦しくても、報われない人生があるだろう。どんなに抗っても、逆らえない運命もあるだろう。

それでも人は生きる事を止めない。何時の日か得られる答えを求めて、掛け替えのない時を人と妖怪は生きて行く。

シンは、これからも自分達を襲う苦難を乗り越えるだけの自信があった。彼女達と一緒ならば―――どんな壁でも超えていけると。